冷夏のエース
夏の滋岡県大会、決勝。
九回裏、二死満塁。
スコアは五対二。
滋岡高校のエース、柳生大介は、マウンドの上で大きく息を吐いた。
ユニフォームは土に汚れ、右肩は熱を持っている。指先は震えていた。一二二球を投げ終えた右腕は、もう自分のものではないようだった。
それでも、大介は笑った。
あと一人。
あと一人で、甲子園だ。
三塁側アルプスから、ブラスバンドの音がうねる。攻撃側の、かっとばせー!という声、守備側の、あと一人!という声。それが入り混じり、球場内のボルテージは最高に高まっている。
控え部員たちはベンチからフェンスに身を乗り出し、声を枯らしていた。
「大介ぇ! あと一つ!」
「お前で決めろ!」
その声を、大介は背中で受け止めた。
一塁ランナーに目を遣ると、ふと、一塁側寄りのスタンドの景色が目に留まった。
そこに、南倉亜紗がいた。
幼なじみで、マネージャーで、ずっと近くにいた少女。
亜紗は両手を胸の前で握り、祈るようにマウンドを見つめていた。
試合前、亜紗は冗談めかして言った。
『甲子園に行けたら、ちゃんと返事する』
中学からずっと言えなかった言葉。
大介は、その意味を勝手に知っているつもりでいた。
甲子園に行く。
そして、亜紗と付き合う。
そのために、この夏を投げてきた。
だが、打席に立つ男を見た瞬間、大介の胸の奥がさらに熱くなった。
駿河大付属の四番、堂島翔太郎。
大介の、終生のライバルだった。
小学生の頃から、何度も対戦してきた。リトルリーグの決勝。中学最後の大会。練習試合。春の県大会。
勝ったこともある。
負けたこともある。
それでも、最後の夏、最後の決勝、最後の一人が堂島になるとは思っていなかった。
堂島はバットを肩に担ぎ、マウンドを見た。
唇が動いた。
たぶん、こう言った。
かかってこいよ。
大介はグラブの中で拳を握る。
やってやる。
ここでお前を抑えて、俺は甲子園に行く。
捕手の甲賀が、マウンドへ歩いてきた。
「大介」
「分かってる」
大介は、甲賀を見る。
「勝負だ」
甲賀はすぐには頷かなかった。
ベンチを見た。
本来の監督は、春に重病を患い、急遽入院となってしまった。
それ以来、代理で指揮を執っているのは、顧問の醒ヶ井興子だった。
彼女は、顧問になり三年目である。野球経験はなさそうだったが、練習にも試合にも必ず現れ、ビデオ撮影やスコアラーといった、監督の補助業務を淡々とこなしていた。
青色の縁の眼鏡に、髪をアップにまとめた姿は、さながら「優秀な秘書」のようであった。
そんな彼女だが、なぜか監督の評価は高く、引き継ぎにあたっては
「彼女の言葉は俺の言葉と思え」
と、選手たちは厳命されていた。
今日も、黒髪を後ろでひとつに結び、帽子のつばを指で押さえている。
彼女の采配は、なぜか、いつも妙に当たっていた。継投、守備位置、代打、バント。どれも地味で、冷静で、気味が悪いほど正確だった。
だが、この場面だけは違う。
采配の介入の余地は、ない。
勝負だ。
野球という物語が、百年以上かけて磨き上げてきた、勝負という神話だ。
エースと四番。
終生のライバル。
九回裏、二死満塁。
ホームランなら逆転サヨナラ。
空は青く、夏は眩しく、白球はまだ大介の手の中にある。
この一球のために、すべてがあった。
その時だった。
ベンチの醒ヶ井が、球審に向かって右手を上げた。
球審が確認する。
醒ヶ井が、静かに頷く。
次の瞬間、球審が右手を上げた。
「申告敬遠!」
球場の音が、消えた。
大介は、一瞬、言葉の意味が分からなかった。
甲賀も動かなかった。
打席の堂島も、構えたまま固まっていた。
そして、遅れてどよめきが爆発する。
満塁で申告敬遠。
押し出し。
五対三。
なお二死満塁。
四番の堂島は、一塁へ歩かされる。
堂島は途中で足を止め、マウンドを見た。
怒っていた。
いや、傷ついていたのかもしれない。
大介も同じだった。
だが、審判が促す。
試合は止まらない。
堂島は一塁へ行き、次打者が打席へ向かう。
五番、脇屋。
左打者。
大会打率、二割五分。今日は三打数一安打。長打は恐らく、ない。
大介は息を整えようとした。
まだ終わっていない。
たとえ堂島との勝負を奪われても、最後は自分が締める。
そう思った直後、ベンチがまた動いた。
主審に選手交代が告げられる。
アナウンスが球場に響いた。
「滋岡高校、守備の変更をお知らせします。ピッチャー柳生くんがレフト。レフト近江くんがピッチャー」
再び、球場がどよめいた。
大介は、ベンチを見た。
醒ヶ井はスコアブックを閉じ、ただグラウンドを見ていた。
近江がレフトから走ってくる。
左投げ。
春までは投手もしていたが、肩を痛めてからは外野に回った。長いイニングは投げられない。だが、この場面なら。
甲賀が大介のそばに来る。
「大介、レフトだ」
「俺は……」
「分かってる。でも、交代だ」
大介は唇を噛んだ。
言いたいことは山ほどあった。
俺がここまで投げてきた。
俺と堂島の勝負だった。
最後まで投げさせてくれ。
だが、審判は待たない。
試合は、感情の整理を待ってはくれない。
大介はボールを甲賀に渡し、レフトへ走った。
芝の上に立つと、マウンドが遠かった。
さっきまで自分の物語の中心だった場所に、もう自分はいない。
近江がマウンドに上がる。
投球練習を終え、脇屋が打席に入る。
一球目。
外角低め、スライダー。
空振り。
二球目。
内角、速球。
詰まってファウル。
三球目。
外へ逃げるスライダー。
脇屋のバットが半端に出た。
打球は、弱く三塁方向へ転がる。
サードの伊吹が前に出る。
捕る。
一塁へ投げる。
アウト。
試合終了。
五対三。
滋岡高校、甲子園出場決定。
歓声が爆発した。
ベンチから仲間たちが飛び出す。近江が甲賀に抱きつかれる。伊吹が両手を突き上げる。控え部員たちは泣きながらグラウンドへ走った。
大介はレフトの位置に立ったままだった。
勝った。
勝ったのだ。
甲子園に行ける。
夢は叶った。
たぶん、亜紗との約束も。
なのに大介は、自分の最終回だけが放送中止になったような気持ちで、数秒、芝の上に立ち尽くしてしまった。
整列を終え、校歌を歌い、閉会式が終わった後。
ベンチ裏では、泣き笑いの輪ができていた。
「大介、やったな!」
「甲子園だぞ、甲子園!」
「でも最後、レフトはないよなあ」
「いや、勝ったんだからいいだろ!」
仲間たちは興奮していた。
近江は何度も大介に頭を下げた。
「ごめん、最後、俺が持っていったみたいで」
「違う。お前は悪くない」
それは本心だった。
悪いのは近江ではない。
正確に言えば、誰も悪くない。
だから、余計に腹が立った。
そこへ、亜紗がやってきた。
目元を赤くしていた。
「大介、おめでとう」
「ああ」
「すごかったよ」
大介は少し笑おうとした。
だが、うまく笑えなかった。
その時、控え部員の一人が茶化すように言った。
「おい大介、約束は? 甲子園行けたら亜紗と付き合うんだろ?」
「ばっ、言うなよ!」
大介が慌てる。
亜紗の顔が一気に赤くなる。
周囲が「おおー」と騒ぎ出す。
「青春だなあ」
「エース、最後は敬遠されたけど恋は勝負するんだな」
「うるせえ!」
その騒ぎの端で、醒ヶ井興子がスコアブックを抱えて立っていた。
いつから聞いていたのか分からない。
彼女は大介と亜紗を見ると、静かに言った。
「柳生くん」
「……はい」
「まず、甲子園出場、おめでとうございます。八回三分の二、百二十二球。見事でした」
大介は黙って頭を下げた。
褒められているのに、胸の奥がまだ冷えている。
醒ヶ井は続けた。
「ただ、最後の場面について不満があるなら、説明します」
「……あります」
「堂島くんは本日三安打。長打二本。満塁ホームランで逆転サヨナラの場面でした。一点を与えても二点差が残る以上、最も危険な打者との勝負を避けるのは自然です」
「でも、あそこは……」
大介は言葉を探した。
あそこは、俺とあいつの勝負だった。
そう言いたかった。
けれど、声にならなかった。
醒ヶ井は、先に言った。
「これは、柳生くんと堂島くんの物語ではありません」
大介は顔を上げる。
「滋岡高校野球部と、駿河大付属高校野球部の試合です」
正しい。
あまりにも正しい。
「そのうえで、次打者の脇屋くんは左投手に弱い。近江くんは長いイニングは無理でも、ここだけなら投げられる。柳生くんは百二十二球。疲労も限界に近い。なら、あの選択になります」
「……俺が最後まで投げたいとかは、関係ないんですか」
「関係あります」
意外な答えだった。
醒ヶ井は、少しだけ表情を柔らかくした。
「でも、それが最優先ではありません。野球は一人でやるものではありませんから」
そして、彼女はグラウンドの方を見た。
「ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワンですから」
大介は何も言えなかった。
正しい。
正しいのに、何かが決定的に台無しだった。
そのとき、周囲の誰かがまだにやにやしながら言った。
「じゃあ次は、大介と亜紗の告白タイムですかね」
亜紗が俯く。
大介も耳まで赤くなる。
醒ヶ井は、その空気を少し眺めてから、淡々と言った。
「それと」
全員が黙る。
「そういうことを賭けに使うのは品がありませんね」
大介と亜紗は、同時に固まった。
「交際は、勝利報酬ではありません。甲子園出場とは別件として、双方の合意で、きちんと話し合ってください」
ベンチ裏の空気が、すうっと冷えた。
泣き笑いの熱。
甲子園の高揚。
青春の告白。
その全部に、きれいな冷水がかけられた。
亜紗が、小さく呟いた。
「……先生って、ちょっと狂ってますよね」
醒ヶ井興子は、不思議そうに首を傾げた。
「そうでしょうか」
遠くで、校歌の余韻がまだ残っている。
空は青く、夏は眩しく、夢は確かに叶っていた。
ただ、大介の中にあった最後の一球だけが、どこにも投げられないまま残っていた。
醒ヶ井興子は、静かに言った。
「勝ち得る試合を、勝っただけです。」
そして、最後に、ひとつ付け加えた。
誰にも聞こえないほど、小さな声で。
「全員野球でね。」




