怪しい老婆は煙に巻く
夕暮れの商店街には、焼き鳥の匂いと、湿ったアスファルトの匂いが混じっていた。
会社帰りの人々が足早に駅へ向かい、学生たちは笑いながら自転車を押している。八百屋の店先では、売れ残りのトマトに値引き札が貼られ、古い喫茶店の窓には、薄いオレンジ色の光が灯っていた。
その人混みの中を、彼女は歩いていた。
青い縁の眼鏡。
まとめられた黒髪。
青みがかったスーツに、タイトなスカート。
手には、書類の入った黒いバッグ。
商店街の雑多な空気の中で、彼女だけが、まるで会議室の廊下を歩いているようだった。
その時だった。
「お嬢さん」
しわがれた声が、路地の奥から聞こえた。
女は、足を止める。
細い路地の入口に、小さな露店が出ていた。
赤い布の上に、古びた小瓶、曇った鏡、黒い石、鈴のついた紐、ひび割れた人形、銀色の指輪らしきものが並んでいる。
その奥に、老婆が座っていた。
腰は曲がり、白髪は乱れ、顔には深い皺が刻まれている。だが、目だけが妙にぎらぎらしていた。
老婆は、にたりと笑った。
「悩みがあるね」
女は、老婆を見た。
「あります。わかりますか」
即答だった。
老婆の笑みが、少し深くなる。
「やっぱりねえ。分かるよ。分かるんだよ、あたしには。人の心に空いた穴がねえ」
「そうですか」
「あるんだろう。誰にも言えない悩みが。欲しいものが。叶えたい願いが」
「はい」
女は頷いた。
老婆は、黒い箱から小さな煙玉のようなものを取り出した。
丸く、灰色で、表面に細かい文字が刻まれている。
「願い煙。火をつければ、悩みを一つ、煙に巻いてくれる」
「悩みを一つ」
「そうさ。たった百円だよ」
「安いですね」
「初回だからねえ」
老婆は、にやりと笑った。
女は財布を開け、百円玉を一枚置いた。
「購入します」
「よろしい。だが、使う時は一人でおやり。誰にも見られてはいけないよ。ほほほ」
「承知しました」
「まあ、持っていきな。悩みは少し、軽くなるさ」
「領収書は出ますか」
「……出ないねえ」
「では、購入記録はこちらで残します」
女はスマートフォンで撮影した。
老婆は、その様子を見て、怪訝な顔をした。
「いいよ、いいよ。好きにしな。どうせ、使えば分かるんだからねえ」
女はそれをバッグにしまった。
老婆は、にやりと笑った。
「また来るよ。あんたは、きっとね」
数日後。
同じ商店街の同じ路地に、老婆の露店はまた出ていた。
女は、ちょうどその前を通りかかった。
「お嬢さん」
老婆が声をかける。
「この前の煙玉、どうだったね。悩みは消えたかい」
「いいえ、使ってみたんですが、なかなか」
「そうだろうねえ」
老婆は、待っていたと言わんばかりに笑った。
「あれは、ほんの入口さ。小さな願いには効くが、大きな悩みには足りない。あんたの悩みは、根が深いんだよ」
「そうかもしれません」
「なら、今度はこれだ」
老婆は、黒い小瓶を取り出した。
中には、煙のようなものがゆっくり渦を巻いている。
「願い火だよ。蓋を開けて願えば、心の迷いを包んで消してくれる。こいつは少し高い。けれど、効くよ」
「おいくらですか」
「一万円」
「一万円ですか」
「悩みを消すには、安いもんだろう?」
老婆は、笑いを堪えきれないように口元を歪めた。
人間は、こうして深く嵌まっていく。
百円で入口を開き、一万円で戻れなくなる。
小さな安堵を求めて、次の品に手を伸ばす。
悩みの深い者ほど、よく沈む。
老婆は、そういう顔を何度も見てきた。
だが、女は顔色ひとつ変えずに財布を開いた。
「分かりました。購入します」
「ほう」
「叶えたい願いがあるので」
「うんうん」
「一万円、ですね」
女は一万円札を渡し、小瓶を受け取った。
「今回も領収書は出ませんか」
「出ないよ」
「では、購入日時、金額、形状、販売者の特徴を記録しておきます」
女はまたスマートフォンで撮影した。
老婆は、少しだけ目を細めた。
妙な客だった。
普通は、焦りや期待や恐れが混じる。
だがこの女には、それがない。
買っているのに、欲しがっていないような。
頼っているようで、頼っていないような。
「お嬢さん」
「はい」
「あんた、本当に悩んでいるのかい」
「はい」
「何に」
「大きなことです」
「ふふふ。いいねえ。大きな悩みほど、いい煙が出る」
老婆は自分の言葉に満足して、喉の奥で笑った。
「私はねえ、こういう、魔法の物品が好きなんだよ」
「そうですか」
「人の願いを形にする。人の欲をあぶり出す。たまらないねえ」
「なるほど」
女は、小瓶をバッグに入れた。
「では、失礼します」
老婆はその背中を見送りながら、今度こそ声を殺して笑った。
さらに数日後。
雨上がりの夜だった。
商店街の人通りは少なく、路地の奥には、また赤い布が敷かれていた。
老婆は、そこで待っていた。
そして、女が現れた。
「来たねえ」
「はい」
「悩みは消えたかい」
「いいえ」
「だろうねえ」
老婆は、今度は笑わなかった。
代わりに、じっと女の顔を見た。
変わらない。
この女は、前と同じ顔をしている。
願いに溺れた者の顔ではない。
眠れない者の顔でもない。
欲に焼かれた者の顔でもない。
不安も、後悔も、依存も、焦燥も、表に出ていない。
それなのに、悩みはあると言う。
「お嬢さん」
「はい」
「あんた、前の品を使ったかい」
「はい、もちろん」
老婆の目が細くなった。
「ううん、そうかい」
老婆は、しばらく黙った。
それから、ゆっくり笑った。
「なるほどねえ。あんたは、幸運な女なのかもしれないねぇ。だが、幸運な人間ほど、最後には大きく踏み外すもんさ」
老婆は、赤い布の奥から、木箱を取り出した。
古びた黒い箱だった。
表面には、見たことのない文字が刻まれている。
開けてはいないのに、中から煙の匂いがした。
「これは特別だよ」
老婆の声が低くなる。
「開ければ、心底の願いを叶える玉手箱。財も、愛も、若さも、復讐も、名誉も、何でもだ。ただし、値は張る」
「おいくらですか」
「百万円」
「気になりますね」
老婆は、今度こそ勝ったと思った。
百万円。
普通なら怯む。
それでも買う者は、もう戻れない。
払えない者は、別のものを差し出す。
時間。記憶。寿命。人間関係。未来。
老婆は、それらを巻き上げてきた。
しかし、女は少し考えた後、静かに言った。
「私一人では決められません」
老婆の口元が、ゆっくりと吊り上がる。
「そうかい」
ついに来た。
相談するほど欲しいのだ。
一人では決められないほど、心が揺れているのだ。
「じゃあ、誰かを連れておいで。家族かい。恋人かい。上司かい」
「内緒です」
「……そうかい」
「はい」
女は一礼した。
「後日、改めて伺います」
老婆は、去っていく背中を見ながら、今度は堪えきれずに笑った。
ひひひ。
ひひひひひひひ。
低く、暗い笑いが、路地に滲んだ。
翌日の夕方。
女は、一人の男を連れてきた。
白い白衣。白い手袋。銀色の髪。
柔らかく笑う口元。
幼さが残る顔は、女よりも若く、十代のようにも見えた。
その男は、露店の前に立つと、赤い布の上の品々を楽しそうに眺めた。
「へえ。随分と集めたね」
「パンドラ」
あだ名だろうか。女が男を呼んで言った。
「こちらが販売者さんです」
「なるほど。おキョウさんに魔法のアイテムを売りつけていたおばあちゃん、と」
老婆の顔が変わった。
「誰だい、あんた」
「専門家。彼女の相談に乗ってた。」
老婆は、違和感を覚えた。
女には、誰にも言えない悩みがあったはずだ。
そして、露店で物品を2回買った。
2回とも、女はそれを「使った」と言う。
だが、その悩みを女は男に相談している……?
男は微笑んだ。
「おキョウさん、どうする。これ。100万円で買うの?」
「どうしようかな、と。それであなたを呼んだんですよ」
パンドラと呼ばれた男は、老婆に話しかけた。
「おばあちゃん、ちょっと聞きたいんだけどね」
「あなたの品物を分析したところ、『この街に存在しないはずの物質』だったんだよね」
老婆は立ち上がった。
「は……!?」
老婆は、赤い布の上の小瓶を掴んだ。
「帰りな。今日は店じまいだよ」
「そうはいきません。私の願いはまだ叶っていませんから。」
「黙れ!お前は私の品物を使わずに分析していたんだろう!大嘘を何度もつきおって!」
「嘘などついていません。私は――世界が平和ではないことに悩んでいます。その解決のために、あなたの品物を《《使って》》分析していたのですから」
「は?」
老婆は固まった。
「世界平和なんて願い――」
「百円で解決できるわけないだろう……!!」
老婆は叫び、逃げようとする。
腰が曲がっていたはずなのに、その動きは異様に速かった。
「逃げる前に質問に答えてください」
女が言った。
「販売先は何人ですか。被害者数、回収した対価、契約条件、解除方法、製造元、流通経路」
「知るかい!」
老婆は黒い煙になって、路地の奥へ逃げようとした。
しかし、男がその前に立っていた。
笑っていた。
「好きなんでしょ? 魔法のアイテム」
男の手に、小さな箱が現れた。
黒く、古く、しかし底の知れない箱だった。
蓋が、ゆっくりと開く。
中には闇があった。
ただの闇ではない。
見る者の欲、嘘、悪意、呪い、未練、搾取、欺瞞。
そうしたものだけを選んで吸い込む闇だった。
「パンドラの箱。悪いものであれば吸収するよ。悪いものでなければ効かないけど」
男は優しく言った。
「さて、おばあちゃんはどっちかなー」
「やめろ!」
老婆の姿が揺らぐ。
皺だらけの顔が、別の何かへ変わりかける。
小さな商人。占い師。行商人。
祈祷師。若い女。老婆。
いくつもの姿が煙の中に浮かび、そして崩れた。
「私は、ただ、願いを売っただけだ!」
「対価と危険性の説明が不十分です」
女は言った。
「加えて、依存性のある魔力製品を、未成年を含む不特定多数に販売した可能性があります」
「私にそんな法律が効くものか!」
「私は『法使い』ですので――。あれ?それは前の話でしたっけ。」
女は男を見た。
男はにっこり笑った。
「今の世の中、PL法ってのがあるからね」
「ぴいえる……?」
「製造物責任です。まあ、魔法の製品にどこまで適用できるかは知りませんが」
箱の闇が、老婆の煙を引き寄せる。
「今回はまず、被害者救済を優先しましょう」
「いやだ! 私は悪くない! 人間が勝手に欲しがったんだ!」
「その理屈、だいたい悪い売り手が言うんだよ」
男は箱を少し傾けた。
老婆の身体が、煙となって吸い込まれていく。
「覚えておいて。おばあちゃん」
男は、楽しそうに言った。
「この街のあなたの被害者を救って、あなたが『悪いもの』じゃなくなったら、ここから出られるからね」
「そんな……!」
最後に、老婆のぎらぎらした目だけが残った。
「お前ら……何者だ……!」
男は笑った。
「あなたと同じ、悪魔。で、こっちは天使。」
そして、箱は閉じた。
路地に残ったのは、赤い布と、売れ残りの小物と、少し焦げたような煙の匂いだけだった。
商店街には、また人の声が戻っていた。
焼き鳥の煙。
値引き札。
学生たちの笑い声。
何事もなかったように、夕方は夜へと変わっていく。
女は、黒いバッグを持ち直した。
「持つべきものは、優秀な悪魔の部下ですね」
「光栄だなー」
男は箱を指先でくるりと回した。
「それで、おキョウさん」
「はい」
「世界平和には近づいた?」
女は、少しだけ考えた。
それから、いつものように静かに答えた。
「いいえ、まだです」
男は楽しそうに笑った。
「だよね」
「ですが、少なくとも、魔法のアイテムによる消費者被害は一件、是正に向かいました」
「世界平和への一歩としては、地味だなー」
「平和とは、だいたい地味なものです」
二人と、箱に入った一人は、商店街の出口へ向かって歩き出した。




