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醒ヶ井興子は狂ってる  作者: 不連続がと


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1/3

冷夏のエース

 夏の滋岡県(しげおかけん)大会、決勝。


 九回裏、二死満塁。


 スコアは五対二。




 滋岡高校のエース、柳生大介(やぎゅうだいすけ)は、マウンドの上で大きく息を吐いた。




 ユニフォームは土に汚れ、右肩は熱を持っている。指先は震えていた。一二二球を投げ終えた右腕は、もう自分のものではないようだった。




 それでも、大介は笑った。




 あと一人。




 あと一人で、甲子園だ。




 三塁側アルプスから、ブラスバンドの音がうねる。攻撃側の、かっとばせー!という声、守備側の、あと一人!という声。それが入り混じり、球場内のボルテージは最高に高まっている。




 控え部員たちはベンチからフェンスに身を乗り出し、声を枯らしていた。




「大介ぇ! あと一つ!」




「お前で決めろ!」




 その声を、大介は背中で受け止めた。




 一塁ランナーに目を遣ると、ふと、一塁側寄りのスタンドの景色が目に留まった。




 そこに、南倉亜紗(みなみくらあさ)がいた。




 幼なじみで、マネージャーで、ずっと近くにいた少女。




 亜紗は両手を胸の前で握り、祈るようにマウンドを見つめていた。




 試合前、亜紗は冗談めかして言った。




『甲子園に行けたら、ちゃんと返事する』




 中学からずっと言えなかった言葉。




 大介は、その意味を勝手に知っているつもりでいた。




 甲子園に行く。




 そして、亜紗と付き合う。




 そのために、この夏を投げてきた。




 だが、打席に立つ男を見た瞬間、大介の胸の奥がさらに熱くなった。




 駿河大付属の四番、堂島翔太郎(どうしましょうたろう)




 大介の、終生のライバルだった。




 小学生の頃から、何度も対戦してきた。リトルリーグの決勝。中学最後の大会。練習試合。春の県大会。




 勝ったこともある。




 負けたこともある。




 それでも、最後の夏、最後の決勝、最後の一人が堂島になるとは思っていなかった。




 堂島はバットを肩に担ぎ、マウンドを見た。




 唇が動いた。




 たぶん、こう言った。




 かかってこいよ。




 大介はグラブの中で拳を握る。




 やってやる。




 ここでお前を抑えて、俺は甲子園に行く。




 捕手の甲賀が、マウンドへ歩いてきた。




「大介」




「分かってる」




 大介は、甲賀を見る。




「勝負だ」




 甲賀はすぐには頷かなかった。




 ベンチを見た。




 本来の監督は、春に重病を患い、急遽入院となってしまった。




 それ以来、代理で指揮を執っているのは、顧問の醒ヶ井興子(さめがいきょうこ)だった。




 彼女は、顧問になり三年目である。野球経験はなさそうだったが、練習にも試合にも必ず現れ、ビデオ撮影やスコアラーといった、監督の補助業務を淡々とこなしていた。


 青色の縁の眼鏡に、髪をアップにまとめた姿は、さながら「優秀な秘書」のようであった。


 


 そんな彼女だが、なぜか監督の評価は高く、引き継ぎにあたっては




「彼女の言葉は俺の言葉と思え」




と、選手たちは厳命されていた。




 今日も、黒髪を後ろでひとつに結び、帽子のつばを指で押さえている。




 彼女の采配は、なぜか、いつも妙に当たっていた。継投、守備位置、代打、バント。どれも地味で、冷静で、気味が悪いほど正確だった。




 だが、この場面だけは違う。




 采配の介入の余地は、ない。




 勝負だ。




 野球という物語が、百年以上かけて磨き上げてきた、勝負という神話だ。




 エースと四番。




 終生のライバル。




 九回裏、二死満塁。




 ホームランなら逆転サヨナラ。




 空は青く、夏は眩しく、白球はまだ大介の手の中にある。




 この一球のために、すべてがあった。




 その時だった。




 ベンチの醒ヶ井が、球審に向かって右手を上げた。




 球審が確認する。




 醒ヶ井が、静かに頷く。




 次の瞬間、球審が右手を上げた。




「申告敬遠!」




 球場の音が、消えた。




 大介は、一瞬、言葉の意味が分からなかった。




 甲賀も動かなかった。




 打席の堂島も、構えたまま固まっていた。




 そして、遅れてどよめきが爆発する。




 満塁で申告敬遠。




 押し出し。




 五対三。




 なお二死満塁。




 四番の堂島は、一塁へ歩かされる。




 堂島は途中で足を止め、マウンドを見た。




 怒っていた。




 いや、傷ついていたのかもしれない。




 大介も同じだった。




 だが、審判が促す。




 試合は止まらない。




 堂島は一塁へ行き、次打者が打席へ向かう。




 五番、脇屋(わきや)




 左打者。




 大会打率、二割五分。今日は三打数一安打。長打は恐らく、ない。




 大介は息を整えようとした。




 まだ終わっていない。




 たとえ堂島との勝負を奪われても、最後は自分が締める。




 そう思った直後、ベンチがまた動いた。




 主審に選手交代が告げられる。




 アナウンスが球場に響いた。




「滋岡高校、守備の変更をお知らせします。ピッチャー柳生くんがレフト。レフト近江くんがピッチャー」




 再び、球場がどよめいた。




 大介は、ベンチを見た。




 醒ヶ井はスコアブックを閉じ、ただグラウンドを見ていた。




 近江がレフトから走ってくる。




 左投げ。




 春までは投手もしていたが、肩を痛めてからは外野に回った。長いイニングは投げられない。だが、この場面なら。




 甲賀が大介のそばに来る。




「大介、レフトだ」




「俺は……」




「分かってる。でも、交代だ」




 大介は唇を噛んだ。




 言いたいことは山ほどあった。




 俺がここまで投げてきた。




 俺と堂島の勝負だった。




 最後まで投げさせてくれ。




 だが、審判は待たない。




 試合は、感情の整理を待ってはくれない。




 大介はボールを甲賀に渡し、レフトへ走った。




 芝の上に立つと、マウンドが遠かった。




 さっきまで自分の物語の中心だった場所に、もう自分はいない。




 近江がマウンドに上がる。




 投球練習を終え、脇屋が打席に入る。




 一球目。




 外角低め、スライダー。




 空振り。




 二球目。




 内角、速球。




 詰まってファウル。




 三球目。




 外へ逃げるスライダー。




 脇屋のバットが半端に出た。




 打球は、弱く三塁方向へ転がる。




 サードの伊吹が前に出る。




 捕る。




 一塁へ投げる。




 アウト。




 試合終了。




 五対三。




 滋岡高校、甲子園出場決定。




 歓声が爆発した。




 ベンチから仲間たちが飛び出す。近江が甲賀に抱きつかれる。伊吹が両手を突き上げる。控え部員たちは泣きながらグラウンドへ走った。




 大介はレフトの位置に立ったままだった。




 勝った。




 勝ったのだ。




 甲子園に行ける。




 夢は叶った。




 たぶん、亜紗との約束も。




 なのに大介は、自分の最終回だけが放送中止になったような気持ちで、数秒、芝の上に立ち尽くしてしまった。




 整列を終え、校歌を歌い、閉会式が終わった後。




 ベンチ裏では、泣き笑いの輪ができていた。




「大介、やったな!」




「甲子園だぞ、甲子園!」




「でも最後、レフトはないよなあ」




「いや、勝ったんだからいいだろ!」




 仲間たちは興奮していた。




 近江は何度も大介に頭を下げた。




「ごめん、最後、俺が持っていったみたいで」




「違う。お前は悪くない」




 それは本心だった。




 悪いのは近江ではない。




 正確に言えば、誰も悪くない。




 だから、余計に腹が立った。




 そこへ、亜紗がやってきた。




 目元を赤くしていた。




「大介、おめでとう」




「ああ」




「すごかったよ」




 大介は少し笑おうとした。




 だが、うまく笑えなかった。




 その時、控え部員の一人が茶化すように言った。




「おい大介、約束は? 甲子園行けたら亜紗と付き合うんだろ?」




「ばっ、言うなよ!」




 大介が慌てる。




 亜紗の顔が一気に赤くなる。




 周囲が「おおー」と騒ぎ出す。




「青春だなあ」




「エース、最後は敬遠されたけど恋は勝負するんだな」




「うるせえ!」




 その騒ぎの端で、醒ヶ井興子がスコアブックを抱えて立っていた。




 いつから聞いていたのか分からない。




 彼女は大介と亜紗を見ると、静かに言った。




「柳生くん」




「……はい」




「まず、甲子園出場、おめでとうございます。八回三分の二、百二十二球。見事でした」




 大介は黙って頭を下げた。




 褒められているのに、胸の奥がまだ冷えている。




 醒ヶ井は続けた。




「ただ、最後の場面について不満があるなら、説明します」




「……あります」




「堂島くんは本日三安打。長打二本。満塁ホームランで逆転サヨナラの場面でした。一点を与えても二点差が残る以上、最も危険な打者との勝負を避けるのは自然です」




「でも、あそこは……」




 大介は言葉を探した。




 あそこは、俺とあいつの勝負だった。




 そう言いたかった。




 けれど、声にならなかった。




 醒ヶ井は、先に言った。




「これは、柳生くんと堂島くんの物語ではありません」




 大介は顔を上げる。




「滋岡高校野球部と、駿河大付属高校野球部の試合です」




 正しい。




 あまりにも正しい。




「そのうえで、次打者の脇屋くんは左投手に弱い。近江くんは長いイニングは無理でも、ここだけなら投げられる。柳生くんは百二十二球。疲労も限界に近い。なら、あの選択になります」




「……俺が最後まで投げたいとかは、関係ないんですか」




「関係あります」




 意外な答えだった。




 醒ヶ井は、少しだけ表情を柔らかくした。




「でも、それが最優先ではありません。野球は一人でやるものではありませんから」




 そして、彼女はグラウンドの方を見た。




「ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワンですから」




 大介は何も言えなかった。




 正しい。




 正しいのに、何かが決定的に台無しだった。




 そのとき、周囲の誰かがまだにやにやしながら言った。




「じゃあ次は、大介と亜紗の告白タイムですかね」




 亜紗が俯く。




 大介も耳まで赤くなる。




 醒ヶ井は、その空気を少し眺めてから、淡々と言った。




「それと」




 全員が黙る。




「そういうことを賭けに使うのは品がありませんね」




 大介と亜紗は、同時に固まった。




「交際は、勝利報酬ではありません。甲子園出場とは別件として、双方の合意で、きちんと話し合ってください」




 ベンチ裏の空気が、すうっと冷えた。




 泣き笑いの熱。




 甲子園の高揚。




 青春の告白。




 その全部に、きれいな冷水がかけられた。




 亜紗が、小さく呟いた。




「……先生って、ちょっと狂ってますよね」




 醒ヶ井興子は、不思議そうに首を傾げた。




「そうでしょうか」




 遠くで、校歌の余韻がまだ残っている。




 空は青く、夏は眩しく、夢は確かに叶っていた。




 ただ、大介の中にあった最後の一球だけが、どこにも投げられないまま残っていた。




 醒ヶ井興子は、静かに言った。




「勝ち()る試合を、勝っただけです。」




 そして、最後に、ひとつ付け加えた。


 誰にも聞こえないほど、小さな声で。




「全員野球でね。」



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