第22話 頭巾の下の町
四日目の朝、アイズは俺を見た瞬間に言った。
「今日は一緒に来てください」
思わず椀を持つ手が止まる。
「外へ?」
「ええ。宿場町まで」
鍋の中の薄い豆の粥が、そこで少し揺れた。
「いいんですか」
「よくはありません」
即答だった。
「ですが、あなたの顔を見て話せば反応が変わる噂もあるかもしれない。それに」
そこで、アイズは俺の胸元を指した。
「包帯の巻き直しにも、布と薬が足りません」
現実的だった。
反論しづらい。
「ただし、条件があります」
「なんですか」
「喋りすぎないこと。勝手に離れないこと。痛かったらすぐ言うこと」
「最後のだけ子ども扱いじゃないですか」
「半分子どもみたいな無茶をするので」
返す言葉がない。
結局、俺は頭まで隠れる濃茶の外套を着せられた。
首輪の上にはさらに布が巻かれる。
鏡代わりの金属板に映った自分は、旅で疲れた男に見えた。
少なくとも罪人奴隷には見えにくい。
一方のアイズも、銀髪をきっちり隠していた。
薄い色の町娘用の上着に着替え、胸元の聖印も外している。
それだけで印象がずいぶん違った。
大聖堂で見た時の、触れれば切れそうな張りつめた雰囲気が薄れている。
代わりに、どこにでもいそうな若い女に見えた。
どこにでもいそうなのに、目だけはやっぱり誤魔化せていなかった。
「別人みたいですね」
言うと、アイズはじろりと見た。
「褒めています?」
「たぶん」
「曖昧ですね」
そう言いながらも、少しだけ口元が緩んでいた。
宿場町は、礼拝堂から歩いて一刻ほどの場所にあった。
大きくはない。
けれど街道沿いだけあって、人の出入りは思ったより多い。
荷車が泥を跳ね、旅人が湯気の立つ屋台の前で足を止める。
焼いた麦の匂い、獣脂の匂い、濡れた藁の匂いが入り混じり、道の両脇には昨日の雨を吸った土がまだ黒く残っていた。
笑い声もあれば、値切る声もある。
それなのに、掲示板の近くだけ空気が少し固い。
広場の掲示板には新しい紙が何枚も重ねられ、その前に人だかりができていた。
「あそこは最後です」
アイズが小声で言う。
「先に買い物を済ませます」
俺は頷き、その後ろを歩こうとした。
だが、次の瞬間、彼女の手がこちらの腕へ回る。
思わず足が止まった。
布越しなのに、体温がわかるくらい近かった。
「……アイズ」
「夫婦の方が自然です」
平然とした声だった。
「距離が空いていると、かえって目立ちます」
理屈はわかる。
わかるが、心臓にはあまり優しくない。
町の人間から見れば、ただ寄り添っているだけだ。
でも、こっちにとってはそれだけで十分近すぎた。
「顔、赤いですよ」
また言われた。
「歩けば冷えます」
「そういうことにしておきます」
どこかで聞いた返しだった。
最初に入ったのは布屋だった。
包帯に使える粗布と、着替えに回せる安いシャツを二枚。
ついでに手袋も選ばれる。
首輪で荒れた喉元を隠すための幅広い布まで籠へ入れられた。
天井からは色褪せた布が何枚も吊られ、乾いた繊維の匂いが鼻に残る。
店の隅では子どもが布くずを丸めて遊んでいて、その母親らしい女が手を止めたままこちらをちらちら見ていた。
「そんなに要りますか」
「要ります」
即答だった。
「あなた、今の自分の格好を見ていますか」
「見たくないので見てません」
店主の女がそこで吹き出した。
「仲いいねえ、あんたたち」
その一言で、こっちが黙る。
アイズだけが平然と布を選び続けていた。
「病み上がりなんです」
さらっとそう言い、値切りまで始める。
大した胆力だった。
しかも言い値からきっちり銅貨を削るあたり、変なところで遠慮がない。
店主も呆れたように笑いながら、最後には結局まけていた。
次は薬屋だった。
乾燥させた薬草、痛み止め、消毒用の酒精。
それに細い針と糸まで買い足す。
見ているだけで傷が痛みそうな品揃えだ。
棚いっぱいに吊るされた草束が、乾いた苦い匂いを落としている。
磨り潰した根の粉が瓶の底に沈み、奥の炉では何かを煎じる音が小さく鳴っていた。
「縫う気ですか」
「開いたら必要です」
「開かないようにします」
「してください」
淡々と会話しているだけなのに、薬屋の老人は妙に微笑ましそうな顔でこっちを見ていた。
「若いのに、よく面倒見てるなあ」
アイズは礼だけ言って流した。
俺は何も言えない。
言い返せば余計に怪しいし、黙れば黙ったで肯定したみたいで落ち着かない。
結局、薬草の匂いに紛れるふりをして視線を逸らすしかなかった。
買い物を終えたあと、広場の焼き菓子屋の脇で足を止める。
アイズが人混みを見ながら、小声で言った。
「あの掲示板の左端」
言われた方を見る。
手配書の横に、別の紙が打たれている。
読める位置ではないが、見出しだけなら見えた。
ハイル村異常事象に関する追加聞き取り。
「追加?」
「ええ。情報が足りていない証拠です」
その時、背後の荷車の陰で、男たちの話し声が聞こえた。
「勇者パーティーは首輪の男が鍵だって言ってるらしいぞ」
「でも神官どもの文じゃ、別の襲撃者がいたかもしれねえって書いてあったろ」
「村の端で白いのを見たって話もあるが、熱に浮かされた戯言だってよ」
「どっちにしろ、まずはその男を押さえろってことだ」
白いの。
俺とアイズの視線が、一瞬だけぶつかった。
誰かが見ていた。
たとえ曖昧でも、あの女の気配を拾った人間がいた。
けれど、その話し方は噂話の延長でしかなかった。
本当に危ないものを見た、という切迫はない。
だから余計に、あいつだけが現実から半歩ずれている。
「行きましょう」
アイズが腕を引く。
「もう十分です」
その判断が少し早すぎる気もしたが、彼女の目は警戒に変わっていた。
俺も口を閉じ、そのまま歩き出す。
広場を抜ける寸前、前方から兵士が二人やってきた。
巡回だ。
アイズの指が、こちらの腕へ少しだけ強く食い込む。
「俯いて」
囁き声が耳へ落ちた。
言われた通りに顔を伏せる。
兵士の靴音が近づく。
すれ違う、その瞬間。
アイズがさらに身体を寄せ、まるで本当に連れの顔色を気にしている女みたいにこちらの頬へ手を当てた。
冷えた指先だった。
そのくせ、触れられた場所だけ妙に熱くなる。
「大丈夫ですか」
小さな声。
芝居だとわかっているのに、心臓は正直だった。
兵士は一瞬こちらを見たが、病人連れの旅人としか思わなかったのだろう。
そのまま通り過ぎていく。
鎧の擦れる音が遠ざかるまで、まともに息もできなかった。
息を止めていたことに、そのあとで気づいた。
「……いまの、必要でしたか」
町を抜けてから言うと、アイズは平然と答える。
「必要でした」
「あそこまで?」
「兵士は顔より雰囲気を見ます。距離がある方が怪しい」
理屈はまた正しい。
正しいのが腹立たしい。
「手、冷たいですよ」
「あなたの方が冷えています」
その返しまで冷静だった。
でも、離れたあとも少しだけ、自分の頬に残った体温が消えない。
礼拝堂へ戻る道は、朝よりぬかるんでいた。
沢にかかった細い板橋を渡る時、足元が滑る。
踏ん張った瞬間、脇腹が軋んだ。
「こういち」
名前を呼ばれる。
次の瞬間には、アイズの手がこちらの手首を掴んでいた。
細いのに、思ったより力がある。
「大丈夫です」
「顔が大丈夫ではありません」
結局、橋を渡りきるまで手を離してもらえなかった。
掴まれているのは手首だけなのに、妙に意識してしまう。
情けないと思うが、どうしようもない。
流れる水の音より、自分の鼓動の方がやけにうるさく聞こえた。
礼拝堂が見えてきた頃、アイズが小さく息を吐いた。
「……収穫はありました」
「白いの、ですか」
「ええ」
彼女は頷く。
「まだ噂の段階です。でも、あなただけを見て話が作られているわけではない」
それは小さいが、確かな違いだった。
完全な悪意の受け皿ではなく、何かを知っているかもしれない男。
それだけでも、まだ未来は少し違う。
「あと」
アイズが少しだけ口元を緩める。
「布屋の女主人に、いい夫婦だと思われていました」
思わず咳き込みそうになった。
「そこ、拾わなくていいです」
「私は面白かったので」
そう言われると、もう返しようがない。
礼拝堂の石壁が見えてきてようやく息がついたはずなのに、その一言で別の熱が戻ってくる。
四日目の町は、情報と一緒に、妙な熱まで持ち帰ってきた。




