第17話 奇跡の痕跡
男の背中は、すぐに闇へ溶けた。
アイズを抱えたまま、振り返りもしない。
外套の裾が血と泥を吸って重たく揺れ、その後ろ姿だけが、壊れた広場の向こうへ遠ざかっていく。
子どもは、その場に立ち尽くしていた。
肩で息をしながら、石を落としたばかりの手を見る。
その手で、そっと自分の額へ触れた。
さっきまで熱で焼けつくみたいだった皮膚が、今は少しだけ冷えている。
「おい、ぼうず!」
背後で大人の声が飛ぶ。
びくりと肩を揺らして振り返ると、母親が青い顔で駆け寄ってきた。
子どもの腕を掴み、強く引き寄せる。
「何やってるんだい……」
叱るような声だった。
けれど、怒りよりずっと強く混じっていたのは怯えと戸惑いだった。
母親の腕の中へ引き寄せられながら、子どもはもう一度だけ男の消えた方を見る。
暗がりの先には、もう誰もいない。
いまさらになって、胸の奥がひどく冷えた。
石なんか投げるんじゃなかった。
あの人は振り返らなかった。
何も言わなかった。
なのに、置いていかれたのは自分の方みたいだった。
喉の奥が詰まる。
謝ろうにも、もう背中さえ見えなかった。
その時だった。
広場の端で、誰かが声を上げた。
「熱が……!」
別の声が重なる。
「下がってる……下がってるぞ!」
倒れていた老人のそばにしゃがみ込んでいた女が、震える手で頬へ触れる。
その目が見開かれた。
「さっきより呼吸が楽になってる……」
ざわめきが、一気に広がった。
倒れていた者たちの顔色が、少しずつだが和らいでいく。
苦しそうに上下していた胸が、さっきより浅く整う。
咳き込んでいた子どもが、泣きながらも息を継げるようになっている。
誰かが泣いた。安堵からなのか、恐怖が切れたからなのか、自分でもわからない泣き声だった。
「大神官様の奇跡だ……」
ぽつりと、誰かが言った。
その一言が、あっという間に広がる。
「そうだ、大神官様が……」
「村を守ってくださったんだ」
「奇跡だ……」
「奇跡で済ませる気かい」
掠れた年寄りの声が、ざわめきの底を裂いた。
空気が止まる。
「さっきまで、大神官様が連れてた首輪つきの男を南へ引っ張ってたのは誰だった」
誰もすぐには答えなかった。
代わりに、広場の端にいた男がわずかに肩を震わせる。
昼に首輪つきへ桶を押しつけていた男だった。
「仕方なかったんだ」
男はすぐに言い返した。
声だけが妙に大きい。
「あのままじゃ、みんな死んでた」
「だからって、あれに食わせりゃ時間が稼げるって喚いたのはお前だろ」
別の男が吐き捨てる。
「縄まで持ってきて、外へ出せって先に言ったのもな」
顔色が変わった。
男は何か言い返しかけたが、うまく言葉にならない。
「違う、あれは……その……」
違わない。
その場にいた者は、誰もが知っていた。
誰かが最初に声を上げて、誰かがそれに乗って、あっという間に一人の罪人を外へ突き出した。
自分だけは違う顔をしていても、あの場にいた時点で同じだった。
子どもだけが、唇を噛んだ。
違う、と思った。
けれど言えなかった。
首輪つき。
罪人。
疫病神。
さっき自分で投げつけた言葉が、喉の奥へ刺さったまま抜けない。
大人たちは誰も見ていない。
見ていないから、気にもしない。
奇跡が起きたのなら、それで話は済む。
それでも、子どもの中だけには、あの背中が残っていた。
広場の中央では、若い神官が膝をつき、石畳へ手を当てていた。
白い線が、広場いっぱいに薄く残っている。
雨のあとに乾ききらなかった塩の筋みたいに、細く、長く。
「聖力の残滓です」
神官の声は掠れていた。
「まだ少し、残っています」
指先をかざしたまま、神官の眉が寄る。
「……大神官様の術式だけではありません」
誰かが息を呑んだ。
「強い治癒ではない。広く、薄く、全体を支える類の流れです」
言葉にした本人も、どこか信じ切れていない顔だった。
聖騎士の一人が、結界柱のそばへ寄る。
そこで、足を止めた。
「……血だ」
石畳の上に細い線が残っていた。
少し離れた場所から柱の根元まで続く、にじんだ赤黒い跡。
その先には、白い法衣の破れた糸がわずかに引っかかっている。
「大神官様が、ここまで戻られたのか」
誰かが息を呑む。
柱のそばは血と泥で汚れ、周囲の石はいくつもひび割れていた。
少し離れた壁には、人ひとり叩きつけられたみたいな亀裂が走っている。
屋根の瓦は砕け、黒い染みがいくつも残り、その一部は白く焼け焦げていた。
まともな戦いじゃない。
そうわかる痕だけが、あちこちに残っていた。
「外を見ろ!」
門の方から、別の聖騎士が叫ぶ。
駆けつけた者たちが見たのは、村の外れに転がる異形の死骸だった。
喉を潰されたキマイラ。
肋の砕けたもう一匹。
その向こうには、黒い泥が飛び散り、夜気の中で白く乾きかけた痕がまだらに残っている。
誰もが言葉を失った。
村を守ったのが大神官の奇跡だけなのか。
では、あの異形を外で止めたのは誰なのか。
最後に大神官を抱えて消えた首輪つきの男は、何者だったのか。
答えはない。
あるのは、助かったという結果だけだった。
「とにかく生きてる者を中へ」
若い神官が、強引に声を張った。
「まだ終わっていません。倒れている方を運んでください。水を。布を。動ける方は、火も」
その声に背を押されるみたいに、ようやく村人たちが動き出す。
泣きながら桶を運ぶ女。黙って瓦礫をどける男。
さっきまで震えながら石を握っていた子どもも、母親に手を引かれながら一歩だけ動いた。
それでも、何人もが何度も振り返る。
男が消えた暗がりの方へ。
誰も追わなかった。
追える者など、もう残っていなかった。
夜明け前の白さが、空の端へ滲み始める。
その頃になってようやく、遠くで馬の蹄の音がした。
助かったと息をつく者も、
責められる未来を思って顔を伏せる者も、
みな同じ方を見る。
白み始めた道の向こうから、王国の旗が近づいてきていた。
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