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第21話 七日間の隠れ家

朝、目を覚ました時、礼拝堂の中には誰もいなかった。


寝台の端へ手をつき、半身だけ起こす。

昨日よりはましだが、脇腹はまだ鈍く痛む。

壁際に置かれていたはずの荷が少し減っているのを見て、胸の奥がざわついた。


まさか、本当に一人で出ていったのか。

立ち上がりかけたところで、裏口の方から扉が軋んだ。


「寝ていてください」


戻ってきたのはアイズだった。

外套の裾へ朝露をつけ、片手に小さな籠、もう片手に水瓶を抱えている。

銀髪は布の下へ隠していたが、額にだけ数筋ほど張りついていた。


「……どこへ」


「村の外れです」


籠を机へ置きながら、何でもないことみたいに答える。


「早朝なら人が少ない。パンと薬草だけ拾ってきました」


籠の中には黒パンが二つ、干した豆、粗い塩、それに包帯の束が入っていた。

大した量ではない。

けれど、逃げた翌日に揃えるには十分すぎた。


「ひとりで行ったんですか」


「ひとりの方が目立ちません」


「でも」


「あなたを寝台から引きずって行く方が危険です」


言い切られて、黙るしかなかった。

アイズは水瓶を暖炉の脇へ置き、火打石を鳴らし始める。

古い灰の下から乾いた藁を拾い、慣れた手つきで火を起こした。

白い煙が一瞬だけ立ち上り、すぐに小さな火が安定する。


「大神官って、そんなこともするんですね」


ぽつりと漏らすと、アイズは振り返りもしなかった。


「しないと思っていたんですか」


「もっと、誰かが全部やるものかと」


「その誰かがいない時は、自分でやるだけです」


それはそうか、としか返せない。


火に小鍋が掛かる。

豆を煮る匂いが、冷えた礼拝堂の中へ少しずつ広がっていった。


その匂いを吸い込んだ途端、妙に腹が鳴った。

一日眠っていたのだから当然だが、少し情けない。

アイズは何も言わなかった。

ただ、鍋を見ながら口元だけ少しだけ緩めた気がした。



食事のあと、すぐに手当てが始まった。


「上を脱いでください」


あまりにも当然みたいに言われて、手が止まる。


「……いまですか」


「いまです」


「いや、でも」


「傷を見るんです」


アイズが本気で意味をわかっていない顔をするせいで、こっちが余計に困る。


仕方なく外套と上着を脱ぐ。

冷たい空気が肌へ触れ、肩の裂傷がひりついた。


アイズは椅子を引き寄せると、ほとんど躊躇なく包帯へ手をかけた。

昨日巻いたものをほどいていく指先は細いのに、妙に容赦がない。


「痛かったら言ってください」


「いまちょっと痛いです」


「そこは我慢してください」


無茶苦茶だった。


けれど、その手つき自体は驚くほど丁寧だ。

血の固まった布を剥がす時だけ水で湿らせ、傷が開かないよう気を配っている。

薬草を煎じた液で拭われるたび、鈍い熱が少しだけ引いていく。


「……ずいぶん、ひどいですね」


小さく漏れた声に、思わず目を向けた。

アイズは傷を見ていた。

怒っているわけでも、呆れているわけでもない。

ただ本当に、よくこれで動いたものだと呆然としているような顔だった。


「動けたので」


「動けたから動く、は理由になりません」


昨日からずっと同じことを言われている気がする。


新しい包帯が胸へ回される。

背中側へ手を伸ばした時、距離が近くなり、薬草と香の匂いがふっと鼻先をかすめた。

思ったより細い体温が近くにあることを、変に意識してしまう。


「じっとしてください」


「してます」


「肩が強張っています」


図星だったので黙った。

包帯が結ばれる。

その指先が一瞬だけ胸元へ触れ、何でもないはずなのに妙に落ち着かない。


「終わりました」


言われてようやく息を吐く。


「顔が赤いですよ」


さらっと言われて、今度は本気で困った。


「火のせいです」


「そういうことにしておきます」


わかっていて言っている顔だった。



昼過ぎ、礼拝堂の中へ柔らかい光が差し込む頃、アイズは机に紙を広げていた。

村で聞いた話を書き留めているらしい。


「何かわかりましたか」


寝台へ寄りかかったまま聞くと、彼女は紙から目を離さず答えた。


「手配文は、宿場ごとに少しずつ違います」


指先で紙を二枚ずらす。


「あるものはあなたを『重要関係者』と書いている。あるものは『危険人物』寄りです」


「もうぶれてるんですね」


「ええ。統一できていない」


それは少しだけ救いだった。

まだ完全に形が固まっていないということだ。


「それと」


アイズは別の紙を取る。


「村人の口からは、吸血鬼という単語はまだ出ていません」


予想通りだった。


「ですが」


彼女はそこで少しだけ声を落とした。


「『笑い声がした』と言う者はいました」


胸の奥がわずかに動く。


「誰ですか」


「夜番の男です。ただし本人も、熱と混乱で幻かもしれないと言っている」


そこまで聞いて、かえって現実味が増した。

幻で済ませられる程度にしか、あいつの存在は残っていない。


「……都合がいいな」


「ええ」


アイズも頷く。


「正体のない第三者は、恐怖だけ残して簡単に消えます。そのあとに残るのは、形のある人間だけです」


形のある人間。

首輪をつけた、俺みたいな。

それ以上は何も言えなかった。



夜は冷えた。


礼拝堂は石造りなぶん、日が落ちると一気に熱を吐き出す。

火を起こしていても足りない。


アイズが朝の買い出しで持ち帰った毛布は二枚だけだった。

どちらも薄い。

ひとり一枚では、少し心許ない。


「……寒いですね」


思わず言うと、向かいの椅子で紙を読んでいたアイズが顔を上げた。


「そうですね」


そう言ったきり、彼女はまた紙へ目を落とす。

そのくせ、肩を抱くみたいに腕を組んでいた。


しばらく迷ってから、自分の毛布の端を持ち上げる。


「こっち、使いますか」


アイズが目を瞬いた。


「半分でいいので」


いま何を言っているんだと、言ってから少し後悔した。

けれど、引っ込めるには遅い。


アイズは数秒考えたあと、立ち上がる。

紙を机へ置き、こっちへ歩いてきた。


そのまま寝台の端へ腰掛ける。


「失礼します」


言い方だけ妙に丁寧だった。


毛布の端をこちらから渡すと、彼女は本当に半分だけ引き寄せた。

肩が触れるか触れないかの距離。

近いのに、変に落ち着く。


「……こんなに静かなの、久しぶりです」


ぽつりとアイズが言った。


「静かですか」


「ええ」


彼女は火を見つめたまま、小さく息を吐く。


「追われてはいますけど」


それは静かと言っていいのか少し迷ったが、たしかに怒鳴り声も儀式の鐘もない。

紙と命令に追われることはあっても、今この瞬間だけは、礼拝堂の火の音しか聞こえなかった。


「あなたは」


アイズが横目で見る。


「こういう時間、苦手そうですね」


「どうして」


「落ち着くと、どこかへ行こうとする顔をしているので」


また見抜かれていた。


「そんな顔してますか」


「しています」


きっぱり言い切られる。


反論しかけて、やめた。

たぶん、している。

するとアイズは毛布の端を少しだけ強く握った。


「七日だけです」


低い声だった。


「七日くらい、誰かの隣で大人しくしていてください」


その言い方が、命令みたいでいて少しだけ違った。

頼まれているようにも聞こえる。


「……善処します」


答えると、アイズがわずかに眉をひそめる。


「それ、信用できない言い方です」


「じゃあ、努力します」


「もっと信用できません」


そこまで言って、彼女は小さく笑った。


本当に小さな笑いだった。

けれど、それを聞いた途端、胸の奥の強張りが少しだけ解ける。

毛布の下で触れた肩が、思ったより温かかった。


礼拝堂の一日目は、そんなふうに静かに終わった。


引き続き読んでいただけると嬉しいです。

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