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醒ヶ井興子は狂ってる  作者: 不連続がと


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2/4

汗、メス、奇跡、理想

 汗が、落ちた。




 手術灯の白い光の下で、神宮寺創(じんぐうじはじめ)は、メスを握っていた。




 心拍数、低下。




 血圧、低下。




 輸血、追いつかず。




 看護師の声が飛び交う。麻酔科医の声が震える。モニターの電子音だけが、無機質に手術室を満たしている。




 患者は、八歳の少女だった。




 名前は、折原美雨(おりはらみう)




 学校帰り、交差点でトラックにはねられた。救急搬送された時には、腹部の損傷が激しく、誰もが顔色を変えた。




 それでも、執刀医は必要だった。




 その場にいた外科医の中で、最も手が空いていたのが、当時まだ若手だった神宮寺創だった。




「神宮寺先生、出血点が!」




「分かってる!」




 分かっている。




 分かっているのに、手が追いつかない。




 視界が赤い。




 額から汗が落ちる。




 美雨の小さな身体は、あまりにも壊れやすかった。




 助けなければならない。




 絶対に。




 だが、創の指は震えていた。




 あの日、彼はまだ名医ではなかった。




 天才と呼ばれ始めてはいた。手先も器用だった。論文も読んでいた。先輩医師からも期待されていた。




 だが、奇跡を起こすには、まだ若すぎた。




 モニターの音が、細く伸びる。




 手術室が静まり返る。




 誰かが、名前を呼んだ。




 神宮寺先生、と。




 しかし創は、メスを握ったまま動けなかった。




 助けられなかった。




 美雨は、死んだ。




 あの日から、十年が経った、今。




 神宮寺創は、名医になっていた。




 テレビは彼を「神の手」と呼んだ。雑誌は特集を組んだ。海外の学会から招待され、難手術の依頼は全国から舞い込んだ。




 彼の手によって、多くの患者が救われた。




 誰もが言った。




 あなたは奇跡を起こす医師だ、と。




 だが、創はその言葉を信じなかった。




 奇跡など、起こせなかったからだ。




 そんなことを考えながら、彼は、休暇の今日、なんとなく、家の周りを散歩していた。気づけば彼は、導かれるように、或る神社に辿り着いていた。




 目の前の景色は、見えているようで、見えていない。あの日のイメージが頭に焼き付いたまま、無心で、鳥居をくぐり、拝殿へと歩いて行く。




 折原美雨。




 八歳。




 交通外傷。




 死亡。




 十年経っても、あの日の汗の感触は手の中に残っていた。震えた指。滑った鉗子。判断の遅れ。もう少し早く出血点を処理できていれば。別の術式を選べていれば。今の自分なら、きっと。




 何度も、そう考えた。




 もし時間を戻せるなら。




 あの日の手術室へ戻れるなら。




 今度こそ、彼女を救う。




 拝殿へと辿り着く。そこで初めて、はっと我に返った。目に留まったのは、賽銭箱の「浄財」の文字だった。




「浄財、か……叶うなら、彼女を救いたかったが……せめて、この地域の人の支えになるのなら……」




財布に入っていた一万円札を全て取り出すと、彼は、十数枚ほどのそれを、賽銭箱へと投げ入れた。




「では、戻しますか」




 後ろから、声がした。




 創は振り返る。




 そこには、一人の女が立っていた。




 青い縁の眼鏡。まとめられた黒髪。無駄のない姿勢。青みがかったスーツ、タイトなスカート。一見すれば「秘書」のような服装だが――。




 頭の上に浮かぶ、蛍光灯のような青白く輝く輪っかと、背中から伸びる、こちらも蒼く輝く翼。




 「誰だ、お前は――。天使、だとでも言うのか?」




 女は、静かに名乗った。




「御名答。理性と調和の天使、キョウザメエルと申します。あるいは、人間社会においては、醒ヶ井興子(さめがいきょうこ)とも名乗っていますが。」




「天使? 神社には似つかわしくないな」




「この神社のことを御存知ないのですか?ここは、思任(おもうまま)神社。思ったこと、願ったことが叶う神社なのですよ。そして、私がその願いに適任だった、ということです。」




「願い……」




「はい。随分お賽銭も大盤振る舞いして頂いたようですし。」




「なんだそれは……地獄の沙汰も金次第、か」




 創は自嘲した。天使の次の言葉を聞くまでの、短い間だったが。




「十年前に戻れるとしたら、どうしますか」




 創の喉が鳴った。




「……何を言っている?」




「折原美雨さんの手術です。今のあなたなら救える。そう考えているのではありませんか」




 創は、賽銭箱の前で息を詰めた。




「君は、何を知っている?」




「必要なことだけです」




 醒ヶ井興子は、淡々と言った。




「戻しますか」




 彼は十年間、その問いを待っていたのかもしれない。




 汗。




 メス。




 奇跡。




 後悔。




 すべてを取り戻すための問いを。




「戻せるなら」




 創は言った。




「あの日の手術室に戻してくれ」




 醒ヶ井は頷いた。




「分かりました」




 ――世界が、音を立てて、歪んだ。




 次の瞬間、創は手術室にいた。




 十年前の手術室。




 白い光。赤い視界。飛び交う声。震える若き日の自分の身体。




 だが、中身だけは違う。




 十年後の神宮寺創だった。




 今なら分かる。




 どこを切るべきか。




 何を止血すべきか。




 どの順番で処置すべきか。




 あの日には見えなかったものが、今は見える。




「神宮寺先生、出血点が!」




「分かっている」




 創は、静かに答えた。




 震えはなかった。




 メスを握る指は、まっすぐだった。




 今度こそ救う。




 この手で。




 この十年のすべてを、この一瞬に叩き込む。




 手術室の扉が開いた。




 醒ヶ井興子が入ってきた。




 誰も彼女を見ていない。まるで、この場に存在していないかのようだった。




 創だけが、彼女を見た。




「邪魔をするな」




「はい」




 醒ヶ井は頷いた。




「ですので、変更します」




「何を」




「時点です」




 創の視界が、また白く揺らいだ。




 気づくと、創は道路の脇に立っていた。




 夕方の交差点。




 十年前の街。




 下校中の子どもたち。




 信号が点滅している。




 横断歩道の向こうに、折原美雨がいた。




 ランドセルを背負い、友達と笑っている。まだ血に濡れていない。まだ手術台にも乗っていない。まだ、ただの八歳の少女だった。




 創は息を呑んだ。




「ここは……」




「事故の三分前です」




 隣に、醒ヶ井興子が立っていた。




「なぜだ」




「手術室では遅いので」




 醒ヶ井は、信号を見た。




「折原美雨さんは、このあと点滅信号で走り出します。右折してきたトラックの運転手は、徹夜明けで反応が遅れます。結果、事故が発生します」




「だから、俺は手術で……」




「いえ」




 醒ヶ井は首を横に振った。




「事故に遭わない方が、いいですから」




 その言葉は、あまりにも当然だった。




 当然すぎて、創は一瞬、理解できなかった。




「君は……何を言っている」




「手術を成功させるより、交通事故を防ぐ方が患者さんの損傷も、痛みも、悲しみも少なくて済みます」




「損傷が少ないどころか、何も起きないだろう」




「はい。まさに、理想的です」




 理想。




 その言葉が、創の胸に刺さった。




 醒ヶ井は横断歩道の方へ歩いた。




 そして、美雨が走り出そうとした瞬間、落ち着いた声で言った。




「危ないので、青になるまで待ちましょうね。」




 美雨は足を止めた。




 友達も止まった。




 数秒後、トラックが交差点を曲がっていく。




 何も起きなかった。




 悲鳴もない。




 衝撃音もない。




 救急車も来ない。




 血も流れない。




 手術室の扉も開かない。




 折原美雨は、ただ友達と一緒に信号を待ち、青になると横断歩道を渡った。




 そして、家へ帰っていった。




 創は、その背中を見ていた。




 十年間、夢に見た少女の生存。




 それは、あまりにも静かだった。




 誰も泣かなかった。




 誰も創に感謝しなかった。




 創のメスは握られなかった。




 神の手は必要とされなかった。




 奇跡は、起きなかった。




 ただ、事故が起きなかった。




「……これで、終わりか」




「はい」




 醒ヶ井は答えた。




「折原美雨さんは助かりました」




「俺は、何もしていない」




「救いたいと願いました」




「俺は……手術で救いたいと思ってしまった……情けない話だ。奇跡が起こせるなら、確かに……君の判断がベストなのにな」




「ええ」




 だが、腑に落ちない気持ちとともに、創は言葉を失った。




 正しい。




 正しすぎる。




 十年間握りしめてきた後悔が、行き場を失っていたように感じた。




「俺の、悩んでいた十年は、何だったんだ……?」




 創は呟いた。




 醒ヶ井は少しだけ考えた。




「他の患者さんを救った十年です」




「そういうことなのか?」




「そういうことなのです。結果、奇跡を呼んだのですよ」




 彼女は、道路の向こうを見た。




 美雨の姿はもうない。




「後悔を乗り越えるより、後悔が発生しない方が良いのです。どうでしょうか、天使の助言として、今後の人生に活かして頂けると幸いなのですが」




 夕方の風が吹いた。いつの間にか、世界と、彼は、現代へと帰ってきていた。




 創の額に、汗はなかった。




 奇跡と、理想が、そこにあった。




 創は掠れた声で言った。




「だが、君は……、ドラマを解しないのか?筋書きとしては若干……狂っているように思うのだが」




 醒ヶ井興子は、不思議そうに首を傾げた。




「そうでしょうか?」




 奇跡を起こしながらも、最後までいまひとつ噛み合わない、天使のその反応を見て、創は、はははと笑った。




「だが、天使の助言、受け取った。これからは……そうだな、予防に努めて、健康と、交通安全に気を付けて生きるとするか。」



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