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第11話 一欠片の力

そのまま立っていられたのは、ほんの数拍だった。


胸の奥に空いた場所が、遅れて冷たさに変わる。

それは皮膚の表面に触れる寒さじゃない。

骨の内側を撫でるみたいに、じわじわと全身へ広がっていく嫌な冷えだった。


「っ……」


思わず胸元を掴む。


さっきまで、そこにはたしかに熱があった。

苦しくて、重くて、切りたくてたまらなかったくせに、なくなった途端、今度は中身ごと抜け落ちたみたいだった。


空っぽだ。


空っぽになった胸の奥へ、冷たい風だけが吹き込んでくる。

その風に、二年間の鉱山の寒さまでまとめて流し込まれたみたいで、膝から力が抜けた。


「大丈夫ですか??」


大神官がすぐに肩を支えた。

白い法衣の袖が腕に触れる。

冷えきった身体には、そのわずかな温度さえ熱いくらいだった。

大丈夫なわけがない。

でも、そう言おうとしても、息が喉に引っかかる。


「……寒い」


かすれた声で、ようやくそれだけが出た。


自分でも驚くほど子どもみたいな言葉だった。

大神官の目が、わずかに揺れる。


「当然です」


声は静かだった。

けれど、その奥に押し殺した感情があるのがわかった。


「あなた様は長いあいだ、ご自身の内側より先に、外へ向かって力を流し続けていました」


俺は浅く息を吸う。

肺に入る空気まで冷たい。


「今はその流れが止まったばかりです。空っぽに感じて当然です」


空っぽ。

その言葉を聞いた瞬間、妙に笑いたくなった。

笑えなかったけれど。


「本当に……何もなくなったみたいです」


唇が震える。


「あんなに重かったのに。なくなったら、楽になると思ってたのに」


言葉にするたび、胸の奥が余計に寒くなる。


「俺の中、もう何も残ってないみたいで……」


最後まで言い切る前に、視界が大きく揺れた。

膝が折れそうになる。

大神官の手が、今度は背中まで回った。


「もう十分です」


その声が、ひどく近い。


「今は休んでください」


「でも……」


「命令ではありません」


一度だけ言葉を切って、まっすぐ俺を見る。


「お願いです」


その言い方に、何も返せなくなった。



部屋を出た時、廊下の空気は夜より少しだけ冷えていた。


石壁に触れるランプの火が、頼りなく揺れている。遠くでは、まだ誰かの足音や怒鳴り声が響いていた。

第三坑道の混乱は完全には収まっていないのだろう。


俺は大神官に肩を支えられながら、半歩ずつ歩いた。

足元の石床は冷たいのに、胸の中だけが妙に空虚で、自分の身体が自分のものじゃないみたいだった。


「歩けますか?」


「……なんとか」


本当は、あまり歩けていなかった。

脇腹は痛むし、右腕の奥はまだ熱い。

でもそれ以上に、胸の中の空白が気持ち悪かった。

息をするたび、そこへ冷たい空気が出入りしている気がする。


途中、すれ違った神官や聖騎士たちが、ぎょっとした顔でこちらを見た。

罪人奴隷の俺を、大神官自ら支えているのだから当然だ。


「大神官様、その者は……」


若い騎士が声をかけかける。

だが、大神官は振り返りもせず言った。


「この方については私が責任を持ちます。今は誰も近づかないでください」


その一言で、騎士は黙った。


俺は俯いたまま、唇を噛む。

こうして庇われることに、どうしても慣れなかった。


迷惑をかけている、と先に思ってしまう。


やがて通されたのは、昨日話をしていた石造りの部屋だった。


扉が閉まる。

外のざわめきが少し遠くなる。

暖炉の火がぱちりと鳴り、薬草の匂いがふわりと鼻を掠めた。


俺は寝台へ座らされる。

その瞬間、全身の力が一気に抜けた。


胸の奥の空白が、どくん、と一度だけ脈打つ。

脈打ったのに、熱は戻らない。


「……本当に、なくなった」


気づけば、そんな言葉が漏れていた。

大神官は俺の前に膝をつく。


「はい」


それだけだった。

責める言葉も、慰める言葉もない。

ただ、その一言だけが妙に重い。


俺は俯き、自分の手を見る。

痩せて、傷だらけで、爪も割れている手だ。

何かを守れるような手には見えない。


でも、この手で、今、初めて線を引いた。


守りたかった気持ちまで嘘だったとは思わない。

助けたかった気持ちも、たしかに本物だった。

けれど、もう終わりでいい。


利用され続けるのは、ここで終わりにしていい。


そう思った瞬間、張り詰めていたものが切れた。

気づけば、涙が落ちていた。


「……ごめんなさい」


何に対しての謝罪なのか、自分でもわからなかった。

過去の自分か。

守ろうとしていた相手か。

それとも、ようやく手放した今の自分か。


大神官は何も言わず、ただ俺の前に跪いた。


「あなたは、よく戻ってきてくださいました」


優しい声だった。

俺は首を振る。


「まだ……戻れてなんかないです」


「ええ」


大神官は否定しなかった。


「ですから、ここからです」


その言葉を聞いたところで、意識が急に遠のいた。

暖炉の火が滲む。

薬草の匂いが薄くなる。


最後に見えたのは、大神官の白い法衣と、ひどく心配そうな目だった。



次に目を覚ました時、部屋の中は青白く明るかった。


夜ではない。

窓の外は雪明かりじゃなく、朝の淡い光で白んでいる。


背中に当たる寝台はまだ柔らかい。

それなのに、起きた瞬間、反射みたいに胸を押さえた。


静かだった。


昨夜と同じだ。

熱も、糸も、もうない。


ただ、あの時みたいに身体の芯まで凍る寒さは、少しだけ薄れていた。

空っぽのままなのに、その空っぽに身体が少し慣れてしまったみたいで、余計に寂しかった。


視線を落とす。

手の甲には新しい布が巻かれていた。

煤と血で汚れていた指も、ある程度は拭われている。

胸元にも、粗末だが乾いた布がかけられていた。


そこまで見て、ようやく自分が保護されたままだと理解する。


「……まずい」


罪人奴隷が、こんな場所で寝ていていいはずがない。


反射的に首元へ手をやる。

冷たい鉄の輪は、ちゃんとそこにあった。


少しだけ安心したのに、その安心がまた惨めだった。

首輪があるなら夢じゃない。

でも、ちゃんと罪人のままだということでもある。


扉の向こうで衣擦れの音がした。

俺はびくりと肩を震わせる。


開いた扉から入ってきたのは、昨夜の大神官だった。


白い法衣は今朝も乱れていない。

けれど、目の下には薄い影がある。

やはりあまり眠っていないのだろう。


大神官は俺が起きているのを見ると、ほんの少しだけ息をついた。


「気がつかれましたか」


その声は、昨夜より柔らかかった。


俺は慌てて起き上がろうとして、脇腹の痛みに顔をしかめる。


「す、すみません」


反射みたいに謝ると、大神官の眉がわずかに寄った。


「今は謝らなくて結構です。まだ横になっていてください」


そう言いながら、卓の上の木椀を持ち上げる。

細い湯気が立っていた。

麦粥みたいな匂いがする。


空腹が、遅れて腹の奥を掴んだ。


「少しずつでいいので、召し上がってください」


「……俺が、ですか」


「他に誰がいるのです」


当たり前みたいに返されて、言葉に詰まる。


俺は恐る恐る木椀を受け取った。

指先に伝わる熱が、妙にじんとした。

鉱山で配られるぬるいスープとは違う。

ちゃんと温かい。


ひと口飲む。


薄い塩気と、煮崩れた豆の甘さが舌に広がった。

それだけなのに、喉の奥が熱くなる。

温かいものが胃に落ちていく感覚なんて、久しぶりすぎて、うまく息ができなかった。


「……うまいです」


ぽつりと言うと、大神官はほんの少しだけ目を細めた。


「それはよかった」


しばらく、部屋の中には俺が木椀を傾ける音だけがあった。

外では風が石壁を撫でている。

遠くで兵の足音もする。

でも、鉱山の怒声や鞭の音とは違う。


静かすぎて、落ち着かない。

胸の奥が静かなことも。

部屋が静かなことも。

全部、まだ自分のものじゃないみたいだった。


木椀を半分ほど空けたところで、俺はようやく口を開く。


「あの……みんなは」


大神官が首を傾げる。


「ガドとか、マルタ婆さんとか。第三坑道の人たちは」


聞いた瞬間、自分でも少しおかしかった。

まず心配するのが自分じゃない。

でも、それ以外に先に出る言葉がなかった。


大神官は静かに答えた。


「命を落とした者はいません」


胸の奥が、少しだけ緩む。


「負傷者は出ましたが、昨夜のうちに応急処置は済ませました。あなたが先に支えていたおかげで、持ちこたえた者が多かった」


俺はすぐに首を振った。


「そんな、大したことは……」


「あります」


昨日と同じ調子で、きっぱり言い切られる。


「あなたが夜ごと少しずつ手を貸していなければ、もっと多くの者が倒れていました。あの者たちも、それを知っています」


言葉に詰まる。

頭では否定したいのに、喉が動かない。


大神官は続けた。


「ガドという方も、あなたが目を覚ましたら教えてほしいと」


思わず顔を上げた。


「……そう、ですか」


それだけで、胸の奥のどこかが妙に熱くなりかけて、それからはっとする。

熱くなりかけた、だけだった。


前みたいに胸の奥から勝手に温もりが広がる感じはない。

ただ、自分の感情だけがそこにあった。


俺は無意識に、自分の胸元を押さえた。


その動きを見て、大神官が静かに聞く。


「まだ苦しいですか」


俺は少し迷ってから、首を横に振った。


「苦しいっていうか……変なんです」


「変、と言いますと」


言葉を探す。


「胸の中が、ずっと寒いんです」


ぽつりとこぼれる。


「熱がなくなっただけなのに、何か大事なものまで一緒になくしたみたいで」


うまく言えない。

でも、大神官は急かさなかった。


「空っぽの部屋に、一人で立たされてる感じがします」


大神官はその言葉を、丁寧に受け取るみたいに一度目を伏せた。


「それでいいのです」


「……いいんですか」


「はい」


大神官は頷く。


「あなたは長いあいだ、ご自身の内側より先に、外へ向かって力を流し続けていました」


その声は、昨夜《永続聖印》のことを説明していた時と同じ、静かで澄んだ声だった。


「誰かを支えるために。誰かが倒れないように。ご自身を削って、ずっと外へ」


胸の奥が、少し痛んだ。


「ですから、急にそれがなくなれば、寒くて当然です」


大神官は俺の胸元を見る。


「空っぽになったのではありません。今まで他人のために使われ続けていた場所が、ようやくあなたご自身のものに戻ったのです」


その言い方が、妙に胸に残った。

自分のもの。


そんなふうに考えたことがなかった。

俺の力も、身体も、人生も、いつの間にか誰かの都合で決まっているものだと思っていたからだ。


「……まだ、よくわかりません」


正直に言うと、大神官はわずかに微笑んだ。


「ええ。それで構いません」


それは、今まで向けられてきた「わからなくても従え」という言葉とはまるで違った。

わからないままでも、ここにいていいと言われているみたいで、少しだけ息がしやすくなる。


部屋に小さな沈黙が落ちる。

暖炉の薪が、ぱちりと弾けた。

やがて、大神官は姿勢を正した。


「改めて、名乗らせてください」


俺は瞬きをした。


「名乗る……?」


「はい」


白い法衣の裾を静かに整え、それからまっすぐ俺を見る。


「私はアイズと申します。帝都大聖堂にて、大神官を務めています」


アイズ。


昨日までずっと「大神官」としか呼ばれていなかった人に、急に名前がついた気がした。


「アイズ……さん」


ぎこちなく口にすると、なぜかアイズは少しだけ嬉しそうな顔をした。


「はい」


それだけで返されて、こっちが困る。


「あの……俺は」


言いかけたところで、アイズが静かに続きを待つような顔をした。知っているはずなのに、あえて待っている。

俺は妙に落ち着かなくなって、小さく息を吸った。


「……こういちです」


声は情けないほど小さかった。

けれど、アイズはそれをちゃんと聞き取って、柔らかく頷いた。


「はい。こういち様」


「あ、いや、様はいらないです」


思わず即座に言ってしまう。

アイズがきょとんとした。


「ですが」


「いらないです。絶対に」


少し強く言うと、アイズはほんのわずかに目を丸くして、それから口元を緩めた。


「では、こういちさん」


「……さんも、ちょっと落ち着きません」


「困りました」


本当に困っているのか、少しだけ楽しんでいるのか、わからない声だった。


「では何とお呼びすればよいのでしょう」


そんなことを真顔で聞かれて、俺の方が困る。


「こういちで、いいです」


「呼び捨てですか」


「はい」


「私が?」


「……やっぱり無理なら、そのままでいいです」


慌てて引っ込めると、アイズは小さく息をこぼした。

笑った、のだと思う。


「では、私のこともアイズで構いません」


「それは無理です」


今度は考えるより先に答えていた。

アイズの肩が、わずかに揺れた。


「即答ですね」


「だって大神官様ですよね」


「今もそうですが、今は二人きりです」


「二人きりでも無理です」


言い切ると、アイズはついに声を立てずに笑った。

ほんの小さな笑みだったけれど、それまでずっと張っていた空気が少しだけ和らぐ。それを見て、俺は少しだけ驚いた。

大神官が笑うところなんて、想像したこともなかったからだ。


「わかりました」


アイズはまだ少し笑みを残したまま言う。


「では、せめて“様”は外してください」


「それなら……頑張ります」


「頑張ることなのですね」


「かなり」


また少しだけ、アイズの目が和らいだ。


ほんの少しのやり取りなのに、不思議だった。

さっきまであんなに息苦しかったのに、今は少しだけ肩の力が抜けている。


アイズはそこで、改めて俺の首元へ視線を移した。


「こういち」


呼び捨てだ。

ちゃんと、自分でそう言ったのに、耳に届くと胸が変にざわつく。


「昨夜、こういちは初めてご自身の意思で加護を断ちました」


「はい」


「その変化を受け入れるためにも、一度だけ、ご自身へ加護を向けてください」


俺は木椀を持つ手に力を入れた。


「俺に、ですか」


「はい」


「そんなこと、今までしたことないです」


正確には、覚えていない。

けれど感覚としては、本当にないに等しかった。


俺の祈りは、いつも誰かのためのものだった。

疲れが残らないように。

怪我が悪化しないように。

毒に侵されないように。


自分のために祈るなんて、考えたこともない。


アイズは静かに頷いた。


「だからこそ、です」


その声に、昨夜の強さが戻る。


「今までずっと、こういちは他人を支えるために力を流していました。ですが、これからはまず、ご自身が立てるようにならなければなりません」


俺は俯いた。


「俺なんかを立たせて、意味あるんでしょうか」


口に出してから、ひどく嫌な気分になる。

でも、消せない本音だった。


アイズはすぐには答えなかった。

少しだけ身を屈め、俺と目線を合わせる。


「あります」


揺るがない声だった。


「あなたが倒れれば、あなたが救えるはずだった人たちまで倒れます」


心臓が、小さく打つ。


「昨夜、第三坑道でそれを見たはずです」


何も言い返せなかった。

ガドの顔。

マルタ婆さんの肩。

崩れた坑道。

瘴獣の咆哮。


見たくなくても、全部浮かぶ。


アイズは続ける。


「こういちが立つことは、わがままではありません」


その言葉が、胸の空いた場所に静かに落ちた。


「むしろ、それが今のあなたの責任です」


今までの責任は、誰かに押しつけられるものだった。

でも今アイズが言ったそれは、少し違って聞こえた。


俺は木椀を卓に置いた。

指先が少し震えている。


「……やってみます」


アイズは小さく頷く。


「首輪を少しだけ眠らせます。完全には外せませんが、今のこういちなら、ほんの一瞬だけなら通せるはずです」


そう言って、アイズの指先が首輪へ触れた。

銀のような淡い光が走る。


冷たい鉄の表面に細かな聖印が浮かび上がり、じりじり食い込んでいた圧がほんの少しだけ緩んだ。


「今です」


アイズの声が、近くで静かに響く。


「深く息を吸ってください。外へではなく、ご自身の骨と筋肉と血へ戻すように」


俺は目を閉じた。


昨夜まで、胸の奥には外へ伸びる四本の糸があった。

今は、もうない。


代わりに、空いた場所のもっと奥。

灰の下に埋もれた炭火みたいな、かすかな熱が残っている。


そこへ意識を向ける。

指先が、勝手に動いた。

胸元の前で、何かを書きつけるみたいに、ゆっくり円を描く。


知らないはずの動きなのに、妙にしっくりきた。


熱が、ひとすじだけ流れる。


冷え切った身体の内側へ、ぬるい湯を細く流し込まれたみたいだった。

肋骨の痛みが少し和らぐ。

脚の芯に溜まっていた鉛みたいな重さが、ほんのわずかに薄くなる。


けれど、それ以上に驚いたのは胸の方だった。


空っぽだったはずの場所に、温もりが戻る。

全部を埋めるような熱ではない。

ただ、冷えた部屋の真ん中で、小さな灯がひとつ点るみたいな温かさだった。


他人へ伸びていく熱じゃない。

ちゃんと、自分の内側へ留まる熱だ。


「……っ」


思わず息が乱れ、目を開ける。


掌の上に、ほんの一瞬だけ淡い金の光が残っていた。

すぐ消えたけれど、たしかにそこにあった。


右腕の奥の痛みも、さっきより少しだけ遠い。

握ってみると、昨日までなら軋んでいた指が最後まで閉じた。


「これ……」


喉がうまく鳴らない。


「これが、俺の」


アイズは祈るみたいな顔で頷いた。


「はい。ただし、まだほんの一欠片にすぎません」


一欠片。

でも、その一欠片だけで十分だった。

何も残っていないと思っていた場所に、たしかに自分のものが残っていたからだ。


俺はゆっくり寝台の端に足を下ろし、立ち上がってみる。

まだふらつく。

でも、昨日までみたいに身体が地面へ吸い込まれる感じはない。

足の裏に、ちゃんと自分の重さが乗った。


「少し……楽です」


自分でも驚くほど素直に出た言葉だった。


アイズの表情が、ようやく少しだけ和らぐ。


「それで十分です」


俺は立ったまま、自分の胸元へそっと触れた。

まだ静かだ。

でも、さっきまでの静けさとは少し違う。


空っぽで寒いだけの静けさじゃない。

何かを置ける余白みたいなものが、そこにあった。


その時だった。

扉が、短く二度叩かれた。

アイズの表情が引き締まる。


「何です」


扉越しに、若い神官の切羽詰まった声が返ってきた。


「山麓のハイル村から急使です。昨夜、勇者パーティーが向かった瘴獣討伐が失敗し、村を守る結界柱が半壊しました」


胸の奥が、ひくりと揺れる。


勇者パーティー。

その名前を聞いただけで、まだ身体のどこかが強張る。

神官は早口のまま続けた。


「勇者一行は負傷して撤退。残された瘴気が村へ流れ込み、熱を出す者と悪夢にうなされる者が急増しています。現地の神官二名では抑えきれません」


熱。

悪夢。

昨夜の第三坑道で見た顔が、頭の中に重なる。

汗に濡れた額。

浅い呼吸。

苦しそうに喉を掻く指。


「子どもも、です」


扉の向こうの神官が、押し殺すような声で付け足した。


「村の子どもたちまで倒れ始めています」


思わず、木椀を持つ指に力が入った。

薄い木が、みしりと鳴る。

アイズが一瞬だけこちらを見る。

俺の顔に、何が出ていたのかはわからない。


「勇者パーティーは」


アイズの問いは短かった。


「近隣の砦に下がったとのことです。再出撃は困難と」


その一言が、嫌に重く落ちた。村を残して、下がった。

それだけで、何が起きているのかは十分わかる。

守るはずだった場所を、置いてきたのだ。


「勇者パーティーが失敗した後始末を、俺たちがするんですね」


思わず出た声は、自分でも驚くほど乾いていた。


アイズは否定も肯定もせず、短く頷く。


「ええ」


それから、静かにはっきりと言った。


「ですが、今ここで私たちがそれを言っていても仕方ありません」


その声は冷えていた。

けれど、向いている先は責任をなすり合う方じゃない。


「村で苦しんでいるのは、勇者でも役人でもなく、何も知らない人たちです」


俺は唇を噛んだ。

関係ない、と言い聞かせようとした。

でも駄目だった。


熱に浮かされた子どもの顔なんて、見たことがなくても想像できる。

助けを呼んでも、もう勇者は来ないと知った村人の顔も。


「……まだ、間に合いますか」


気づけば、口が動いていた。


アイズの視線が、まっすぐ俺へ向く。


「規模次第では、まだ」


それだけで十分だった。

胸の奥の小さな灯が、今度は別の意味で揺れる。


アイズは扉の向こうへ向き直る。


「馬を用意してください。浄化と結界の術具も。現地神官へは、私が向かうまで持ちこたえるよう伝えなさい」


「はっ」


慌ただしい足音が、廊下の奥へ駆けていく。


だが、それが消え切る前に、もう一度別の足音が重なった。

さっきより硬く、急いた響きだった。


「大神官様、もう一件」


別の神官の声だ。


「帝都より早馬です。北方鉱山の罪人奴隷こういちの記録と身柄について、至急確認したいと」


俺の喉がひゅっと鳴る。

昨夜のことが何もなかったことになるはずがない。


アイズは少しも声を揺らさなかった。


「誰もこの部屋へは通さないでください。帝都への返答は、私がします」


二人分の足音が遠ざかっていく。

部屋の中に残ったのは、暖炉の火の音と、俺の浅い呼吸だけだった。


「やっぱり、俺は戻された方が」


言いかけたところで、アイズがはっきりと遮った。


「戻しません」


短い一言だった。

でも、昨夜以上に強かった。


「それに今、放っておけば村で人が死にます」


俺は息を止める。アイズは一歩近づいた。


「あなたのことを少し調べました。こういち。これから先、あなたの冤罪を調べます。」


その言葉に、胸の奥がかすかに揺れた。

冤罪。

自分のことなのに、どこか他人事みたいに遠かった言葉だ。

そこで一度、村の方角を見透かすみたいに目を細める。


「そして、勇者が置いてきた場所では、もう人が倒れ始めている」


その事実を突きつけられた瞬間、胸の中の小さな灯が、じわりと熱を増した。

アイズの声が、静かに落ちてくる。


「ですから、あなたにも選んでもらいます」


「選ぶ……?」


「はい」


その瞳は真っ直ぐだった。


「このまま罪人として押し流されるのか。それとも、ご自身の意思で、人を救い、ご自身の人生を取り戻す方へ進むのか」


心臓が、大きく鳴る。昨日までの俺なら、そんなこと考える余地もなかった。

でも今は違う。


熱を出した子ども。

悪夢にうなされる村人。

置き去りにされた場所。

頭の中に浮かぶのは、自分のことより先に、そんな顔ばかりだった。


アイズの声が続く。


「次にお話しする時には、もう少し詳しく事情を聞かせてください」


そこで一度、言葉を切る。


「あなたが勇者パーティーに入る前のことも。誰に罪を着せられ、何を奪われたのかも」


俺は息を呑んだ。


そこまで言われると、もう逃げられない気がした。

でも、不思議と嫌じゃなかった。


怖いのに。

まだ何もわからないのに。

それでも、昨日までより少しだけ、自分で立っている感じがする。


俺は自分の掌を見る。

そこに光はもうない。

でも、さっき確かに残った温もりだけは、まだ消えていなかった。


「……その村、助けられるなら」


喉が、少し震えた。


「俺も、行きたいです」


言ってから、自分で驚く。

誰かに言われたからじゃない。

責められたからでもない。


ただ、放っておけないと思った。


でも、その言葉のすぐ後に、別の顔が浮かぶ。

ガド。

マルタ婆さん。

昨夜、同じ坑道で怯えていた奴隷たち。


「……あと」


アイズが静かに続きを待つ。


「ガドたちのことも、気になります」


自分でも少し情けないと思った。

村の方が危ないとわかっているのに、こっちも切り捨てられない。


「俺が出たあとで、あの人たちが酷い目に遭わないか、それが……」


最後まで言い切る前に、アイズが小さく頷いた。


「大丈夫です」


その返事に迷いはなかった。


「第三坑道の者たちは私の名で保護下に置きます。監督役にも、鉱山側にも、もう勝手な真似はさせません」


胸の奥の強ばりが、少しだけほどける。


アイズは、ほんのわずかに目を見開いたあと、静かに頷いた。


「ええ」


その返事は、思ったよりずっと柔らかかった。


「では、ここからです」


その言葉が、胸の空いた場所にまっすぐ落ちた。


ここから。

空っぽになったと思っていたその場所に、今は小さな灯がある。

まだ一欠片だ。

でも、その一欠片は、もうただ寒さに耐えるためだけのものじゃない。

勇者が置いていった場所で、今も誰かが苦しんでいる。

その事実を前にした時、俺の足は、たぶんもう止まれない。


引き続き読んでいただけると嬉しいです。

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