第12話 見捨てられた村
鉱山を出る時、朝の空気は刺すように冷たかった。
けれど、その冷たさは坑道の中のものとは違った。
湿った土と鉄錆と血の臭いが染みついた冷えじゃない。
薄い雪と、まだ凍り切っていない山風の匂いがした。
俺は灰色の外套を深く被り、正門の前で立ち止まる。
門の向こうに続く山道は、夜明けの薄青い光の中でぼんやり白んでいた。
二年間、何度も見上げたはずの外の空だ。
それなのに、こうして外へ出る側に立つと、まるで別の世界みたいだった。
「こういち」
後ろから、アイズの声がした。
振り返ると、彼女は白い法衣の上に旅用の厚い外套を羽織っていた。
護衛の聖騎士が数人、少し離れた位置で馬の支度をしている。
革の軋む音。鼻息の白い馬。金具のかすかな触れ合う音。
どれも、北方鉱山の怒鳴り声よりずっと静かなのに、胸の奥は妙に落ち着かなかった。
「具合はどうですか」
「……昨日よりは」
そう答えてから、少し迷う。
「まだ、変ですけど」
アイズは小さく頷いた。
「それで構いません。今は無理に整えなくていい」
それから、俺の首元に目を向ける。
魔封じの首輪は、厚い布と外套の襟でかなり隠してある。
でも、完全じゃない。
「村では、私の補助役として側にいてください」
「補助役……」
「ええ。無理に前へ出る必要はありません」
少しだけ言葉を切って、まっすぐ俺を見る。
「ですが、もし手を貸せる場面があれば、貸してください」
その言い方が、命令じゃないのに不思議と逆らえなかった。
「……はい」
返事をしたところで、どうしても気になって、視線が鉱山の小屋の方へ流れる。
まだ朝が早いせいか、戸は閉まったままだ。けれど、その前には見慣れない聖騎士が二人立っていた。
教会の紋が入った白い外套が、鉱山の汚れた柵にひどく不似合いだ。
俺の視線に気づいたのか、アイズが言った。
「第三坑道の者たちには、すでに保護命令を出しています」
「……はい」
それだけで、肩の奥に入っていた力が少し抜けた。完全に安心できたわけじゃない。
でも、何もしないまま置いていくのとは違う。
「行きましょう」
アイズが馬車へ向かう。
俺も、一度だけ鉱山を振り返ってから、そのあとを追った。
馬車の中は、外よりずっと暖かかった。
厚い毛布が積まれ、足元には小さな炭火鉢まで入っている。
揺れるたび、乾いた木と炭の匂いが混じった。
二年前までなら当たり前だったかもしれない温かさが、今はひどく贅沢に思える。
けれど、心の方は落ち着かなかった。
窓の外では、黒い岩肌と薄い雪が流れていく。
山道の轍に泥が溜まり、車輪が通るたびに鈍い水音を立てた。
「ハイル村というのは」
自分から口を開くと、声が少し掠れた。
アイズが向かいの席で顔を上げる。
「どんな場所なんですか」
「山麓の小さな村です」
彼女は簡潔に答えた。
「畑と放牧で暮らしている者が多く、近くの湧き水を生活の中心にしています」
「湧き水……」
「ええ。その水脈の上に小さな結界柱が立っていて、普段は周辺の瘴気を抑えているのですが」
そこで声が少し低くなる。
「昨夜の戦闘で、柱が損傷したようです」
俺は膝の上で手を握った。
「勇者パーティーは、何と戦っていたんですか」
「報告では、瘴気を帯びた獣型の魔物です。ただし」
アイズは窓の外を見たまま続ける。
「討伐対象そのものより、その周辺に溜まっていた瘴気の方が厄介だった可能性があります」
「倒しきれなかった……?」
「あるいは、追い払っただけか」
その言い方で、胸の奥が重くなった。
追い払っただけ。
処理しきれないまま。
だから村へ流れ込んだ。
「勇者たちも、最初から村を見捨てるつもりだったわけではないのかもしれません」
アイズの声は淡々としていた。
「ですが、結果として見捨てた。それは事実です」
言い訳の余地もない、冷たい言い方だった。
俺は何も返せなかった。馬車が大きく揺れる。
身体はまだ本調子じゃない。
脇腹の奥に鈍い痛みが残っているし、脚も長く歩けばすぐに悲鳴を上げそうだった。
それでも、胸の奥には小さな灯が残っている。
一欠片だけ戻った、自分のための熱だ。
それが揺れるたび、不思議と気持ちまで前へ引かれる。
「あの」
気づけば、また口が動いていた。
「俺が表であまり動かない方がいいのは、やっぱり……」
「ええ」
アイズはすぐ頷いた。
「あなたの首輪もありますし、何より今はまだ、正体を広く知られるべきではありません」
「正体なんて、俺にもわかってませんけど」
自嘲みたいに言うと、アイズの目が少しだけ柔らいだ。
「それでも、見える者には見えます」
「見える……」
「力の質が」
その答えに、背筋が少しだけ冷えた。
アイズは続ける。
「ですから、村ではまず私が前へ出ます。こういちは私の補助として動いてください」
「……わかりました」
「本当に危険な場所へ入る時だけ、私が合図を出します」
その言葉に、喉の奥が乾いた。
本当に危険な場所。
つまり、村の中だけじゃ終わらない。
たぶん瘴気の源が、まだどこかに残っているのだ。
「怖いですか?」
不意に聞かれて、俺は顔を上げた。
アイズは責めるでもなく、ただ静かにこちらを見ている。
「……怖いです」
少し迷ってから、そう答えた。
「行きたいって言ったくせに、今さらですけど」
「今さらではありません」
アイズは首を横に振る。
「怖いのに進むことと、怖くないふりをすることは別です」
その言葉は、胸の空いた場所に静かに落ちた。
俺は窓の外へ目をやる。山の稜線の向こうから、ようやく朝日が差し始めていた。白く凍った地面の上を、薄い金色の光が少しずつ滑っていく。
あの光が、ハイル村にも届いていればいいと思った。
昼に近づく頃、馬車は山麓の村へ着いた。
最初に鼻を突いたのは、焦げた木と湿った藁の匂いだった。
それに、どこか甘ったるく腐ったような、嫌な臭気が混じっている。
ハイル村は、想像していたよりずっと静かだった。
子どもの走る声もない。家畜の鳴き声も少ない。
あるのは、あちこちの家から漏れてくる咳と、風に擦れる戸板の音だけだ。
村の中央には小さな広場があり、その脇に石造りの祠と結界柱が立っていた。
いや、立っていた、というより、かろうじて残っているという方が近い。
白かったはずの柱には大きな亀裂が走り、表面には黒い筋が根のように這っている。
近づかなくてもわかった。
あれは、ひどい。
馬車が止まると、すぐに村人たちが集まってきた。
顔色は悪く、目の下に濃い隈がある。
誰もが疲れ切っていて、それでも希望を捨てきれない目でアイズを見ていた。
「大神官様……!」
年配の男が、泥に膝をつきかける。
アイズはすぐに手で止めた。
「頭を上げてください。状況を聞かせていただきます」
その声が広場に通る。それだけで、ばらばらだった空気が少し整うのがわかった。
俺は外套のフードを深く下ろし、アイズの半歩後ろへ立つ。
それでも、村人たちの様子は見えた。
腕の中でぐったりしている小さな子ども。
戸口に寄りかかり、浅い息をしている女。
広場の端では、犬が尻尾も振らずに腹ばいになっていた。
「昨夜、山の方から黒い風が下りてきたんです」
年配の男が震える声で言う。
「勇者様たちは途中までは押し返してくださったんですが……急に撤退だと。村へ戻れ、戸を閉めろと、それだけ言って」
「それから、結界柱が」
今度は若い女が口を挟む。
「急に黒くなって……子どもたちが熱を出し始めて……水まで変な臭いがして」
アイズは短く頷き、周囲を見回した。
「現地の神官は」
祠の陰から、青ざめた若い神官が二人出てきた。
法衣の裾は泥だらけで、一人は明らかに寝ていない顔だった。
「朝から浄化を続けていますが、追いつきません」
息も絶え絶えに答える。
「柱の補修も試みましたが、内部まで瘴気が入り込んでいて……」
そこまで聞いて、アイズは即座に指示を飛ばした。
「負傷者と発熱者を広場ではなく集会所へ。窓を開け、火鉢は壁際に。湧き水は直ちに使用停止。護衛は井戸と祠の周囲を封鎖してください」
矢継ぎ早の命令に、村人も神官も一瞬だけ呆然とする。
だが、その次には皆が慌てて動き始めた。
それほどまでに、誰かが決めてくれるのを待っていたのだ。
俺も手伝おうと一歩出かけて、足を止める。
勝手に前へ出るな。
アイズはそう言っていた。
でも、その時。
俺のすぐ横で、小さな咳き込みが聞こえた。
見ると、七つか八つくらいの女の子が、母親に抱えられたまま苦しそうに眉を寄せている。
唇は乾き、呼吸は熱っぽく浅い。
母親が、俺が神官の一人だとでも思ったのか、必死な顔で縋ってきた。
「お願いします、この子だけでも」
その声を聞いた瞬間、もう考えていなかった。
「……集会所へ運んでください」
自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。
母親がはっと顔を上げる。
「そこで、少し見ます」
俺は周囲を見た。アイズは別の村人に指示を出している。
こちらに気づいてはいるはずだ。
でも、止める気配はなかった。
集会所の中は、熱と汗と薬草の匂いでむせるようだった。
藁を敷いた床に、何人もの村人が横になっている。
うわごとを漏らす声。水桶の音。濡れ布を絞る音。
俺は女の子のそばに膝をつく。
額に手を当てる。
熱い。でも、昨夜の坑道の熱と似ていた。
身体の芯が侵されているというより、外から押し込まれた瘴気に呼吸を乱されている感じだ。
「大丈夫」
反射みたいに、そう呟いていた。誰に言ったのか、自分でもわからない。
目立たないように。
ほんの少しだけ。
胸の奥の小さな灯へ意識を向ける。外へ広げるんじゃない。
指先から、必要な分だけ落とす。
熱は細く、浅く流れた。
女の子の荒かった呼吸が、少しだけ和らぐ。
喉の奥で絡んでいた苦しそうな音が、ひとつ消えた。
母親が目を見開く。
「あ……」
「まだ安心はできません」
慌てて言葉を重ねる。
「水は飲ませすぎないで。唇を湿らせるくらいで。あと、窓際は避けてください。冷えすぎると逆にきついです」
言いながら、自分で少し驚いた。
どうすればいいのか、身体が先に知っていた。
母親は何度も頷く。
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
その言葉に、胸の奥が少しだけ疼いた。
昔の俺なら、きっとすぐに否定していた。
でも今は、否定する前に次の咳が聞こえる。
集会所の奥では、別の子どもが苦しそうに寝返りを打っていた。
「こういち」
背後から、低い声がした。
振り返ると、アイズが戸口に立っていた。
怒っている顔ではない。
でも、仕事の顔だった。
「表を」
それだけ言われて、俺はすぐに立ち上がる。
広場へ戻ると、結界柱の周囲に黒い靄が薄く漂っているのが見えた。
昼の光の下なのに、そこだけ夕方みたいに色が濁っている。
アイズが小さく声を落とす。
「柱そのものは持ちこたえさせます」
「はい」
「ですが、根本は別です」
彼女の視線は、村の外れ、山へ続く林道の方へ向いていた。
そこには、木々の間を這うように、さらに濃い黒が沈んでいる。
「あっち、ですか」
「おそらく」
アイズは広場の中央へ歩み出る。
法衣の裾が風を受け、白い布が鋭く翻る。
「私はここで柱を繋ぎます」
村人たちの前に立つ声に戻っていた。
「こういち、あなたは」
そこで一度だけ、こちらを見る。
言葉にはしない。
でも、わかった。
人の目がある場所で、俺はただの補助役だ。
でも、目の届かない場所なら違う。
胸の奥の小さな灯が、静かに脈を打つ。
アイズが両手を柱へ向けた瞬間、広場に淡い白光が広がった。
村人たちが息を呑む。
その視線が一斉に柱へ吸い寄せられた隙に、俺は外套のフードをさらに深く下ろした。
林道の方から吹いてくる風は、生ぬるくて、ひどく嫌な臭いがした。
湿った獣毛みたいな臭いに、腐った水の気配が混じっている。
勇者が退いた先。
村を置いていった、その向こう側。
誰にも見られないよう、俺は一人、村の外れへ足を向けた。
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