恋占いは、運命抜き♡
放課後の教室は、夕焼け色に染まっていた。
窓際の席で、鯉沼日和は、ノートの端に同じ名前を何度も書いては、慌てて消していた。
藍川蓮。
二年三組。男子バスケ部。背が高くて、笑うと少し目尻が下がる。体育祭で転んだ日和に手を差し伸べてくれた。文化祭では、重たい段ボールを何も言わずに持ってくれた。数学の小テスト前には、彼の方から「ここ、出るらしいよ」と教えてくれた。
それだけ。
たぶん、それだけ。
でも、日和にとっては、その「それだけ」が、世界の全部みたいになっていた。
「ねえ、もう告白しちゃいなよ」
前の席に座った友人の朋美が、机に頬杖をつきながら言った。
「無理だよ」
「なんで」
「だって、変じゃん。急に好きですって言うの」
「急じゃないじゃん。日和、半年くらいずっと好きじゃん」
「私の中では急じゃないけど、藍川くんからしたら急かもしれないし」
「そういうこと考えてたら一生無理だって」
朋美は呆れたように笑った。
「こういうのは勢いじゃない?言わない後悔より、言う後悔」
その言葉に、日和の胸がきゅっと縮む。
言わない後悔。
言う後悔。
どちらも嫌だった。
でも、卒業は近づいている。三年生になればクラス替えがある。藍川くんが誰か別の子と付き合い始めるかもしれない。何もしなければ、何も始まらないかもしれない。
「でも、もし迷惑だったら……」
「だから占いでも行けば?」
「占い?」
「駅前に新しくできたところ。すごくいいらしいよ。」
「いい?当たるってこと?」
「ううん、当たるっていうか……なんか、『合ってる』らしい。すごく。」
「なにそれ」
すごい占い。
その言葉は、日和には魔法のように聞こえた。
誰かが、運命を教えてくれる。
自分の臆病さではなく、星やカードや神秘的な何かが、進むべき道を示してくれる。
もし、告白しなさいと言われたら。
もし、彼もあなたを想っていますと言われたら。
日和はきっと、勇気を出せる。
数日後。
駅前の雑居ビルの三階。
小さな看板には、こう書かれていた。
『占い キョウコ・サメガイ』
扉を開けると、鈴が鳴った。
部屋の中は薄暗く、青い照明が揺れていた。丸いテーブルの上にはタロットカード。水晶。小さなキャンドル。壁には星座の絵が飾られている。
奥に、一人の女が座っていた。
青い縁の眼鏡。まとめられた黒髪。無駄のない姿勢。整えられたスーツ姿。占い師というより、どこか秘書のような雰囲気だった。
「いらっしゃいませ」
女は静かに言った。
「醒ヶ井興子です」
「あ、あの、恋愛の相談を……」
「はい。座ってください」
日和は椅子に座った。
胸がどきどきしていた。
藍川くんの顔が浮かぶ。体育館の光。渡されたプリント。文化祭の廊下。少し笑った横顔。
「あの……私、好きな人がいて」
「はい」
「その人に、告白した方がいいか、占ってほしくて」
言ってしまった。
それだけで、頬が熱くなる。
醒ヶ井は頷き、タロットカードを丁寧に切った。
「では、現在の状況、障害、助言の三枚で見ます」
「お願いします」
カードが一枚、めくられる。
恋人。
日和は息を呑んだ。
胸の奥に、ぱっと光が差したようだった。
「こ、恋人……!」
「はい」
「それって、やっぱり……」
「選択のカードです」
「選択」
「恋愛感情、関係性、価値観の一致。または選択の必要性を示します」
思ったより事務的な説明だった。
醒ヶ井は二枚目をめくる。
塔。
日和の心臓が跳ねた。
「塔って、悪いカードですよね?」
「急激な変化、崩壊、思い込みの破綻などです」
「えっ」
「今の関係性に、急激な処理をかけると、想定外の反応が返る可能性があります」
「処理」
恋の話をしているはずなのに、言葉が少し硬い。
醒ヶ井は三枚目をめくった。
節制。
「節制です」
「それは、どういう……?」
「混ぜる。調整する。急がず、均衡を取る。段階的に進めるという意味です」
日和は、三枚のカードを見つめた。
恋人。
塔。
節制。
運命っぽい。
すごく、運命っぽい。
恋人のカードが出て、塔が出て、最後に節制。これはきっと、怖いけど勇気を出して告白しなさい、でも焦りすぎないで、という意味なのではないか。
「あの、つまり」
日和は、震える声で聞いた。
「私は、告白した方がいいんでしょうか」
醒ヶ井は、少しも迷わず言った。
「タロットカード云々を抜きにして。まず、原則として、告白は推奨しません」
青い部屋の空気が、すうっと冷えた。
「……え?」
「告白は、関係性を成功か失敗かの二択に圧縮する行為です」
「え、あの」
「相手に即時または短期の回答を求めます。十分な相互理解がない段階では、心理的負荷が高く、失敗した場合の関係修復コストも大きいです」
「占いですよね?」
「はい」
醒ヶ井は、恋人のカードを指差した。
「恋人は、相互の選択を示します。つまり、相手にも選ぶ権利があります」
「それは、そうですけど」
「塔は、急激な変化による崩壊です。突然の告白は、ここに該当しやすいです」
「でも、好きって伝えないと始まらないって……」
「好意は伝えるべきです」
醒ヶ井は即答した。
「ただし、一括でなく、小出しに、かつ明確にです」
「小出し」
「はい。たとえば、相手の話に関心を示す。一緒に帰る機会を作る。休日に短時間の予定へ誘う。楽しかったなら、楽しかったと伝える。相手の反応を見る。合わなければ、次に行く」
「次に行く」
「はい」
日和は口を開けたまま固まった。
想像していた恋占いと、何かが違う。
もっと、運命とか、前世とか、赤い糸とか、そういう話をされると思っていた。
「でも、藍川くんが運命の人だったら……」
「運命は、検証不能です」
「検証」
「はい。運命かどうかを考えるより、相性がよいか、会話が続くか、一緒にいて疲れないか、価値観が極端にずれていないかを確認してください」
「それ、恋愛というより、審査じゃないですか」
「恋愛は、相互審査です」
日和は、思わずテーブルに額をつけそうになった。
ひどい。
ひどい占いだった。
恋する女の子が、ようやく勇気を出して占いに来たのだ。そこで普通は、カードが背中を押してくれるものではないのか。運命の人です、と言ってくれるものではないのか。
なのに、この占い師はタロットカードを使って、告白のリスク管理を始めている。
「じゃあ、私はどうすればいいんですか」
日和は少しむくれて言った。
「藍川くんと、仲良くなりたいんです。付き合いたいんです。でも、怖いんです」
「なら、まず二人で短時間話す機会を増やしましょう」
「それだけ?」
「はい。関係は、コツコツと育てた方がよいです」
醒ヶ井は、節制のカードを日和の前に置いた。
「急に注ぐと、こぼれます。少しずつ混ぜてください」
翌日。
日和は、昇降口で藍川蓮を見つけた。
心臓は痛いほど鳴っていた。
手紙は持っていない。
告白の言葉も用意していない。
運命を信じる勇気も、まだない。
それでも、日和は一歩前に出た。
「あ、藍川くん」
蓮が振り返る。
「鯉沼さん?」
「この前、数学の小テストの範囲、教えてくれてありがとう。助かった」
「ああ、全然」
「それで、その……今度、駅前のクレープ屋さん、行かない? 新作が出たらしくて。嫌じゃなければ」
言った。
言ってしまった。
告白ではない。
運命でもない。
ただの、小さな誘い。
藍川くんは少し驚いた顔をして、それから笑った。
「いいよ。俺、金曜なら部活早く終わる」
世界は、爆発しなかった。
チャイムも鳴らない。
桜の花びらも舞わない。
抱きしめられることもない。
でも、日和の胸の奥に、小さな灯りがともった。
――だが、藍川くんが角を曲がり、姿が見えなくなった後、声が聞こえた。
「お、脇屋、ちょっとちょっと」
「どうした?藍川?」
「俺、彼女出来るかもしれん。デートに誘われたわ。」
「マジ?誰?あ、当てるわ……鯉沼日和じゃね?」
「お、当たり。なんでわかるん?」
「俺くらいになるとな、分かるんよ。で、どうなん?タイプ?」
「うん、結構ストライクだわ。ストラックアウトで言うとー、……『1』!」
「「インハイやないかーい」」
「「あっはっはっはっ」」
日和は、耳に届く声を聞きながら、友人と、占い師の言葉を思い出していた。
(占い、確かに合ってる……相互理解、か……)
(蓮くん……裏の顔、ちょっとそういう面白い感じなんだ……嫌いじゃないけど)
(ただ、野球部の脇屋はなんなんだ……。馴れ馴れしい。茶化すな。ムカつく。)
(一生に一度しかない、ここぞの大チャンスの打席で凡退しちゃえばいいのに。)
その日の夕方。
占いの部屋で、醒ヶ井興子はタロットカードを片付けていた。
机の上には、恋人、塔、節制の三枚が並んでいる。
青い照明の中、彼女は呟いた。
「告白。一発逆転。逆転を狙っている時点で、既に形勢は不利……。まずは、コツコツと始めることです」
そして、最後に節制のカードを箱へ戻し、静かに言った。
「継続は、力なり。すなわち、力とは、継続なり、と。」




