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醒ヶ井興子は狂ってる  作者: 不連続がと


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8/13

怪しい老婆は煙に巻く

 夕暮れの商店街には、焼き鳥の匂いと、湿ったアスファルトの匂いが混じっていた。




 会社帰りの人々が足早に駅へ向かい、学生たちは笑いながら自転車を押している。八百屋の店先では、売れ残りのトマトに値引き札が貼られ、古い喫茶店の窓には、薄いオレンジ色の光が灯っていた。




 その人混みの中を、彼女は歩いていた。




 青い縁の眼鏡。


 まとめられた黒髪。


 青みがかったスーツに、タイトなスカート。


 手には、書類の入った黒いバッグ。




 商店街の雑多な空気の中で、彼女だけが、まるで会議室の廊下を歩いているようだった。




 その時だった。




「お嬢さん」




 しわがれた声が、路地の奥から聞こえた。




 女は、足を止める。




 細い路地の入口に、小さな露店が出ていた。


 赤い布の上に、古びた小瓶、曇った鏡、黒い石、鈴のついた紐、ひび割れた人形、銀色の指輪らしきものが並んでいる。




 その奥に、老婆が座っていた。




 腰は曲がり、白髪は乱れ、顔には深い皺が刻まれている。だが、目だけが妙にぎらぎらしていた。




 老婆は、にたりと笑った。




「悩みがあるね」




 女は、老婆を見た。




「あります。わかりますか」




 即答だった。


 老婆の笑みが、少し深くなる。




「やっぱりねえ。分かるよ。分かるんだよ、あたしには。人の心に空いた穴がねえ」




「そうですか」




「あるんだろう。誰にも言えない悩みが。欲しいものが。叶えたい願いが」




「はい」




 女は頷いた。


 


 老婆は、黒い箱から小さな煙玉のようなものを取り出した。




 丸く、灰色で、表面に細かい文字が刻まれている。




「願い煙。火をつければ、悩みを一つ、煙に巻いてくれる」




「悩みを一つ」




「そうさ。たった百円だよ」




「安いですね」




「初回だからねえ」




 老婆は、にやりと笑った。




 女は財布を開け、百円玉を一枚置いた。




「購入します」




「よろしい。だが、使う時は一人でおやり。誰にも見られてはいけないよ。ほほほ」




「承知しました」




「まあ、持っていきな。悩みは少し、軽くなるさ」




「領収書は出ますか」




「……出ないねえ」




「では、購入記録はこちらで残します」




 女はスマートフォンで撮影した。




 老婆は、その様子を見て、怪訝な顔をした。




「いいよ、いいよ。好きにしな。どうせ、使えば分かるんだからねえ」




 女はそれをバッグにしまった。




 老婆は、にやりと笑った。




「また来るよ。あんたは、きっとね」




 数日後。




 同じ商店街の同じ路地に、老婆の露店はまた出ていた。




 女は、ちょうどその前を通りかかった。




「お嬢さん」




 老婆が声をかける。




「この前の煙玉、どうだったね。悩みは消えたかい」




「いいえ、使ってみたんですが、なかなか」




「そうだろうねえ」




 老婆は、待っていたと言わんばかりに笑った。




「あれは、ほんの入口さ。小さな願いには効くが、大きな悩みには足りない。あんたの悩みは、根が深いんだよ」




「そうかもしれません」




「なら、今度はこれだ」




 老婆は、黒い小瓶を取り出した。




 中には、煙のようなものがゆっくり渦を巻いている。




「願い火(ねがいび)だよ。蓋を開けて願えば、心の迷いを包んで消してくれる。こいつは少し高い。けれど、効くよ」




「おいくらですか」




「一万円」




「一万円ですか」




「悩みを消すには、安いもんだろう?」




 老婆は、笑いを堪えきれないように口元を歪めた。




 人間は、こうして深く嵌まっていく。




 百円で入口を開き、一万円で戻れなくなる。


 小さな安堵を求めて、次の品に手を伸ばす。


 悩みの深い者ほど、よく沈む。




 老婆は、そういう顔を何度も見てきた。




 だが、女は顔色ひとつ変えずに財布を開いた。




「分かりました。購入します」




「ほう」




「叶えたい願いがあるので」




「うんうん」




「一万円、ですね」




 女は一万円札を渡し、小瓶を受け取った。




「今回も領収書は出ませんか」




「出ないよ」




「では、購入日時、金額、形状、販売者の特徴を記録しておきます」




 女はまたスマートフォンで撮影した。




 老婆は、少しだけ目を細めた。




 妙な客だった。


 普通は、焦りや期待や恐れが混じる。


 だがこの女には、それがない。




 買っているのに、欲しがっていないような。


 頼っているようで、頼っていないような。




「お嬢さん」




「はい」




「あんた、本当に悩んでいるのかい」




「はい」




「何に」




「大きなことです」




「ふふふ。いいねえ。大きな悩みほど、いい煙が出る」




 老婆は自分の言葉に満足して、喉の奥で笑った。




「私はねえ、こういう、魔法の物品が好きなんだよ」




「そうですか」




「人の願いを形にする。人の欲をあぶり出す。たまらないねえ」




「なるほど」




 女は、小瓶をバッグに入れた。




「では、失礼します」




 老婆はその背中を見送りながら、今度こそ声を殺して笑った。




 さらに数日後。




 雨上がりの夜だった。


 商店街の人通りは少なく、路地の奥には、また赤い布が敷かれていた。




 老婆は、そこで待っていた。


 そして、女が現れた。




「来たねえ」




「はい」




「悩みは消えたかい」




「いいえ」




「だろうねえ」




 老婆は、今度は笑わなかった。




 代わりに、じっと女の顔を見た。




 変わらない。


 この女は、前と同じ顔をしている。


 願いに溺れた者の顔ではない。


 眠れない者の顔でもない。


 欲に焼かれた者の顔でもない。




 不安も、後悔も、依存も、焦燥も、表に出ていない。




 それなのに、悩みはあると言う。




「お嬢さん」




「はい」




「あんた、前の品を使ったかい」




「はい、もちろん」




 老婆の目が細くなった。




「ううん、そうかい」




 老婆は、しばらく黙った。




 それから、ゆっくり笑った。




「なるほどねえ。あんたは、幸運な女なのかもしれないねぇ。だが、幸運な人間ほど、最後には大きく踏み外すもんさ」




 老婆は、赤い布の奥から、木箱を取り出した。




 古びた黒い箱だった。


 表面には、見たことのない文字が刻まれている。


 開けてはいないのに、中から煙の匂いがした。




「これは特別だよ」




 老婆の声が低くなる。




「開ければ、心底の願いを叶える玉手箱。財も、愛も、若さも、復讐も、名誉も、何でもだ。ただし、値は張る」




「おいくらですか」




「百万円」




「気になりますね」




 老婆は、今度こそ勝ったと思った。




 百万円。




 普通なら怯む。


 それでも買う者は、もう戻れない。


 払えない者は、別のものを差し出す。




 時間。記憶。寿命。人間関係。未来。




 老婆は、それらを巻き上げてきた。




 しかし、女は少し考えた後、静かに言った。




「私一人では決められません」




 老婆の口元が、ゆっくりと吊り上がる。




「そうかい」




 ついに来た。


 相談するほど欲しいのだ。


 一人では決められないほど、心が揺れているのだ。




「じゃあ、誰かを連れておいで。家族かい。恋人かい。上司かい」




「内緒です」




「……そうかい」




「はい」




 女は一礼した。




「後日、改めて伺います」




 老婆は、去っていく背中を見ながら、今度は堪えきれずに笑った。




 ひひひ。


 ひひひひひひひ。




 低く、暗い笑いが、路地に滲んだ。




 翌日の夕方。




 女は、一人の男を連れてきた。




 白い白衣。白い手袋。銀色の髪。


 柔らかく笑う口元。


 幼さが残る顔は、女よりも若く、十代のようにも見えた。




 その男は、露店の前に立つと、赤い布の上の品々を楽しそうに眺めた。




「へえ。随分と集めたね」




「パンドラ」




 あだ名だろうか。女が男を呼んで言った。




「こちらが販売者さんです」




「なるほど。おキョウさんに魔法のアイテムを売りつけていたおばあちゃん、と」




 老婆の顔が変わった。




「誰だい、あんた」




「専門家。彼女の相談に乗ってた。」




 老婆は、違和感を覚えた。




 女には、誰にも言えない悩みがあったはずだ。


 そして、露店で物品を2回買った。


 2回とも、女はそれを「使った」と言う。


 だが、その悩みを女は男に相談している……?


 


 男は微笑んだ。




 「おキョウさん、どうする。これ。100万円で買うの?」




 「どうしようかな、と。それであなたを呼んだんですよ」




 パンドラと呼ばれた男は、老婆に話しかけた。




 「おばあちゃん、ちょっと聞きたいんだけどね」




 「あなたの品物を分析したところ、『この街に存在しないはずの物質』だったんだよね」




 老婆は立ち上がった。




 「は……!?」




 老婆は、赤い布の上の小瓶を掴んだ。




「帰りな。今日は店じまいだよ」




「そうはいきません。私の願いはまだ叶っていませんから。」




「黙れ!お前は私の品物を使わずに分析していたんだろう!大嘘を何度もつきおって!」




「嘘などついていません。私は――世界が平和ではないことに悩んでいます。その解決のために、あなたの品物を《《使って》》分析していたのですから」




「は?」




 老婆は固まった。




「世界平和なんて願い――」


 


「百円で解決できるわけないだろう……!!」




 老婆は叫び、逃げようとする。




 腰が曲がっていたはずなのに、その動きは異様に速かった。




「逃げる前に質問に答えてください」




 女が言った。




「販売先は何人ですか。被害者数、回収した対価、契約条件、解除方法、製造元、流通経路」




「知るかい!」




 老婆は黒い煙になって、路地の奥へ逃げようとした。




 しかし、男がその前に立っていた。




 笑っていた。




「好きなんでしょ? 魔法のアイテム」




 男の手に、小さな箱が現れた。


 黒く、古く、しかし底の知れない箱だった。


 蓋が、ゆっくりと開く。


 中には闇があった。




 ただの闇ではない。


 見る者の欲、嘘、悪意、呪い、未練、搾取、欺瞞。




 そうしたものだけを選んで吸い込む闇だった。




「パンドラの箱。悪いものであれば吸収するよ。悪いものでなければ効かないけど」




 男は優しく言った。




「さて、おばあちゃんはどっちかなー」




「やめろ!」




 老婆の姿が揺らぐ。




 皺だらけの顔が、別の何かへ変わりかける。




 小さな商人。占い師。行商人。


 祈祷師。若い女。老婆。




 いくつもの姿が煙の中に浮かび、そして崩れた。




「私は、ただ、願いを売っただけだ!」




「対価と危険性の説明が不十分です」




 女は言った。




「加えて、依存性のある魔力製品を、未成年を含む不特定多数に販売した可能性があります」




「私にそんな法律が効くものか!」




「私は『法使い』ですので――。あれ?それは前の話でしたっけ。」




 女は男を見た。


 男はにっこり笑った。




「今の世の中、PL法ってのがあるからね」




「ぴいえる……?」




「製造物責任です。まあ、魔法の製品にどこまで適用できるかは知りませんが」




 箱の闇が、老婆の煙を引き寄せる。




「今回はまず、被害者救済を優先しましょう」




「いやだ! 私は悪くない! 人間が勝手に欲しがったんだ!」




「その理屈、だいたい悪い売り手が言うんだよ」




 男は箱を少し傾けた。




 老婆の身体が、煙となって吸い込まれていく。




「覚えておいて。おばあちゃん」




 男は、楽しそうに言った。




「この街のあなたの被害者を救って、あなたが『悪いもの』じゃなくなったら、ここから出られるからね」




「そんな……!」




 最後に、老婆のぎらぎらした目だけが残った。




「お前ら……何者だ……!」




 男は笑った。




「あなたと同じ、悪魔。で、こっちは天使。」




 そして、箱は閉じた。




 路地に残ったのは、赤い布と、売れ残りの小物と、少し焦げたような煙の匂いだけだった。




 商店街には、また人の声が戻っていた。


 焼き鳥の煙。


 値引き札。


 学生たちの笑い声。




 何事もなかったように、夕方は夜へと変わっていく。




 女は、黒いバッグを持ち直した。




「持つべきものは、優秀な悪魔の部下ですね」




「光栄だなー」




 男は箱を指先でくるりと回した。




「それで、おキョウさん」




「はい」




「世界平和には近づいた?」




 女は、少しだけ考えた。


 それから、いつものように静かに答えた。




「いいえ、まだです」




 男は楽しそうに笑った。




「だよね」




「ですが、少なくとも、魔法のアイテムによる消費者被害は一件、是正に向かいました」




「世界平和への一歩としては、地味だなー」




「平和とは、だいたい地味なものです」




 二人と、箱に入った一人は、商店街の出口へ向かって歩き出した。





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