第14話 捧げられた罪人
胸の奥の一欠片だけは、まだ消えていなかった。
それが今の俺にとって、救いなのか、呪いなのかはわからない。
南の柵の向こうでは、村人たちがまだ喚いている。
内側から慌てて打ちつけた板が、風に煽られるたびにがたがたと鳴った。
板と板の継ぎ目は雑で、細い隙間から松明の赤い光がちらちら漏れている。
そのたびに、柵の内側を走り回る影が一瞬だけ揺れた。
湿った木の匂いに、汗と泥と、怯えた人間の熱っぽい息が混じっている。
その向こうで、泣き声みたいに高い声と、誰かを押し返すみたいな怒鳴り声が、濁ってぐちゃぐちゃに重なっていた。
「立て!」
「こっちへ来させるな!」
「そのまま奥へ走れ!」
命令みたいな言葉ばかりだった。
俺の名前を呼ぶ声は、一つもない。
助けろ、じゃない。
気をつけろ、でもない。
戻ってくるな、だ。
ここから先は、お前一人で食われてこい。
板の向こうから飛んでくる言葉は、結局そういう意味だった。
黒い風が、頬の腫れたところを撫でる。
ぬるいのに、ぞっとするほど冷たく感じた。
林道の奥で、低い唸り声が重なる。
さっきまで柵の内側にいた時より、はっきりわかった。
キマイラ三匹。
その気配が、木々の間に散っている。
狩る側の動きだ。
俺を囲むように、少しずつ位置を変えている。
「……ほんとに、生贄だな」
自分でも驚くほど乾いた声が出た。
手首にはまだ縄が食い込んでいる。
首輪を引かれた喉は、息を吸うたび焼けるみたいに痛んだ。
口の中は血の味がして、頬の内側の傷が脈打っている。
こんな身体で、何をしろっていうんだ。
背後で、誰かが柵を叩いた。
俺がこっちに残っているのが怖いのだろう。
早く餌になれと言われているみたいだった。
ふっと、何もかもどうでもよくなりかける。
ここで食われたって、きっとあいつらは「仕方なかった」で済ませる。
罪人が一人減るだけだ。
だったら。
村ごと滅びればいい。
そこまで思って、胸の奥がひどく静かになった。
怒りじゃない。
諦めに近い、冷たい空白だった。
その瞬間、右の茂みが大きく揺れた。
「っ!」
反射で身をずらす。
黒い塊が、俺のいた場所へ飛び込んできた。
獅子みたいな胴だった。
けれど前脚は狼みたいに長く、肩の肉の盛り上がりからは、山羊の頭みたいなものが半ば埋まるように突き出している。
さらに尾の先では、細い蛇みたいなものがぬるりと持ち上がった。
口元から垂れる涎は透明じゃない。
薄く赤黒く濁っていた。
キマイラは地面へ爪を食い込ませ、滑るように向き直る。
目のあるはずの場所だけが、濡れた炭みたいに鈍く光っていた。
二匹目の唸り声が、今度は左後ろから近づく。
囲まれている。
俺は無意識に足を引いた。
背中に触れたのは、閉じた柵じゃない。
湿った木の幹だった。
逃げ道を探す。
林道を真っすぐ戻るのは駄目だ。
柵の前でもう一度捕まるだけだし、最悪、内側から突き返される。
だったら奥だ。
あの連中が嫌がる方へ。
「……知るか」
誰に向けた言葉でもない。
そう言わないと、足が動かなかった。
三匹目が、少し離れた場所で低く唸る。
それが合図だったみたいに、最初の一匹がまた跳んだ。
今度は避けるだけじゃ終われない。
縄を縛られた手首を前へ突き出す。
粗い麻縄を、飛び込んできた牙へ無理やり引っかけた。
一瞬だけ、動きが止まる。
その間に、身体ごと横へ転がる。
背中に石が食い込んだ。
息が抜ける。
でも、その石の角が、手首の縄に当たった。
硬い。
鋭い。
「……切れろ」
キマイラが振りほどいてくる前に、縄を石へ擦りつける。
腕の皮まで一緒に削れた。
熱い。
痛い。
次の瞬間、一本だけ繊維が切れた。
それで十分だった。
俺は力任せに手首をひねる。
皮が裂けるような痛みと一緒に、縄が半分ちぎれた。
「ぐっ……!」
呻いた声に反応して、二匹目が飛びかかってくる。
肩を掠め、外套がさらに裂けた。
そのまま走る。
林道から外れ、木々の間へ身体をねじ込む。
枝が顔を打つ。
湿った葉が頬の傷に触れて、ひどくしみた。
背後で、追ってくる音がする。
枝を折る音。
泥を蹴る音。
低い唸り。
速い。
俺の脚よりずっと速い。
それでも、真正面からぶつかるよりましだった。
狭い木立なら、あいつらも一気には来られない。
走るたび、首輪がじりじり熱を増す。
息を吸うだけで喉が軋む。
脇腹の奥では、さっき殴られたところが鈍く痛み続けていた。
「はっ……は……」
肺が焼ける。
足がもつれる。
でも、止まれば終わりだ。
村の声は、もうだいぶ遠い。
代わりに森の音が近くなっていく。
風が木々の上で鳴り、どこかで水が滴り、土の下では何かが脈打っている。
その全部が、こっちへ来い、と言っているみたいだった。
前方に、崩れた石垣みたいなものが見えた。
昔は道だったのかもしれない。
今は半分埋もれて、苔と蔦に覆われている。
そこへ飛び込む。
キマイラが後ろから追いつく。
振り返る余裕はない。
ただ、気配だけでわかる。
次に踏み出した足元が、不意に抜けた。
「っ!?」
斜面だ。
落ち葉の下に隠れていたぬかるみへ足を取られ、そのまま身体ごと滑る。
背中を木の根に打ちつけ、肩を岩に擦り、何度か地面に叩かれながら下まで転がった。
最後に倒れ込んだのは、ぬるい水の溜まった浅い窪地だった。
泥の冷たさが服の中へ染みる。
でも、それが逆に意識を繋いだ。
上から、キマイラの唸り声がする。
斜面の縁で止まっているらしい。
すぐに飛び込んでこない。
俺は泥の中で息を殺した。
喉の奥で、血の味が濃くなる。
左肘は痺れて感覚が鈍い。
「……何だよ」
どうして降りてこない。
躊躇う理由なんてないだろう。
その時、頭上のキマイラたちが、一斉に唸り方を変えた。
怒りじゃない。
怯えに近い、低い喉鳴りだった。
ぞくりとした。
追うのをやめたんじゃない。
追えなくなったのだ。
ここから先に、何かいる。
それも、こいつらでさえ迂闊に踏み込めない何かが。
泥の中へ指を差し込んで、身体を起こす。
水は冷たいはずなのに、底から妙なぬるさが伝わってきた。
窪地の奥には、木々がぽっかりと開けた場所がある。
夜みたいに暗い森の中で、そこだけ色が抜け落ちたみたいに静かだった。
鳥の声がしない。
虫の羽音もしない。
あるのは、濡れた土と鉄と、古い血が混じった臭いだけだ。
俺は自分でも気づかないうちに、そちらを見ていた。
見ちゃいけない気もした。
でも、目が離れない。
一歩。
泥から足を抜く。
傷んだ脚が悲鳴を上げる。
二歩。
折れた枝を避ける。
地面には、さっきのキマイラよりはるかに大きな爪痕がいくつも走っていた。
木の幹にも、深く抉れた跡が残っている。
三歩。
開けた場所の中央に、何かがあった。
最初は、大きな岩だと思った。
黒くて、濡れていて、不自然なくらいそこだけ土が盛り上がっている。
でも、違った。
それはゆっくり、呼吸していた。
どくり。
どくり。
地面の脈と同じ速さで、微かに膨らみ、沈む。
魔獣だ。
そう思った次の瞬間、喉の奥に、知らないはずの名前がひっかかった。
眷獣《影喰い》。
なぜそんな言葉が浮かんだのか、自分でもわからない。
林道で見たキマイラ三匹なんか比べものにならない。
あれはこいつを守るために先に放たれていた番犬みたいなものなんだと、見た瞬間にわかった。
全身は闇に溶けて輪郭が掴めない。
獣のようでもあり、もっと別の何かのようでもある。
ただひとつ、はっきり見えたものがある。
顔のあるはずの高さで、闇の中に、ひとつだけ鈍く濡れた光が開いた。
目だった。
それが、まっすぐ俺を見た。
心臓が、嫌な音を立てて止まりかける。
逃げなきゃいけない。
そうわかっているのに、脚が動かない。
森の空気が、そこで完全に変わった。
黒い風の出どころを見つけたんじゃない。
こっちが、見つかったのだとわかった。




