ハキハキ婚約破棄
王宮大広間のシャンデリアは、今夜も眩しいほど輝いていた。
金と白を基調とした壁。磨き抜かれた大理石の床。楽団の奏でる優雅なワルツ。貴族たちの笑い声。香水と花の匂い。
王立学院の卒業祝賀舞踏会。
それは、若き貴族たちにとって、子ども時代の終わりを告げる夜だった。
そして、第二王子アイシメスにとっては、真実の愛を示す夜でもあった。
彼は広間の中央に立っていた。
銀髪に青い瞳。整った顔立ち。白い礼装。胸には王家の紋章。
隣には、淡い桃色のドレスを着た少女がいる。
アティーヌ・ベル。
男爵家の養女であり、学院では誰にでも優しく、花のように笑う少女だった。
彼女は、今にも泣き出しそうな顔でアイシメスの袖を掴んでいる。
「殿下……本当に、よろしいのですか」
「ああ。今夜、すべてを終わらせる」
アイシメスは低く答えた。
「私はもう、偽りの婚約には耐えられない」
その視線の先に、一人の令嬢がいた。
イーノ・クラワスゼン。
クラワスゼン公爵家の一人娘。
黒髪を結い上げ、深紅のドレスをまとった彼女は、誰よりも美しく、誰よりも冷たく見えた。背筋はまっすぐで、扇を持つ指先まで隙がない。
アイシメスの婚約者。
そして、アティーヌをいじめた悪女。
少なくとも、アイシメスはそう信じていた。
アティーヌの教科書が破られた。
階段で突き飛ばされた。
茶会で孤立させられた。
陰口を流された。
泣きながら訴えるアティーヌの姿を、アイシメスは何度も見た。
そのたびに、胸が焼けた。
なぜ、あんな女と婚約しなければならないのか。
なぜ、愛してもいない令嬢と、王家の都合で未来を縛られなければならないのか。
真実の愛は、ここにある。
アティーヌの震える手を握りしめ、アイシメスは決意した。
今夜、すべてを明らかにする。
大広間の音楽が、曲の終わりに合わせて静まる。
その瞬間を待っていたように、アイシメスは一歩前へ出た。
「皆、聞いてほしい!」
広間がざわめいた。
貴族たちが扇を止め、グラスを下ろす。
イーノも静かに振り返った。
アイシメスは、胸を張った。
「私は今宵、この場で宣言する。イーノ・クラワスゼン。私は、お前との婚約を――」
「お待ちください」
冷たい声が、広間に落ちた。
アイシメスの言葉が止まる。
誰もが、声の主を探した。
広間の端に、一人の女が立っていた。
青い縁の眼鏡。
まとめられた黒髪。
青みがかったスーツに、タイトなスカート。
ドレス姿の貴族たちの中で、その装いはひどく場違いだった。だが、彼女の立ち姿には妙な説得力があった。
まるで、王宮の華やかな空気そのものを、帳簿の一項目として処理しているようだった。
「何者だ」
アイシメスが眉をひそめる。
女は一礼した。
「王家儀典室主管、キョウ・コサメガインです」
「儀典室?」
「はい。本日の祝賀舞踏会における進行、記録、危機対応の統括を担当しております」
「下がれ。これは私の問題だ」
「いいえ」
キョウは、少しも表情を変えずに言った。
「この場で婚約破棄を宣言された場合、殿下個人の問題では済みません」
広間が、すうっと冷えた。
「何?」
「王家とクラワスゼン公爵家の婚姻契約。公的儀礼の場における一方的通告。令嬢への公開告発。男爵家令嬢の同席。社交界への波及。王家の信用低下。すべて同時に発生します」
「私は、真実の愛を――」
「真実性より、手続きが先です」
その一言は、ワルツの余韻を完全に殺した。
アティーヌが小さく息を呑む。
アイシメスは顔を赤くした。
「愛に手続きなど必要ない!」
「愛には不要かもしれません」
キョウは頷いた。
「ですが、婚約破棄には必要です」
その時、広間の奥から低い声がした。
「アイシメス」
国王だった。
王座ではなく、来賓席に座っていた老王レオポルドは、白い髭を撫でながら、ひどく疲れた顔をしていた。
その隣には王妃。さらに宰相、公爵、重臣たちが並んでいる。
誰も驚いてはいなかった。
ただ、全員が冷めた目をしていた。
「父上……」
「今、何を言おうとした」
「私は、イーノとの婚約を破棄し、アティーヌとの愛を――」
「この場でか」
国王の声は低かった。
アイシメスは一瞬、言葉に詰まる。
「はい。皆の前で、真実を明らかにするために」
「皆の前で、王家の不始末を披露するために、ではなくか……、アイシメス……!?」
広間が静まり返った。
王妃が目を閉じる。
宰相が小さくため息をついた。
クラワスゼン公爵は、表情ひとつ変えずにアイシメスを見ている。
国王は続けた。
「お前は、婚約者一人と話し合うことも、家同士の調整を行うこともできぬまま、舞踏会の中央で叫ぶつもりだったのか」
「ですが、イーノはアティーヌを傷つけ――」
「証拠は」
「アティーヌが泣いて……」
「証拠は」
アイシメスは黙った。
アティーヌが震える。
すると、イーノが静かに扇を閉じた。
「恐れながら、陛下」
その声は澄んでいた。
「証拠なら、こちらにございます」
彼女の後ろに控えていた侍女が、分厚い書類束を差し出した。
広間がどよめく。
イーノは微笑んだ。
「アティーヌ様の教科書を破った者。階段での件の目撃証言。茶会の招待状の改竄。すべて調査済みですわ。殿下がご覧になっているものとは、だいぶ異なる結果になるかと」
アイシメスの顔色が変わる。
アティーヌが青ざめる。
貴族たちが息を呑む。
イーノは一歩前へ出た。
この場で、すべてを返せる。
理不尽な婚約者。
愚かな王子。
悲劇の少女を演じたアティーヌ。
自分を悪女と呼んだ者たち。
全員に、真実を突きつけられる。
扇の先を持ち上げ、イーノは口を開いた。
「では、この場で――」
「開示しないでください」
また、キョウだった。
イーノの言葉も止まった。
「……なぜですの?」
「証拠は、公衆の面前で読み上げるものではありません」
「ですが、名誉を傷つけられたのは私です」
「はい。ですので、証拠能力を保ったまま、正式な協議の場へ提出してください」
「証拠能力」
「ここで読み上げれば、相手方の反論、証人保護、記録の真正性、名誉毀損、社交界での二次拡散が絡みます。気持ちは分かりますが、公開処刑にする必要はありません」
イーノは、扇を握る手に力を込めた。
「わたくしの反撃の場も、奪うのですか」
「反撃ではなく、回復にしましょう」
「回復」
「名誉の回復。婚約条件の整理。損害の確認。関係者の保護。今後の立場の調整。それが必要です」
イーノはしばらくキョウを見つめた。
そして、悔しそうに息を吐いた。
「……本当に、興醒めな方」
「よく言われます」
キョウは静かに答えた。
国王が重く頷いた。
「この場での婚約破棄宣言は認めぬ」
「父上!」
「黙れ、アイシメス……!」
国王の声が、大広間を圧した。
「お前は、クラワスゼン公爵家の令嬢一人を御することも、疑義を調査することも、相手家と協議することもできず、王家の舞踏会を私情の処刑場にしようとした」
「処刑場などと――」
「同じだ」
国王は冷たく言った。
「お前は王族だ。感情を持つなとは言わぬ。だが、感情を公的事故に変えてくれるな」
その言葉に、アイシメスは黙り込んだ。
宰相が淡々と立ち上がる。
「本件は後日、王家、クラワスゼン公爵家、ベル男爵家立会いのもと、非公開協議といたします。今夜の発言は記録されますが、公式宣言としては扱いません。各家の皆様におかれましても、未確定情報の流布はお控えください」
貴族たちは、慌てて視線を逸らした。
さっきまで期待していたのだ。
王子の婚約破棄を。
悪役令嬢の断罪を。
その後の逆転劇を。
真実の愛と、破滅と、ざまぁを。
だが、それらはすべて、王家儀典室主管と国王と宰相によって、正式な手続きへと吸い込まれていった。
ショーとしては、最悪だった。
国家運営としては、正しかった。
数日後。
王宮の小会議室で、非公開協議が行われた。
イーノの提出した証拠により、彼女による嫌がらせの大半は事実無根と確認された。
一部はアティーヌの取り巻きが、王子の関心を引くために勝手に行ったものだった。
アティーヌ本人も、状況を利用していた部分はあったが、王子に守られるうちに引き返せなくなっていたらしい。
アイシメスは、王位継承順位を下げられ、数年間の地方行政実習を命じられた。
アティーヌは王宮から離され、ベル男爵家の監督下で再教育となった。
イーノとの婚約は、双方の将来と家同士の関係を考慮し、正式な協議の末に解消された。
公的発表はこうだった。
『両家協議の結果、互いの将来を尊重し、婚約を円満に解消する』
退屈な文面だった。
恋も、断罪も、ざまぁもない。
だが、イーノの名誉は守られた。
クラワスゼン公爵家も王家との全面対立を避けられた。
アティーヌも、社交界の晒し者にならずに済んだ。
アイシメスも、完全な破滅ではなく、長い矯正期間を与えられた。
誰も、舞踏会の中心で処刑されなかった。
それは、物語としては実に締まらない結末だった。
だが、現実としては、たぶん、最も傷が浅かった。
協議を終えた後、イーノは王宮の廊下でキョウ・コサメガインを見つけた。
キョウは青い眼鏡を押し上げ、書類を整理していた。
「キョウ様」
「はい」
「わたくし、本当は、あの場で全部言ってやりたかったのです」
「そうでしょうね」
「殿下にも、アティーヌ様にも、わたくしを悪女と呼んだ者たちにも」
「はい」
「ですが、言わなくてよかったとも思っています」
イーノは、窓の外を見た。
王宮の庭には、白い花が咲いている。
「言っていたら、きっと気持ちはよかったでしょう。でも、わたくしは一生、あの夜に人を叩き潰した令嬢として語られていた」
「その可能性は高いです」
「本当に、腹立たしいほど正しい方ですわね」
「よく言われます」
イーノは小さく笑った。
「では、ひとつだけ聞かせてください。あの夜、あなたは何を守ったのですか」
キョウは、少しだけ考えた。
そして、静かに言った。
「青二才達の愛や酔狂よりも遥かに重いもの」
「王家儀典室主管としての仕事の責任、すなわち……」
「体裁です」




