催眠アプリで濡れて、感じる
世の中は、不公平だ。社会は、クソだ。
そう思いながら生きてきた。
努力しても報われない。
真面目に働いても褒められない。
人に気を遣っても、都合のいい奴として扱われるだけ。
恋愛も、仕事も、人間関係も、うまくいく奴は最初からうまくいく。
そして、うまくいかない奴は、ずっとうまくいかない。
少なくとも、春日透はそう思っていた。
透は、ぱっとしない男だった。
仕事はできないわけではない。遅刻もしない。
頼まれたことも、だいたいはやる。ただ、目立たない。
だが、持って生まれた不運とともに、いつも損な結果を引き受ける羽目になっていた。
誰かに強く必要とされている実感もなく、誰かに特別に好かれている実感もない、そんな人生だった。
同僚が結婚した。友人に子どもが生まれた。
昔の知人が起業して成功した。
SNSには、幸せそうな写真ばかりが流れてくる。
透は、それを見ながら鼻で笑った。
「はいはい。ご立派な人生で」
そう言って画面を閉じるたび、胸の奥に小さな穴が広がった。
「持たざる者は、ひがむことしか……」
ある日の帰り道、透は不思議な露店と出会った。
露店の前に、老婆が座っていた。
小さな机の上には、用途の分からない品々が並んでいる。
欠けた鏡。
黒い小箱。
赤い糸。
古い鍵。
そして、一台のタブレット端末。
場違いなほど新しい端末だった。
「お兄さん」
老婆が、透に声をかけた。
「欲しいものがある顔をしているね」
「別に」
「思い通りにしたい」
透は立ち止まった。
老婆は、にやりと笑った。
「そういう顔だ」
「……何を売ってるんですか」
「便利なものだよ」
老婆は、タブレットを指で叩いた。
「催眠アプリ付き。相手に命令を聞かせることができる」
透は笑った。
「詐欺でしょ」
「そう思うなら、買わなければいい」
「いくら」
「千円」
「安すぎる」
「高くしたら、警戒するだろう」
老婆は、平然と言った。
透は、しばらくそのタブレットを見つめた。
催眠アプリ。
そんなものが本当にあるわけがない。
だが、心の奥で、汚れた期待が膨らんでいくのを感じた。
創作にありがちな、よく知っている展開だ。
そういう話は、何度も見たことがある。
冴えない男が、偶然手に入れた不思議な道具で、人生を逆転させる。
相手――特に多いのは女、を思い通りにする。
自分を馬鹿にしてきた世界に、仕返しをする。
透は、千円札を出した。
老婆は笑って、タブレットを渡した。
「使い方は簡単だ。カメラで相手の姿を捉える。そうしたら、マイクに向けて、命令を言えばいい」
「本当に効くんですか」
「ひひひ。人間なら、必ず」
老婆はそう言って、笑った。
透は気味が悪くなり、早足でその場を離れた。
家に帰ると、すぐにタブレットを起動した。
画面には、簡素なアプリが一つだけ入っていた。
催眠。
そのままの名前だった。
試しに開くと、老婆の言葉通り、カメラが起動した。透の部屋が画面に映る。
「本物……なのか? 本当に……?」
透は喉を鳴らした。
しかし、すぐには使えなかった。
身近な人に使うのは怖かった。
職場の人間に使えば、万が一失敗した時に終わる。
知人や友人に使えば、後で何か問題になった時に逃げられない。
だったら、知らない相手がいい。
そう考えた時点で、透は自分の浅ましさに少し気づいていた。
だが、気づいても止まれなかった。
翌日の夕方、透は人通りのある駅前で、使う相手を探していた。
下卑た欲望を周りに悟られないように、あくまで、位置情報ゲームアプリでも楽しんでいるように装って。
胸の奥では期待が膨らんでいた。
その時だった。
青い縁の眼鏡をかけた女性が、通りの向こうから歩いてきた。
きっちりまとめた黒髪。
青いスーツ。
膝丈のタイトスカート。
秘書のような、役所の担当者のような、妙に整った佇まい。
美人だった。
透は、息を呑んだ。
そして、思った。
悪くない。コイツだ。
彼はタブレットのカメラで狙いを定める。操作は簡単だ。女性を画面の中心に捉えた。ピントもすぐに合った。
透の心臓は跳ね、手も少し震えた。
透は、声を絞り出した。タブレットに届くように。
「俺を、気持ち良くして、快感を与えろ」
言った。
言ってしまった。
自分の声が、ひどく安っぽく聞こえた。
女性が、こちらを見つめた。
瞬きを一つ。
透に向けて、スタスタと歩いてきた。
そして、透の顔を真っ直ぐ見て、静かに言った。
透は、女の顔を見て恥ずかしくなり、目を逸らそうとした瞬間。
「その御命令、承知しました」
女の声に、透の心臓が跳ねた。
効いた……?
本当に、効いた。ウソだろ。
「では、こちらへ。静かなところの方が好都合でしょうから」
女性は歩き出した。
透は、夢の中にいるような気分で後を追った。
彼女が向かったのは、駅前のカラオケボックスだった。
透は、さらに心臓が激しくなるのを感じた。
個室。
防音。
薄暗い照明。
大きなモニター。
なるほど。そういうことか。
この女、固そうに見えて意外と遊んでいるのか。
あるいは、内心に欲望を秘めているのか。
透は、勝手に思いを巡らせ、納得した。
受付を済ませ、二人は奥の部屋に入った。
女性はリモコンを操作し、モニターを点けた。
照明が少し落ちる。
透は椅子に座りながら、喉を乾かした。
「えっと……ここで、何を」
「ご命令の実行です」
女性は、丁寧に言った。
モニターに映像が流れ始めた。
最初に映ったのは、透の母親だった。
『透へ』
透は固まった。
『最近、あまり連絡ないけど、元気にしてますか。ちゃんと働いてるだけで、お母さんは偉いと思ってます』
「え」
『あんたは昔から、要領がいい子じゃなかったけど、投げ出さない子でした。小学生の時、飼育係のうさぎが死んだ時も、最後までお世話してたでしょう。ああいうところ、今でもいいところだと思ってます』
映像が切り替わる。
次は、父親だった。
『透』
父は、画面の中で気まずそうに咳払いをした。
『面と向かって言うのは照れくさいが、お前はちゃんとやっていると思う。仕事が楽しいことばかりではないのは、父さんも知っている。それでも毎日行っているなら、それは立派なことだ』
透は、口を開けたまま動けなかった。
次に映ったのは、大学時代の友人だった。
『お前さ、ひねくれてるけど、困ってる奴を放っておけないよな。俺が卒論で詰んでた時、最後まで付き合ってくれたの覚えてる? あれ、普通に助かったんだよ』
次は、職場の同僚。
『春日さん、いつも地味な仕事を拾ってくれてありがとうございます。誰も見てないと思ってるかもしれませんけど、見てます。あの確認作業、春日さんがやってくれてるから、かなり助かってます』
次は、後輩。
『正直、最初ちょっと怖い人だと思ってました。でも、質問したらちゃんと教えてくれるし、ミスした時も怒鳴らないので、ありがたいです』
次は、近所のコンビニ店員だった。
『いつも袋いらないって先に言ってくれるお客さんですよね。あと、レジ混んでる時に後ろの人に順番譲ってるの見ました。すごいなって思いました』
「なんで」
透は、かすれた声を出した。
「なんで、こんなの」
女性は、彼の隣に静かに座っていた。
「ご命令でしたので」
「命令って」
「あなたを気持ち良くして、快感を与えろ、と」
「これは、違うだろ」
「違いますか」
透は反論しようとした。
しかし、できなかった。
胸の奥が熱かった。
息が詰まる。
目の奥が痛い。
画面の中で、母が笑っていた。
『たまには帰ってきなさい。別に立派になってからじゃなくていいから』
その瞬間、透の頬を涙が伝った。
彼は、手で顔を覆った。
濡れていた。
涙で。
感じていた。
自分が、誰かの記憶の中にいたことを。
自分が、自分で思うほど、どうしようもない人間ではなかったことを。
「俺……」
声が震えた。
「俺、そんなに、ダメじゃなかったのか」
女性は答えた。
「少なくとも、あなたを大切に思う人はいます」
「でも、俺は」
「はい」
「俺、今、最低なことをしようとして」
「はい」
女は、テンポ良く即答する。
透は涙を拭いながら、うなだれた。
「ですよね」
「ですが、最低なことを考えた人間がいたとして……最低なまま生き続ける必要はありません。内心の自由というものもありますし」
女性は、淡々と言った。
「欲望は、誰にでもあります。歪むこともあります。ですが、それを他者の尊厳を奪う方向に使うか、自分を立て直す方向へ向け直すかは、選べます」
「俺は、もう」
「今から選べば良いんです」
透は、ポケットからタブレットを取り出した。
青白い渦は、まだ画面の中で回っていた。
「これ」
彼は、両手で差し出した。
「持っていってください。俺が持ってたら、また何を考えるか分からない」
「承知しました」
女性はタブレットを受け取った。透には聞こえないように、ぼそっと呟く。
「その御決断、立派ですよ」
「え?」
「いえ、なんでも」
透は、顔を上げた。タブレットを改めて見て、ふと、思い出す。
(そうだ、これは『人間なら誰でも効く』と言う話だった……)
「あなたは、何者なんですか。」
女性は、少しだけ考えた。
「通りすがりの者です」
「そんなわけないでしょう」
「催眠のせいで忘れました」
「それもたぶん違います」
透は、かすかに笑った。先程のメッセージ集を思い出す。
(そうだ。俺のためにわざわざ……メッセージを集めて、編集して、流す、そんな《《人間》》は存在し得ない。だとすれば、この女は、超常的な――)
「美人な神様の名前を、聞いてもいいですか」
女性は、彼を見た。そして、何か物音でもしたのか、一度、後ろを振り返ると、もう一度、透に向き直った。
その表情は、ほんの少しだけ柔らかかった。
「混沌……それを司る者、です」
透は、意味を理解できなかった。
だが、その言葉だけは、なぜか胸に残った。
「覚えておきます」
「いえ、むしろ忘れてください。あなたには、過去よりも、未来に目を向けてもらうことが、私の望みですので」
そう言って、女は立ち上がった。
透は、もう一度深く頭を下げた。
その日、彼は家に帰って、母に電話をした。
話すことは、あまりなかった。
ただ、元気にしていると伝えた。
今度、帰るとも言った。
電話の向こうで母が泣いたので、透もまた少し泣いた。
それは、ひどく情けなく、ひどく温かい夜だった。
◇◇◇
カラオケボックスの廊下の奥。
非常階段へ続く扉の影で、箱守伴人は黒い箱を抱えて笑っていた。
箱の中から、老婆のしわがれた声が聞こえた。
「まったく。欲望のまま、女を獣のように貪り食う。ハーレムを築く。挙句に溺れ、最後に破滅する。それが面白いのに。あんたらと来たら。」
「こらこら。そういうことを言うと刑期が延びるよ、おばあちゃん」
箱守は、箱を軽く叩いた。
「とはいえ。これでひとつ、罪が滅ぼせたね。まだまだがんばろー」
その時、廊下の向こうから醒ヶ井興子が戻ってきた。
青い縁の眼鏡。
青いスーツ。
いつも通り、涼しい顔。
箱守は彼女を見て、にやりと笑った。
「おキョウさん」
「はい」
「真の名前を教えるなんて、ずいぶん気前がいいじゃない?」
「そうでしょうか」
「あんなんからでも、可愛いって狙われて、美人って言われて嬉しかったとか?」
箱守の声には、冗談のような軽さがあった。
だが、その奥に、ほんの少しだけ棘があった。
醒ヶ井は、彼を見た。
「好意を向けられるのは、悪くない気分です」
「……あんな変態にー?」
「いえ」
彼女は、静かに言った。
「彼ではなく」
箱守の笑みが、わずかに止まった。
「長く付き添ってくれている、あなたの好意に応えたとしたら?」
廊下の空気が、少しだけ静かになった。
箱守は数秒黙り、それから肩を震わせて笑った。
「敵わないなー」
箱守伴人――災厄の箱の悪魔パンドラは、楽しそうに箱を抱え直した。
「これじゃ、このパ様が……嫉妬してたみたいじゃん?」
箱守は、ふざける姿を装うように、また笑った。




