第24話 夜の巡礼門
礼拝堂を出た時、空はもう完全に夜へ沈んでいた。
昼の名残りはどこにもない。
木々の隙間に薄い月が引っかかり、湿った土の上へぼんやりした影だけを落としている。
アイズは火を消した礼拝堂を一度だけ振り返り、それから何も言わず外套の頭巾を深く被った。
俺も首元の布を巻き直す。
首輪の感触が、布の下で鈍く冷えていた。
「馬はここまでです」
林を抜ける前に、アイズが小声で言う。
「王都の近くまで連れていけば、足がつきます」
たしかにそうだ。
街道外れで馬を捨てた旅人の話はあっても、検問の強い王都周辺へ馬で近づけば、それだけで記憶に残る。
俺たちは沢沿いの古い小屋へ馬を預けた。
誰も使っていない薪置き場みたいな場所だ。
水桶と干し草を残し、手綱を緩める。
馬は鼻を鳴らしただけで、文句を言わなかった。
「すみません」
思わずそう言うと、アイズがちらりと見た。
「馬にですか」
「はい」
「優先順位が少しおかしいですね」
小さく呆れたみたいに言われる。
けれど、その声音は尖っていなかった。
「でも、同意します」
そう付け足されて、少しだけ肩の力が抜けた。
王都までは、礼拝堂から二日の距離だった。
けれど、この一週間で俺たちは少しずつ位置をずらしている。
今日は最後の半刻だけを、夜に紛れて詰める形だった。
道と呼べるほど整っていない細道を歩く。
古い農地の境を縫い、使われなくなった祠の裏を抜け、誰もいない水車小屋の脇を通る。
月明かりが雲に隠れるたび、アイズの外套の裾だけが頼りになった。
「足元、大丈夫ですか」
前を向いたままアイズが聞く。
「まだ」
答えかけて、やめた。
正直に言えば、脇腹はまだ痛む。
でも、一歩ごとに響いていた最初の日とは違う。
この一週間で、少なくとも歩くだけならどうにかなっていた。
「……たぶん」
言い直すと、アイズが小さく息を吐いた。
「その返答、本当に便利ですね」
「すみません」
「今のは謝らなくていいです」
そう言ったすぐあとで、前方の闇がふっと開けた。
王都の外壁だった。
高い。
月明かりの下でも黒々とわかる石壁が、夜の空を横に断ち切っている。
いくつもの塔に灯りが点り、正門のあたりだけが遠く明るい。
馬車の列、兵の呼び声、金具のぶつかる音が、風に乗ってかすかに届いていた。
「あれが南門です」
アイズが言う。
「いまは勇者パーティーの名で検問が強化されているはずです」
遠目にもわかった。
門前の篝火は普段より多いのだろう。
出入りの列がまだ夜更け前だというのに途切れていない。
「正面から行ったら、何刻も待たされますね」
「待たされるだけで済めばいい方です」
きっぱり返される。
それはそうだ。
「こっちです」
アイズは大通りへ向かわず、壁沿いの暗がりへ進んだ。
古い畑跡の石垣に沿って歩き、崩れかけた小礼拝堂の裏を抜ける。
やがて、蔦に半分埋もれた細い石段が見えた。
上った先にあったのは、人ひとり分しか通れないような古い通用口だった。
扉そのものはない。
代わりに、錆びた鉄格子が内側へ寄せられている。
「巡礼門です」
アイズが低く言う。
「昔は病人や徒歩の巡礼者がここから入っていました」
石へ手を当て、わずかに力を込める。
鉄格子が軋んだ。
完全には閉じられていないらしい。
「今は」
「ほとんど忘れられています」
言い終わる前に答えが返る。
「便利ですね」
「不便だから忘れられたんです」
その理屈はもっともだった。
俺たちは身体を横にして、その隙間から中へ滑り込んだ。
王都の夜は、外から見たよりずっと近かった。
壁の内側へ入った瞬間、空気の匂いが変わる。
石畳に染みた水、古い香、焼いた肉、酒、川から上がる湿気、そして人の暮らしの匂い。
古い神殿街の裏側は、正門近くの華やかさとは別の顔をしていた。
狭い石畳の路地に、小さな礼拝堂や巡礼宿の名残りが肩を寄せ合っている。
閉じた木戸の向こうから祈りの声が漏れる家もあれば、酒場の裏口で酔い潰れている男もいる。
明るくはない。
だが、完全な闇でもない。
人がひとり消えるには狭く、人目を避けるにはちょうどいい、そんな半端な場所だった。
「ここからは普通に歩いてください」
アイズが囁く。
「隠れる方が怪しいです」
普通に歩けるなら苦労しない、と思ったが、言わなかった。
背筋を伸ばし、できるだけ足を引きずらないように歩く。
二度ほど巡回の聖騎士とすれ違った。
ひとりは眠そうにあくびを噛み殺し、もうひとりはこっちを一瞬見ただけで通り過ぎる。
ありがたいような、ぞっとするような気分だった。
見られないのは楽だ。
でも、見られないまま紙だけで人が狩られる場所でもある。
少し先の広場に、人だかりが見えた。
掲示板だ。
アイズは一度立ち止まり、それから遠回りせず、そのまま横を抜ける道を選んだ。
逃げる方が不自然だと判断したのだろう。
人だかりの声が、すぐ耳へ入る。
「大神官様が行方不明って、本当なのか」
「本当だとよ。あの銀髪の方だろ」
「首輪つきの男が連れて消えたとか」
「でも、村の方では別の化け物を見たって話もあるらしいぜ」
「どっちにしろ、ろくでもないな」
化け物。
その単語だけが、妙に引っかかった。
吸血鬼とはまだ結びついていない。
ただ、説明のつかない何かとして、人の口に乗り始めている。
俺は歩幅を変えずに通り過ぎた。
アイズも何も言わない。
でも、袖の下で彼女の指先が一瞬だけ触れた。
そこから先は、もう人気の少ない路地だった。
「今の、聞きましたか」
小声で聞くと、アイズは頷く。
「ええ。まだ形は弱いですが、吸血鬼の女の存在に繋がる噂は少しずつ残っています」
「でも、俺の話の方が強い」
「紙で回る情報の方が強いのは当然です」
即答だった。
「だから、こっちも紙と記録を押さえます」
そこでようやく、この人が王都へ入ることを本気で現実にしているのだと思った。
逃げ込んだのではない。
狙って入ったのだ。
アイズが案内した先は、古い施療院の跡だった。
今は半分以上使われていないらしい。
表の看板は外れ、石の十字も欠けている。
けれど裏口はまだ生きていて、合鍵なのか、細い針のような道具を使ってアイズが鍵を開けた。
「そんなことまでできるんですね」
思わず言うと、彼女は扉を押し開けながら肩をすくめる。
「大神官は、見たくないものを見ないまま仕事はできません」
答えになっているようで、たぶんあまりなっていない。
中は暗かった。
長く人が寝泊まりしていない匂いがする。
それでも礼拝堂よりはずっとましだった。
床は乾いていて、窓も割れていない。
二階の隅に残っていた小部屋へ入ると、簡素な寝台が二つ、布を被った机がひとつ、洗い桶がひとつ置かれていた。
「今夜はここです」
アイズが灯した小さな明かりが、部屋の輪郭をぼんやり浮かべる。
「明日から分かれて動きます」
「もう?」
「ええ」
容赦がなかった。
「私は大聖堂の記録庫へ近づきます」
地図を広げながら続ける。
「あなたは、まだ表へ長く出ないでください。まずはこの部屋で待機。必要なら施療院の古い蔵書を見ていてもいい」
「蔵書」
「退屈でしょうから」
そこだけ、少しだけ棘が抜けていた。
「それに」
アイズは紙束のひとつを机へ置く。
「あなたの裁判記録がどこへ回されたか、明日にはあたりをつけます」
その一言で、喉の奥が少しだけ乾いた。
ずっと遠かったものが、急に具体的になる。
裁判記録。
冤罪の始まりが、紙の形でどこかに残っている。
「勇者パーティーの証言も?」
「できれば」
アイズは頷く。
「ただ、あちらは表の権威が強い。正面から触ればこちらの方が先に弾かれます」
「記録を見つけるだけじゃ足りません」
彼女は紙束の端を揃えながら続ける。
「裁判記録、村から上がった報告、勇者パーティーの証言。その三つを同じ場へ引きずり出す必要があります」
「……突きつけるために」
「ええ」
小さく頷く。
「そして、その場にはセリアとミーナもいさせたい」
思わず顔を上げた。
「あの二人を?」
「全部を知った上であなたを切ったのか、それとも見せられた紙を信じたのか。そこを曖昧なままにしたくありません」
アイズの声は低かったが、冷えてはいなかった。
「少なくとも、勇者パーティー全員が同じだけ汚れていると決めつけるのは早い」
返事はすぐに出なかった。
それでも、ただ追われるだけだった話に、初めて向ける先ができた気がした。
「危なくないですか」
聞くと、アイズは何でもないみたいに紙を揃えた。
「危ないです」
否定しないのか、と思う。
「ですから、あなたは無茶をしないでください」
「そこ、俺に返ってくるんですね」
「当然です」
返しが早い。
部屋の空気が少しだけ緩む。
けれど、それも一瞬だった。
外から鐘が鳴る。
王都の夜半を告げる、低く重い鐘だ。
窓の向こうでは誰かの足音が通り過ぎ、遠くの通りで酔客が怒鳴り合っている。
礼拝堂の静けさとは違う。
ここは、人が多すぎるせいで、逆に孤独が濃い。
「こういち」
荷を解いていたアイズが、不意に名前を呼んだ。
「何ですか」
「ここへ入った以上、もう戻れません」
それは確認ではなく、釘だった。
「捕まれば、次は礼拝堂みたいな猶予はない」
俺は頷く。
「わかってます」
「本当に?」
「たぶん」
言った瞬間、アイズが眉をひそめた。
「だめです」
「冗談です」
「今夜それをやる元気があるなら、まだ余裕がありますね」
少しだけ安心したみたいな言い方で、火の代わりに小さな灯台へ明かりを移す。
その横顔を見て、胸の奥が少しだけ静かになる。
王都の中へ入って、むしろ緊張は増したはずなのに、不思議だった。
「アイズ」
「何ですか」
「ここまで来たら、さすがに逃げません」
彼女の手が止まる。
「……信用していいんですか」
「善処はします」
「それは信用できません」
聞き覚えのある返しだった。
でも、アイズの口元は少しだけ緩んでいた。
やがて彼女は荷の中から小さな包みを取り出し、こちらへ放る。
受け取る。
昼のうちに買ったらしい、固い焼き菓子だった。
「明日から甘いものを食べる余裕があるとは限りません」
「だから今、ですか」
「今、です」
そう言って、自分も同じものをひとつ齧る。
王都へ潜り込んだ夜の最初の食事が、それだった。
固い。
でも、少しだけ甘い。
外では王都の夜がまだ続いている。
兵も、教会も、きっともう動いている。
俺たちを追う紙も、嘘も、噂も、この街のどこかで増えていく。
それでも。
こうして自分の足で王都へ入った以上、もう「都合のいい罪人」の形に押し込まれるだけでは終わらない。
終わらせない。
小さな部屋の灯りの中で、アイズが紙束を整える。
その横顔を見ながら、俺はようやくほんの少しだけ、覚悟みたいなものを自分の内側へ置けた気がした。




