第9話 加護を断つ
「あなた様が望めば、あの四人への加護は消せます」
その言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。
消せる。
俺が。
今もどこかで繋がっている、あの四人との見えない糸を。
胸の奥が、ひどく重くなる。
「そんなこと……」
喉が掠れた。
「簡単に、決められません」
大神官は黙って俺を見ている。
急かす気配はない。
でも、その沈黙は逃げ道にもならなかった。
俺は視線を落とし、自分の胸元を押さえた。
曖昧な熱が、そこにある。
追放された夜にも感じた。
牢の中でも消えなかった。
奴隷に落とされたあとも、ずっと消えずに残っていた。
それが加護だと言われても、まだどこか現実味がない。
けれど、四本の見えない糸みたいな感覚だけは、今もたしかにあった。
「あの人たちは……」
言いかけて、口が止まる。
あの人たち。
そんな呼び方を、まだしてしまう自分が嫌だった。
カイル。
セリア。
ロイド。
ミーナ。
俺を追い出して。
冤罪を着せて。
奴隷に落とした四人。
それでも、口にすると胸の奥が鈍く痛む。
「加護を消したら、あいつらは弱くなるんですよね」
「はい」
大神官の返事は、少しも揺るがなかった。
「今まで当然のように受けていた補助が、すべて失われます」
「戦ってる最中だったら……死ぬかもしれない」
部屋の空気が、しんとする。
大神官はすぐには答えなかった。
嘘をつかない人なのだと思った。
やがて、静かに口を開く。
「可能性はあります」
その一言で、胸が強く縮んだ。
やっぱり、と思う。
そうだ。
加護を消すというのは、そういうことだ。
いくら裏切られても。
いくら人生を壊されても。
自分の手で誰かを危険に晒すなんて、簡単にできるわけがない。
「俺には……」
無理だ、と言いかけた。
その瞬間、カイルの声が頭の奥で蘇る。
最初から仲間じゃなかった。
邪魔だったから消した。
もう誰もお前を信じない。
胸の奥が冷える。
次に浮かんだのは、裁きの間だった。
高い席から見下ろす裁判官。
供述書に並んだ四人の名前。
誰も庇わなかったこと。
それから、北方鉱山。
凍える風。
割れた爪。
血の滲む手。
首輪の痛み。
二年間。
俺の人生は、あの四人のせいで、二年間も地の底に落ちた。
それでも、まだ俺は。
あいつらの心配をしているのか。
情けなさに、吐き気がした。
「……俺は、馬鹿ですよね」
思わず漏れた声に、大神官が眉を寄せる。
「どうしてですか」
「だって」
笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「あいつらは、俺を切り捨てたんです。冤罪まで着せて、奴隷に落として、それでも平気だった」
言葉にするたび、胸が擦り切れる。
「なのに俺は、加護を消したら危ないかもしれないって、それを先に考えてる」
視界がぼやける。
「こんなの……馬鹿みたいだ」
大神官は、しばらく何も言わなかった。
慰めの言葉を探しているわけではない。
ただ、俺が吐き出すのを待っているようだった。
「守りたかったんです」
気づけば、続きが出ていた。
「役に立たないって思われても、足手まといって言われても、せめて無事でいてほしかった」
自分でも情けない。
でも、それが本音だった。
「だから追放された夜も、祈ってしまった。もう必要ないのに。それでも、みんなが無事ならいいって」
大神官は静かに聞いていた。
「……そんな人間だから、こうなったのかもしれません」
弱くて。
流されて。
最後まで切り捨てられない。
俺はそういう人間なのだと、自分で思っていた。
けれど、大神官は首を横に振った。
「違います」
声は静かだった。
でも、きっぱりしていた。
「あなた様が誰かを守ろうとすることは、弱さではありません」
俺は顔を上げる。
大神官はまっすぐ俺を見ていた。
「ですが」
そこで一度、言葉を切る。
「守ることと、利用され続けることは違います」
その一言が、胸の奥に深く落ちた。
利用され続ける。
その通りだった。
俺は守っていたつもりだった。
でも実際には、裏切った相手にすら、自分を削って使われ続けていた。
知らないうちに。
追放されたあとも。
奴隷に落ちたあとも。
大神官は続ける。
「あなた様が今まで守ってきたことまで、否定する必要はありません」
その声音は、どこまでも穏やかだった。
「ですが、これから先も、あなた様を踏みつけた者たちのために削れ続ける義務はない」
義務はない。
その言葉を、俺は今まで一度も自分に許したことがなかったのかもしれない。
「あの四人を助けるかどうかを決めるのは、あなた様です」
大神官の指先が、そっと俺の胸元を示す。
「あなた様の意思で、です」
自分の意思。
それは、あまりにも久しぶりの言葉だった。
追放される時も。
裁判の時も。
奴隷に落とされた時も。
俺の意思なんて、どこにもなかった。
ただ言われるまま、流されるまま、潰されてきた。
でも、今だけは違う。
消すか。
残すか。
それを決めるのは、俺だ。
怖かった。
この選択が、どこかで誰かの命に触れるかもしれないと思うと、怖くてたまらなかった。
それでも。
俺はゆっくり息を吸った。
冷えた空気が肺に入る。
胸の奥の四本の糸に意識を向ける。
一本は熱くて荒い。
一本は鋭く張っている。
一本は冷たく揺らぐ。
一本は、かすかに震えていた。
カイル。
セリア。
ロイド。
ミーナ。
みんな違う感触だった。
それが妙に、生々しかった。
「……やり方を、教えてください」
自分の声とは思えないくらい、小さかった。
でも、たしかに言った。
大神官の表情が、ほんのわずかに和らぐ。
「はい」
彼女は椅子から立ち、俺の前へ回り込んだ。
「目を閉じてください」
言われるまま、目を閉じる。
「胸の奥にある聖印を意識します。熱の中心です」
熱の中心。
意識を向けると、たしかにそこだけ少し明るい。
見えているわけじゃない。
でも、暗闇の中でそこに何かがあるとわかる。
「本来、あなた様はそこから外へ向かって加護を流し続けています」
大神官の声が、近くで静かに響く。
「解除は逆です。流れを止め、刻まれた聖印を逆回転させるイメージを持ってください」
逆回転。
難しい。
そもそも、自分が回していた自覚なんてなかった。
「うまく、できるかわかりません」
「最初から完全にできなくても構いません」
すぐに返ってくる。
「思い出せなくても、身体と魂は覚えています」
俺は浅く息を吐いた。
胸の奥の熱を掴むように、意識を集中させる。
すると、四本の糸がわずかに震えた。
まるで、何かを察したみたいに。
怖い。
今さらになって、指先が冷える。
だが、ここで逃げたら、また同じだ。
自分の意思を持たないまま、ただ誰かに使われ続けるだけだ。
「……止まれ」
声に出した途端、胸の奥がどくりと脈打った。
熱の流れが、ほんの少しだけ鈍くなる。
大神官が息を呑む気配がした。
「そのままです」
もっと深く。
もっと奥へ。
熱の中心には、見えない輪のようなものがあった。
今までずっと同じ向きに回っていた何か。
それに、指をかけるような感覚で触れる。
重い。
回らない。
歯車みたいに噛み合って、びくともしない。
「……っ」
こめかみが痛む。
首輪も熱を持つ。
大神官の声が落ちてくる。
「無理に力を入れないでください。命じるのではなく、引き戻すのです」
引き戻す。
外へ伸びたものを。
自分の内側へ。
俺はもう一度、四本の糸を感じた。
カイルの糸に触れた瞬間、嫌な笑い声が脳裏に蘇る。
セリアに触れれば、冷たい視線が刺さる。
ロイドに触れれば、淡々と切り捨てる声が響く。
ミーナに触れれば、目を逸らしたあの一瞬が浮かぶ。
苦しい。
痛い。
でも、それでいいと思った。
これは、俺が受けたものだ。
俺の中に残っているものだ。
だったら、俺が終わらせなきゃいけない。
「帰ってこい」
誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。
糸へ向けたのか。
熱へ向けたのか。
それとも、自分自身へなのか。
その瞬間。
ごり、と胸の奥で何かが軋んだ。
回らなかった輪が、ほんのわずかに逆へ動く。
「……あ」
熱が、揺れた。
大神官の声が、震えている。
「できています。そのまま」
俺は息を止めたまま、さらに意識を沈める。
輪は重い。でも、一度動き始めると、少しずつ逆へ回り出した。
同時に、外へ伸びていた四本の糸が、一本ずつ張り詰める。
最初に切れたのは、いちばん荒くて重い糸だった。
ぶつん、と。
胸の奥に鈍い衝撃が走る。
カイルの気配が消えた。
次に、鋭く張り詰めた糸。
ぴしり、と細い痛みを残して、セリアとの繋がりが消える。
三本目は、冷たく揺らぐ糸。
それが切れた瞬間、頭の奥で魔力がはじけるような感覚が走った。
ロイドだと、なぜかわかった。
最後に残った一本は、かすかに震えていた。
ミーナ。
その名が、胸の内で静かに浮かぶ。
たったそれだけのことで、指先が迷った。
ありがとう、と小さく言ってくれたことがあった。
傷を押さえながら礼を言ってくれた、その声だけは今でも覚えている。
でも、同時に思い出す。
裁きの場で、彼女は何も言わなかった。
俺を庇わなかった。
それが答えだった。
「……さよならだ」
かすれた声で、そう呟いた。
最後の糸が、静かにほどける。
音はしなかった。
でも、胸の奥に長く残っていた熱が、その瞬間すうっと消えた。
あまりにもあっけなくて、俺はしばらく呼吸の仕方を忘れた。
終わった。
二年間、知らないうちに俺を縛っていたものが、終わった。
同時に、言いようのない喪失感が胸に広がる。
苦しかったはずなのに。
重かったはずなのに。
なくなった途端、そこに穴が空いたみたいだった。
「っ……」
目を閉じたまま、前へ崩れそうになる。
大神官がすぐに肩を支えた。
「大丈夫です」
その声が、ひどく遠く聞こえた。
「全部、切れました」
俺はゆっくり目を開ける。
部屋はさっきと同じはずなのに、少しだけ違って見えた。
胸の奥にあった熱が消えたせいで、世界の温度まで変わったみたいだった。
「……本当に」
唇が震える。
「終わったんですね」
大神官は、静かに頷いた。
「はい」
それだけだった。
責める言葉もない。
褒める言葉もない。
ただ、その一言だけが、妙に重かった。
俺は俯き、自分の手を見た。
痩せて、傷だらけで、爪も割れている手だ。
何かを守れるような手には見えない。
でも、この手で、今、初めて線を引いた。
守りたかった気持ちまで嘘だったとは思わない。
助けたかった気持ちも、たしかに本物だった。
けれど、もう終わりでいい。
利用され続けるのは、ここで終わりにしていい。
そう思った瞬間、張り詰めていたものが切れた。
気づけば、涙が落ちていた。
「……ごめんなさい」
何に対しての謝罪なのか、自分でもわからなかった。
過去の自分か。
守ろうとしていた相手か。
それとも、ようやく手放した今の自分か。
大神官は何も言わず、ただ俺の前に跪いた。
その姿が滲んで見える。
「あなた様は、よく戻ってきてくださいました」
優しい声だった。
俺は首を振る。
まだ戻れてなんかいない。
自分が何者だったのかも、全部はわからない。
Sランクだと言われても信じきれない。
それでも。
胸の奥から消えた熱の代わりに、今までなかった空白が残っていた。
その空白は、不思議と嫌なだけじゃなかった。
ここからなら。
もしかしたら、本当に自分の意思で何かを選び直せるのかもしれない。
遠く離れたどこかで、何かが大きく崩れる気配がした。
けれど俺は、もう目を逸らさなかった。
引き続き読んでいただけると嬉しいです。
よければ感想やブックマーク、評価なども励みになります。




