第23話 礼拝堂の夜
七日目の夜、礼拝堂の中は最初の日よりずっと人の気配があった。
割れた窓には布が張られ、祭壇の脇には買い足した食料と水が並ぶ。
古い机の上には地図と紙束、薬瓶、王都近郊の簡単な見取り図。
火の回りには、乾かした包帯がきちんと掛けられていた。
たった一週間なのに、ただの廃墟だった場所が、妙に生活の匂いを持ち始めている。
俺は暖炉の前で鍋をかき混ぜながら、その変化をぼんやり眺めていた。
豆と乾き肉、それに買ってきた根菜を煮ただけの薄いスープだ。
でも、最初の日よりはずっとまともな食事だった。
「いい匂いです」
後ろから声がして、振り返る。
礼拝堂の扉を閉めたばかりのアイズが、少しだけ疲れた顔で立っていた。
今日は昼から一人で町へ出ていたのだ。
外套の裾に泥が跳ね、指先は冷えて赤くなっている。
「遅かったですね」
「思ったより長引きました」
荷を机へ置きながら、彼女は肩を回す。
その動きが、いかにも疲れている。
「何か拾えましたか」
「いくつか」
答えつつ、アイズは頭巾を外した。
結っていた銀髪が、肩へさらりと落ちる。
ここ数日ずっと隠していたからか、その色だけ妙に眩しく見えた。
「巡礼者用の通用門は、予定通り使えそうです」
ひとつ指を折る。
「王都の南側は、いま勇者パーティーの名で検問が強くなっている」
ふたつ。
「代わりに、古い神殿街の裏側は人手が薄い。そこからなら入れる可能性が高いです」
みっつ。
「それと」
そこで、彼女は少しだけ声を落とした。
「ハイル村の子どもの証言が、完全には消されていません」
胸の奥が小さく動く。
「石を投げた、あの子ですか」
「ええ」
アイズは頷く。
「『首輪の男が熱を下げた』『何も言わず出ていった』という話までは、まだ細く残っています」
それを聞いて、妙に複雑な気分になった。
救われるような、苦いような。
「ただ」
アイズは続ける。
「大人たちは、ほとんど信じていません。混乱していた子どもの思い込みで処理しています」
「でしょうね」
そう言うしかなかった。
「でも、消えてはいない」
その一言だけで、少しだけ違った。
完全な無ではない。
細くても、どこかに残っている。
食事のあと、アイズは机に地図を広げたまま動かなくなった。
顔色が悪い。
指先も、紙を押さえる力が少し弱い。
「アイズ」
呼んでも返事が遅い。
「座ってください」
「座っています」
「そういう意味じゃなくて」
さすがに強めに言うと、彼女は一瞬だけ目を瞬いた。
それから、ほんの少しだけ諦めたように椅子へ深く腰掛ける。
「手、見せてください」
「こういち」
「見せてください」
今度はこっちが言い切った。
アイズは何か言い返しかけたが、結局黙って手を差し出した。
指先は冷え、細かな傷がいくつも増えている。
買い物袋の紐か、古い鍵か、何かで擦ったのだろう。
俺は湯で濡らした布で、その手を拭った。
泥を落とし、小さな裂け目へ薄く薬を塗る。
「あなた、こういう時だけ少し強いですね」
静かな声が落ちる。
「こういう時だけじゃないです」
「そうでしたか」
「たぶん」
自分で言っておいて曖昧だった。
でもアイズは少しだけ笑った。
「たぶん、で押し通すつもりですか」
「善処します」
「それは信用できません」
聞き覚えのあるやり取りだった。
薬を塗り終えたあとも、手はすぐ離さなかった。
少し温まるまで、そうしていたかった。
アイズも引っ込めない。
火の音だけが、礼拝堂の中で細く鳴っていた。
「……この一週間」
不意にアイズが言う。
「思ったより、長かったです」
「短くはなかったですね」
「でも、短かった」
どっちなのかわからないことを、妙に真面目な顔で言う。
「追われているのに、変な話です」
そのまま、彼女は視線を火へ落とす。
「王都にいた時より、ずっと慌ただしいはずなのに」
言葉が少し途切れる。
「少しだけ、息がしやすかった」
返答に迷った。
それはたぶん、俺も同じだったからだ。
礼拝堂は寒くて、痛くて、外へ出ればすぐ捕まりかねない場所だった。
でも、ここには少なくとも、首輪だけ見て何かを決める人間がいなかった。
「俺も」
気づけば、そう言っていた。
アイズが顔を上げる。
「少しだけ、ですけど」
そのくらいしか言えない。
けれど、十分だったらしい。
彼女は小さく目を細める。
「それならよかった」
その言い方が、妙に優しかった。
夜が深くなる頃、火は弱くなり、礼拝堂の空気も静まっていった。
アイズは机へ向かったまま、地図に最後の印を書き込む。
俺はその横で包帯を畳む。
どちらも黙っていたが、不思議と居心地は悪くない。
やがて、彼女の手が止まった。
「終わりました」
紙の上には、王都へ入るための細い道筋ができていた。
裏道。小川。古い神殿壁。巡礼門。
「明日の夜、出ます」
「わかりました」
即答したあとで、少しだけ寂しい気がした。
ここを出れば、また追われる側へ戻る。
当たり前のことなのに、礼拝堂の火の前で過ごした七日が、思っていたより染みていたらしい。
「どうしました」
顔に出たのか、アイズが聞いてくる。
「いえ」
少し迷ってから、正直に言い直す。
「ここ、思ったより落ち着きました」
アイズは意外そうに目を丸くした。
それから、ふっと笑う。
「同感です」
そのまま彼女は立ち上がると、寝台の脇へ来て、俺の額へ手を当てた。
熱を測るいつもの仕草だ。
もう慣れたはずなのに、近づかれるたび少しだけ心臓がうるさい。
「熱はなし」
小さく呟き、でも手はすぐに離れなかった。
「包帯、明日もう一度巻き直します」
「はい」
「勝手にどこかへ行かないこと」
「行きません」
「本当に?」
「たぶん」
その瞬間、アイズが本気で嫌そうな顔をした。
「だめです」
「冗談です」
「今のは笑えません」
叱られた。
けれどその顔が妙に可笑しくて、少しだけ笑ってしまう。
脇腹はもうそれほど痛まなかった。
アイズは呆れた顔のまま、最後に額を軽く指で弾いた。
「明日からは、本当に逃げます」
静かな確認だった。
「はい」
「礼拝堂ごっこは終わりです」
「ごっこだったんですか」
「少なくとも、永住ではありません」
それはそうだ。
でも、言葉にされると少し惜しい。
「アイズ」
「何ですか?」
少し迷ってから、結局そのまま聞いた。
「なんで、そんなに俺に構うんですか」
アイズが瞬きをする。
意外そうでもあり、どこか困ったようでもあった。
「いまさらですね」
「いまさらですけど」
正直、それを聞くのは少し怖かった。
教会番付一位だからとか、切り札だからとか、保護対象だからとか。
理屈なら、いくらでもある。
でも、それだけじゃない何かがある気がしていた。
アイズはしばらく黙ったまま、火を見ていた。
やがて小さく息を吐く。
「昔、助けてくれた人がいたんです」
その言葉に、胸の奥がわずかに動いた。
「私は、その人を見て僧侶になりました」
声は静かだった。
礼拝堂の火の音に溶けるくらい静かなのに、不思議とはっきり耳へ残る。
「ひどく無茶をする人でした」
ほんの少しだけ、アイズの口元が緩む。
「自分の傷なんて後回しで、目の前に倒れている人の方を先に拾うような」
火を見つめたまま、続ける。
「泥だらけで、血まみれで、祈るより先に前へ出るような人でした」
どこかで聞いたことのある言い方だった。
いや、聞いたことがあるんじゃない。
胸の奥の、名前のつかない場所がそれを知っている気がした。
「だから」
アイズはそこで、ようやくこっちを見る。
「私は、あの人の振る舞いを真似しているだけです」
それはひどく落ち着いた声だった。
照れでもなく、言い訳でもなく、ただ事実を置くみたいな言い方だった。
「それって……」
そこまで言って、喉の奥で言葉が止まる。
何を聞けばいいのか、自分でもわからなかった。
その人は誰なのか。
どこで会ったのか。
どうしてその話が今の俺に繋がる気がするのか。
けれど、そこから先を口に出した瞬間、何かが決定的になってしまう気がした。
アイズは、それ以上は言わなかった。
ただ少しだけ目を細めて、火の方へ視線を戻す。
「大した話ではありません」
小さくそう言ったが、たぶん大した話ではあるのだろう。
アイズは火を見下ろしながら、ぽつりと続けた。
「終わる前に、一つだけ」
「何ですか」
彼女は少しだけ迷ってから、俺の肩へ頭を預けた。
ほんの一瞬、呼吸が止まる。
「……五分だけ」
顔は見えなかった。
銀髪が肩へ落ち、火の匂いと薬草の匂いが近くなる。
「働きすぎです」
小さく言うと、肩越しに息が漏れた。
笑ったのか、呆れたのかはわからない。
でも、離れなかった。
俺も動かなかった。
たった五分だけのはずなのに、その時間は不思議なくらい長く感じた。
礼拝堂の七日目の夜は、そうして静かに更けていった。
明日になれば、また王国の中へ入る。
紙に書かれた都合のいい罪人と、顔の見えない襲撃者と、教会と王国の思惑の中へ戻っていく。
それでも、この一週間が無駄ではなかったことだけは、もうわかっていた。




