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醒ヶ井興子は狂ってる  作者: 不連続がと


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6/13

ハキハキ婚約破棄

 王宮大広間のシャンデリアは、今夜も眩しいほど輝いていた。




 金と白を基調とした壁。磨き抜かれた大理石の床。楽団の奏でる優雅なワルツ。貴族たちの笑い声。香水と花の匂い。




 王立学院の卒業祝賀舞踏会。




 それは、若き貴族たちにとって、子ども時代の終わりを告げる夜だった。




 そして、第二王子アイシメスにとっては、真実の愛を示す夜でもあった。




 彼は広間の中央に立っていた。




 銀髪に青い瞳。整った顔立ち。白い礼装。胸には王家の紋章。




 隣には、淡い桃色のドレスを着た少女がいる。




 アティーヌ・ベル。




 男爵家の養女であり、学院では誰にでも優しく、花のように笑う少女だった。




 彼女は、今にも泣き出しそうな顔でアイシメスの袖を掴んでいる。




「殿下……本当に、よろしいのですか」




「ああ。今夜、すべてを終わらせる」




 アイシメスは低く答えた。




「私はもう、偽りの婚約には耐えられない」




 その視線の先に、一人の令嬢がいた。




 イーノ・クラワスゼン。




 クラワスゼン公爵家の一人娘。




 黒髪を結い上げ、深紅のドレスをまとった彼女は、誰よりも美しく、誰よりも冷たく見えた。背筋はまっすぐで、扇を持つ指先まで隙がない。




 アイシメスの婚約者。




 そして、アティーヌをいじめた悪女。




 少なくとも、アイシメスはそう信じていた。




 アティーヌの教科書が破られた。




 階段で突き飛ばされた。




 茶会で孤立させられた。




 陰口を流された。




 泣きながら訴えるアティーヌの姿を、アイシメスは何度も見た。




 そのたびに、胸が焼けた。




 なぜ、あんな女と婚約しなければならないのか。




 なぜ、愛してもいない令嬢と、王家の都合で未来を縛られなければならないのか。




 真実の愛は、ここにある。




 アティーヌの震える手を握りしめ、アイシメスは決意した。




 今夜、すべてを明らかにする。




 大広間の音楽が、曲の終わりに合わせて静まる。




 その瞬間を待っていたように、アイシメスは一歩前へ出た。




「皆、聞いてほしい!」




 広間がざわめいた。




 貴族たちが扇を止め、グラスを下ろす。




 イーノも静かに振り返った。




 アイシメスは、胸を張った。




「私は今宵、この場で宣言する。イーノ・クラワスゼン。私は、お前との婚約を――」




「お待ちください」




 冷たい声が、広間に落ちた。




 アイシメスの言葉が止まる。




 誰もが、声の主を探した。




 広間の端に、一人の女が立っていた。




 青い縁の眼鏡。




 まとめられた黒髪。




 青みがかったスーツに、タイトなスカート。




 ドレス姿の貴族たちの中で、その装いはひどく場違いだった。だが、彼女の立ち姿には妙な説得力があった。




 まるで、王宮の華やかな空気そのものを、帳簿の一項目として処理しているようだった。




「何者だ」




 アイシメスが眉をひそめる。




 女は一礼した。




「王家儀典室主管、キョウ・コサメガインです」




「儀典室?」




「はい。本日の祝賀舞踏会における進行、記録、危機対応の統括を担当しております」




「下がれ。これは私の問題だ」




「いいえ」




 キョウは、少しも表情を変えずに言った。




「この場で婚約破棄を宣言された場合、殿下個人の問題では済みません」




 広間が、すうっと冷えた。




「何?」




「王家とクラワスゼン公爵家の婚姻契約。公的儀礼の場における一方的通告。令嬢への公開告発。男爵家令嬢の同席。社交界への波及。王家の信用低下。すべて同時に発生します」




「私は、真実の愛を――」




「真実性より、手続きが先です」




 その一言は、ワルツの余韻を完全に殺した。




 アティーヌが小さく息を呑む。




 アイシメスは顔を赤くした。




「愛に手続きなど必要ない!」




「愛には不要かもしれません」




 キョウは頷いた。




「ですが、婚約破棄には必要です」




 その時、広間の奥から低い声がした。




「アイシメス」




 国王だった。




 王座ではなく、来賓席に座っていた老王レオポルドは、白い髭を撫でながら、ひどく疲れた顔をしていた。




 その隣には王妃。さらに宰相、公爵、重臣たちが並んでいる。




 誰も驚いてはいなかった。




 ただ、全員が冷めた目をしていた。




「父上……」




「今、何を言おうとした」




「私は、イーノとの婚約を破棄し、アティーヌとの愛を――」




「この場でか」




 国王の声は低かった。




 アイシメスは一瞬、言葉に詰まる。




「はい。皆の前で、真実を明らかにするために」




「皆の前で、王家の不始末を披露するために、ではなくか……、アイシメス……!?」




 広間が静まり返った。




 王妃が目を閉じる。




 宰相が小さくため息をついた。




 クラワスゼン公爵は、表情ひとつ変えずにアイシメスを見ている。




 国王は続けた。




「お前は、婚約者一人と話し合うことも、家同士の調整を行うこともできぬまま、舞踏会の中央で叫ぶつもりだったのか」




「ですが、イーノはアティーヌを傷つけ――」




「証拠は」




「アティーヌが泣いて……」




「証拠は」




 アイシメスは黙った。




 アティーヌが震える。




 すると、イーノが静かに扇を閉じた。




「恐れながら、陛下」




 その声は澄んでいた。




「証拠なら、こちらにございます」




 彼女の後ろに控えていた侍女が、分厚い書類束を差し出した。




 広間がどよめく。




 イーノは微笑んだ。




「アティーヌ様の教科書を破った者。階段での件の目撃証言。茶会の招待状の改竄。すべて調査済みですわ。殿下がご覧になっているものとは、だいぶ異なる結果になるかと」




 アイシメスの顔色が変わる。




 アティーヌが青ざめる。




 貴族たちが息を呑む。




 イーノは一歩前へ出た。




 この場で、すべてを返せる。




 理不尽な婚約者。


 愚かな王子。


 悲劇の少女を演じたアティーヌ。


 自分を悪女と呼んだ者たち。




 全員に、真実を突きつけられる。




 扇の先を持ち上げ、イーノは口を開いた。




「では、この場で――」




「開示しないでください」




 また、キョウだった。




 イーノの言葉も止まった。




「……なぜですの?」




「証拠は、公衆の面前で読み上げるものではありません」




「ですが、名誉を傷つけられたのは私です」




「はい。ですので、証拠能力を保ったまま、正式な協議の場へ提出してください」




「証拠能力」




「ここで読み上げれば、相手方の反論、証人保護、記録の真正性、名誉毀損、社交界での二次拡散が絡みます。気持ちは分かりますが、公開処刑にする必要はありません」




 イーノは、扇を握る手に力を込めた。




「わたくしの反撃の場も、奪うのですか」




「反撃ではなく、回復にしましょう」




「回復」




「名誉の回復。婚約条件の整理。損害の確認。関係者の保護。今後の立場の調整。それが必要です」




 イーノはしばらくキョウを見つめた。




 そして、悔しそうに息を吐いた。




「……本当に、興醒めな方」




「よく言われます」




 キョウは静かに答えた。




 国王が重く頷いた。




「この場での婚約破棄宣言は認めぬ」




「父上!」




「黙れ、アイシメス……!」




 国王の声が、大広間を圧した。




「お前は、クラワスゼン公爵家の令嬢一人を御することも、疑義を調査することも、相手家と協議することもできず、王家の舞踏会を私情の処刑場にしようとした」




「処刑場などと――」




「同じだ」




 国王は冷たく言った。




「お前は王族だ。感情を持つなとは言わぬ。だが、感情を公的事故に変えてくれるな」




 その言葉に、アイシメスは黙り込んだ。




 宰相が淡々と立ち上がる。




「本件は後日、王家、クラワスゼン公爵家、ベル男爵家立会いのもと、非公開協議といたします。今夜の発言は記録されますが、公式宣言としては扱いません。各家の皆様におかれましても、未確定情報の流布はお控えください」




 貴族たちは、慌てて視線を逸らした。




 さっきまで期待していたのだ。




 王子の婚約破棄を。




 悪役令嬢の断罪を。




 その後の逆転劇を。




 真実の愛と、破滅と、ざまぁを。




 だが、それらはすべて、王家儀典室主管と国王と宰相によって、正式な手続きへと吸い込まれていった。




 ショーとしては、最悪だった。




 国家運営としては、正しかった。




 数日後。




 王宮の小会議室で、非公開協議が行われた。




 イーノの提出した証拠により、彼女による嫌がらせの大半は事実無根と確認された。




 一部はアティーヌの取り巻きが、王子の関心を引くために勝手に行ったものだった。




 アティーヌ本人も、状況を利用していた部分はあったが、王子に守られるうちに引き返せなくなっていたらしい。




 アイシメスは、王位継承順位を下げられ、数年間の地方行政実習を命じられた。




 アティーヌは王宮から離され、ベル男爵家の監督下で再教育となった。




 イーノとの婚約は、双方の将来と家同士の関係を考慮し、正式な協議の末に解消された。




 公的発表はこうだった。




『両家協議の結果、互いの将来を尊重し、婚約を円満に解消する』




 退屈な文面だった。




 恋も、断罪も、ざまぁもない。




 だが、イーノの名誉は守られた。




 クラワスゼン公爵家も王家との全面対立を避けられた。




 アティーヌも、社交界の晒し者にならずに済んだ。




 アイシメスも、完全な破滅ではなく、長い矯正期間を与えられた。




 誰も、舞踏会の中心で処刑されなかった。




 それは、物語としては実に締まらない結末だった。




 だが、現実としては、たぶん、最も傷が浅かった。




 協議を終えた後、イーノは王宮の廊下でキョウ・コサメガインを見つけた。




 キョウは青い眼鏡を押し上げ、書類を整理していた。




「キョウ様」




「はい」




「わたくし、本当は、あの場で全部言ってやりたかったのです」




「そうでしょうね」




「殿下にも、アティーヌ様にも、わたくしを悪女と呼んだ者たちにも」




「はい」




「ですが、言わなくてよかったとも思っています」




 イーノは、窓の外を見た。




 王宮の庭には、白い花が咲いている。




「言っていたら、きっと気持ちはよかったでしょう。でも、わたくしは一生、あの夜に人を叩き潰した令嬢として語られていた」




「その可能性は高いです」




「本当に、腹立たしいほど正しい方ですわね」




「よく言われます」




 イーノは小さく笑った。




「では、ひとつだけ聞かせてください。あの夜、あなたは何を守ったのですか」




 キョウは、少しだけ考えた。




 そして、静かに言った。




「青二才達の愛や酔狂よりも遥かに重いもの」




「王家儀典室主管としての仕事の責任、すなわち……」




「体裁(ていさい)です」



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