第13話 首輪をつけた男
林道の奥は、昼だというのに薄暗かった。
村の広場ではまだ人の声がしていたはずなのに、数歩入っただけで、それが遠くなる。
代わりに近づいてくるのは、濡れた土と腐りかけた水の臭いだった。
風は生ぬるい。
でも、首筋の内側だけが妙に冷える。
俺は外套の前を押さえ、できるだけ足音を殺しながら先へ進んだ。
胸の奥の小さな灯は、静かに揺れている。
消えてはいない。
けれど、安心できるほど強くもなかった。
少し進んだだけで、地面の様子が変わった。
泥の上に、深く抉れた跡がいくつも残っている。
獣の爪痕みたいだった。
だが、普通の獣よりずっと大きい。
その横には、剣で削ったような筋と、焼け焦げた土がある。
勇者パーティーの戦った跡だ。
しゃがみ込み、黒く焦げた土へ指先を近づける。
まだわずかに湿っていた。
土の下に、ぬめるみたいな嫌な気配が残っている。
「っ……」
すぐに手を離す。
薄いだけじゃない。
瘴気が地面の中へ染み込んで、まだ下で脈を打っている感じがした。
少し先には、折れた矢が落ちていた。
白い羽根に泥がこびりつき、半ばからぽっきり裂けている。
見覚えのある形だった。
ミーナの矢だ。
さらに奥へ進むと、幹を斜めに裂かれた木があった。
深い切り口は、力任せに振るった剣じゃない。
重い一撃を正確に通した跡だ。
ここでかなり激しくぶつかった。
それでも、押し返しきれなかった。
俺は息を潜めたまま、さらに耳を澄ます。
葉擦れ。
枝先を撫でる風。
どこか遠くで、水が滴るみたいな音。
その下に、もっと嫌なものが混じっていた。
ずるり。
ぬめるものが地面を擦るような、ごく小さな音。
背中が粟立つ。
見られている。
そう思った。
慌てて木の陰へ身体を寄せる。
喉が乾く。
脈が速くなる。
木立のさらに奥は、黒く沈みすぎていて、もう何があるのか見えない。
でも、見えないままでもわかった。
あっちにいる。
討ち漏らした瘴獣か。それとも、もっと別の何かか。
今の俺が一人で踏み込んでいい場所じゃない。
そう頭ではわかるのに、足だけが少し前へ出かける。
その時、風向きが変わった。
腐った水の臭いの中に、もっと生々しい匂いが混じる。
血だ。
しかも新しい。
足元を見ると、藪の際に赤黒い染みが点々と続いていた。
そこだけ泥が深く抉れている。
何かが重い身体を引きずって動いた跡だ。
「あー、そこね」
不意に、すぐ横から声がした。
「あんまり近づかない方がいいよ。さっきまで、もっとべちゃっとしたのが通ってたから」
心臓が跳ねた。反射で振り向く。
倒れた木の幹の上に、女が座っていた。
いつからそこにいたのかわからない。
足音も、枝を踏む音も聞こえなかった。
年は二十代くらいに見える。
細身で、妙に血色の薄い顔をしていた。
それなのに口元だけはやたら明るく笑っている。
黒っぽい外套の下からのぞくシャツは汚れていないのに、靴の先だけが濡れた土で黒く光っていた。
女は俺の顔を見るなり、ひらひらと手を振る。
「そんなにびっくりしなくても。怪しい者じゃないよ、たぶん」
たぶん、って何だ。俺は木の陰から半歩も出ないまま、女を見た。
「……誰ですか」
「んー?」
女は楽しそうに首を傾げる。
「通りすがり。山歩きが好きで、ちょっと散歩してただけ」
どう見ても散歩する空気じゃない。
腐った水と血の臭いが混じる林道で、そんな軽い顔ができる方がおかしかった。
「君こそ、村から来たんでしょ?」
返事を待たずに、女はぺらぺら喋り続ける。
「一人でこんなとこまで来るなんて、見た目より度胸あるんだね。いや、逆かな。無茶する方の人?」
妙に声がよく通った。
軽い。
活発というか、落ち着きがないというか、とにかくこの場に似合わない明るさだった。
俺は視線を逸らさないまま答える。
「ここは危ないです。あなたも村へ戻った方がいい」
「あはは、言うねえ」
女は膝を抱えたまま笑った。
「でも、その台詞、そっくりそのまま返したいな。君、ずいぶん危ない顔してるよ」
危ない顔。
そんな顔をしていたのかもしれない。
女はふいに鼻先を少し上げた。
匂いを嗅ぐみたいな仕草だった。
「それに、君」
目が細くなる。
「変わった匂いするね」
背中がひやりとした。
「土と鉄と……ああ、神殿の香みたいなのも混じってる。なのに、妙に空っぽだ」
何を言っているのかわからない。だが、聞いていて気味が悪かった。
女はそんな俺の顔を見て、またすぐに笑う。
「ごめんごめん、気にしないで。鼻が利くの」
軽すぎる。
そのくせ、こちらの芯を勝手に覗き込んでくるみたいな喋り方だった。
「あなたは、何を見たんですか」
俺がそう聞くと、女は嬉しそうに目を見開いた。
「お、やっとそれ聞く?」
身を乗り出す。
倒木がきしりと鳴る。
「見たっていうか、いたよ。黒くて、ぐちゃっとしてて、腹減ってそうなのが奥に」
言い方が妙に生々しかった。
「勇者様たち、ずいぶん派手にやったみたいだけど、取り逃がしたねえ。あれ、ちゃんと始末しないと村まで来るよ」
「どれくらいいます」
「さあ?」
女は肩をすくめる。
「一匹かもしれないし、そうじゃないかもしれない」
まるで答える気がない。
けれど、何も知らない風でもない。
「戻った方がいいよ」
女は今度は、ひどく楽しそうな声で言った。
「今ならまだ、間に合うかもしれないし」
「……あなたは戻らないんですか」
聞くと、女は一瞬だけきょとんとした。
それから、声を立てずに肩を揺らす。
「あたし?」
その笑い方だけ、少しおかしかった。
明るいのに、冷たい。
「うーん、どうしようかな。面白そうな方へ行こうかなって思ってる」
面白そう。この状況で、そういう言葉が出てくるのが理解できなかった。
「じゃ、君は先に戻りなよ」
女はひらひらと手を振る。
「あんまり遅いと、本当に取り返しがつかなくなる」
その言い方に、胸の奥がざわついた。
忠告なのか、ただ面白がっているだけなのか、わからない。
俺は女から目を離さないまま、少しずつ後ろへ下がる。
「……あなたも、村へ近づかないでください」
言ってから、自分でも何を言ってるんだと思った。
正体もわからない相手に。
でも、女はまた楽しそうに笑った。
「それ、命令?」
「違います」
「そっか」
女はあっさり頷く。
「じゃあ、善処する」
善処。
本気で言っていないのが、声だけでわかった。
「ところで」
女が、ふと思い出したみたいに首を傾げる。
「あなたの中、妙だね。こんなに空っぽなのに、底の方だけ真っ黒だ」
息が止まった。
意味がわからなかった。
「……何のことですか」
そう聞き返そうとした、その瞬間だった。
倒木の上には、もう誰もいなかった。
気配も、足音もない。
濡れた土の上にも、新しい足跡は見えない。
その代わり、湿った樹皮には、さっきまでなかった細い傷が五本、深く食い込んでいた。
獣の爪痕にも見えたし、人の指が力任せに抉った跡にも見えた。
首筋に残っていた嫌な冷たさが、今度は背骨の奥まで落ちていく。
村へ戻る手前から、空気が張っていた。
怒鳴り声ではない。
でも、抑えきれない苛立ちが滲んだ人の声が、風に混じって届いてくる。
木柵の陰から広場を覗くと、結界柱の前に人だかりができていた。
アイズが中央に立っている。
白い法衣の袖は風に煽られ、壊れかけた結界柱の黒い筋がその横で不気味に脈打っていた。
その周りを、村人たちが半円を描くように囲んでいる。
誰もが疲れ切った顔をしている。
けれど目だけは尖っていた。
「だから、井戸の水はもう使わないでください」
アイズの声は静かだった。
怒鳴らない。
それでも、広場のざわめきの中で不思議とはっきり通る。
「今の水脈は瘴気に触れています。煮ても完全には抜けません」
「でも、家畜に飲ませる水まで止めたら、うちは終わりだ!」
日に焼けた男が噛みつくみたいに言った。
「畑だって乾く! あんたは王都へ帰れば済むかもしれんが、こっちはここで生きてるんだぞ!」
「承知しています」
アイズは少しも声を荒らげない。
「ですから、終わらせないために止めています」
「そんな綺麗事を!」
今度は別の女が、腕の中の子どもを抱きしめたまま叫ぶ。
「子どもが熱を出してるのに、集会所へ集めろ、南側の家は空けろ、水を捨てろって、そんなこと次々言われたって追いつくわけないでしょう!」
アイズは一度だけ目を伏せた。
それから、またまっすぐ顔を上げる。
「追いつかないから順番を決めています」
低く、よく通る声だった。
「今は感情の強さではなく、助かる確率の話をしています」
広場が、しんと静まる。
「病人を一か所に集めてください。南側の家は風下です。湧き水の使用は止める。戸板と布で隙間を塞ぐ」
言葉が一つずつ、逃げ道を塞ぐみたいに落ちていく。
「論点を逸らさないでください。今は誰がどれだけ怖いかではなく、何をすれば被害が減るかを決める場です」
誰もすぐには言い返せなかった。
怒鳴られたわけでもないのに、広場の空気が一段冷えたみたいだった。
でも、それで不安が消えるわけじゃない。村人たちの肩は、なお硬いままだ。
俺はフードを深く下ろし、できるだけ目立たないよう木柵沿いを歩いた。
集会所の陰に回れば、人目も少ない。
そう思ったところで、集会所の裏手から若い女が飛び出してきた。
濡れ布を抱えたまま、俺とぶつかりかける。
「ご、ごめん……」
反射的に道を譲った、その拍子だった。
外套の襟がずれ、首元が少しだけ露わになる。
女の目が、そこに吸い寄せられた。
鉄の輪。
黒ずんだ金具。
罪人の首輪。
「……え」
女の顔色が変わる。
「あんた、その首……」
俺はすぐに襟を掴んだ。
でも、遅かった。
近くにいた別の男が、怪訝そうにこっちを見る。
女は一歩下がり、俺から距離を取った。
「どうした」
「首輪……ついてる」
それだけで十分だった。
ざわり、と空気が揺れる。
広場の何人かが、こちらを振り返る。
視線が首元へ落ちる。
すぐに逸らす者もいた。
逆に、じっと見据えてくる者もいた。
「罪人か?」
小さく漏れたその声が、広場を一気に冷やした。
アイズがこちらを見た。
ほんの一瞬だけ眉が動く。
だが、すぐに広場の方へ向き直る。
「その方は私の補助です」
短く、はっきり言い切った。
「今ここで問題にしているのは、その方の首ではありません」
村人たちの目が、またアイズへ戻る。
「結界柱の損傷と、瘴気の流入です」
そのまま切り捨てるように話を戻した。
けれど、さっきまでと同じには戻らなかった。
一度見えたものは、消えない。
村人たちの視線の奥に、さっきまでとは違う色が混じったのがわかった。
警戒。嫌悪。
そして、怯えた人間が一番手近なものに向ける種類の疑い。
その時、祠の方から若い神官が駆けてくる。
「大神官様! 北側の柱筋がまた……」
アイズが振り返る。
「わかりました」
俺を見た。
「こういち、集会所の方を」
「はい」
それだけ言って、彼女は若い神官と祠の方へ向かった。
白い法衣が遠ざかる。その背中が見えなくなるのを待っていたみたいに、広場の空気がまた変わった。
最初に声をかけてきたのは、さっき首元を見た若い女だった。
「……補助って、何の?」
答えに困っていると、横から男が鼻で笑う。
「見りゃわかるだろ。罪人の雑用だ」
乾いた笑いが、二、三人分だけ重なった。
誰も楽しそうじゃない。
ただ、不安を吐き出す場所を見つけたみたいな笑いだった。
「近寄るなよ」
別の女が、自分の子どもの肩を抱き寄せる。
「病人のそばへ行かせるな。何持ってるかわからない」
俺は口を開きかけた。
でも、その前に言葉が飛んでくる。
「大神官様が連れてるからって、何でも信用できるわけじゃないだろ」
「こんな時に首輪つきなんて、縁起でもない……」
「もしかして、鉱山から来たとかじゃないだろうな」
胸の奥が、じわりと冷えた。裁きの間の視線に似ていた。
罪状より先に、もう答えが決まっている目だ。
「……集会所の手伝いをします」
それだけ言って、俺は横を抜けようとした。
だが、肩が強く押し返される。
「勝手に触るな」
年配の男だった。
手のひらは荒れ、土と汗の臭いがした。
「うちの娘に何かあったらどうする」
「何もしません」
「罪人の何もしないは当てにならん」
言い切られて、言葉が喉に詰まる。
その時、集会所の中から苦しそうな咳が聞こえた。
反射でそちらを見ると、男が顎をしゃくる。
「だったら、せめて汚れ仕事くらいしろ」
足元に置いてあった桶を蹴る。
中には濁った水と、吐き戻したものを拭いた布が詰め込まれていた。
「裏へ捨ててこい」
拒めなかった。ここで言い返しても、もっと拗れるだけだ。
俺は桶を持ち上げる。
ぬるい臭気が鼻を刺した。
吐き気を堪えながら、集会所の裏手へ回る。
土の上へ中身を流すと、どろりと嫌な音を立てた。
二年前の鉱山を思い出す。
ああいう場所で捨てられていたのは、たぶん俺たちの方だった。
「おい、そっちも運べ」
今度は死んだ鶏を積んだ籠を渡される。
瘴気にあてられたのか、羽は湿って重く、鼻をつく腐臭がした。
俺は黙ってそれも運んだ。
そのうち、誰も俺にまともな返事をしなくなった。用がある時だけ、物を押しつけてくる。
邪魔になれば、肩で退かす。
集会所の中へ入ろうとした時は、戸口の前で止められた。
「中はいい」
若い男が腕を広げる。
「病人がいるんだ。首輪つきは外で待て」
「少し見るだけです」
「見る必要がどこにある」
即座に返される。
「大神官様がいない時に勝手なことされてたまるか」
その言葉のあと、戸口の中から、昨日の女の子の咳き込む声がした。
俺の手が反射で動きかける。
でも、母親が気づき、びくりと子どもを抱き寄せた。
「触らないで」
小さな声だった。
それが余計にきつかった。
昨日は、あれほど必死に頭を下げていたのに。
いや、違う。
あの時の彼女は、子どもを助けたかっただけだ。
首輪を見れば、こうなるのは当然なのかもしれない。
それでも、胸の奥がずくりと痛んだ。
俺は何も言えず、戸口から離れる。
日が傾くにはまだ早いはずなのに、村の色が少しずつ鈍っていった。
空に雲が増えたわけじゃない。
結界柱の黒い筋が、じわじわと広がっているのだ。
祠の方では、アイズと現地神官たちが何かの術式を重ねている。
白い光が何度か明滅し、そのたびに広場の空気が少しだけ軽くなる。
だが、長くは続かない。
すぐにまた、湿った重さが村全体へ沈んでくる。
村人たちはそのたびにざわつき、目に見えない不安を俺へ向けてきた。
「やっぱり、あいつが来てからじゃないか」
「大神官様は騙されてるのかもしれん」
「罪人を村へ入れるなんて……」
聞こえないふりをした。
でも、全部ちゃんと聞こえていた。
何かを恐れている人間は、答えの出ない怖さに耐えられない。
だから、見えるものへ飛びつく。
首輪。
汚れた外套。
弱そうな男。
それだけで、十分なのだ。
「お前、そこに突っ立ってるな」
今度は、さっきとは別の男が声をかけてきた。
額に汗を浮かべ、苛立った目をしている。
「南の柵が外れかけてる。縄で縛ってこい」
「一人でですか」
思わず聞き返すと、男の顔が歪んだ。
「罪人一人で足りないなら、何の役に立つ」
喉の奥に、熱いものが引っかかる。
でも、飲み込んだ。
「……わかりました」
村の南端は、風下だった。
近づくだけで、湿った獣毛みたいな臭いが強くなる。
柵の縄を結び直しながら、俺はちらりと林道の方を見る。木々の間の黒さが、戻る前より濃くなっている気がした。
早くしないとまずい。
頭ではわかっている。
けれど村の中では、俺はまだ動けない。
縄を締める指先が震えた。
悔しさと、情けなさと、言いようのない疲れが混ざっていた。
「……もう、放っておけばいいのに」
ぽつりと漏れた声は、自分でも驚くほど冷たかった。
こんなふうに疑われて。
邪魔者みたいに扱われて。
それでも助ける理由なんて、どこにある。
カイルたちと何が違う。裁判の時の連中と何が違う。
弱い相手を見つけて、自分の不安を押しつけるだけじゃないか。
そう思った瞬間、胸の奥の小さな灯まで冷えかける。
その時だった。
村の中央から、甲高い悲鳴が上がった。
振り返る。
結界柱の方角で、白い光が大きく揺れた。
次の瞬間、乾いた音を立てて何かが砕ける。
「っ……!」
黒い風が吹いた。
村の中を、見えない濁流みたいに一気に走る。
藁屋根がばさりと鳴り、戸板が激しく打ちつけられる。
犬が狂ったように吠えた。
集会所の中からも、何人もの悲鳴が重なる。
「来るぞ!」
誰かが叫ぶ。
それが合図だったみたいに、村の空気が崩れた。
さっきまで俺を責めていた村人たちが、一斉に走り出す。
子どもを抱えて家へ駆け込む者。
荷車へ袋を投げ込む者。
逆に、呆然とその場に立ち尽くす者。
秩序なんて一瞬で消えた。
俺は南の柵から広場へ向かって走る。
風の中に、獣の唸り声みたいなものが混じっていた。
村の端の家の壁が、鈍い音を立てて内側から膨らむ。
次の瞬間、板が裂け、黒い靄が噴き出した。
「いやああっ!」
女が転ぶ。
抱えていた籠が飛び、乾いた豆が土の上へ散らばる。
その横を、別の男が振り返りもせず走り抜けた。
助けない。
助けられない。
怖いから。
わかる。
わかるのに、見ているだけで胸が腐りそうだった。
広場へ戻ると、もっと酷かった。
集会所の戸が半ばまで閉められ、中からうわごとと咳が重なっている。
外には入れなかった年寄りが二人、戸口の前で押し合いになっていた。
「開けろ!」
「中がいっぱいなんだよ!」
「うちの母ちゃんがまだ外に――」
その横で、腰の曲がった老婆が戸口の敷居へ爪を立てていた。
だが、中にいる若い男がその手を踏みつけるみたいに蹴り返す。
「入れたら最後だ! こっちまで死ぬ!」
老婆は石畳の上へ転がり、乾いた息だけを漏らした。
誰も助け起こさない。
自分のことで精一杯だからだ。
その時、俺の肩を誰かが乱暴に掴んだ。
「お前、南を見てたんだろ!」
昼に桶を押しつけてきた男だった。
顔が引きつり、目が血走っている。
「何が来る! どこから来る!」
「林道の奥に、まだ何かいます」
答えると、男の手に力が入った。
「だったら、お前が行けよ!」
唾が飛ぶほど近くで怒鳴られる。
「どうせ罪人だろうが! ここで何人死ぬと思ってる!」
その一言で、周りの何人かがこっちを見た。
目に浮かぶのは、怒りより先に、縋るみたいな切迫だった。
誰かを前に出したい。
誰かに背負わせたい。
誰でもいいから。
その先にいるのが俺なら、ちょうどいい。
「あいつが瘴気を連れてきたんじゃないのか」
「首輪つきだぞ」
「大神官様がいない今のうちに縛っとけ!」
「外へ出せ! あれに食わせりゃ少しは時間が稼げる!」
言葉が重なる。
一気に押し寄せてくる。
誰かの肘が胸に入った。
よろけたところを、別の肩がぶつかる。
今度は首元を掴まれた。
鉄の輪ごと引っ張られる。
喉が潰れそうになって、息が止まる。
「っ、やめ……」
声にならない。
「黙れ」
男の拳が頬に入った。
視界が白く弾ける。
口の中にすぐ血の味が広がった。
俺は土の上へ片膝をついた。湿った泥が掌に食い込む。
背中に、さらに蹴りが入る。
「立てよ!」
「罪人のくせに、ここで守られる側にいるつもりか!」
縄だ。
さっき南の柵を縛り直していた粗い麻縄が、今度は俺の手首に巻きつけられる。
引かれるたび、皮が擦れて熱く痛んだ。
「待ってください!」
言ったつもりだった。
でも、また首輪を引かれて息が詰まる。
「お前が来てからおかしくなったんだ!」
昼に桶を押しつけてきた男が、顔を真っ赤にして怒鳴る。
「大神官様まで連れてきやがって、村をかき回して、それで黙って突っ立ってるだけか!」
違う。そう言い返したかった。
でも、この場でそんな言葉に意味がないのはもうわかっていた。
誰も答えなんか聞いていない。
ただ、自分たちが助かるための理由がほしいだけだ。
「南だ! 南へ引っ張れ!」
数人がかりで、俺の身体が無理やり引きずられる。
膝が石畳を擦り、布が裂けた。
手首の縄が食い込み、肩が抜けそうになる。
途中で、誰かが俺の背に汚れた水をぶちまけた。
ぬるく、臭い。
集会所で捨てさせられた桶と同じ臭いだった。
「穢れは穢れで払え!」
笑い声が上がる。
乾いて、怯えきって、それでもひどく醜い笑いだった。
俺は歯を食いしばる。
情けなさより、怒りより、先に寒気が来た。
その瞬間、頭の中で何かが切れそうになった。
ああ、同じだ。
結局、同じだった。
怖くなれば、人は一番弱そうな相手を踏む。
自分の家族さえ助かれば、それでいい顔をする。
俺を追い出した四人だけが特別醜かったんじゃない。
こういうのは、どこにでもある。
胸の奥の小さな灯が、ひどく遠く感じた。
もういいんじゃないか。
そう思いかけたところで、南の柵が内側から外された。
「出せ!」
誰かが怒鳴る。
次の瞬間、背中を思いきり蹴られた。
俺の身体は、開いた柵の向こうへよろける。
生ぬるい黒い風が、真正面から顔を打った。
林道の奥で嗅いだ、腐った水と血の臭いが一気に濃くなる。
背後では、まだ村人たちの声が重なっていた。
「そいつを立たせろ!」
「あれを引きつけろ!」
「戻ってくるなよ!」
振り返れば、柵の隙間から何人もの顔がこちらを見ていた。
怯えた顔。
怒った顔。
泣きそうな顔。
でもそのどれも、自分が助かるためなら俺を捨てていいと言っている顔だった。
こんな連中、見捨ててしまえばいい。
本気で、そう思った。
なのに。
胸の奥の一欠片だけは、まだ消えていなかった。
引き続き読んでいただけると嬉しいです。
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