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第19話 消えた大神官

村を離れてから、どれくらい歩いたのかは覚えていない。


足を出すたび、脇腹の奥で何かがずれて軋んだ。

肩から垂れた血が、アイズの白い法衣へまで染みていく。

それでも下ろせなかった。


村へ入る前、山道の脇に潰れかけた巡礼小屋があったのを思い出していた。

もう誰も使っていない、石積みだけの小さな避難所だ。

屋根は半分落ちていたが、風くらいは防げる。

今は、そこまで辿り着ければ十分だった。


息が熱い。

喉の奥では、首輪の痛みがずっと燻っている。

視界も何度か白く飛びかけた。


それでも、腕の中の重みだけは離さない。


アイズの呼吸は浅い。

法衣の裂け目から覗く肌は冷えていて、肩口から脇腹にかけて血が乾ききっていない。

村で柱を抑え続けたうえに、あの女にやられた。

このまま夜気へ晒せば、助かったものまで落としかねない。


やっとのことで小屋へ辿り着いた時、膝が本気で折れかけた。


崩れた扉板を肩で押しのけ、中へ入る。

石壁に囲まれた、狭い空間だった。

昔は旅人が火を熾したのか、隅には煤けた炉が残っている。

今は乾いた藁もなく、あるのは冷えた空気と、割れた木台だけだった。


それでも、何もない森の中よりはましだ。


俺はアイズを木台の上へ横たえた。

その瞬間、腕から力が抜けて、自分も壁に手をつく。

床へ血が落ちる音がした。


まず呼吸を見る。

次に脈。

遅いが、ある。


「……よかった」


声に出してから、自分でも妙な気分になった。

まだ何もよくはない。

助かったかどうかなんて、これから次第だ。


小屋の外へ一度出て、軒下の石鉢に溜まっていた雨水を拾う。

外套の裏地を裂き、濡らして戻った。


傷口を拭う。

泥と血を落とす。

強く押せば起こしてしまいそうで、手つきが自然と遅くなる。


肩の傷は浅くない。

脇腹の打撲もひどい。

たぶん、肋も何本かいっている。

それでも致命傷ではない。

そう判断できた瞬間だけ、胸の奥の力が少し抜けた。


自分の方は後回しだった。


アイズの額へ手を当て、細く魔力を流す。

派手な治癒じゃない。

熱を落とし、呼吸を支え、痛みが一気に跳ねないよう底だけを支える。

いつもの、目立たないやり方だ。


白い光は、ほとんど見えなかった。

それでも、彼女の呼吸が少しだけ深くなる。


十分だ。

今はそれでいい。


そのまま壁へ背を預ける。

全身が重かった。

右手はまだ、黒い芯を握り潰した時のまま痺れている。

指の関節が腫れ、血と泥でこわばっていた。


眠れば、そのまま起きられない気がした。

だから目を閉じない。


小屋の外では、夜明け前の風が枝を鳴らしている。

村の方角からは、もう悲鳴は聞こえなかった。


持ち直したはずだ。

少なくとも、あのまま全員が沈む流れだけは切った。


なら、あとは。


そこまで考えて、思考が止まる。


あとは、どうする。


王国へ戻る場所なんてない。

村へ引き返す気もない。

教会へ顔を出せば、また面倒が増えるかもしれない。

けれどアイズは、このまま放っておける状態じゃない。


考えろ。


そう思うのに、頭がうまく回らなかった。


「……ん」


小さな声がして、反射的に顔を上げる。


木台の上で、アイズの指先がわずかに動いていた。

睫毛が震え、薄く目が開く。


焦点の合わない瞳が、暗い天井を一度見た。

それからゆっくりと横へ流れ、俺のところで止まる。


「ここ、は……」


掠れた声だった。


「村の外れです」


答えると、アイズは数秒かけて息を整えた。

まだ意識が追いついていない顔だったが、やがて何かを思い出したらしい。

眉がかすかに寄る。


「村は」


最初に出たのがそれだった。


「すぐには落ちません」


俺はできるだけ短く答えた。


「流れは切りました。熱も、しばらくは下がるはずです」


アイズの目が、ほんの少しだけ見開かれる。

それから、自分の肩や脇腹の手当てに気づいたのか、視線が落ちた。

濡れた布。

裂いた外套。

血を拭った跡。


最後に、俺の右手を見る。

指の皮が裂け、黒い液が乾いたままこびりついていた。


「あなたが」


否定する理由もなかった。

黙っていると、それだけで足りたらしい。


アイズは起き上がろうとして、すぐに顔を歪めた。


「無理です」


俺が言うより少し早く、彼女自身もわかったらしい。

息を詰めたまま、木台へ戻る。


「……あなたもです」


低い声だった。


「立っている顔じゃありません」


「まだ立てます」


言い返した途端、自分でも説得力がないと思った。

座ったままなのに、視界の端が揺れている。


アイズはしばらく黙っていた。

その目が、村で人へ向けていた大神官の目じゃなく、もっと近くで傷を数えるような目になっている。


「また、一人で全部抱えたんですか」


責める声ではなかった。

だからこそ、少しだけ返しづらかった。


「緊急事態だっただけです」


喉が痛んだ。

言葉を継ぐたび、血の味がした。


「後で考えよう、で動いただけで」


アイズは小さく息を吐く。


「後で考える前に倒れています」


「まだ倒れてません」


「時間の問題です」


淡々と言われて、そこで初めて苦笑しかけた。

そんな余裕があったのか、自分でも少し驚く。


「……村には戻らない方がいいと思いました」


笑う代わりに、そう言った。


「俺が残れば、また首輪の話になる。罪人に助けられたとか、攫われたとか、余計な形で残る」


アイズの目が細くなる。


「だから、私の奇跡で済ませるつもりですか」


図星だった。


「そっちの方が丸いでしょう」


「丸く収まるから、あなたが消えるべきだと?」


返す言葉が出なかった。


違うと言い切れるほど、自分の考えは綺麗じゃない。

村のためもあった。

でも、それだけじゃない。

こういう時、いない方がいいのはいつも自分だった。


黙ったままの俺を見て、アイズは痛みを堪えるみたいに一度だけ目を伏せた。


「あなたは」


それから静かに言う。


「そうやって、自分がいなくなる方を先に選びすぎます」


言い方は静かなのに、妙に胸へ刺さった。


「今のあなたを村へ戻せば、また首輪だけ見られる。それは事実です」


アイズはそこでいったん認めた。

その方が、かえって逃げ場がなかった。


「ですが」


彼女は顔を上げる。


「だからといって、王国の都合のいい形まで黙って受け入れるつもりはありません」


王国。

その単語だけで、嫌な予感がした。


「……何かありそうですか」


「あります」


迷いのない返答だった。


「勇者パーティーは遅れました。村は助かりました。私は姿を消しました」


ひとつずつ並べる声音は、傷だらけでもまだ大神官のそれだった。


「都合よく繋げたい人間はいくらでもいます」


カイルの顔が、一瞬だけ浮かぶ。

あいつなら、やる。

証拠が足りないほど、言葉の形だけは整えてくる。


「でも」


俺は壁に背を預けたまま言った。


「あなたが無事なら、それで十分です。面倒まで背負う必要は」


「あります」


今度は、はっきり遮られた。


アイズの声は弱っていた。

それでも、その一言だけは少しも揺れなかった。


「私は、あなたを保護すると決めてここへ来ました」


呼吸を整えてから、さらに続ける。


「教会の切り札だからではありません。教会番付一位だからでもない」


その目が、まっすぐこっちを見る。


「あなたが、あなただからです」


胸の奥で、うまく名前のつかない何かが止まった。

そんなふうに言われるのは、たぶん初めてだった。


何か返そうとして、けれど先に咳が出る。

喉の奥が焼ける。

口元を押さえると、赤が滲んだ。


「こういち」


呼ばれる。

その声にはじめて、大神官じゃなく一人の人間の焦りが混じった。


「大丈夫です」


反射でそう言ったが、もうあまり大丈夫ではなかった。

立とうとした瞬間、膝から下の感覚が消える。

壁へ手をつくつもりが、床へ指先を落とした。


「っ……」


まずいと思った時には、遅かった。


小屋の床が近い。

そのまま倒れ込みかけたところで、アイズが無理に身を起こし、肩を支えようとする。

そんな力が残っているはずもなく、結局ふたりとも中途半端な姿勢で止まった。


「だから、言ったのに……」


掠れた声が、すぐ近くで震えた。


「すみません」


口をついて出た言葉に、自分で嫌気が差す。

けれど、別の言い方がすぐには出てこない。


アイズは怒らなかった。

代わりに、俺の額へ冷えた指を当てた。


「謝らなくていいです」


その指先から、ごく細い聖力が流れた。

本格的な治癒なんてする余裕は、彼女にもほとんどないはずだった。

それでも、意識が落ちきらない程度には支えてくる。


「今は、眠ってください」


「でも」


「命令です」


弱い声なのに、そこだけ妙に強かった。

逆らう力が、もう残っていない。

視界が落ちる寸前、アイズが片手で小さく印を切るのが見えた。

白い糸みたいな光がひと筋だけ宙へ伸び、崩れた屋根の隙間から夜明け前の空へ消えていく。


救援の印だと理解したところで、意識が途切れた。



目を開けた時、こういちはすでに眠りへ沈んでいた。


壁にもたれたまま、浅く息をしている。

肩口の裂傷。脇腹の打撲。首輪の食い込みで擦り切れた喉。

右手の指はひどく腫れ、爪の根元まで割れている。


この状態で、あの村の外を動き続けていたのだ。

私は木台の上で身を起こしながら、ほんの一瞬だけ目を閉じた。


村を持たせたのが誰なのか。

外で何を壊したのか。

誰が私をここまで運んだのか。


もう、確かめるまでもない。


それなのに本人は、また何でもない顔で消えるつもりだった。


愚かだと思う。

優しい、で済ませていい段階もとっくに越えている。

自分を後回しにすることへ、あまりにも慣れすぎている。


けれど。

その愚かさに、何度救われてきた人がいるのかも、私は知っている。


小屋の隙間から差し込み始めた朝の光が、こういちの横顔を薄く照らした。

汚れと血に塗れていても、輪郭だけは幼い頃の記憶と変わらない。


変わらないまま、ここまで削れてしまったのだと思うと、胸の奥が静かに痛んだ。


私は自分の呼吸を整える。

肋が痛む。

左腕も重い。

それでも、まだ動ける。

動かなければならない。


先ほど放った小さな光は、大聖堂の奥でしか読めない私用の救援印だ。

王国側には拾えない。

拾わせるつもりもない。


けれど、それで全部を選別できるほど、もう状況は甘くなかった。

それまでに考えるべきことは多かった。


ハイル村の収束。

現地神官への指示。

王国側の報告。

そして何より、こういちの身柄をどう守るか。


守る。


その言葉を、私は心の中ではっきり選んだ。

切り札として秘匿するのではない。

罪人として再び差し出させないために守る。


もし王国が先に形を作るなら、こちらも先に動くしかない。


私は木台の端へ腰掛けたまま、眠っているこういちの首輪を見る。

魔封じの黒金具は、夜の湿気を吸って鈍く光っていた。


この首輪がある限り、彼はどこへ行っても最初に疑われる。

逆に言えば、疑う側はこの首輪ひとつで話を作れてしまう。


だから急がなければならない。


王国が言葉にする前に。

彼を「都合のいい罪人」へ戻される前に。


「今度は」


思わず、声が零れた。


「私が間に合わせます」


眠っている相手に届くはずもない独り言だった。

それでも言葉にしなければ、昨夜の遅れを飲み込めなかった。


小屋の外で、馬の蹄が止まる音がした。


ひとつではない。

三頭分。

来た。


私は痛む身体を叱るように立ち上がる。

戸口の向こうへ見えたのは、白い外套を羽織った聖騎士が二人と、年配の神官が一人だった。

いずれも、私が名指しで残していた側近だ。


けれど、神官の手には細い銀筒が握られていた。

大聖堂の封蝋だ。

しかも、封印局の紋。


それを見た瞬間、胸の奥が冷えた。


彼らは小屋の中を見た瞬間、息を呑んだ。

私の血に濡れた法衣より先に、壁にもたれて眠る首輪つきの男へ目が行ったのだろう。


だが、誰も何も言わない。

私の顔を見て、ただひざまずく。


「ご無事で」


年配の神官が掠れた声を出す。


「詳細は後です」


私は先に言った。


「この方を最優先で回収します。記録は私の封印指定に。王国側へは一切漏らさないでください」


神官の喉が、わずかに詰まった。

その反応だけで足りた。

私が命じた通りには、もう動けないのだ。


「村ではすでに報告が上がり始めております」


神官が低く言った。


「勇者パーティーからの早馬も」


やはり、と思う。


「内容は」


「大神官アイズは、首輪をつけた不審な男により連れ去られた可能性が高い、と」


小屋の空気が、そこで少しだけ冷えた。

私は振り返らない。

振り返らなくても、眠っているこういちの首輪が、今の言葉ときれいに結びついてしまうのがわかった。


早い。

想定より、ずっと。


「他には」


「当該人物は不審な聖属性の力を用い、混乱を拡大させた、とも」


息を吐く。

怒りは、むしろ静かだった。


「勇者カイルの名で?」


「はい」


それで十分だった。


「先に動かれましたね」


呟くと、神官たちは黙ったまま頭を下げる。

彼らに罪はない。問題は、もう王国が形を作り始めていることだ。


だが、それだけでは終わらなかった。


年配の神官が、手にしていた銀筒を両手で差し出す。


「大神官様」


その声は、さっきよりもさらに低かった。


「大聖堂より、緊急封書が届いております」


私は受け取らず、神官の顔を見た。


「読み上げなさい」


神官は一瞬だけ目を伏せ、それから封を切る。

乾いた音が、小屋の中で妙に大きく響いた。


「ハイル村一帯に残された大規模な残穢、および水脈へ食い込んだ瘴気痕、ならびに未登録の大規模聖属性反応の調査結果から」


そこで、神官の声がわずかに掠れた。


「本来、当該村で確認されていた被害はキマイラ群による局地的襲撃が中心であり、現地に残された痕跡はその規模を明らかに逸脱している」


神官はそこで一度だけ言葉を切った。


「ゆえに、現場にいた首輪装着の罪人は、当該異常事象を解明するための唯一の重要参考人であると同時に、人類全体へ波及しうる危険因子の保有者である可能性を否定できず」


聖騎士のひとりが、苦い顔をする。

けれど止めない。

止められないのだ。


「大神官アイズは、当該罪人の身柄を速やかに保全し、封印局と王国合同の調査・審問へ委ねること」


最後の一文だけ、神官は目を閉じるみたいにして読んだ。


「……要するに」


私は静かに聞き返す。

神官の喉仏が上下した。


「その罪人は村一つの問題では済まないかもしれない。だから、今すぐ確保して調べたい、ということです」


小屋の中から、音が消えた。

外の風だけが、崩れた屋根を鳴らしている。

私はしばらく何も言わなかった。

言葉にしてしまえば、本当にそうなのだと確定してしまう気がした。


教会まで。

王国だけではない。

教会もまた、こういちをまず人間としてではなく、異常事象の中心にいた対象として扱おうとしている。


大きすぎる残穢。

既知のキマイラ被害では説明のつかない痕。

未登録の聖属性反応。

首輪つきの罪人。


それらを並べれば、「まず拘束して調べるべき危険対象」という結論はいくらでも作れる。

しかも、その方が教会には都合がいい。


教会番付一位が罪人奴隷に落ちていた事実も。

それを二年も見逃していた失態も。

村を救った力の正体も。


全部、伏せたまま済ませられる。


「封印局は、あの村を見ていない」


ようやく出た声は、自分でも驚くほど冷えていた。


「こういちが何をしたかも。何を止めたかも。私をどう運んだかも」


神官は顔を上げない。


「承知しております」


「承知していて、これを持ってきたのですか」


「大神官様」


今度は、もう一人の聖騎士が口を開いた。

若いが、私の側で長く動いてきた男だ。


「封印局だけではありません。王国側からも照会が入っています。勇者パーティーの報告が先に走りました」


苦い声だった。


「教会がその男を囲えば、大神官様ごと隠匿と見なされます。しかも、もし本当にあの痕跡が人類全体へ波及する類のものなら、初動を誤った責任まで問われます」


「つまり」


私は言った。


「教会は、この人を救った当事者ではなく、最優先の調査対象として回したいのですね」


誰も否定しない。

それが答えだった。

木台の端へ置いた指先に、力が入りすぎる。

肋の痛みが遅れて返ってきた。


その時だった。


「……それで、収まるなら」


掠れた声が、背後から落ちた。


振り返る。

こういちが、うっすらと目を開けていた。

まだ意識は重いはずなのに、最悪のところだけは拾ってしまったらしい。


「俺を、渡してください」


やはり、と思った。

この人はこういう時、迷いなく自分を差し出す。

誰かが助かるかもしれない、というだけで。


「だめです」


答えは、考えるまでもなかった。

こういちは起き上がろうとして、すぐに咳き込む。

血の気の薄い唇に赤が滲む。


「でも」


「でも、ではありません」


私は一歩で距離を詰める。


「あなたを差し出して丸く収まるなら、あなたは最初から罪人にはされていません」


そのまま続けた。


「渡せば終わりではない。王国と教会が責任を押しつけ合うための、生きた証拠にされるだけです」


こういちは黙る。

反論できないのではない。

たぶん、反論するより先に、それでも自分なら構わないと考えている顔だった。


だからこそ、先に切る。


「あなたは黙っていてください」


掠れた声だった。

それでも、そこで引くつもりはなかった。


「ここから先は、私が選びます」


年配の神官が顔を上げる。


「大神官様、それでは」


「それでは、何ですか」


視線だけで返す。


「封印局に従わないのですか」


「従えば、この人は助かりますか」


神官は答えられない。


「冤罪の調査は進みますか。勇者パーティーの報告は公平に扱われますか。首輪だけを見て、また都合のいい結論を作らないと断言できますか」


矢継ぎ早に並べると、神官の顔色が変わった。

逃げ道を塞がれた時の顔だった。


「それに」


私は眠そうに息をするこういちを指した。


「見ればわかるでしょう。この人はいま審問へ回す身体ではない。治療と休息が先です」


年配の神官が、苦い顔のまま返す。


「休息が必要なのは承知しています」


「なら」


「ですが、危険性の判定が済んでいない以上、この場で大神官様お一人の判断へ委ねるわけにはいきません」


声は弱い。

それでも、公的な理屈としては通っていた。


「封印局の医療班へ引き渡せば、最低限の処置を施したうえで拘束できます」


その言い方で、胸の奥が冷えきった。


処置のための治療ではない。

拘束するための処置だ。


「拘束が先に来る時点で論外です」


「大神官様」


若い聖騎士まで、苦しそうに声を挟む。


「もしこの男が、あの村に残った異常の鍵なら……いえ、ほんのわずかでも人類全体を脅かす可能性があるなら、私たちは見過ごせません」


「私も見過ごすとは言っていません」


私は即座に返した。


「調べるなとも、報告するなとも言っていない。まず休ませるべきだと言っているんです」


「そのあいだに逃げられれば」


年配の神官が絞り出す。


「責任が取れません」


そこまで聞いて、ようやく全部が揃った。


悪意だけではない。

保身だけでもない。

本気で危険かもしれないと思っている者もいる。

だからこそ厄介だった。


理屈が立ってしまう分だけ、こういちは簡単に檻へ入れられる。


私はそこでようやく理解した。


この人たちは敵ではない。

けれど、組織はもう敵になり始めている。


「……第二隊が来ます」


若い聖騎士が、唐突に小さく言った。

耳を澄ませば、遠くの林道で別の蹄の音が重なっている。


「封印局付きの騎士が。時間がありません」


そこで決まった。


私は振り返り、こういちを見る。


「立てますか」


問いかけた瞬間、自分で無茶を言っているとわかった。

彼の顔色はひどい。

私も同じだ。

まともに戦える状態じゃない。


それでも、こういちは壁に手をついて身体を起こした。

ほんの少しだけ息を荒くしながら、頷く。


「少しなら」


嘘だとわかる。

けれど、今はその嘘を責める時間もない。


「馬を」


私は聖騎士たちへ向き直った。


ふたりは一瞬だけ視線を交わした。

そのあと、若い方が一歩前へ出る。


「裏の沢沿いに一頭、荷を軽くした馬を繋いであります」


迷った顔のまま、それでも言い切る。


「正面からは出ないでください。二里ほど先で街道へ合流できます」


年配の神官が目を見開く。


「お前……」


「見なかったことにはできません」


若い聖騎士は、苦く笑うでもなく答えた。


「でも、差し出せとも思えない」


その言葉だけで十分だった。

もう一人の聖騎士も、無言で自分の外套を外し、こちらへ差し出す。


「血が目立ちます」


短い一言。

それもまた、返答だった。


年配の神官だけが、その場に取り残されたみたいに立ち尽くす。

やがて深く息を吐き、私へ頭を下げた。


「……一刻だけ、時間を稼ぎます」


顔を上げないまま続ける。


「大神官は発見できず、印も途中で消えたと報告します」


その言い方に、私はわずかに目を細めた。

嘘が苦手な人間の、精いっぱいの反抗だった。


「助かります」


それだけ返す。

私は木台へ寄り、こういちの腕を肩へ回した。

重い。こちらも肋が痛む。

けれど、今は止まれない。


「アイズ」


こういちが小さく呼ぶ。


「行きます」


答えだけを先に置いた。


「どこへ」


「王国の中です」


戸口へ向かいながら言う。


「逃げるなら、外ではなく中へ。あなたの冤罪も、勇者パーティーの報告も、全部そこへ集まります」


こういちは少しだけ息を呑む。


「逃げながら、入るんです」


それがいちばん正確だった。

教会も王国も、もう安全な後ろ盾ではない。

なら、守られる側でいるのをやめるしかない。


小屋の外へ出ると、朝の光が森の枝の隙間から差し始めていた。

濡れた土が白く光り、冷えた空気が肺へ刺さる。


沢沿いの陰に、本当に一頭の馬が繋がれていた。

荷は最小限だ。

水袋と布、乾いた食料、それに予備の外套。


最初から、逃がすつもりで用意したのだとわかる。

背後では、林道の蹄が少しずつ近づいてくる。


こういちをどうにか馬へ乗せ、自分も後ろへ跨る。

肋が軋み、視界が揺れた。

けれど、手綱は離さない。


「大神官様」


年配の神官の声が、最後に背中へ飛んだ。

振り返らないまま待つと、数拍遅れて言葉が届く。


「どうか、ご無事で」


私は短く頷き、踵で馬腹を打った。


馬が沢沿いの細道を駆け出す。

枝が頬を掠め、冷えた朝靄が法衣へ絡みつく。

背後で誰かが名を呼んだ気がしたが、もう止まらない。

教会の印で呼んだ救援が、教会の命令で私たちを縛りに来た。

その時点で、もう答えは出ていた。


こうして私は大神官としてではなく、一人の逃亡者として王国へ戻ることになった。


首輪つきの罪人を連れ去った、消えた大神官。

そんな噂が、いまごろ後ろで勝手に育っているのだろう。

その腕の中で、こういちが小さく息を吐いた。

意識はまだ途切れがちなのに、それでも落ちないように必死で耐えているのが伝わる。


「すみません」


また、そんなことを言う。

私は手綱を握ったまま、少しだけ声を低くした。


「次に謝ったら、置いていきます」


たぶん本気で信じていないだろうに、こういちはそこで黙った。


その沈黙が、少しだけ可笑しかった。

可笑しく思える余裕がまだ残っていることに、自分で少し驚く。

沢を抜けた先で、森は緩やかに開けていく。

その向こうには、王都へ繋がる街道とは別の、細い裏道が伸びていた。


王国はこれから荒れる。

カイルの報告はさらに広がる。

教会もまた、保身のために口を閉ざす者を出すだろう。


それでも、進むしかない。

誰かの都合で作られた罪人の形へ、もう一度この人を押し込めさせないために。

馬は朝靄を裂いて走る。


こうして私たちは、村からだけではなく、教会と王国の両方から姿を消した。

逃亡のまま、王国のど真ん中へ入っていく。

その先に待っているのが、さらなる冤罪か、災厄か、それともまだ名もない戦いなのか。


この時の私たちは、まだ知らなかった。


引き続き読んでいただけると嬉しいです。

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