キャラメル味の凶器
「凶器が見つからないだと!?羽賀田、お前さっきから何を調べているんだ!」
柳浦警部の怒鳴り声が、上映後の静まり返った劇場内に響き渡った。映写室の前で、羽賀田巡査は自分の帽子を落としそうになりながら、あたふたと首を振っている。
「す、すみません警部!部屋の隅から隅まで探したんですが、刃物一本も見当たらなくて……」
警部の顔は、茹で上がったタコのように真っ赤だ。
対照的に、祢城さんは黒いコートのポケットに手を突っ込み、ひどく退屈そうに空を見上げていた。もっとも、そこにあるのは劇場の天井なのだが。
「柳浦警部、怒鳴ってもお腹は膨らまないですよ。むしろエネルギーを消費して逆効果だ」
「祢城!貴様は黙ってろ!大体、被害者は喉元を一突きされているんだ。凶器を持ち去った形跡がなければ、この映写室のどこかに隠されているはずなんだよ」
祢城さんは伏せられたまつ毛の影に色気を滲ませながら、ふっと俺の方を向いた。
「麦くん、君の出番だよ。劇場内を歩いてくるといい。君の鼻なら、警察の鑑識よりもずっと早く『不純物』を見つけられるはずだ」
「え?犯人は客席の中にいるんですか?」
俺は驚いて聞き返した。
「それを今から、君が確かめるんだ」
(集中しろ……。普通の匂いの中に、混じってちゃいけない『死』の匂いがあるはずだ)
俺は目を閉じて、ゆっくりと呼吸を整えた。左から流れてくるのは、さっきまで上映されていたパニック映画の余韻に怯える女性たちの冷や汗の匂い。右からは、苛立っているビジネスマンのタバコの残り香。
その時だった。1人の男が持つポップコーンの中から、わずかに刺すような「鉄の匂い」がした。鋭く、冷たく、そして生臭い。
男は震えながら、膝の上に大きなポップコーンのバケツを抱えている。
「……警部。これです」
「羽賀田!遊んでるんじゃない、早くそのポップコーンを記録しろ」
柳浦警部の怒号が劇場の空気を震わせる。羽賀田巡査は「あわわ、はい!」と叫びながら、スマホのカメラを構えた。
案の定、緊張のあまり手が滑り、スマホをポップコーンのバケツの中に落としそうになっている。なんとか持ち直し、フラッシュを光らせて数枚の写真を撮り終えた。
「よし、ひっくり返せ」
警部の命に従い、羽賀田巡査がバケツを劇場の床にぶちまけた。パラパラと、キャラメル味のポップコーンが金貨のように広がる。その金色の山の中から、カラン、という不吉な音とともに、銀色に光るナイフが転がり出た。
「出たぞ。凶器だ!」
柳浦警部が、膝の上にバケツを置いていた男に掴みかかる。
「おい、貴様!言い逃れはできんぞ。映写室で女性を殺害し、この中にナイフを隠して客席に戻った。完璧なシナリオだ」
「ち、違う!僕じゃない!」
男は震え上がり、腰を抜かしている。彼が「最有力候補」として警部の脳内にインプットされた瞬間だった。
しかし、その横で祢城さんが、ふっと短く息を吐いた。
「待ってください、柳浦警部。そのシナリオは、脚本が下手すぎて上映が中止されるレベルですよ」
「何だと、祢城。現にこうして凶器が出てきたんだぞ」
祢城さんは仕立てのいい黒いコートの裾を翻し、床に散らばったポップコーンをじっと見つめた。空腹で研ぎ澄まされた彼の視線は、もはや人間のそれではなく、あらゆる矛盾を透視するレーザーのようだった。
「羽賀田巡査、さっき撮った写真を見せてくれないか。そう、表面を写したやつだ」
「は、はい!これです」
祢城さんはその画面を柳浦警部の目の前に突きつけた。
「いいですか。もし容疑者が、上映中の暗闇の中で血まみれのナイフをこの中に隠したなら、表面のポップコーンにも血がついているはずだ。手探りで乱暴に突っ込んだはずだからね。でも見てください。羽賀田巡査が撮った写真に写っているポップコーンは、一粒も、一滴も血がついていない。あまりにも『清潔』すぎる」
「それは……うまく隙間に差し込んだだけかもしれないだろう」
「それどころか、柳浦さん。映画が終わったというのに、このポップコーンは、まるで食べられていないくらいになみなみと盛られたままじゃないか。この120分間、一口も食べずにバケツを抱え続けるなんて、それこそゾンビより忍耐強い」
疑われてうなだれていた男が、祢城さんの言葉に弾かれたように顔を上げた。
「そ、そうだ!俺は確かに、映画の途中でポップコーンを底が見えるくらいまで食べていたんだ!それなのに、上映が終わって明るくなったら、なぜかバケツが山盛りになっていて……。そうだ、それに、俺が頼んだのは塩味だ。キャラメルじゃない!」
「……何?」
柳浦警部が絶句する。
「う、嘘じゃない!売店の監視カメラでも、なんでも見てくれていい!」
俺は思わず、鼻をくんくんと鳴らした。目の前の床に散らばっているのは、間違いなく「キャラメル味」だ。俺が嗅ぎつけた「鉄の匂い」も、この山から漂っている。
だが、男が言った「キャラメルじゃない」という言葉。
「……祢城さん」
「気づいたね、麦くん」
祢城さんが、伏せられたまつ毛の影から俺に視線を送る。
「犯人は、映写室から戻る際、自分の『証拠』を処分するために、彼の空になったバケツを利用したんだ。底にナイフを仕込んで、あふれんばかりのポップコーンで蓋をした。そうすれば、血は表面には出ない」
「待て、祢城!だったら、犯人の手元には何が残っているんだ?」
「空のカップですよ。キャラメルの香りが染みついた、ね」
俺は、一歩踏み出した。その匂いの「発生源」を俺の鼻は正確にマッピングしている。
「いました」
俺は、男から一つ席を空けて座っていた、地味なパーカーを着た女の前に立った。彼女の座席には、ポップコーンのカップがしっかりと置いてあった。
「……あんたのそのカップ。中身は空だけど、『キャラメル』の匂いがする」
「な、何よ、それがどうしたっていうの。キャラメル味のポップコーンなんて、他にもみんな頼んでいるじゃない!」
俺はさらに一歩近づき、決定的な言葉を叩きつけた。
「いや、祢城さんを除けば、この劇場でキャラメル味を持っているのは、あんたしかいない」
女はあたりを見渡した。平日の夜。閑散とした劇場内。食欲も失せるゾンビパニック映画。飲み物を頼む人はあれど、ポップコーンを抱えていたのは、祢城さんと、男と、この女だけだった。
女の顔からはみるみると血の気が引いていく。自身の決定的なミスに気づき逃げようとした瞬間、羽賀田巡査が「危ない!」と叫んで足を滑らせた。その拍子に巡査は女に激突し、女は床に転がったポップコーンの上に見事にダイブした。
「確保だ!」
柳浦警部が手錠を取り出し、女の腕を取り押さえる。
劇場内に、ようやく本当の「終劇」が訪れた。




