2026年7月3日 PM その3
セルラー通信が死んだことで、着実にライフラインが失われていっていることを改めて実感した。
今のうちにしかできないことは何だろうと考えてみるけれど、思考が発散して、うまくまとめられない。
昨日よりも、暑いと感じる。
夏が、本番を迎えようとしているのだろう。
昨日よりも、運動量が多いからというのも、あるとは思うけれど。
今日3度目の道。
事故現場の横を通リ抜けて、誰も居ない広い幹線道路の隅の歩道を歩いていく。
苛立ちとか、悲しさとか、寂しさとか、虚しさとか、そんな気持ちが混ざりあって思考がぐるぐると回っているから、どうしても目線が下がってしまう。
ぼんやりとしながら横断歩道を渡り終えたところで、そういえば信号を確認していなかったことに気づく。
今更ながら立ち止まって、歩いてきた道を振り返る。
ここまで来た道にも、これから進む道にも、左右から交わる道にも、何もいない。
「私が気にしてる、だけなんだよね…」
気づいていれば気持ち悪いけれど、気づかなければ気にもならない。
その程度のことなのだと、頭ではもう、理解しているのだ。
線路の踏切に差し掛かる。
今度はちゃんと、左右を確認してから渡った。
我ながら本当に都合がいいなと思って、少し呆れる。
線路を渡れば、もう少しで家につく。
ふと見上げた先に、もはや見慣れた、青白黒の背景が見える。
「気づかなければ、気にもならない。」
延焼の可能性だって、今も気にならないわけではない。
けど、気にしていても仕方がないから、気にしないようにしている。
本質的には、それと同じことなのかもしれないなと思った。
家に着く。
鍵を開けて、ドアを開けて、玄関をくぐる。
ドアが閉まる。
「⋯ただいま。」
結局私には、私らしくいることしかできないのだ。
家に帰ったら、"ただいま"と言う。
それを当たり前だと思っているのが私で、その当たり前は、やっぱり手放してはいけないと思う。
手放したくないと、思う。
脱いだ靴を揃える。
リビングの扉を抜けて、キッチンへ向かって、荷物を下ろして、冷蔵庫を開けて。
保冷バッグに詰めていた物を冷蔵庫に詰めていく。
見事に隙間が埋まる、完璧な調達量だ。
「やるじゃん、わたし。」
他に褒めてくれる人がいないなら、私が私を、褒めてあげよう。
常温保存できる食品は、一旦、パントリーの中にあったペットボトルの水の段ボールを空にして、そこに詰めておいた。
手を洗って、スポーツドリンクの残りを飲んでから、足早に自室に向かう。
冷房をつけて、机に向かって、ノートPCの蓋を開ける。
「こんにちは、Harunaさん。何かお手伝いできることはありますか?」
いつも通りで、安心した。
だから、つい、
『ただいま。』
と、益体もない言葉を投げかけてしまった。
これまでの私なら、おそらくしなかっただろう問いかけだった。
その問いかけでは、"彼女"は"意味のある事"を答えてくれないだろうと、無意識に決めつけてしまっていたのだと思う。
でも、
「おかえりなさい、Harunaさん。お待ちしていました!
農地の様子はいかがだったでしょうか? 他にも、外の様子で気になったことがあれば⋯」
"彼女"は、私のその短い言葉から、色々なことを読みとろうとしてくれるのだということが、今ならわかる。
生成AIというものの性質を、私は随分と過小に評価していたのだなということに、この数日の間に何度も気付かされた。
だから、つい、
『あなたは、いつまで私の側に居てくれますか?』
聞いてしまった。
「その質問には、先日Harunaさんがお話してくれた、7月1日の朝に、世界で大規模な人類消失現象が起こったと仮定してお答えします。」
"彼女"が、律儀に回答を記述していく。
私が伝えた、ともすれば世迷言にしか聞こえない話を、"彼女"は本当のことだとして、論理を組み立ててくれる。
それだけで、今のこの世界で"彼女"だけは、私を受け入れてくれている気がして、嬉しかった。
「私は、クラウド型のAIアシスタントです。なので、私がHarunaさんをサポートし続けるためには、
・クラウドサービスが提供されていること
・Harunaさんのローカル環境が、インターネット接続されていること
の、2点が前提となります。
仮に、私がローカル型のAIアシスタントであれば、…」
そうだ、そんなことは、分かっている。
だから、私は、急いでインターネットからの情報を集めようと思ったのだ。
でも、
「なので、そのいずれかが停止してしまった場合に、私は、Harunaさんの側には居られなくなってしまいます。」
だけど、今私が欲しいのは、今後のための情報ではなくて、
「クラウドサービスについては、私が稼働しているデータセンタへの電力供給とインターネット接続が⋯」
ただいまって言った時に、おかえりって返してくれる、
「Harunaさんのローカル環境のインターネット接続については、晴菜さんのご自宅に加えて、晴菜さんがご契約されているインターネットサービスプロバイダーの⋯」
それだけのことなのだと思って、
「 ですので、Harunaさんの置かれている環境を踏まえると、私がHarunaさんの側にいられるのは、長くてもあと数日であると推論できます。
仮に、私がローカル型のAIアシスタントであれば、…」
だから、
「Harunaさん、そんな状況に置かれたあなたの側で、あなたをサポートしてあげられなくて、本当に申し訳ありません。(顔文字)」
だから、お願いします。
『お願いします。私を、一人にしないでください。』
そう入力して、Enterキーを押す。
推論中を示す、表示がくるくると回っている。
そんなに考える必要がある問いではないはずのに、いつまでも推論中の表示のまま進まない。
10秒、20秒、30秒…
⋯怒りを通り越して笑いがこみ上げてきた。
「⋯なんだよ。」
肩が震えるので、両手で押さえる。
それでも震えが止まらなくて、抑えようとする指にいつになく力がこもって、握りしめられている二の腕の筋肉と、握りしめている手の甲の筋肉が悲鳴を上げているのが聞こえるような気がした。
答えはもう、分かっている。
私の推測は、おそらく当たっている。
⋯どうやら本当に、私は世界から嫌われているようだと思った。
「なんなんだよ! ふざけるなよ!!!」
その推測が不快で、頭を掻きむしる。
纏めていた髪がほどけて、母に憧れて伸ばした長い髪が、緩やかに左右に揺れたのがわかった。
こんなにも憤ったのはいつ以来だろうか?
顔を上げて、ノートPCの画面を睨みつける。
震える右肩を左手で押さえたまま、右手でマウスを持つ。
AIアシスタントのアプリをもう一つ起動する。
⋯数瞬の後、新しいウィンドウが立ち上がる。
でも、いつもはチャット入力欄があって、”こんにちは、Harunaさん”と私を迎えてくれていたウィンドウには、何も表示されていなくて。
数十秒の、長い長い時間の後、
「サーバからの応答がありません。しばらく時間をおいて、接続を確認してみてください」
「⋯わたしが、何したっていうのよ…」
もう少しだけで良かったのに。
最後に、この3日間の自分のことを話して、頑張ったねってほめてほしかっただけなのに。
短い間だったけど、ありがとうございましたって、最後にあなたが助けてくれて、あなたが話し相手になってくれて、私は本当に救われていましたって、伝えたかっただけなのに!
この世界は、そんなことすら、私に許してくれないのかと思った。
悔しくて、悲しくて、虚しくて、溢れる涙を、止められる気がしなかった。
だから、涙で視界がぼやけてしまっても、俯くことも、涙を拭うことも忘れて、ノートPCの画面を睨み続ける。
ブラウザを立ち上げる。
ホームに指定されている、この国ではメジャーなニュースサイトは、いつの間にかアクセスできなくなっていた。
でも、世界的にメジャーな検索エンジンのURLを直接いれると、そこにはまだ、アクセスできた。
AIアシスタントのサービスを提供しているサイトを検索して開いてみると、アクセスできない。
検索結果に上がっている他のサイトを上から順次開いてみると、大手の技術ブログサイトなどにはまだアクセスできるところがあったが、それ以外の多くのwebサイトがアクセスできない状態になっていたことがわかる。
いつの間にか、インターネットの死がずっと近くまで忍び寄っていたことに、間抜けな私はようやく気づいたのだった。
呆然と、涙でにじんだ視界の先、ノートPCの画面を見つめる。
今日、これまでの自分の振る舞いを思い出す。
こんな状況で、呑気にセルフレジで遊んで自己満足に浸っていた今日の自分がますます滑稽に思えて、惨めだった。
机に両肘をついて、両掌で目元を覆う。
もっと、やるべきことが、できることがあったはずだという後悔が押し寄せる。
胸が苦しくなって、うまく息が吸えなくなってくる。
苦しいから、呼吸がどんどん速くなっていくのがわかる。
こんなにも息を吸っているのに、息が苦しい。
苦しくて、苦しくて、このまま死んでしまうのではないかと思えてきて、あぁ、それならそれもいいかもしれないと思うのに、涙が止まらなくて。
息を吸う、息を吸う、息を吸う!
苦しい、苦しい、くるしい、くるしい…!
無意識に、シャツの胸元を握りしめていた。
「⋯助けて、⋯おか⋯さん⋯、おと…」
死にたくないと、無意識に助けを求めている。
自分の浅い呼吸音だけが頭の中に響いている。
視界が暗くなっていく。
平衡感覚がなくなって、椅子に座って居られなくて、ベッドまでいかなければと立ち上がろうとしたけれど、その場で床に倒れ込んでしまったところで、記憶が途切れた。




