宇宙機兵譚
宇宙に、英雄がいた。
名を、レオ・トゥーエル。
パンゲア平和連邦軍、独立機動艦隊所属。
階級は少佐。
搭乗機は、深紅の高機動試作機 《ジークフリード》。
その名を知らぬ兵士は、両軍を通じてほとんどいなかった。
彼が戦場に現れれば、戦況は変わる。
十倍の敵を相手にしても、彼は退かなかった。
複雑に交差する艦砲射線の隙間を抜け、敵機の死角へ滑り込み、指揮官機を一撃で落とす。
罠を見抜き、伏兵を察知し、味方の崩れかけた戦線を、たった一機で縫い合わせる。
彼には、見えていると言われていた。
まだ撃たれていない弾の軌道が。
まだ下されていない命令の意図が。
そして、まだ出会っていない敵の気配が。
「まただ」
戦闘宙域から帰還したレオは、ヘルメットを脱ぎながら呟いた。
旗艦 《ウェベ=ノルブ》の格納庫では、整備兵たちが彼の機体へ駆け寄っている。
深紅の機体は、傷だらけだった。
それでも、致命傷は一つもなかった。
整備主任が苦笑する。
「少佐。また無茶をしましたね」
「無茶ではない。読めていた」
「読めていた、で機雷原を真正面から抜けるのは、普通は無茶って言うんです」
レオは答えなかった。
彼は、別のものを見ていた。
戦場の奥。
敵軍――ケイオス立憲皇国の陣形の、さらに奥。
そこに、何かがいる。
自分と同じように、戦場を上から見ている誰か。
ただし、その誰かは、決して前へ出てこない。
「なぜ現れない」
レオは、誰に言うともなく呟いた。
「君も、こちらを見ているはずだ」
パンゲア平和連邦とケイオス立憲皇国の戦争は、すでに七年目に入っていた。
もともとは、辺境宙域の資源採掘権を巡る小競り合いだった。
だが、国威、同盟、報復、戦死者への弔い、戦費回収、世論。
そうしたものが積み重なり、戦争は国家の中心へ食い込んでいった。
連邦は自由と平和を掲げた。
皇国は秩序と伝統を掲げた。
どちらの標語も美しかった。
そして、美しい標語の下で、兵士たちは死んだ。
その中で、レオ・トゥーエルは英雄になった。
彼が勝つたび、連邦市民は歓声を上げた。
彼が帰還するたび、報道局は深紅の機体を映した。
彼の戦果が増えるたび、軍上層部は言った。
この戦争は、終わらせられる。
我々には、ジークフリードがいる。
レオ自身も、そう思っていた。
自分が戦争を終わらせる。
そのためには、敵側にいるはずの「あの者」と戦わなければならない。
彼はずっと、その瞬間を待っていた。
決戦は、雨の名を持つ宙域で始まった。
レインベルト宙域。
小惑星帯と氷塵の雲が入り混じる、通信も索敵も不安定な空間である。
連邦軍は、この宙域を突破し、皇国の要衝《クラウディア要塞》へ迫ろうとしていた。
作戦の成否は、戦争の帰趨を決めると言われていた。
連邦軍の総戦力、戦艦四十二隻、巡洋艦百十隻、機動兵器部隊三千八百機。
その中央に、レオの《ジークフリード》がいた。
出撃直前、司令官は彼に言った。
「トゥーエル少佐。君が先陣を切れ。敵の切り札が現れるなら、おそらくここだ」
「わかっています」
レオは静かに答えた。
「ようやく、会える」
カタパルトが開く。
深紅の機体が、宇宙へ射出された。
その瞬間、レオは感じた。
いる。
これまでとは違う。
遠くから眺める気配ではない。
明確な意志が、戦場全体に広がっている。
彼は口元を緩めた。
「来たか」
連邦軍の前方に、皇国軍の艦隊が展開していた。
だが、その布陣は奇妙だった。
主力艦が前に出ていない。
エース機らしき反応もない。
派手な陽動も、挑発もない。
あるのは、無数の小さな機影だった。
それは最初、氷塵の乱反射に見えた。
だが、数秒後、レオは理解した。
機体だ。
新型機。
同一規格の機体が、視界いっぱいに広がっていた。
雨粒のように、戦場を覆い尽くしていく。
通信士の悲鳴に近い声が、連邦艦隊に走った。
『敵新型機、多数!』
『数が多すぎる!』
『識別不能、同型機が……無数に!』
『こちらの正面だけではありません! 側面、後方、補給線にも出ています!』
レオは、通信回線を開いた。
「敵の指揮官へ告ぐ。私は平和連邦軍、レオ・トゥーエル少佐だ」
返答は、すぐに来た。
女の声だった。
静かで、澄んでいて、妙に事務的だった。
『存じています』
レオは笑った。
「ようやく話せたな。君が、皇国の超人か」
『その表現は、あまり好みませんが』
「名を聞こう」
『キョウコ・サメガイ。立憲皇国軍、戦術生産運用局所属です』
「戦術生産運用局?」
レオは、わずかに眉をひそめた。
前線部隊ではない。
親衛隊でもない。
特務機関でもない。
「君ほどの力がありながら、なぜ戦場に出てこなかった」
『出ています』
「君自身が、だ」
『私自身が撃ち合う必要はありません』
レオの目が細くなる。
「俺と戦うつもりはないのか。雌雄を決しようとはしないのか」
『ありません。雌雄という言葉からいけば……私は女ではありますが』
「……。」
その一言は、あまりに淡々としていた。
レオは、胸の奥に奇妙な空白を感じた。
七年間、彼はこの相手を待っていた。
自分と同じものを見ている敵。
戦場の果てで相まみえるべき宿命の相手。
しかし、その相手は、彼と戦うつもりがないと言った。
「では、この数は何だ」
『圧倒的量産性、運用性を持たせた新型量産機 《レインドロップ》です』
氷塵の中で、無数の機体が展開する。
一機一機は、レオの《ジークフリード》ほど速くない。
装甲も薄い。
火力も凡庸。
外見も、英雄の搭乗機と呼ぶにはあまりに簡素だった。
だが、動きが揃っていた。
十機単位で視界を潰し、百機単位で退路を塞ぎ、別働隊が補給艦へ向かい、さらに後方では通信中継機が網を張っている。
撃てば、下がる。
追えば、別の群れが入る。
突破すれば、補給線が切られる。
個々の強さではない。
運用だった。
『あなたが一騎当千ならば』
キョウコ・サメガイの声が、戦場に響いた。
『こちらは、千機当一です』
レオの呼吸が止まった。
『そして、余力であなた以外の部分を抑えます。否、抑えました。』
その瞬間、連邦艦隊の各所で警告音が鳴った。
『第三補給艦隊、敵機に包囲されました!』
『左翼部隊、前進不能!』
『後方通信、妨害を受けています!』
『医療艦への航路が塞がれています!』
『ジークフリード機の周辺だけ、敵が厚い!』
レオは《ジークフリード》を加速させた。
目の前の《レインドロップ》を一機、二機、三機と撃墜する。
深紅の機体は、やはり圧倒的だった。
彼の動きに、量産機はついてこられない。
だが。
四機目を落とした瞬間、別の十機が距離を取る。
七機目を斬った時には、すでに後方の味方艦が包囲されている。
十二機目を撃墜した時には、補給路が一本消えている。
レオは強かった。
間違いなく、戦場で最も強かった。
しかし、戦場は彼一人でできていなかった。
「なぜだ」
彼は叫んだ。
「なぜ君は出てこない!君なら、俺と戦えるはずだ!」
『戦えるかもしれませんね』
「ならば!」
『ですが、それで戦争は終わりますか』
レオは言葉を失った。
『あなたと私が一騎打ちをして、どちらかが勝つ。それは美しい場面になるでしょう。報道局は喜び、歴史家も見出しを得ます』
キョウコの声は、冷たくはなかった。
むしろ、丁寧だった。
『ですが、その間にも、左右翼は撃ち合い、補給艦は燃え、脱出艇は回収されず、医療艦は航路を失います』
レオは歯を食いしばった。
『私は、あなたという「点」を消すために来たのではありません』
「では、何のために」
『戦場を終わらせるために』
レオの《ジークフリード》が、さらに加速する。
彼は包囲を破った。
破れる。
彼なら、どんな包囲も破れる。
だが、そのたびに別の場所が閉じていく。
自分の周囲は開ける。
味方の周囲は閉じる。
彼が勝つほど、彼以外が動けなくなっていく。
レオは初めて、自分の強さが孤立に変わる感覚を味わった。
『あなたは強い』
キョウコは言った。
『ですから、あなたを倒す必要はありません』
「何?」
『あなた以外の戦場を終わらせれば、あなたは戦争を続けられません』
連邦艦隊の旗艦から、撤退要請が入る。
しかし、後退路はすでに抑えられていた。
撃滅ではない。
包囲。
遮断。
降伏勧告。
皇国軍は、無駄な砲撃をしていなかった。
撃てるのに撃たない艦があった。
落とせるのに落とさない機体があった。
医療艦への通路だけは、なぜか開けられていた。
レオは気づいた。
これは殲滅戦ではない。
戦争を終わらせるための、拘束だった。
「君は……」
レオは、震える声で言った。
「君ほどの力があって、なぜ英雄になろうとしない」
通信の向こうで、少しだけ沈黙があった。
それから、キョウコ・サメガイは答えた。
『後方支援により、勝機を手繰り寄せることを、あなたは英雄と呼びませんか』
レオは何も言えなかった。
『もう一つ。あなたの包囲に充てた機体は、無人自律機です。犠牲を最小限に相手の英雄を無力化することを……私は……独りよがりかもしれませんが、英雄と呼ぶに疑いないかと、そう思います』
深紅の機体の周囲に、《レインドロップ》が円を描く。
撃てば破れる。
逃げようと思えば逃げられる。
だが、逃げた先に、彼の艦隊はない。
彼が守るべき兵士たちは、すでに包囲されている。
『レオ・トゥーエル少佐』
キョウコの声が、少しだけ柔らかくなった。
『あなたは投降してください』
「俺に、負けを認めろと」
『違います』
彼女は即答した。
『あなたに、生きていただきます』
「生きて、どうしろと」
『停戦交渉の席に出てください』
レオは息を呑んだ。
『あなたが戦おうとすれば、連邦は戦争継続に希望を見ます。ですが、あなたが……停戦を飲み込んだと見れば、連邦市民は耳を傾ける可能性があります』
「俺を、利用するのか」
『はい』
あまりに正直な返答だった。
『英雄とは、非常に危険な資源です。戦場で燃やせば、多くの命を巻き込みます。ですが、適切に管理すれば、戦争終結のための説得材料になります』
「俺は、資源か」
『少なくとも、消耗品であってはなりません。超人とはいえ……人間ですから』
レオは、笑った。
怒りではなかった。
呆れでもなかった。
七年間、自分を宿命の相手として待たせ続けた存在は、最後まで決闘に応じなかった。
自分を殺すことすら、選ばなかった。
英雄の敗北すら、劇的にはしてくれなかった。
ただ、生かして、使うと言った。
「君は、とんでもない女だな」
『たまに言われます』
「名は、キョウコ・サメガイと言ったな」
『はい』
「覚えておく」
『記録に残していただけるなら、正確な表記でお願いします。どうも、私の名前は記録から落ちやすいようですから。』
その返答に、レオは思わず笑ってしまった。
深紅の機体 《ジークフリード》は、武装を解除した。
平和連邦軍の英雄、レオ・トゥーエル少佐は、その日も、撃墜されることはなかった。
彼は、無敗の英雄のまま、戦争を終えた。
そして、戦争を続ける理由を奪われた。
◇◇◇
後に、レインベルト宙域の戦いは、戦史上きわめて奇妙な会戦として記録されることになる。
撃墜数において、レオ・トゥーエルはなお圧倒的だった。
単独戦闘能力において、彼を超える者はいなかった。
だが、会戦は皇国側の勝利に終わった。
理由は単純である。
彼以外が、すべて抑えられたからだ。
戦艦は沈められず、拘束された。
兵士は殺されず、降伏させられた。
医療艦は守られ、補給路は遮断された。
そして、英雄は生かされた。
停戦交渉は、その三週間後に始まった。
連邦代表団の席には、レオ・トゥーエルの姿があった。
皇国代表団の後方には、青い縁の眼鏡をかけた女性が控えていた。
彼女の名は、キョウコ・サメガイ。
戦場に出なかった超人。
英雄にならなかった天才。
そして、戦場に、英雄の伝説に水を差す、雨を降らせた者。
交渉の休憩中、レオは彼女に歩み寄った。
「一つ聞きたい」
「どうぞ」
「君は、本当に俺と戦いたいと思わなかったのか」
キョウコは少し考えた。
「多少は」
「なら、なぜ」
「私情を優先するには、戦場は高価すぎます」
レオは黙った。
その答えは、あまりにもつまらなかった。
つまらなく、正しかった。
「君が敵でよかったのか、味方でなくてよかったのか、俺にはまだわからない」
「どちらでも構いません」
「構わない?」
「戦争が終わるのであれば」
レオは、彼女を見た。
そこに、宿命のライバルはいなかった。
運命の相手もいなかった。
戦場で魂をぶつけ合う超人もいなかった。
ただ、戦争を終わらせるために、最も効率のいい場所へ才能を置いた女がいた。
「キョウコ・サメガイ」
「はい」
「君は、英雄譚を台無しにしたな」
彼女は、眼鏡の位置を直した。
「光栄です」
その後、レインベルト宙域には、無数の残骸が漂うことはなかった。
代わりに、《レインドロップ》が、停戦監視機として配備された。
雨は、宇宙の英雄譚に水を差し、湿らせて、なお、降り続けていた。




