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物語は銀のスプーンでかき混ぜられる

「食欲は世界を救うけれど、食費は僕を滅ぼすね」


祢城ねじょうさんは、空になった5つ目の牛丼の容器を、まるで愛おしい亡骸でも眺めるかのように見つめながら、さも哲学的な真理に辿り着いたような顔でそう言った。



「……そういえば祢城さん。そんなに食べて、食費はどうなってるんですか?探偵ってそんなに儲かる商売なんですか?」



俺――鹿嶋かしま 麦晴むぎはるは、掃除機の手を止めて、積み上がった容器の山を指差した。



ここ「祢城探偵事務所」は、常に二つの匂いが支配している。一つは祢城さんが豆から挽いた、凛としたコーヒーの香り。もう一つは、数人前の出前容器から漂う、ジャンクで暴力的な油の匂いだ。


「麦くん、心外だね。僕は君が大学で有意義な講義を受けている間も、地道に、それこそ蟻が砂糖を運ぶような勤勉さで実績を積み上げているんだよ」


「具体的に、どんな実績ですか」


「近所の迷い猫探し、不倫の尾行、ベランダから消えたパンツの捜索。多種多様だ」


「……パンツの捜索って。それ、本当に報酬発生してます?」


「おかげで僕には、優秀なパトロンが何人もいるんだよ。特に、猫を見つけてあげたご婦人方は、僕の胃袋を心配して、時折信じられないほど高級なお弁当を差し入れてくれる」


祢城さんは、長いまつ毛の影にミステリアスな色気を漂わせながら、嘘か本当かわからないことを言った。


その端正な顔立ちは、黙って座っていれば、映画のスクリーンから抜け出してきた銀幕スターのようだが、いかんせんその右手に握られた「つゆだく」の割り箸が、その神秘性を完膚なきまでに台無しにしていた。





そんな昨日のやり取りを思い出しながら、俺は大学の講義室で、教授の単調な声を子守唄代わりに聞いていた。俺の鼻は、教授の話よりも、学食から漂ってくる「水曜限定・激辛カレー」の香りを敏感にキャッチしていた。


「……おい、麦。お前、探偵の助手を始めたって本当か?」


隣の席に座っていた福見ふくみ 才智さいちが、ノートを隠れ蓑にして声を潜めてきた。


「ああ、まあな。助手っていうか、雑用係に近いけど」


「実はさ、俺の知り合いに、趣味でネットに小説を上げてるやつがいるんだ」


福見の顔は、いつになく真剣だった。普段は「昨日の合コンの戦果」についてしか語らない男の目が、今は「これは冗談じゃない」と切実に訴えていた。


「そいつ、最近かなり怯えててさ。良ければ、そいつの話を聞いてやってくれないか」





数日後。祢城探偵事務所の、少し建て付けの悪いドアを叩いたのは、砂永すながという名の大学生だった。彼は、嵐に放り出された子犬のように肩をすくめ、応接用のソファの端に、存在を消すようにしてちょこんと座った。


「実は……僕は3年前から、匿名で小説投稿サイトに趣味の物語を上げているんですが、最近、その……僕の身の回りで、不可解なことが起こり始めているんです」


「不可解、ね。幽霊が出るのかい?それとも、書いた覚えのない文字が勝手に増えているとか」


祢城さんは、仮にも依頼人の前だというのに、すでに3個目のカップアイスの蓋をペリリと剥がしていた。俺が「大学の友人経由の相談です」と伝えたせいか、緊張感の欠片も感じられない。


「いいえ。僕が書いた『小説通り』のことが、現実の街で起こるんです……」


「小説通り?」


俺が聞き返すと、砂永は青白い顔をさらに歪ませた。



「最初は、小さなことでした。大学の掲示板が、僕が書いた通りにビリビリに破られたり、旧校舎の男子トイレの鏡が、作中の描写と同じように割られたり……。でも、一週間前には、近くの公園の池に、大量の魚が打ち上げられました。僕が先月投稿した、小説の内容と寸分違わず……」


「ふむ……。興味深いね」


祢城さんは、木製の小さなスプーンを口に咥えたまま、少しだけ目を細めた。それは、彼が「謎」という名の未知の食材に出会ったときの、特有の眼差しだった。


「偶然で済ませるには、少しばかり出来が良すぎる」


祢城さんはアイスを飲み込み、スプーンを机に置いた。





「それで、砂永くん。君の書いている小説は、一体どんなジャンルなんだい?鏡が割れたり魚が死んだりする、不条理なファンタジーかな?」


砂永は、震える手で膝を抱え、掠れた声で答えた。


「……ミステリーです。それも、ひどく救いのない、残酷な殺人事件の物語です」


その瞬間。事務所に流れていたのんびりとした空気が、凍りついたように静止した。祢城さんの瞳から「食欲」の光が消え、底の見えない、冷徹な「探偵」の影が落ちる。


「……なるほど。それは、デザートにしては少し重たすぎるようだね」


祢城さんは、豆を挽くためにゆっくりと立ち上がった。俺の鼻は、その砂永という男から漂う「恐怖」の匂いと、その裏側に潜む、もっと別の――「火薬」にも似た、鋭い焦燥感を嗅ぎ取っていた。


「さあ、チップを置こうか、砂永くん。君の書いたその『殺人事件』が、現実に起こる前に、僕たちがその脚本家を捕まえられるか。賭けようじゃないか」


祢城さんがミルを回し始めると、ガリガリと、骨を砕くような音が事務所に響き渡った。





「さて、砂永くん。最新話では、どんなことが起きる予定なんだい?」


祢城さんは、まるで明日の天気予報でも聞くような軽さで尋ねた。


「……。第二体育館で、死体が見つかります」


砂永の声は、冬の枯れ葉のようにカサカサと震えていた。


「作中では、夜の静寂を切り裂くような悲鳴とともに、舞台の袖で一人の男が――」


そこまで言って、彼は言葉を飲み込んだ。自分の書いた文字が、誰かの手によって血の通った現実へと引きずり出される恐怖に、彼の細い肩が激しく波打っていた。

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