CROSSED QUEST
勇者は、魔王城の最奥へ辿り着いた。
黒い石で築かれた玉座の間。
天井は高く、柱は砕け、窓の向こうでは紫の雷が鳴っていた。床には、ここまでの戦いで散った魔物たちの鎧片が転がっている。
勇者の鎧も、もはや原形を留めていなかった。
盾は割れ、肩当ては砕け、聖剣を握る手には血が滲んでいる。
それでも、勇者は立っていた。
ここまで来たのだ。
焼かれた村。
奪われた友。
倒れていった仲間。
幾度も聞いた、魔王の名。
旅の始まりの日、王に託された言葉が、胸の奥でまだ燃えている。
魔王を倒せ。
世界を救え。
そのために、勇者は剣を取った。
玉座の上で、魔王がゆっくりと立ち上がる。
闇をまとった巨躯。
角。
黒い外套。
燃えるような眼。
その姿は、まさしく世界の終わりそのものだった。
「よくぞ来た、勇者よ」
魔王の声が、玉座の間に響いた。
「幾千の兵を越え、四天王を倒し、我が城の門を破り、ついにここまで辿り着いたか」
勇者は聖剣を構えた。
「終わらせに来た」
「何を」
「この戦争を」
魔王は笑った。
低く、重く、城そのものが震えるような笑いだった。
「ならば、剣を振るうがよい。勝者の正義が、この大陸の歴史となる」
勇者は一歩踏み出す。
聖剣が光を帯びる。
ここが最後だ。
この一撃で、すべてが決まる。
人間の王国の命運も、魔族の軍勢の未来も、焼かれた村々の悲鳴も、倒れた仲間たちの願いも、すべてがこの一戦に集まっている。
勇者は息を吸った。
「魔王!」
その瞬間だった。
玉座の間の空間が、青白く揺れた。
魔王の隣に、一人の天使が現れた。
いや、天使に見えた。
頭上には青白い輪。
背には淡く光る翼。
だが、その翼はどこか薄く、白ではなく青に近い。着ているものも、聖衣ではない。青みがかった上着と、細身のスカート。目元には青い縁の眼鏡。
秘書のような、参謀のような、あるいは書記官のような女だった。
勇者は目を細めた。
「魔王軍の天使……?闇に堕ちた、堕天使、か」
「いいえ」
天使は静かに答えた。
「堕ちたにしては、羽も輪っかも身なりも血色も小綺麗でしょう。私は、妥天使です」
「……だ、天使?」
「妥協、妥結、妥当の妥です。魔王軍四天王を担当しております」
勇者は、聖剣を構えたまま固まった。
魔王も、少しだけ気まずそうに咳払いをした。
「何の用だ」
勇者が言った。
「今は、最後の戦いの場だ」
「はい」
妥天使は頷いた。
「ですので、戦闘開始をお待ちください」
玉座の間の空気が、ひやりと冷えた。
「待てるか!」
勇者は叫んだ。
「ここまで来たんだぞ! 仲間たちは倒れ、国は燃え、人々は泣いている! 俺は魔王を倒すために――」
「はい」
妥天使は、手元の書類をめくった。
「その到達は、確認致しました」
「確認?」
「勇者が魔王の玉座へ到達したこと。魔王が直接交戦可能な状態にあること。魔王城中枢の防衛線が突破されたこと。以上三点により、人間側の軍事的主張は十分に証明されました」
「俺の旅を、証明扱いするな!」
「一方で」
妥天使は続けた。
「同時刻、人間側王城において、魔王軍が推挙した魔勇者が、あなた方の王を追い詰めています」
勇者の呼吸が止まった。
「何……?」
――同じ頃。
人間の王城もまた、戦場となっていた。
白い石壁は砕け、謁見の間の扉は破られ、王を守る近衛兵たちは床に倒れていた。
玉座の前に立つのは、魔勇者だった。
魔族の血を引きながら、人間の剣術を学び、迫害された者たちを束ねた英雄。
魔勇者は黒い剣を王へ向けていた。
「ここまでだ、ヒトを統べし王よ」
王は玉座の前で、膝をついていた。
王冠は床に落ちている。
白い髭は泥に汚れ、王衣は破れていた。
だが、その目だけは、まだ折れていなかった。
「余を討つか」
「討てば、魔族の子らは救われる」
「人間の民はどうなる」
「それを聞く資格が、あなたにあるか」
魔勇者の声は震えていた。
魔族の村が焼かれた日。
人間の兵が来た日。
母が倒れ、友が連れ去られた日。
魔勇者は、そのすべてを覚えている。
王は、魔王を怪物と呼んだ。
魔族を災厄と呼んだ。
討伐を正義と呼んだ。
ならば、その正義の中心にいる者を討つ。
それが、魔勇者の旅の終着点だった。
黒い剣が、王の喉元へ近づく。
――ここまで。
妥天使は、映像化の魔法により、勇者にその光景を突き付けた。
「幻術か?そんなものに、俺は騙されない」
「いいえ、本物です」
「そんなもの、俺が信じられるとでも……!?」
「まぁ……そうでしょうね。ちゃんと、保険も用意してあります。」
妥天使の後ろから、勇者にとって見覚えのある人影が現れる。
「養父さん……!?」
身寄りのない勇者を幼少期から育て、その旅立ちを見送った、唯一の家族。それは、幻術ではあり得なかった。真実の眼を持つ勇者が、それを見間違えるはずなどないのだから。
「久しぶりだな……《《勇者様》》。」
養父の手には、分厚い羊皮紙の束があった。
停戦協定草案。
捕虜返還条項。
不可侵線の設定。
辺境地帯の自治承認。
通商再開案。
戦後賠償と復興基金。
そして、人間と魔族双方の勇者の身分保証。
勇者は眉を寄せた。
「これは、いったい……?」
「和平だ」
養父が言った。
「魔勇者が王に届き、勇者が魔王に届いた時点で、双方の勝利条件は同時に成立し、同時に失われた」
「意味が分からない」
「どちらも、相手の首を取れるところまで来た。つまり、どちらも相手を滅ぼし切れないと証明されたのだ」
勇者は妥天使を睨んだ。
「つまり、どういうことだ」
「現在、両陣営は完全な相互到達状態にあります」
「相互到達」
「勇者は魔王を討てる位置にいます。魔勇者は王を討てる位置にいます。ここでどちらかが刃を振るえば、もう一方も刃を振るいます。結果、両陣営の最高指導者が同時に失われ、戦争は終結ではなく内乱と報復の連鎖へ移行します」
「私と、あなたの養父をはじめとした、双方陣営の『法使い』たち――ああ、『魔法使い』ではありませんよ、お間違え無きよう――は、和平に向けて、秘密裏に交渉を続けていたのです。」
勇者は歯を食いしばった。
「法使い……?だから、ここで剣を下ろせと?」
「はい」
「ふざけるな。ここまで来て、魔王を前にして、戦うなと言うのか」
「言います」
妥天使の声は、冷たくもなく、熱くもなかった。
「ここまで来たからこそです」
魔王が玉座の前に立ったまま、目を閉じた。
「勇者よ」
「黙れ」
「余も、お前と戦うつもりでいた」
魔王の声は低かった。
「我が民の恨みも、我が兵の死も、すべてこの一戦に乗せるつもりだった」
「なら、剣を取れ」
「だが、余が倒れれば、魔族の諸将は人間への総報復に走る。王が倒れれば、人間の諸侯もまた同じだろう」
「それでも……」
「それでも、戦えば物語としては美しい」
魔王は、少しだけ笑った。
「だが、民は美しさで食えぬ」
妥天使が、書類を差し出した。
「両陣営の法使いによる草案は、既に合意可能な段階です。残るのは、勇者、魔勇者、魔王、王の四者が、剣を振るわないことを選ぶだけです」
勇者は書類を見た。
そこには、無数の条項が並んでいる。
難しい言葉。長い文。
血の通わない取り決め。
だが、その一行一行の向こうに、村があった。
畑があった。
子どもがいた。
明日の朝があった。
「俺の仲間たちは、何のために死んだ」
勇者は呟いた。
「この一戦のためではなかったのか」
「違います」
妥天使は言った。
「この一戦を避けられる場所まで、あなたを届けるためです」
勇者は、聖剣を握りしめた。
光が震える。
魔王は動かない。
遠く、人間の王城では、魔勇者もまた黒い剣を握りしめていた。
王は、玉座の前で静かに待っていた。
法使いたちは、インクと羽ペンを用意した。
勇者は、長い沈黙の末に、剣先を下ろした。
同じ時、魔勇者もまた、黒い剣を王の喉元から引いた。
その日、最後の戦いは行われなかった。
勇者と魔王は剣を交えなかった。
魔勇者と王もまた、互いを討たなかった。
聖剣は魔王の血を吸わず、黒い剣は王冠を割らなかった。
第二形態が現れることもなく、空を裂く究極魔法も放たれなかった。
玉座の間に勝利のファンファーレが鳴ることも無かった。
代わりに、長い羊皮紙が広げられた。
勇者は証人として名を刻み、魔勇者もまた証人として名を刻んだ。
魔王は魔族領の侵攻停止を認め、王は辺境地帯における魔族自治を認めた。
捕虜は返され、国境には監視団が置かれ、焼かれた村には復興基金が送られた。
人間の歴史書は、その日を勝利の日とは呼ばなかった。
魔族の年代記も、その日を征服の日とは記さなかった。
ある法使いは、このときのことを、こう書き残した。
両軍の英雄が互いの首都に到達した日、二つの戦争目的は交差し、相殺された。
そして、大陸は戦闘ではなく、合意によって次の時代へ進んだ。
勇者の旅は、魔王討伐で終わらなかった。
魔勇者の旅も、王の首で終わらなかった。
だが、戦争は終わった。
二人の勇ある者と、二人の王たる器を持つ者、法使い達、そして、ここに至るまでの多くの犠牲によって。
それは冒険譚としては、あまりにも味気ない結末だった。
だが、戦記としては、ひとつの終章である。
剣が届いたからこそ、剣は振られなかった。
かくして、交差した二つのクエストは、最後の戦闘を失い、最初の平和を得たのである。
今はまだ、双方に憎しみの跡が残り、これをハッピーエンドと呼ぶことはできない。
だが、いつの日か、互いに赦し合い、真の平和が永久に訪れることを願い、ここに筆を置く。
――私は、勇者の養父として、また、一人の法使いとして、この決断の日に居合わせたことを誇りに思う。




