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第8話 記憶喪失の真実

静寂が破れたのは、俺が片膝をついた数拍あとだった。


「負傷者を下がらせろ!」


「浄化班、残留瘴気の確認を!」


「第三坑道の崩落箇所も見ろ、まだ埋まってる者がいるかもしれん!」


止まっていた時間が、一気に動き出したみたいだった。


さっきまで息を呑んでいた聖騎士たちと神官たちが、我に返ったように走り回る。

白い法衣が揺れ、怒鳴り声と足音が坑道に反響する。


俺はその場から立ち上がれなかった。

右腕が熱い。

痛いというより、熱そのものになったみたいだった。

首輪もじりじりと首元を焼いていて、浅い息しかできない。


「こういち!」


ガドが、まだ足を引きずりながらこっちへ来ようとした。

マルタ婆さんがその腕を掴んで止める。


「無理しなさんな! あんたも怪我してるだろ!」


「でもよ……!」


二人のやり取りを見て、少しだけ力が抜けた。

生きてる。

ちゃんと、生きてる。

それだけで、心が熱くなった。


「だ、大丈夫か……?」


ガドが、さっきまでとはまるで違う顔で俺を見る。

驚きと、怯えと、戸惑いが全部混ざっていた。

無理もない。ついさっきまで、同じ罪人奴隷だった俺が、瘴獣を拳で砕いたのだ。


大丈夫だと答えたかった。

でも、声が出なかった。

代わりに、こくりと小さく頷く。

その瞬間、すぐ近くで低い声が飛んだ。


「大神官様、その者から離れてください」


聖騎士の一人だった。


剣を抜いてはいない。

けれど、明らかに俺を警戒している。


「罪人奴隷が首輪をつけたまま、あのような力を使いました。何らかの異常が――」


「異常なのは、この方ではありません」


大神官の声が、すっと空気を裂いた。

静かな声なのに、その場の誰もが口を閉ざす。


「まずは負傷者の救護を優先しなさい。この方には、誰も無礼を働かないように」


聖騎士は一瞬だけ言葉に詰まり、それでもすぐには引かなかった。


「しかし――」


「責任は私が持ちます」


大神官はきっぱりと言った。


その一言で、騎士はようやく黙った。

納得したわけではないのが、顔を見ればわかる。

神官たちの視線も痛かった。

罪人奴隷を見る目と、さっきの戦いを見たあとの困惑した目が混ざっている。

俺はその視線に耐えきれず、思わず俯いた。


「すみません……」


気づけば、また謝っていた。


「勝手に、出て……」


何に対して謝っているのか、自分でもわからない。

でも、謝る以外のやり方を知らなかった。


大神官は、そんな俺の前にしゃがみ込む。


「謝らないでください」


その言い方は、ひどく優しかった。


「あなた様がいなければ、今ここで何人死んでいたかわかりません」


俺は首を振った。


「でも、俺は……」


言いかけたところで、視界がぐらりと揺れる。

さすがに限界だった。

大神官がすぐに俺の身体を支えた。

白い法衣の袖から、かすかに香草みたいな匂いがした。


「立てますか」


「……たぶん」


本当はあまり立てる気がしなかった。

でも、また迷惑をかけたくなくて、無理やり足に力を入れる。

大神官は俺の様子を見て、小さく息をついた。


「こちらへ。少し休める部屋があります」


「俺、罪人奴隷です」


反射的にそう言っていた。


「そんなところに入ったら、駄目なんじゃ……」


大神官の眉が、わずかに寄る。


「今のあなた様に必要なのは、罰ではなく保護です」


その言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。


保護。

俺が。

そんなことを考えているうちに、大神官は俺の肩を支えたまま歩き出す。

周囲の神官や騎士たちが、驚いた顔で道を空けた。


背後で、ガドが小さく呼ぶ声がした。


「こういち……」


振り返ると、マルタ婆さんが黙って頷いていた。

皺だらけの顔なのに、その目だけは妙にはっきりしていた。


いってこい。


言葉にはしないのに、そう言われた気がした。

俺は小さく頷き返し、大神官とともに坑道を後にした。



通されたのは、視察団のために使われていた石造りの部屋だった。


戦いの音は遠くなっていたが、完全には消えていない。

外ではまだ兵士たちが走り回っているのだろう。

部屋の中は暖かかった。ランプの灯りが揺れていて、卓の上には白い布と水差し、それに薬草の入った小鉢まで置かれている。


俺は椅子に座らされる。

途端に、全身の力が抜けた。


右腕の熱がじくじく疼く。

首輪も重い。

戦いの最中は忘れていた傷や疲れが、まとめて身体に戻ってきたみたいだった。


大神官は、若い神官に短く言う。


「絶対に、誰も入れないでください」


「は、はい」


「それと、この方のことを外で勝手に話さないように」


神官は戸惑いながらも頭を下げ、部屋を出ていった。


扉が閉まる。

また、俺と大神官だけになった。


昼も、夜の呼び出しの時もそうだった。

でも今は、その二人きりが前よりずっと落ち着かなかった。


大神官は俺の前に膝をつき、焼けたみたいに赤くなっている右手を見る。


「見せてください」


「あ……」


拒む理由もなく、言われるまま差し出す。


大神官の指先が、そっと拳の上に触れた。

ひやりとした感触が熱を少しだけ和らげる。


「骨は折れていません」


本当に触れただけだった。

それだけでわかるのか、と驚く。


「ただ、無理やり聖力を通した反動が出ています。しばらく痺れは残るでしょう」


そう言いながら、大神官は淡い光を俺の腕に流した。

派手な回復ではない。

でも、皮膚の下のひりつきが少しずつ引いていくのがわかった。


「……すごい」


ぽろりと漏れた言葉に、大神官は少しだけ目を伏せる。


「あなた様に比べれば、微々たるものです」


やっぱり、その言い方に慣れない。


「やめてください」


思わず言った。

大神官が顔を上げる。


「そんなふうに、俺なんかに……」


喉が詰まる。


「俺は、ただの罪人奴隷です。今日だって、何が起きたのかよくわかってません。拳が勝手に動いただけで……」


大神官はしばらく黙っていた。

それから、静かに聞いた。


「ご自身の過去を、どこまで覚えていますか」


唐突な問いに、俺は瞬きをした。


「過去……?」


「はい。勇者パーティーに入る前。あるいは、それよりさらに前のことを」


胸が、ひやりとした。

俺は視線を落とす。


「……あまり」


「あまり、とは?」


問い詰める口調ではない。

でも、曖昧にはできない問い方だった。


「覚えてないことが、多いです」


ぽつり、ぽつりと答える。


「教会で見習いみたいなことをしてた記憶はあります。でも、その前のことになると……ところどころ、すごく曖昧で」


言葉にするのは、少し怖かった。

今まで、自分でもなるべく考えないようにしていたことだからだ。


「時々、変な夢を見るんです」


大神官の瞳がわずかに揺れる。


「白い大聖堂とか。地下へ続く長い階段とか。血の匂いとか」


自分の胸の奥を探るみたいに、ゆっくり言葉を出す。


「あと、眩しい光……。誰かを殴ってるみたいな感覚とか。でも、目が覚めると、何も残ってなくて」


そこまで話したところで、大神官が目を閉じた。


長い睫毛が、かすかに震えている。


「やはり……」


ひどく小さな声だった。


「あなた様は、記憶を失っています」


俺は息を止めた。

記憶を、失っている。

その言葉は、どこかで一度、自分でも疑ったことがある。

でも、他人の口から断言されると、足元が崩れるような感覚がした。


「どういう……ことですか」


大神官はゆっくり立ち上がり、卓の向こう側ではなく、俺の正面に椅子を引いて座った。

向かい合う形になる。


「先ほど奮った拳に白い光、本来の魔法は、普通の治癒術ではありません」


それは、さっきも聞いた。

瞬間的に傷を塞ぐ回復ではなく、傷ついても倒れない身体を作る持続型の加護だと。

大神官は続ける。


「その中でも、最も深いものが《永続聖印》です」


知らない名前なのに、胸の奥がぴくりと反応した。


「対象の肉体、魔力、精神に聖なる印を刻み、長期間にわたって支え続ける魔法です。疲労を和らげ、自然治癒を促し、毒や呪い、瘴気への耐性を高め、魔力の乱れまで補正する」


大神官の声は静かだった。

けれど、一言一言が重い。


「あなた様はそれを、自分にも他人にも重ねがけできる方でした」


重ねがけ。

その言葉を聞いた瞬間、頭の奥で何かが擦れた。


暗い夜。

血の匂い。

自分の胸に触れる指先。

何度も、何度も、何かを刻む感覚。


「っ……」


こめかみの奥がずきりと痛んだ。

大神官がすぐに声を落とす。


「無理に思い出さなくて構いません」


「でも……」


「今は、説明を聞いてください」


俺は荒くなった呼吸を整えながら、なんとか頷く。

大神官は膝の上で両手を重ねた。


「《永続聖印》は強力すぎる魔法です。本来なら、人ひとりが長期間維持できるものではありません」


その声に、わずかな痛みが滲む。


「けれど、あなた様はそれを使い続けた」


「……どうして」


「守るためです」


即答だった。


「多くの人を」


部屋が、しんと静まる。

大神官の瞳の奥に、ただの尊敬ではないものが見えた。

もっと古くて、もっと深い、祈りに近い感情。


「あなた様は、誰かを生かすために、ご自身を削り続けました」


胸が苦しい。


「《永続聖印》は、長く維持するほど術者の精神と記憶を削ります。だからあなた様は、少しずつ忘れていったのです」


大神官の声が、静かに落ちてくる。


「ご自身が誰なのか。どんな戦い方をしていたのか。どんな魔法を使っていたのか」


俺は唇を噛んだ。


「じゃあ……俺が何もわからないのは」


「弱いからではありません」


すぐに否定される。


「失ったのです。守りすぎた代償として」


その言葉に、何も返せなかった。

俺はずっと、自分が足りないからだと思っていた。

回復魔法が弱いから。

勇者パーティーにいるには役立たずだったから。

だから追放されたのだと。


でも、もし本当に。

本当に俺が、忘れてしまっているだけなのだとしたら。


「俺は……」


声が震える。


「俺は、自分がSランクだとか、最強だとか、そんなの全然信じられません」


大神官は黙って聞いている。


「今だって、怖かったんです。瘴獣に向かった時だって、ずっと。たまたまうまくいっただけかもしれない」


正直な言葉だった。

格好なんて、少しもつかない。


「それでも構いません」


大神官は、はっきりと言った。


「信じられないなら、今すぐ信じなくてもいいのです」


思ってもみなかった返しに、俺は顔を上げる。


「大切なのは、記憶が戻る前から、貴公の身体と魂が同じ答えを出していることです」


大神官は、俺の胸元を見る。


「戦場で、あなた様の足は前へ出た。今日も、人を見捨てられなかった」


逃げられなかっただけかもしれない。

そう思った。

でも、その言葉をすぐには口にできなかった。

なぜなら、あの時たしかに、自分の中の何かが迷わず動いたからだ。


大神官はさらに続ける。


「そして、忘れているのは、力だけではありません」


嫌な予感がした。


「《永続聖印》の解除方法も、です」


胸の奥が、どくんと脈打つ。


曖昧な熱。

追放された夜から、ずっと消えなかったあの感覚が頭をよぎる。

大神官は、俺の反応を見逃さなかった。


「心当たりがありますね」


「……あります」


もう隠せなかった。


「カイルたちに追放されたあとも、胸の奥が熱かったんです。牢に入れられても、首輪をつけられても、完全には消えなくて」


大神官は、静かに頷いた。


「それが《永続聖印》です」


喉が、からからに乾いた。


「あなた様は、勇者パーティーの四人に《永続聖印》を刻んでいました」


やっぱり、と思うより先に、寒気が走った。


「今も?」


問い返した声は、驚くほど小さかった。

大神官は答える。


「今も、です」


その一言が、刃みたいに胸へ刺さった。

俺は知らないうちに、あの四人を支えていた。

追放されたあとも。

冤罪で逮捕されたあとも。

罪人奴隷に落とされたあとも。

二年間、ずっと。


「そんな……」


吐き気がした。

俺の人生を壊した相手を、俺は今も守っているのか。

大神官は、そこで少しだけ身を乗り出す。


「勘違いしないでください」


その声は強かった。


「解除できないのではありません」


まっすぐ、断言する。


「忘れているだけです」


心臓が跳ねた。


「本来なら、あなた様なら解けるはずです」


大神官の目は揺らがない。


「解除の術式は、今もあなたの中に残っています。思い出せなくても、身体と魂は覚えています」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥の熱が、かすかに脈打った。

まるで、遠く離れたどこかへ伸びる見えない糸が、四本だけ震えたみたいだった。


カイル。

セリア。

ロイド。

ミーナ。


名前が、勝手に浮かぶ。

俺は息を呑んだ。

大神官は、その反応を見て確信したように言う。


「感じたでしょう」


「……はい」


声がかすれる。


「今も、繋がってる」


自分で言っていて、気持ち悪かった。

悔しかった。

悲しかった。

でも、それが事実だった。

大神官はゆっくり頷く。


「あなたがそれを望めば、その繋がりは断てます」


部屋の空気が、一瞬止まった気がした。

俺は大神官の顔を見た。


「断てる……?」


「はい」


大神官の声は静かで、でも決して優しいだけではなかった。


「こういち様が望めば、あの四人への加護は消せます」


引き続き読んでいただけると嬉しいです。

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