第9話 最終ラウンド【渾身のアッパーカット】
ゴングが鳴ると、体育館の空気は一変した。
猛田の息はすでに限界に近く、額から汗が滝のように流れ落ち、黒いグローブをはめた両拳は疲労でわずかに震えていた。
対する私は、全身が悲鳴を上げるほど痛んでいた。それでも足はまだ動く。
胸の奥では、この二ヶ月間積み重ねてきた努力と、絶対に負けられないという想いが、炎のように燃え続けていた。
猛田が歯を食いしばり、低く唸る。
「はあっ……はあっ……てめえ……ここまでするか……! 女子の分際で、俺をここまで追い詰めやがって……!」
照明を受けた黒いグローブが鈍く光る。
その黒は、暴力と傲慢さ、そして猛田自身のプライドの象徴のようだった。
私は真っ赤なグローブを静かに握り締める。
鮮やかな赤は、リングのライトを浴びて力強く輝いていた。
この拳には、怒りだけではない。
桃子を守りたいという願い。
佐藤先生との特訓。
何度倒れても立ち上がってきた二ヶ月間。
そのすべてが、この赤い拳に宿っている。
赤と黒。
正反対の色が、リングの中央で最後の決着を迎えようとしていた。
「終わりだぁっ!!」
猛田が雄叫びを上げ、最後の力を振り絞って突進してくる。
豪快な右フックが私の頭を狙って唸りを上げた。
重い一撃。
だが疲労のせいで軌道は大きい。
私は腰を深く落とし、紙一重でかわした。
「逃げるなぁっ!!」
続けざまに左フック。
その拳が空を切る瞬間、私は一気に懐へ踏み込む。
「私は……ただ、桃子を守りたかっただけ!」
左ストレートが一直線に走った。
ガンッ!!
拳が猛田の顔面を正確に捉える。
「ぐぉぉぉぉ、、」
頭が大きくのけぞり、鼻から鮮血が飛び散った。
観客席から高い声の歓声が響く。
「茜ちゃん、いける!」
「やっつけて!!」
しかし猛田は倒れない。
血走った目で私を睨みつけ、荒い呼吸のまま叫んだ。
「男が……女に負けるなんて……絶対認めねえ……! 俺はボクシング部の部長なんだ……! 女に……負けるはずがない……!」
その言葉を聞いた瞬間だった。
胸の奥で何かが弾けた。
桃子の涙。
佐藤先生の厳しい指導。
流した汗。
流した涙。
そして、女を見下す男。
二ヶ月間のすべてが、一つの拳へと集まっていく。
私は静かに踏み込んだ。
腰を深く沈める。
地面を力強く蹴る。
脚の力が腰へ、腰から背中へ、そして肩を伝い、真っ赤な拳へと一直線に流れ込んでいく。
赤いグローブが、眩しいほど鮮烈に輝いた。
「てぇぇぇぇえええいっ!!」
魂を震わせる高い叫びとともに、渾身のアッパーカットが放たれる。
真っ赤な拳は黒いグローブの隙間を突き抜けるように、猛田の顎を完璧に捉えた。
ゴォォォォォンッ!!
凄まじい衝撃がリングを震わせる。
猛田の巨体が大きく反り返り、一瞬、宙に浮いた。
「ひぎゃぁぁぁぁぁ、、、」
「女に負けるなんてぇぇぇ、、」
そのまま身体は後方へ吹き飛び、激しい音を立ててキャンバスへ叩きつけられる。
リングが揺れた。
猛田は動かない。
レフェリーが駆け寄り、カウントを始める。
「……七!」
観客席は息を呑む。
「……八!」
猛田の身体がわずかに震える。
「……九!」
立ち上がれない。
「……テン!」
リングに高らかな声が響く。
「ノックアウト! 勝者、茜!!」
一瞬の静寂。
そして次の瞬間。
体育館中が歓声に包まれた。
「やったぁぁぁ!!」
「茜ちゃん、おめでとう!」
「すごい!」
拍手と歓声が鳴り止まない。
私は荒い息を整えながら、真っ赤なグローブを天高く掲げた。
汗も涙も、この勝利のために流してきた。
その赤は、決して怒りの色ではない。
大切な人を守り抜いた証の色だった。
桃子がリングへ駆け上がり、涙を流しながら私に抱きつく。
「茜……! 本当に勝ったんだね……!」
私は優しく抱き返し、小さく頷いた。
そして倒れた猛田へ静かに視線を向ける。
「これが女の本気よ!」
「もう二度と桃子に近づくなよ!」
「ぅぅぅ、、」
猛田は低い声でただ頷くだけだった。
体育館は再び大きな拍手に包まれた。
リングの中央で掲げられた真っ赤なグローブは、暴力と傲慢さを象徴する黒を打ち破り、最後まで守るべきものを守り抜いた証として、ひときわ鮮やかに輝いていた。




