可愛すぎるアロマ
翌日。
俺たちは大学へと向かった。
空は驚くほど高く、青い。キャンパスを行き交う学生たちの笑い声は、昨日の砂永の怯えが嘘だったかのように平穏だ。しかし、第二体育館の前に近づくにつれ、その空気は一変した。
そこには、すでに「現実」が転がっていた。
「どけ!邪魔だ祢城!……いや、待て、なぜ貴様がここにいる。呪いか?貴様は不幸の歩く拡声器か何かか!」
鼓膜を突き破るような怒鳴り声を上げたのは、柳浦警部だ。
祢城さんとは腐れ縁らしく、現場をかき回す俺たちに血管を浮かせて怒るのが彼の「日課」のようなものだ。仕立てのいいスーツを着ているが、その眉間には定規で引いたような深い皺が刻まれている。
「やあ、柳浦警部。相変わらず、血圧が高そうですね」
「うるさい!貴様の顔を見ると寿命が3年縮む。……見ろ、この悪趣味な惨状を」
柳浦警部が忌々しそうに親指で指し示したのは、体育館のコンクリート壁だった。そこには砂永の小説の一節が、どろりとした赤いスプレーで、あまりにもデカデカと書き殴られていた。
『死は唐突に、羽を休める場所で訪れる』
「……あの、警部!大変です!またやっちゃいました、パトカーの鼻先をこすっちゃって……!」
ドタドタと重い足音を立てて走ってきたのは、羽賀田巡査だ。いつもどこか抜けている彼は、案の定、帽子が右に30度ほど傾いて脱げかかっている。
「羽賀田!またか……貴様は免許証をシュレッダーにかけてから出直してこい」
「すみません!すみません!」
柳浦警部がこめかみを指で押さえ、天を仰いで大きなため息をついた。
「砂永という生徒の情報は、すでに学校側から警察に届いていた。我々が状況を確認しに来た直後だ、この惨状が発覚したのは」
体育館の中、舞台の袖には、砂永の小説に登場する「被害者」と全く同じ格好をさせられた、等身大のマネキンが転がっていた。
白いシャツに、紺のスラックス。そして首筋には、丁寧な赤いペイントで、今にも血が吹き出しそうなほどリアルな「切り傷」が描かれている。
「本物の死体じゃなくて良かったですねぇ……」
羽賀田巡査が自分の胸を撫で下ろす。しかし、柳浦警部は納得がいかない様子で、マネキンを睨みつけながら唸った。
「悪質ないたずらだ。だが、砂永とかいう学生の小説の内容を知っている人間なら、誰でも可能だ。大学の生徒、あるいは熱狂的なネットの読者……。ただの愉快犯か?」
祢城さんは無言で、マネキンの首筋に顔を近づけた。その横顔は、芸術品を鑑定しているかのようだった。
その時だった。俺の鼻が、微かな「匂い」を捉えた。冷たいコンクリートの匂い、古いワックスの匂い。それらをかき消すように漂う、場違いな香り。
「……バニラの匂い?」
俺が呟くと、祢城さんが俺の横に並んだ。その眼差しは、文字通り「獲物」を定める鷹のように鋭い。
「ほう、麦くん。いい鼻だ。バニラエッセンスかな。それとも、もっと別の――」
「グゥゥゥゥ……」
体育館に、地鳴りのような音が響き渡った。
「おっと、燃料切れだ。麦くん、学食へ行こう。ここのオムライスは絶品だと、僕の大切なパトロンから聞いているんだ。卵のふわとろ具合が、芸術の域に達しているらしい」
「祢城!貴様、捜査の途中で何を……!」
柳浦警部の怒声を背中で受け流しながら、祢城さんはすでに「学食」と書かれた看板の方向へ歩き出していた。この人は、事件の核心に近づけば近づくほど、その反比例として胃袋が空洞化していく。
しかし、ひとたび事件が起こると、最低限の食事しかとらなくなるはずの祢城さんが、事件の解決前に食事を求めるのは珍しい。
学食に到着するなり、祢城さんは「オムライス3人前。あと、サラダは……まあ、いらないかな」と注文し、驚愕の表情で見つめる学生たちの視線を気にする素振りも見せず、恐ろしいスピードでそれを平らげ始めた。
「祢城さん。さっきのバニラの匂い……マネキンについていたペイントの匂いじゃないですよ」
俺は、オムライスを飲み込むように食べる彼に小声で告げた。
「ああ。わかっているよ、麦くん」
祢城さんは、最後の一口を愛おしそうに口に運ぶと、空になった3つの皿を眺めながら、満足げに微笑んだ。
「……砂永の小説、俺も昨夜読んでみたんです。描写がすごく細かいんですよ。特に、犯人が被害者を追い詰める時の心理描写とか、まるで見てきたみたいで」
「そうだね。彼は才能がある。でも、才能がある人間は、時に周囲の視線に無頓着になる」
祢城さんは、ナプキンで口を拭った。
「麦くん、君は犯人の『匂い』をどこで感じた?」
「マネキンのあった場所です。バニラの匂いがしました」
「犯人は、小説を現実にするために、小説の設定を忠実に守っている。でも、バニラの香りを撒くなんて、少し『可愛すぎる』と思わないかい?」
祢城さんの目が、鋭さを取り戻していた。
「砂永くん。君の小説の最新話、実はまだ続きがあるんじゃないかな」
声をかけると、砂永がビクッと肩を揺らした。
「え……?あ、はい。実は、結末をどうしようか迷っていて。書き直したんです」
「どう書き直したんだい?」
「犯人が自首して、ハッピーエンドになる……という案もあったんですが、やっぱり、誰にも理解されずに消えていく方が美しいかなって。その、最後は犯人は……一人で海に消えるんです」
祢城さんは、砂永の近くに座る一人の女子学生に視線を向けた。
「君はどう思う?小説の結末について」
彼女は驚いたように顔を上げた。
「私……ですか?私は……砂永くんの小説は、もっと評価されるべきだと思います」
俺は鼻をひくつかせた。彼女の指先から、あの「バニラ」の匂いがする。
「ハンドクリーム……?」
俺が呟くと、祢城さんは女子学生に静かに声をかけた。
「掲示板を破ったのも、鏡を割ったのも、マネキンを置いたのも……君だね?」
祢城さんの言葉が、学食の喧騒をナイフのように切り裂いた。周囲の学生たちの視線が痛いほどに集中する。
彼女は驚くことも、逃げ出すこともしなかった。ただ、使い古されたトートバッグの持ち手を白くなるほど握りしめ、ゆっくりと視線を落とした。
「……否定はしません」
彼女は、ポツリと、消え入りそうな声で言った。
「彼――砂永くんは、ずっと物語の中にいたんです。一緒に食事をしていても、キャンパスを歩いていても、彼はいつも上の空で……。彼の瞳に映っているのは、私ではなく、彼が作り出した小説の世界だけでした。……もし、自分の書いた文字が現実に影響を与えていると知れば、彼は物語から目を離して、現実に戻ってきてくれると思ったんです」
砂永は、隣で幽霊でも見たかのように絶句していた。
「私が彼の物語の『共犯者』になれるなら、それでよかった。彼が私の存在に気づいてくれるなら、それでよかったんです。……私は最後まで、彼の最新作の通りに、やり遂げるつもりでいました」
彼女の頬を、一筋の涙が伝った。それは恋心という名の狂気が、現実の壁にぶつかって砕けた音のようだった。
「……馬鹿なことを」
柳浦警部が、珍しく怒鳴らずに呟いた。その横で羽賀田巡査は、かける言葉が見つからないのか、自分の制帽を胸元で抱きしめて立ち尽くしている。
祢城さんは静かに立ち上がった。仕立てのいいコートの裾を整え、彼女に向かって歩み寄る。その瞳には、夜の海のような静寂が宿っていた。
「君のしたことは、彼の救いにはならない。君は、彼の物語を、救いようのないほど汚してしまったんだ」
祢城さんの声は、優しく、しかし残酷なまでに静かだった。
「ミステリーの犯人は、作者が命を削って作り上げるものであって、読者が勝手に演じるものじゃないんだよ。君は、彼の『共犯者』ではなく、彼の想像力を殺した『暗殺者』だ」
彼女は力なく膝をついた。砂永は彼女に駆け寄ることもできず、ただ自分が生み出した「言葉」の重みに押しつぶされそうになっていた。
「……連れて行け、羽賀田」
柳浦警部が短く命じた。羽賀田巡査は、そっと彼女の肩を支えて歩き出した。
警察車両の赤い灯が、午後のキャンパスを場違いに染めていく。
大きな刑事事件にはならなかったが、この出来事は「小説を実現させた女」という噂として、しばらくは大学の壁という壁に染み付くだろう。




