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第18話 認めたくない事実

夜が白み始める少し前、勇者カイルたちはハイル村へ戻った。


馬の蹄がぬかるみを叩き、鎧の金具が冷えた音を鳴らす。

王都からかき集めた援軍を連れ、整った陣形のまま門をくぐったその先頭にカイルがいた。

少し遅れて、セリアとミーナも馬を進めてくる。


ロイドの姿は、もうない。

王立魔術院を首席で卒業した大魔導士は、加護が切れたあの戦いの数日後、勇者パーティーを抜けた。

非合理な前線に付き合う気はないとだけ言い残し、王都へ戻っていったのだ。


目の前の光景に、カイルは露骨に眉をひそめた。


壊れた柵。

崩れた屋根。

血のついた石畳。

運び込まれていく怪我人。


間に合わなかった。

そういう村の顔だった。


「勇者様たちだ……」


誰かが言った。

安堵というより、確認の声に近い。


カイルは馬から降りるなり、あたりを見回した。


「大神官はどこだ」


最初の一言が、それだった。


村長らしき男が、ぼろぼろの服のまま駆け寄ってくる。

泥だらけの顔を何度も下げながら、それでも目は泳いでいた。


「そ、その……大神官様は」


「無事なのかと聞いてる」


苛立ちを隠さない声に、男の肩がびくりと震えた。


「気づいた時には、もうお姿がなくて……」


カイルの目が細くなる。


「誰も見ていないのか」


村長は青い顔で頷いた。


「皆、病人や怪我人の方へ気を取られて……」


「最後に、首輪をつけた男が抱えて外へ向かったと聞いています」


若い神官が、疲れた声で挟んだ。

村長の顔が強張る。


「……混乱していました」


それは答えになっていなかった。


カイルは広場の中央へ視線を向けた。

石畳に、白い線がまだ薄く残っている。

結界柱の周囲には血が飛び、少し離れた壁には叩きつけられたみたいな亀裂が走っていた。


若い神官が、その線の上へ指先をかざす。


「村全体へ、薄く長く聖力が流れています」


顔色こそ悪かったが、声だけは無理やり整えていた。


「強い治癒ではありません。傷を一気に塞ぐようなものでもない。ただ、崩れきる前を支えるように、少しずつ」


「大神官の奇跡か」


「……それだけでは説明がつきません」


乾いた声だった。


「もっと薄く、もっと長い。広く全体を支える類の残り方です」


少しずつ。

一気ではなく。

目立たず。

だが、確かに全体を支える。


聞き慣れた、鬱陶しいくらい地味な響きだった。


カイルの喉が、わずかに鳴る。


「外を見せろ」


低く言うと、誰も逆らわなかった。




村の外れに出た瞬間、湿った空気の奥に鉄臭さが混じった。


朝焼け前の薄い光の中に、キマイラの死骸が転がっている。

喉を潰された一匹。

肋を砕かれた一匹。

その向こうの泥には、黒い液が飛び散り、ところどころが白く焼けていた。


さらに先には、地面ごと抉ったみたいな痕。

泥に半ば埋もれた石柱の欠片。

そして、刃こぼれした短剣が一本、投げ捨てられたみたいに転がっていた。


カイルは短剣を拾い上げる。


安物だ。

血と泥で汚れ、何の紋章もない。

けれど柄には、力任せに握り潰したみたいな血の跡がこびりついていた。


視線をずらす。

森の奥へ続く足跡が残っている。

ひとり分の沈み込みが途中から深くなり、その脇へ引きずるのではなく、抱えて運んだ重さだけが不揃いに刻まれていた。


誰かを腕に抱いたまま、それでも止まらず歩いた跡だった。


「これをやったやつ、化け物だな」


セリアが低く吐き捨てる。

感心ではない。

気味の悪さに近い声だった。


「しかも、村を放って逃げた跡じゃない」


ミーナが、白く焼けた泥を見つめたまま言う。


「あの広場まで流れを通してる」


その一言で、カイルの胸の奥が嫌な音を立てた。


自分たちが押し返せなかった村を。

自分たちが途中で切り上げた瘴気の残りを。

誰かが、見えないところで片づけた。


しかも、そのやり方には妙に覚えがある。


派手じゃない。

英雄らしくもない。

けれど、気づいた時には被害だけが少し減っている。

呼吸が少し楽になっている。

倒れるはずの人間が、まだ立っている。


あの魔法だ。


弱い。

遅い。

目立たない。


そう思って、切り捨てたはずの。


「勇者様?」


後ろの聖騎士が訝しげに呼ぶ。

カイルは答えない。


脳裏には、森の奥へ消える足跡が焼きついていた。

血を垂らしながら、それでもまっすぐ伸びていく、ひとり分の跡。


まさか。


そんなはずはない。

あいつは追放した。

鉱山へ落ちた。

使い物にならない、弱い僧侶だった。


なのに。


広場に残った白い痕も、

少しずつ熱を下げた救い方も、

この外れに残った死骸も、

抱えて消えた足跡も、

全部がその否定を許さなかった。


自分たちが失ったあと、急に重くなった身体。

荒れ始めた呼吸。

戦場で噛み合わなくなった足並み。


追放してからというもの、剣を振るたび身体が重い。

息が乱れる。

傷の治りが鈍い。

セリアの踏み込みも、ミーナの狙いも、前みたいに噛み合わなくなっていた。

ロイドに至っては、魔力制御の崩れを理由に、ついにパーティーを抜けた。


最初は疲れだと思った。

遠征が重なったせいだと。

瘴気が濃かったせいだと。


だが、もう言い逃れが利かないところまで来ていた。


自分たちは弱くなったのではない。

元に戻っただけかもしれない。


その考えが胸の奥へ触れた瞬間、吐き気に似た怒りが込み上げた。


認められるわけがなかった。


勇者は自分だ。

讃えられるのは自分でなければならない。

王国を守るのも、災厄を退けるのも、自分でなければならない。


それを、あの陰気な僧侶が。

あの、いつも謝ってばかりいた男が。


「……まさか、こういちか」


誰にも聞こえない声だった。

けれど、その疑いはもう消えなかった。


自分たちの遅れを。

失敗を。

この壊れた村の後始末を。


追放したはずのあいつが片づけたのだとしたら。

それは、認めたくない事実だった。


「戻る」


短く言うと、カイルは踵を返した。




広場へ戻るなり、カイルは聖騎士長へ命じた。


「村長と、昨夜ここにいた連中を集めろ。事情聴取をする」


それだけ言って歩き出す。

セリアとミーナも無言でその後ろについた。




集められた村人たちは、みなひどい顔をしていた。

寝ていないのだろう。

熱が下がったとはいえ、まだ足元のふらついている者もいる。


その真ん中に、村長と、昼にこういちへ桶を押しつけていた男と、南の柵の近くで縄を持っていた男、それに数人の女が並ばされていた。


誰もがカイルの顔色を窺っている。


「順に聞く」


カイルは感情の消えた声で言った。


「昨夜、この村で何があった」


最初に口を開いたのは村長だった。

声が掠れ、途中で何度も詰まる。


「瘴気が強まり……大神官様が柱を抑えておられるあいだに、また異形が……」


「それは見ればわかる」


カイルは冷たく切る。


「そうじゃない。首輪つきの男のことだ」


空気が一瞬で固まった。

村長の視線が泳ぐ。

横にいた男が、咄嗟に口を開いた。


「あんなの、知らねえです。勝手に紛れ込んで――」


「勝手に?」


カイルは薄く笑った。

笑っているのに、目だけは冷えている。


「外へ出せ、と騒いだ者がいたと聞いたが」


男の顔色が変わった。


「そ、それは混乱してて……」


「混乱していれば、何をしてもいいのか」


返せない。返せるはずがない。


別の女が、小さく言った。


「誰かを前に出したかったんです」


その声だけが妙に素直で、広場の空気をさらに冷やした。

女は膝の上で手を握りしめている。


「病人ばかりで、子どももいて、結界も壊れかけてて……誰でもよかった。あそこにいたのが、たまたまあの人だった」


「たまたま?」


カイルは繰り返す。


「罪人の首輪をつけていたからです」


女は目を伏せたまま続けた。


「だから、あの人なら押し出してもいいと……皆、そう思ってしまったんです」


誰も否定しない。

否定できない。


「胸糞悪いな」


セリアが吐き捨てた。


「病人がいるからって、一人を牙の前に投げたのか」


カイルは村人たちを見回した。

疲弊した顔。

後ろめたさ。

言い訳と沈黙。


醜い。


だが同時に、使えるとも思った。


「最後を見た者は」


静かな声で問う。


母親に抱かれたままの子どもが、びくりと震えた。

若い神官が一歩だけ前へ出る。


「その子です。熱で倒れていましたが、いまは意識もはっきりしています」


カイルの目が細くなる。


「何を見た」


しゃがみ込み、子どもと目線を合わせる。

柔らかい声を作っていたが、目は笑っていない。


子どもはしばらく口をぱくぱく動かしたあと、ようやく掠れた声を出した。


「く、首輪のひとが……」


その一言で、周りの大人たちが顔をしかめた。


「何言ってるんだ、お前」

「まだ熱で変なものを見たんだろ」


けれど、子どもは首を振った。

泣きそうに喉を震わせながら、それでも続ける。


「あいつが、光……広げて……」


息を継ぐたび、肩が細かく揺れる。


「それで、みんな少し……楽に、なって……大神官さまを、抱えて……」


そこで声が潰れた。

泣き出した子どもを、母親が慌てて抱き寄せる。


「この子、まだ混乱してるんです」


母親の声は早口だった。

誰へ言い訳しているのか、自分でもわかっていない顔だった。


若い神官が低く言う。


「ですが、広場に残っている聖力の流れは、その証言と矛盾しません」


「熱に浮かされていた子どもの証言だ」


カイルはその部分だけを拾った。


「錯乱した言葉を、どこまで信用する?」


問いかけるようでいて、実際には答えを許さない声音だった。

誰も返事をしない。


「だが、事実として残っているものはある」


カイルは指を折るみたいに並べる。


「罪人の首輪をつけた不審な男がこの村にいた」

「その男は異形と交戦し、正体不明の力を使った」

「最後に大神官を抱えて姿を消した」


村人たちの顔が、少しずつ強張る。

カイルが何を組み立てようとしているのか、ようやくわかり始めたのだ。


若い神官が一歩出た。


「お待ちください」


「何だ」


「その言い方では、まるであの男が災いの元凶だったように聞こえます」


「違うのか?」


即座に返され、神官が息を詰まらせた。


「少なくとも、村全体へ流れた聖力は、破壊や呪詛の残滓ではありません」


神官は乾いた声で言い切った。


「持続的な補助術式です。全域へ薄く広がって、崩壊だけを止めている」


「大神官の奇跡だろう」


「それだけでは説明が」


「説明のつかない現象なら、なおさら危険だ」


冷たい理屈だった。

そして、詭弁でもあった。


ミーナが低く言う。


「少なくとも、被害を抑えた痕は残ってる」


カイルは目だけをそちらへ向ける。


「証拠になるのか」


「……」


言葉が詰まる。


「なら黙っていろ」


セリアが何か言いかけたが、結局、強く舌打ちするだけで黙った。

この場の誰も、それを真正面から切り返せるほど強くはなかった。


カイルは一歩だけ神官に近づく。


「元犯罪奴隷が、首輪をつけたまま正体不明の力を使い、大神官を連れて姿を消した」


低く、はっきり言う。


「王国と教会が警戒すべき案件だと思わないか」


神官は唇を噛んだ。

思うか思わないかではない。

そう報告されれば、上はもうその形で動く。

それがわかるからこそ、返す言葉が出なかった。


カイルはそれを見て、内心で確信した。


押し切れる。


いや、押し切らなければならない。


もしここで「こういちが村を救った」という形が残れば、全部が崩れる。

自分の遅れも、失敗も、切り上げた判断も、後から来た罪人ひとりに踏み越えられたことも。


そんなもの、認められるわけがない。

だから順番を逆にする。


あいつが力を持っていたのなら。

あいつが結果的に救ったのなら。


なら最初から、あいつが災いを呼び込んだことにすればいい。


胸の奥のざらついたものが、その理屈へ触れた瞬間、妙に落ち着いた。

正しいからではない。

自分が潰れずに済む形だったからだ。


「筆記を」


カイルが言うと、控えていた聖騎士がすぐに板と紙を差し出した。


「書け」


聖騎士は姿勢を正す。


カイルは一度だけ広場を見渡した。

血のついた石畳。

うつむく村人。

大神官の消えた村。


そして、まだどこかで息をしているはずの、追放した男。


「王国上層部への緊急報告」


淡々と口を開く。


「昨夜、ハイル村において、元犯罪奴隷と思しき首輪装着の男を確認」


さらさらと筆が走る。


「当該人物は正体不明の聖属性術式を用い、瘴気災害下で独自行動」


若い神官が息を呑んだ。

だが、カイルは止まらない。


「当該人物は大神官アイズを伴ったまま現場より失踪」


ミーナが思わず一歩出た。


「待って。それは連れ去りだって断定してる」


カイルは目だけをそちらへ向ける。


「違うと言い切れる証拠があるのか」


言葉が止まる。


「本件は村落被害および大神官失踪との関連が強く疑われる」


誰かが「違う」と言いかけた。

けれど、その声は最後まで形にならない。


「当該人物は極めて危険。王国および教会の安全保障上、厳重な警戒が必要」


筆記役の手がわずかに止まる。


「続けろ」


低い一言に、また筆が走った。


「王国を守るため、勇者パーティーに独自の追跡権限および必要時の討伐権限の付与を要請する」


書き終わった瞬間、広場の空気がさらに重くなる。


村人たちは顔を上げられない。

神官たちも、今ここで言葉を差し挟めば、この報告書そのものへ逆らう形になるとわかっていた。


カイルは紙を受け取り、ざっと目を通した。


悪くない。


事実だけではない。

だが、全部が嘘というわけでもない。

こういう文がいちばん強い。


「王都へ飛ばせ」


聖騎士が一礼し、封筒へ入れる。


その時、広場の端で子どもがまた小さく泣いた。


「ちがう……」


本当に小さな声だった。


母親が慌ててその口を塞ぐ。

周りの大人たちは聞こえないふりをした。


ミーナだけが、痛そうに目を伏せる。

セリアは奥歯を強く噛んだまま、何も言わない。

カイルだけが、一瞬そちらへ目をやる。


そして、すぐに興味を失った。


子どもの後悔ひとつで覆るような話ではない。

もう土台はできた。


あとは上へ持っていくだけだ。




その日の午後、カイルは村を発つ馬車の中にいた。


窓の外では、まだ湿った畑と森がゆっくり後ろへ流れていく。

遠くに見えるハイル村は、小さく、くすんだ塊にしか見えなかった。


向かいには誰もいない。

セリアたちは後ろの馬車へ回った。


同じ隊列にいながら、いまは顔を合わせない方が楽だった。


村で見た痕跡が、何度も頭の中へ戻ってくる。

白い線。

焼けた黒泥。

死骸。

足跡。

血のついた短剣。


そして、目立たないまま全体を支える、あの鬱陶しい魔法。

もし本当にあれがこういちなら。


どうして黙っていた。

どうして最初から見せなかった。

どうして弱いふりなんかしていた。


問いは、すぐに別の形へ変わる。


黙っていたのなら、裏切りだ。

見せなかったのなら、悪意だ。

弱いふりをしていたのなら、自分たちを嘲笑っていたことになる。


そこまで考えた時、胸の奥の怒りがようやく綺麗な形を持った。


そうだ。


あいつが悪い。


あいつが力を隠していたせいで、

あいつが自分の価値を黙っていたせいで、

自分たちは損をした。

恥をかいた。

村でも遅れを取った。


そこまで辿り着くと、気分が少しだけ楽になった。


認めたくない事実を、別の名で呼び直す。

そうすれば、まだ立っていられる。


馬車が大きく揺れた。


窓の外では、雲の切れ間から薄い光が差している。

その白さが、村に残っていた聖力の痕を思い出させて、カイルは舌打ちした。


その時だった。

ふいに、誰もいないはずの車内で、声みたいなものがした。


『そうだ』


息が止まる。


顔を上げる。

御者台の音はする。

馬の足音も聞こえる。

けれど、車内には自分しかいない。


『災いを呼んだのは、あいつだ』


低く甘い、耳のすぐ内側を撫でるような囁きだった。

男とも女ともつかない。

なのに、ひどくよく馴染む。


『教会が庇うから、王国が揺らぐ』


カイルは黙った。

否定しようと思えばできたはずだ。

気のせいだと笑い飛ばすことだって。


けれど、しなかった。


その囁きは、もう自分の中にある怒りと、ほとんど同じ形をしていたからだ。


『お前だけが正せる』


胸の奥で、何かが静かに沈んだ。

恐怖ではない。

躊躇でもない。


もっと粘ついた、都合のいい納得だった。


カイルはゆっくり目を閉じる。


「……そうだ」


誰にともなく呟く。


こういちが災いだ。

あいつを野放しにすれば、また人が死ぬ。

教会が庇うなら、教会ごと責任を負わせればいい。


自分がやっているのは、責任転嫁じゃない。

王国を守るために、必要なことだ。


そう言い聞かせるほど、言葉は滑らかに胸へ落ちていった。

馬車は王都へ向かって走る。


壊れた村に残った名もなき奇跡は、後ろへ遠ざかっていく。

代わりに、勇者の胸には、もっと醜くて重いものが根を下ろし始めていた。


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