名探偵さん、ちょっと待って
雷鳴が、山荘の窓を震わせた。
外は嵐だった。
山道は土砂崩れで塞がり、電話線は切れ、携帯の電波も届かない。標高八百メートルに建つ洋館風の宿泊施設、霧鳴館は、完全に外界から切り離されていた。
そして、午後九時十三分。
館の主人、十文字玄蔵が、書斎で倒れているのが発見された。
腹部にはナイフ。
床には割れたグラス。
机の上には、途中まで書かれた遺言書。
扉は内側から鍵がかかっていた。
窓も施錠されていた。
誰もが、青ざめた。
「密室……」
誰かが呟いた。
その言葉は、館の空気を一気に変えた。
宿泊客は八人。
玄蔵の長男。
遺産を狙う後妻。
若い第一秘書。
最近雇われたという第二秘書。
十年前に館を追い出された元使用人。
玄蔵に金を貸していた実業家。
売れない推理作家、謎解開斗。
そして、大学生の名取理人。
理人は、ただの大学生ではなかった。
幼い頃から推理小説を読み漁り、大学ではミステリ研究会に所属し、過去には学内で起きた盗難事件を解決したこともある。
友人たちは半分冗談で、彼をこう呼んでいた。
名探偵、と。
理人は、玄蔵の身体に近づいた。
まだ息がある。
浅い。
だが、生きている。
「救急車を!」
「電話が通じないんだ!」
「車は? 山道は?」
「土砂で無理だ!」
叫び声が飛び交う。
その中で、理人は唇を噛んだ。
ここで自分が動かなければ。
嵐の山荘。
密室。
八人の容疑者。
そして、まだ温かい被害者。
こんな状況で、冷静に真相へ近づけるのは、自分しかいない。
「全員、現場から離れてください」
理人は言った。
声が震えていた。
だが、その震えを、雷が隠してくれた。
「何かに触らないで。犯人は、まだこの館の中にいます」
その一言で、全員の顔色が変わった。
ただ一人、謎解開斗だけが、口元を歪めた。
「いいですねえ」
彼は呟いた。
「実に、本格ミステリらしい」
理人は、時間を掛けて調べた。
書斎の鍵。
窓の内側の泥。
割れたグラスに残った匂い。
遺言書のインク。
床に落ちた白い糸くず。
玄蔵の右手に握られていた銀色のボタン。
長男には借金があった。
後妻は遺言の書き換えを恐れていた。
第一秘書は玄蔵と愛人関係にあったらしい。
元使用人は十年前の解雇を恨んでいた。
実業家は返済を迫っていた。
謎解開斗は、玄蔵に小説を酷評されていた。
かつて開斗は、完全密室殺人を題材にした長編を玄蔵へ読ませたことがある。
玄蔵は、それを鼻で笑ったという。
『現実にこんな事件は起きない。起きたとしても、警察と救急が来て終わりだ』
その一言で、開斗の原稿は止まった。
彼は言っていた。
「現実が本格に追いついていないだけですよ」
誰もが怪しかった。
誰もが、何かを隠していた。
そして理人は、気づいた。
これは密室ではない。
密室に見せかけられた、舞台装置だ。
鍵は、内側からかけられていたように見えただけ。
糸くずは、その仕掛けの名残。
窓の泥は、外部侵入を匂わせるための偽装。
銀色のボタンは、誰かに罪を着せるための小道具。
遺言書は、動機を散らすための演出。
では、犯人は誰か。
理人は、震える指で眼鏡を押し上げた。
分かった。
すべてが繋がった。
雷がまた鳴る。
館の廊下は暗く、壁に掛けられた肖像画が不気味に揺れていた。
理人の胸は熱くなっていた。
ついに、この時が来たのだ。
名探偵として、すべての謎を解き明かす時が。
午後十一時四十二分。
理人は、宿泊客全員を大広間に集めた。
暖炉の火が赤く燃えている。
窓の外では、雨が叩きつけるように降っている。
長男は苛立った顔で腕を組み、後妻はハンカチを握りしめ、第一秘書は青ざめ、元使用人は俯いていた。実業家は煙草を吸おうとして、理人に止められた。
謎解開斗だけが、どこか愉快そうに笑っていた。
「いい。実にいい」
開斗は小さく呟いた。
「この空気ですよ、これがなければ」
そして、広間の隅に一人、青いスーツの女が立っていた。
青い縁の眼鏡。
まとめられた黒髪。
タイトなスカート。
彼女の名は、醒ヶ井興子。
宿泊客名簿には、「臨時で他家より転属された、第二秘書」と記されていた。
彼女はこの騒ぎの中でも、ほとんど表情を変えず、ずっと状況を記録していた。
理人は深く息を吸った。
「皆さんをここに集めたのは、他でもありません」
全員の視線が、理人に集まる。
その瞬間、彼の中で何かが震えた。
これだ。
この一文だ。
名探偵が、真相を明かすための言葉。
「この事件の犯人は――」
「集めないでください」
冷たい声が、広間に落ちた。
理人の言葉が止まった。
全員が、醒ヶ井を見た。
「……え?」
理人は思わず聞き返した。
醒ヶ井興子は、手帳を閉じた。
「犯人がこの中にいる可能性が高いのであれば、全員を一室に集めるべきではありません」
「いや、でも、今から真相を……」
「不要です」
「不要?」
「少なくとも、今この場で公開する必要はありません」
広間の空気が、すうっと冷えた。
長男が「何を言っている」と呟く。
後妻が困惑したように理人と醒ヶ井を交互に見た。
開斗だけが、笑みを消した。
「ちょっと待ってください」
開斗が言った。
「今からですよ。ここからが、本格のクライマックスでしょう」
「被害者は生存しています」
醒ヶ井は言った。
「まず救命です」
「生きているからこそ、今やるんです!」
「いいえ。生きているから搬送します」
「そういう意味ではない!」
開斗の声が、少し裏返った。
理人は、必死に言った。
「でも、犯人を明らかにしなければ、また誰かが襲われるかもしれない!」
「それです」
醒ヶ井は即答した。
「犯人を追い詰める発言は、犯人の逃走、証拠隠滅、自暴自棄、口封じを誘発する可能性があります。関係者を同じ部屋に集めて、犯人を追い込むのは危険です」
「でも、今ここで暴かないと!」
「暴くより、保全しましょう」
「保全」
「現場保存。証拠保全。被害者の救命。関係者の個別待機。警察到着までの安全確保。今はそれが優先です」
理人は言葉を失った。
正しい。
恐ろしいほど正しい。
だが、それでは推理ショーは始まらない。
開斗が、震える声で笑った。
「警察なんて来られないでしょう。山道は土砂崩れです。電話線も切れている。この館は外界から隔絶された孤島です」
「別経路があります」
醒ヶ井は、窓の外を見た。
遠くから、微かな音が聞こえた。
最初は雷かと思った。
違う。
ヘリの音だった。
「通報済みです。山岳救助隊と県警が、北側の作業道から進入しています。重傷者搬送のため、ドクターヘリも手配されています」
「いつの間に……」
「発見直後です」
「電話は通じないはずじゃ」
「管理人室に衛星電話がありました。非常用です。宿泊客に案内されていなかったのは問題ですが……悪天候くらいで孤立する山荘なんて、今どき……ね。」
理人は、また言葉を失った。
開斗が、ゆっくりと首を振った。
「衛星電話……?」
その顔から、血の気が引いていく。
「そんなもの、プロットにない」
「現実にはありました」
「プロットにないんですよ!」
広間の外で、誰かが叫ぶ。
「救助だ!」
その声を合図にしたように、玄関の方が騒がしくなった。
警察官。
救急隊。
山岳救助隊。
雨具を着た人々が、館の中へ次々と入ってくる。
「被害者は書斎です。呼吸は浅いですが、まだ反応があります」
醒ヶ井が淡々と指示する。
「現場は封鎖済み。凶器には触れていません。関係者はこの広間に集まっていますが、これから個別待機に移行します。長男の方は少し興奮状態です。秘書の方は過呼吸気味です。謎解さんは、なぜか、本格の成立に強い執着が見られました」
理人もすかさず口を挟む。
「謎解さんが犯人だと思われます。根拠は、白い糸くずと銀色のボタンです。後で説明します」
「了解しました」
警察官が頷く。
「謎解さん、こちらへ」
「待て」
開斗が一歩下がった。
「待ってくれ。まだ、犯人だと明かされた訳でも、決まった訳でもない」
「詳しい話は署で伺います」
「署で!」
開斗は叫んだ。
「署では遅い! 広間でなければ意味がない! 暖炉の火、雷鳴、全員の視線、名探偵の指摘、そして犯人の独白! それらが揃って初めて、これは事件になるんです!」
「事件には既になっています」
醒ヶ井が言った。
「殺人未遂事件です」
「未遂!」
その言葉は、開斗の胸を刺したらしい。
彼はよろめいた。
「未遂では、本格密室殺人にならない……」
「はい。よかったですね」
「よくない!」
救急隊員が担架を運ぶ。
書斎の方から、慌ただしい足音が聞こえた。
数分後、玄蔵が担架で運び出された。
酸素マスクを付けられ、点滴を打たれている。
生きている。
誰かが泣いた。
誰かが腰を抜かした。
理人は、ただ立ち尽くしていた。
助かった。
それはよかった。
間違いなく、よかった。
被害者は死なずに済んだ。犯人も逃げられない。証拠も保存された。警察も来た。救急も来た。
事件としては、最高の対応だった。
ミステリとしては、最低だった。
「違う……」
開斗が、警察官に両腕を押さえられながら呟いた。
「違うんです。こんなはずじゃなかった。密室は完成していた。動機も配置した。容疑者も揃えた。名探偵もいた。あとは死体と推理ショーだけだったのに」
「死体はありません」
醒ヶ井が言った。
「被害者です」
「そんな言い換えで、本格が救われると思うな!」
「本格ではなく、十文字様を救っています」
開斗は、そこで完全に言葉を失った。
理人は、口を開いた。
「あの、醒ヶ井さん」
「はい」
「僕は、間違っていましたか」
「いいえ。推理は当たっているのでしょう」
「本当ですか」
「はい。警察に詳細に証言してください。きっと有益ですから。」
理人の胸が、少しだけ温かくなった。
「ただ」
醒ヶ井は続けた。
「未然に防げなかった……十文字様を守れなかった。秘書として、そこは大変悔やまれます。」
「……ですよね」
「時間遡行……、同じ手段を何度も使うのは、構造上よろしくありませんし」
「は?」
理人には、醒ヶ井が言っている意味がわからなかった。
だが、助かった命がある。
保たれた証拠がある。
捕まるであろう犯人がいる。
それで十分なはずだった。
十分なはずなのに、胸のどこかに、投げられなかった決め台詞だけが残っていた。
『この事件の犯人は、あなただ。』
だが、それを言う必要はなかった。
「代わりに、私が言いましょう」
理人の顔から、何かを感じ取ったのか、醒ヶ井が、静かに呟いた。
「この事件の名探偵は、あなただ。」




