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第15話 祈りの代償

ハイル村へ着いて、最初に広場の中央へ走った時には、もう手遅れの一歩手前だった。


結界柱は折れていない。

けれど、中身が壊れかけていた。

白い石肌には幾筋もの亀裂が走り、その割れ目の奥で黒ずんだ何かが脈打っている。

瘴気だ。


雨水を吸った木の根みたいに柱の内側へ食い込み、この村の水脈へ絡みつこうとしていた。


ここで私がしているのは、奇跡の一撃で全部を消し飛ばすことではない。

それをすれば、柱に残っている最後の均衡まで砕ける。


だから、まず外側を固定する。

柱が崩れないよう聖力で縫い止めながら、内側へ染み込んだ瘴気だけを少しずつ焼き削る。

水脈へ落ちる流れを止め、村へ入る毒を細く細く絞り続ける。


地味で、遅くて、失敗の許されない作業だ。

その代償として、指先から感覚が消えていく。


結界柱に触れているはずなのに、石の冷たさがもうはっきりとはわからない。

わかるのは、そこへ流し込み続けている自分の聖力が、薄い刃みたいに少しずつ身体の内側を削っていく感覚だけだった。

私は右手を柱へ当て、左手で空中へ術式を描いた。


「第三式、固定。第七式、浄化。重ねます」


声に合わせて、足元の聖印が淡く浮かぶ。

白い光が石畳の目地を伝い、広場いっぱいに広がっていく。

その瞬間、柱の亀裂から噴き出しかけていた黒い靄が、じゅっと音を立てて押し返された。


けれど、それだけだ。

消えたわけではない。

ただ、少しだけ押し留めたにすぎない。


「大神官様! 西側の家でまた二人、熱が上がっています!」


振り返らずに答える。


「冷やした布を換えてください。井戸水をそのまま使わず、一度塩を溶かしてから。現地神官は」


「集会所の老人を診ています!」


「では聖騎士を一人回しなさい。抑えるだけでいい。治しきろうとしないでください、今は呼吸を落とす方が先です」


返事と同時に、広場の端で足音が散った。

村人たちの動きには、まだ迷いがある。

走るべき方向も、運ぶべきものも、頭ではわかっているのに、恐怖が先に身体を固めてしまっている。


責めても意味はない。

こういう時、人は簡単に取り乱す。

それでも、取り乱したままでは誰も助からない。


「泣くのはあとにしてください」


自分でも驚くほど、静かな声が出た。

けれど、その一言で、桶を抱えたまましゃがみ込んでいた女がびくりと肩を揺らす。


「いま必要なのは手です。立って」


女は顔を上げ、涙で濡れたまま何度も頷いた。

怒鳴る必要はない。

怒鳴ったところで、崩れかけた心は余計に散るだけだ。

順番に言えばいい。

何をするべきか。何を捨てるべきか。いま誰が動くべきか。


それだけで、人はまだ持ちこたえられる。


「香を絶やさないでください」


私は柱から手を離さないまま、広場の東を見た。

祠の前に置かれた簡易の香炉から、白い煙が細く立ち上っている。

湿った風に煽られながらも、途切れず上っていた。


「火を強くしすぎないこと。煙を切らさないことの方が重要です」


若い神官が、青い顔で「はい」と返す。

本当なら、もっと大きな結界を組みたい。

もっと強い浄化を重ねたい。

けれど、それをすれば、この柱が先に砕ける。

いま必要なのは、奇跡ではなく均衡だった。


ぎし、と喉の奥で音がした。


息を吸う。

冷たい。

胸の中へ入る空気まで薄く凍っているみたいだった。


指先の感覚は、もう半分ほど曖昧だ。

足元から吸われていく聖力に合わせて、体温まで持っていかれているのがわかる。

それでも術式は崩せない。

崩した瞬間、この村の中へ流れ込んでいる瘴気は一気に濃くなる。

熱を出している者から先に落ちるだろう。

子どもと老人は、とくに。


「大神官様」


現地神官の一人が、息を切らして広場へ戻ってきた。

まだ若い男で、法衣の裾には泥が跳ねている。


「南側の囲いで、また柵が軋んでおります。外の獣が……」


「聞こえています」


実際、遠くで何かが板を引っ掻くような音が続いていた。

広場まで届くたび、村人たちの肩が跳ねる。

けれど私は、そちらを見ない。

見ても意味がないからだ。


いまここを離れれば、広場の柱が落ちる。

柱が落ちれば、村の内側まで瘴気が満ちる。

外で何が起きていようと、私はここに留まるしかない。


「外周の見張りは?」


「聖騎士二名を回しています」


「増やせません。ここを崩す方が先に死人が出ます」


男は口を開きかけ、すぐに閉じた。

不満ではない。

理解したうえで、口にするのをやめた顔だった。


「……はい」


「論点を逸らさないでください」


私はもう一度、柱へ意識を戻す。


「いま守るべきなのは広場と水脈です。南の柵はその次」


静かな声だったはずなのに、男の顔色が変わる。

それでいい。

誰かが冷たく順番を決めなければ、皆が全部を救おうとして全部を落とす。


広場の隅で、子どもの咳が続いていた。乾いた、嫌な咳だ。

瘴気を吸い込んだ肺が、まだ幼い身体の中でうまく空気を回せていない音だった。


「集会所の寝台を詰めてください」


「ですが、もう空きが」


「作るのです。荷物を外へ」


「外へ出すと濡れます」


「人が死ぬよりましです」


答えはそれで終わりだった。

村人の男は、唇を引き結んで走っていく。


私は小さく息を吐いた。

吐いた息は白かった。

風がないのに、指先だけがじんじんと痺れている。


代償は、いつも静かに来る。


奇跡を使うたび、まず熱が消える。

次に指先から感覚が鈍くなる。

そのあとで、音が少し遠くなる。


まだ大丈夫だ。

耳は聞こえている。

足元も立っていられる。

声も、かろうじて届く。


大丈夫だと、自分に言い聞かせる。


そうしなければ、立っていられない。

柱の奥へ、もう一段深く聖力を流し込む。


途端に、爪の先から肘のあたりまで、氷水へ浸したみたいな冷えが走った。

白い法衣の下で、肌が粟立つ。


「っ……」


喉の奥で息が引っかかった。

それでも術式は切らない。

切れば終わる。

いま倒れていい場所ではない。


視界の端で、白い煙が揺れる。

香の匂いは、こんな時でも不思議と落ち着いていた。

甘すぎず、苦すぎず、よく乾いた木の内側みたいな匂い。

その匂いが、ふいに昔の記憶を引いた。


まだ小さかった頃の、雨上がりの石畳だ。


泥に濡れた路地。

倒れた人。

泣いていた私。


その向こうで、一人の僧侶が立っていた。


綺麗な人ではなかった。

法衣は汚れ、裾は裂け、腕には血がついていた。

祈りの前に、先に前へ出る人だった。

倒れている誰かのために、自分の方が泥まみれになることをためらわない人だった。


巨大な武器を振り抜く背中だけを、今でも覚えている。

その背中を見た時、子どもの私は思ったのだ。


こういう人がいるなら、救いは本当にあるのだと。

私も、誰かを助けられる側へ行きたいと。


胸の奥に残っているのは、まだその程度の感情だ。

遠くて、手も届かなくて、だからこそ綺麗に見えてしまう憧れ。


けれど、いまその人は、あの時とまるで変わらない姿のまま、血と泥のついた奴隷の首輪をつけていた。

そのことを思い出すだけで、胸の内側が静かに軋む。


「大神官様!」


鋭い声に、意識を引き戻される。

広場の北側で、結界柱の光が一瞬だけ明滅した。


まずい。

瘴気の流れがまた強くなっている。


「水を」


私は短く言った。


「柱の基部へ。布はそのまま、剥がさないで」


聖騎士が桶を抱えて走る。

水が石へかかる音と同時に、黒い筋がじゅっと煙を上げた。


「第二層を開きます」


誰に言ったというより、自分自身へ確認する声だった。

術式を一段深く組み直す。

喉が焼ける。

舌の先が痺れる。


「大神官様、お顔が……」


近くの神官が息を呑む。

私は首を振った。


「問題ありません」


掠れた声だった。

問題がないわけではない。

だが、問題があると言ったところで、代わりはいない。


石の感触が、もうほとんどない。

それでも指は離さない。

離した瞬間の先を、想像したくなかった。


どれだけ時間が経ったのか、わからない。

咳の音。

水の音。

祈りの声。

焦げた藁の匂い。

香の煙。

血の気が引いていく感覚。


全部が混ざって、広場の真ん中で鈍い輪になっていた。


その輪の外で、何かが変わった。

最初に気づいたのは、風だった。

村の外から絶えず流れ込んできていた、あの重たい黒い風が、ほんの少しだけ弱まる。


次に、柱の亀裂の奥で脈打っていた黒ずみが、一度だけためらうみたいに揺れた。


私は目を開く。


「……止まった?」


思わず、声が漏れた。


誰かが息を呑む。

広場の端で、咳き込んでいた子どもの声が、一拍だけ静かになる。


ありえない。

私が押し返したのではない。

いまのは、外から流れが切られた動きだ。


村人たちがざわめき始める。


「風が……」

「さっきより、薄い」

「大神官様が……?」


違う。

まだ、違う。

私は柱へ触れたまま、息を殺して外の流れを探る。

見えない。

広場から先のことは、何一つ。


けれど、わかることがひとつだけある。

村の外で、誰かが瘴気の芯に触れた。


それが誰なのか、私はまだ知らない。

確かめに行くこともできない。


柱を離れれば、この広場が先に崩れるからだ。


「ざわつかないでください」


掠れた声で言う。

それでも、広場は静まった。


「持ち場を離れないこと。いま緩んだだけです。終わってはいません」


自分に言い聞かせるように、もう一度柱へ聖力を流し込む。


冷え切った指先の奥で、ほんのわずかに痛みが返ってきた。


痛みがある。

なら、まだ動ける。


広場の外では何も見えない。

それでも、流れだけは確かに変わった。


誰かが、あちら側で食い止めている。


私は唇の内側を噛み、祈りの形を崩さないまま、村の外れへ意識を伸ばそうとした。


届かない。


届かないまま、それでも胸の奥だけが、ひどく静かに脈を打っていた。


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