汗、メス、奇跡、理想
汗が、落ちた。
手術灯の白い光の下で、神宮寺創は、メスを握っていた。
心拍数、低下。
血圧、低下。
輸血、追いつかず。
看護師の声が飛び交う。麻酔科医の声が震える。モニターの電子音だけが、無機質に手術室を満たしている。
患者は、八歳の少女だった。
名前は、折原美雨。
学校帰り、交差点でトラックにはねられた。救急搬送された時には、腹部の損傷が激しく、誰もが顔色を変えた。
それでも、執刀医は必要だった。
その場にいた外科医の中で、最も手が空いていたのが、当時まだ若手だった神宮寺創だった。
「神宮寺先生、出血点が!」
「分かってる!」
分かっている。
分かっているのに、手が追いつかない。
視界が赤い。
額から汗が落ちる。
美雨の小さな身体は、あまりにも壊れやすかった。
助けなければならない。
絶対に。
だが、創の指は震えていた。
あの日、彼はまだ名医ではなかった。
天才と呼ばれ始めてはいた。手先も器用だった。論文も読んでいた。先輩医師からも期待されていた。
だが、奇跡を起こすには、まだ若すぎた。
モニターの音が、細く伸びる。
手術室が静まり返る。
誰かが、名前を呼んだ。
神宮寺先生、と。
しかし創は、メスを握ったまま動けなかった。
助けられなかった。
美雨は、死んだ。
あの日から、十年が経った、今。
神宮寺創は、名医になっていた。
テレビは彼を「神の手」と呼んだ。雑誌は特集を組んだ。海外の学会から招待され、難手術の依頼は全国から舞い込んだ。
彼の手によって、多くの患者が救われた。
誰もが言った。
あなたは奇跡を起こす医師だ、と。
だが、創はその言葉を信じなかった。
奇跡など、起こせなかったからだ。
そんなことを考えながら、彼は、休暇の今日、なんとなく、家の周りを散歩していた。気づけば彼は、導かれるように、或る神社に辿り着いていた。
目の前の景色は、見えているようで、見えていない。あの日のイメージが頭に焼き付いたまま、無心で、鳥居をくぐり、拝殿へと歩いて行く。
折原美雨。
八歳。
交通外傷。
死亡。
十年経っても、あの日の汗の感触は手の中に残っていた。震えた指。滑った鉗子。判断の遅れ。もう少し早く出血点を処理できていれば。別の術式を選べていれば。今の自分なら、きっと。
何度も、そう考えた。
もし時間を戻せるなら。
あの日の手術室へ戻れるなら。
今度こそ、彼女を救う。
拝殿へと辿り着く。そこで初めて、はっと我に返った。目に留まったのは、賽銭箱の「浄財」の文字だった。
「浄財、か……叶うなら、彼女を救いたかったが……せめて、この地域の人の支えになるのなら……」
財布に入っていた一万円札を全て取り出すと、彼は、十数枚ほどのそれを、賽銭箱へと投げ入れた。
「では、戻しますか」
後ろから、声がした。
創は振り返る。
そこには、一人の女が立っていた。
青い縁の眼鏡。まとめられた黒髪。無駄のない姿勢。青みがかったスーツ、タイトなスカート。一見すれば「秘書」のような服装だが――。
頭の上に浮かぶ、蛍光灯のような青白く輝く輪っかと、背中から伸びる、こちらも蒼く輝く翼。
「誰だ、お前は――。天使、だとでも言うのか?」
女は、静かに名乗った。
「御名答。理性と調和の天使、キョウザメエルと申します。あるいは、人間社会においては、醒ヶ井興子とも名乗っていますが。」
「天使? 神社には似つかわしくないな」
「この神社のことを御存知ないのですか?ここは、思任神社。思ったこと、願ったことが叶う神社なのですよ。そして、私がその願いに適任だった、ということです。」
「願い……」
「はい。随分お賽銭も大盤振る舞いして頂いたようですし。」
「なんだそれは……地獄の沙汰も金次第、か」
創は自嘲した。天使の次の言葉を聞くまでの、短い間だったが。
「十年前に戻れるとしたら、どうしますか」
創の喉が鳴った。
「……何を言っている?」
「折原美雨さんの手術です。今のあなたなら救える。そう考えているのではありませんか」
創は、賽銭箱の前で息を詰めた。
「君は、何を知っている?」
「必要なことだけです」
醒ヶ井興子は、淡々と言った。
「戻しますか」
彼は十年間、その問いを待っていたのかもしれない。
汗。
メス。
奇跡。
後悔。
すべてを取り戻すための問いを。
「戻せるなら」
創は言った。
「あの日の手術室に戻してくれ」
醒ヶ井は頷いた。
「分かりました」
――世界が、音を立てて、歪んだ。
次の瞬間、創は手術室にいた。
十年前の手術室。
白い光。赤い視界。飛び交う声。震える若き日の自分の身体。
だが、中身だけは違う。
十年後の神宮寺創だった。
今なら分かる。
どこを切るべきか。
何を止血すべきか。
どの順番で処置すべきか。
あの日には見えなかったものが、今は見える。
「神宮寺先生、出血点が!」
「分かっている」
創は、静かに答えた。
震えはなかった。
メスを握る指は、まっすぐだった。
今度こそ救う。
この手で。
この十年のすべてを、この一瞬に叩き込む。
手術室の扉が開いた。
醒ヶ井興子が入ってきた。
誰も彼女を見ていない。まるで、この場に存在していないかのようだった。
創だけが、彼女を見た。
「邪魔をするな」
「はい」
醒ヶ井は頷いた。
「ですので、変更します」
「何を」
「時点です」
創の視界が、また白く揺らいだ。
気づくと、創は道路の脇に立っていた。
夕方の交差点。
十年前の街。
下校中の子どもたち。
信号が点滅している。
横断歩道の向こうに、折原美雨がいた。
ランドセルを背負い、友達と笑っている。まだ血に濡れていない。まだ手術台にも乗っていない。まだ、ただの八歳の少女だった。
創は息を呑んだ。
「ここは……」
「事故の三分前です」
隣に、醒ヶ井興子が立っていた。
「なぜだ」
「手術室では遅いので」
醒ヶ井は、信号を見た。
「折原美雨さんは、このあと点滅信号で走り出します。右折してきたトラックの運転手は、徹夜明けで反応が遅れます。結果、事故が発生します」
「だから、俺は手術で……」
「いえ」
醒ヶ井は首を横に振った。
「事故に遭わない方が、いいですから」
その言葉は、あまりにも当然だった。
当然すぎて、創は一瞬、理解できなかった。
「君は……何を言っている」
「手術を成功させるより、交通事故を防ぐ方が患者さんの損傷も、痛みも、悲しみも少なくて済みます」
「損傷が少ないどころか、何も起きないだろう」
「はい。まさに、理想的です」
理想。
その言葉が、創の胸に刺さった。
醒ヶ井は横断歩道の方へ歩いた。
そして、美雨が走り出そうとした瞬間、落ち着いた声で言った。
「危ないので、青になるまで待ちましょうね。」
美雨は足を止めた。
友達も止まった。
数秒後、トラックが交差点を曲がっていく。
何も起きなかった。
悲鳴もない。
衝撃音もない。
救急車も来ない。
血も流れない。
手術室の扉も開かない。
折原美雨は、ただ友達と一緒に信号を待ち、青になると横断歩道を渡った。
そして、家へ帰っていった。
創は、その背中を見ていた。
十年間、夢に見た少女の生存。
それは、あまりにも静かだった。
誰も泣かなかった。
誰も創に感謝しなかった。
創のメスは握られなかった。
神の手は必要とされなかった。
奇跡は、起きなかった。
ただ、事故が起きなかった。
「……これで、終わりか」
「はい」
醒ヶ井は答えた。
「折原美雨さんは助かりました」
「俺は、何もしていない」
「救いたいと願いました」
「俺は……手術で救いたいと思ってしまった……情けない話だ。奇跡が起こせるなら、確かに……君の判断がベストなのにな」
「ええ」
だが、腑に落ちない気持ちとともに、創は言葉を失った。
正しい。
正しすぎる。
十年間握りしめてきた後悔が、行き場を失っていたように感じた。
「俺の、悩んでいた十年は、何だったんだ……?」
創は呟いた。
醒ヶ井は少しだけ考えた。
「他の患者さんを救った十年です」
「そういうことなのか?」
「そういうことなのです。結果、奇跡を呼んだのですよ」
彼女は、道路の向こうを見た。
美雨の姿はもうない。
「後悔を乗り越えるより、後悔が発生しない方が良いのです。どうでしょうか、天使の助言として、今後の人生に活かして頂けると幸いなのですが」
夕方の風が吹いた。いつの間にか、世界と、彼は、現代へと帰ってきていた。
創の額に、汗はなかった。
奇跡と、理想が、そこにあった。
創は掠れた声で言った。
「だが、君は……、ドラマを解しないのか?筋書きとしては若干……狂っているように思うのだが」
醒ヶ井興子は、不思議そうに首を傾げた。
「そうでしょうか?」
奇跡を起こしながらも、最後までいまひとつ噛み合わない、天使のその反応を見て、創は、はははと笑った。
「だが、天使の助言、受け取った。これからは……そうだな、予防に努めて、健康と、交通安全に気を付けて生きるとするか。」




