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ポップコーンの誘惑

「ねえ、麦くん。人間にとって、もっとも残酷な拷問が何か知っているかい?」


祢城さんが、豆を挽く手を止めずに言った。


ゴリゴリという一定のリズムが、静かな事務所に響く。事務所の中に、深く香ばしいコーヒーの匂いが広がっていく。この匂いだけは、何度嗅いでも飽きることがない。


俺の鼻は人より少しばかり敏感だが、この事務所に根深くこびりついている「出前の残骸の匂い」や「古い紙資料の埃っぽさ」を、このコーヒーの香りがかろうじて中和してくれているのだ。


「拷問ですか。……爪を剥ぐとか、眠らせないとか?昔の映画でよくあるやつ」



俺――鹿嶋麦晴は、ソファに転がっていた空の丼ぶりを片付けながら答えた。



ここ、祢城探偵事務所のテーブルの上には、さっき祢城さんが一人で平らげた「特上天丼(3人前)」と「冷やしたぬきうどん(大盛り)」の容器が、戦場に遺棄された無残な戦車のように転がっている。



「違うよ。正解は『目の前でポップコーンが弾ける甘美な音を聞きながら、指一本触れることを許されず、一口も食べられないこと』だ」


祢城さんは大真面目な顔でそう言うと、細い注ぎ口のケトルから円を描くように、丁寧にドリップを開始した。


仕立てのいい黒いロングコートを羽織り、長いまつ毛の影にアンニュイな色気を漂わせているこの男は、その端正な外見に反して、中身の九割が驚くほど強欲な「食欲」で構成されている。33歳。探偵。そして、胃袋のブラックホール。





「それは拷問っていうか、ただの食い意地でしょう。さっきあんなに食べたのに、よくそんなこと言えますね」


「麦くん。食事というのは、過去の自分への報酬であって、未来の自分への投資ではないんだよ。つまり、今の僕はすでにお腹が空いている」


祢城さんは、究極の食欲をコーヒーと一緒に一口啜り、窓の外を見た。小雨に煙る夜の街。時刻は21時を回っている。


「着替えて、麦くん。レイトショーへ行こう。ずっと観たかった映画があるんだ」


「映画?ミステリーですか?それとも、またあの小難しいフランス映画とか」


「いや、ゾンビだ。ポップで凄惨な、パニックホラーだよ」


俺は自分の耳を疑った。この人、論理とか伏線とか、そういう理屈っぽいものにしか興味がないものだと思っていたからだ。


「意外です。祢城さんがゾンビ映画なんて。もっとこう、密室殺人とか、不可解なアリバイ工作とかが好きだと思っていました」


「ゾンビはいいよ、麦くん。彼らは非常に誠実なんだ。『お腹が空いたから、食べる』。それだけの純粋な動機で動いている。そこに複雑なトリックも、遺産相続の確執も、隠された愛憎劇もない。僕たちが目指すべき究極の未来の形だと思わないかい?」


「思いませんよ。あなたはどうせ、映画館のポップコーンを食べまくるのが目的でしょう」


「賭けようか、麦くん。僕が本編の開始10分以内に、Lサイズのキャラメルポップコーンを完食するかどうか」


祢城さんはニヤリと、獲物を見つけた猛禽類のような笑みを浮かべた。この「賭けようか」が出ると、この人はもう止まらない。俺をどん底から拾ってくれた恩人であり、最高にミステリアスな探偵だが、同時に最高に人使いの荒いギャンブラーでもあるのだ。



「……乗りますよ。Lサイズなんて、バケツみたいな大きさじゃないですか。いくら祢城さんでも、ゾンビが現れる前に食べきるなんて無理です」


「決まりだ。僕が勝ったら、明日の朝食は君が『クレイスベーカリー』まで走って、焼き立てのクロワッサンを10個買ってきてくれ。あそこのはバターの層が実に見事なんだ」


「10個も!?……いいですよ。その代わり俺が勝ったら、今度こそまともな掃除機を買ってください。いつまでも江戸時代みたいなほうきとちり取りじゃ、この事務所にはびこる埃に追いつきません」


「交渉成立だ。さあ、急ごう。スクリーンの中で空腹のゾンビたちが僕たちを待っている」



祢城さんはコーヒーを飲み干すと、コートの襟を立てて颯爽と歩き出した。その足取りは、これから映画を観に行くというよりは、新しい戦場へ向かう英雄のそれだった。俺は大きな溜息をつき、ゴミ袋を置いてその背中を追いかけた。





映画館のロビーは、平日の夜ということもあって閑散としていた。冷房の効いた空間に、甘ったるいキャラメルの匂いが漂っている。俺の鼻が、その匂いの層を細かく分解する。砂糖、バター、わずかな焦げ跡、そして……誰かの香水。


「幸せな匂いだと思わないかい?」


祢城さんは、チケットと引き換えに、抱えるほど大きなポップコーンのバケツを2つ手に入れて笑っていた。


暗い劇場内に入ると、すでに予告編が始まっていた。


「祢城さん、まだですよ。本編が始まってからカウント開始ですからね」


「わかっているよ、麦くん。僕はルールを重んじる男だ」


暗転した劇場内に、ポップコーンの弾ける匂いと、誰かの香水の甘い香りが溶け合っている。


スクリーンの中では、逃げ場のないショッピングモールで若者たちがゾンビに囲まれていた。BGMは心臓の鼓動を早めるような低音が響き、観客の呼吸を支配していく。


「麦くん、体が震えているよ。ポップコーンがバケツの中でダンスを踊っているみたいだね」


隣で祢城さんが、囁くような声で言った。彼は暗闇の中でも平然としている。というか、スクリーンに映るゾンビたちの食事シーンを「あれは咀嚼が甘いね」とか「盛り付けに品がない」といった風に、グルメ番組でも見るかのような冷めた目で見つめている。


「……パニック映画は苦手なんです。急に大きな音が出るのは心臓に良くない」





その瞬間、スクリーンの中のヒロインが背後から襲われた。


『きゃあああああああ!』


劇場スピーカーから、耳を劈くような絶叫が響き渡る。それと同時に、俺の体はビクッと大きく跳ね上がった。バケツの中のポップコーンが数粒、膝の上に飛び散る。


「いい悲鳴だ。情緒がある」


祢城さんは感心したように頷いているが、俺の鼻は、その音の裏側にある「違和感」を捉えていた。


スピーカーから流れる合成されたデジタルな悲鳴。そこに、わずか1秒にも満たない時間、まったく質の違う「本物の叫び」が重なったような気がした。


それは、録音された音特有の厚みがなく、もっと空気を直接震わせるような、切実で、湿り気を帯びた音――。





エンドロールが流れ始めた。映画の感想を語り合う観客たちの声がパラパラと聞こえ始め、劇場内が明るくなる。俺はまだ、心臓のドキドキが収まっていなかった。


「さあ、現実に戻ろうか、麦くん。デザートの時間だ」


祢城さんが席を立つ。俺たちが劇場の出口へ向かおうとしたその時。背後の、ちょうど映写室があるフロアの階段から、一人の女性スタッフが転がり落ちるようにして現れた。


「あ、あ、あああ……っ!」


彼女は言葉にならない悲鳴を上げ、映画館のロビーに崩れ落ちた。周囲の観客たちが何事かと足を止める。


祢城さんは軽やかに身を翻すと、スタッフが降りてきた階段を迷いなく駆け上がった。俺もその後に続く。


映写室の重い扉が、わずかに開いていた。そこから漏れ出してくるのは、スクリーンに映っていた虚構の恐怖を遥かに凌駕する、圧倒的な「死」の匂いだ。


「入るよ、麦くん。鼻を塞いでおきなさい」


祢城さんが扉を開く。



カチカチと、映写機の回る乾いた音だけが響く狭い部屋。その中心に、一人の女性が倒れていた。床には、映画の小道具にしては出来の良すぎる、鮮やかな赤が広がっている。


俺は唇を噛んだ。祢城さんは、現場の遺体から一歩離れた場所で、仕立てのいいコートを翻して立ち止まった。彼は遺体を見ているのではない。部屋全体の空気、配置、そして「欠けているもの」を探しているのだ。


「綺麗な仕事だね。ゾンビたちに見せてやりたいくらいだ」





しばらくして、背後から荒々しい足音が響いた。


「おい!何をやっている、お前たちは!」


聞き慣れた怒鳴り声。柳浦警部だ。相変わらず眉間に深い皺を寄せ、獲物を狙う鷹のような目でこちらを睨んでいる。その後ろでは、羽賀田巡査が「ヒエッ!」と遺体を見て飛び上がり、持っていた警察手帳を床の血溜まりに落としそうになって慌てふためいていた。


「なんだ、柳浦さん。また事件に遅れてやってきたんですか?あなたが来る頃には、犯人はもう家で温かいスープでも飲んでいるかもしれませんよ」


祢城さんが皮肉っぽく笑う。


「うるさい!貴様らこそ、なぜこんなところにいる!祢城、貴様の行くところ必ず死体があるのは統計学的な呪いか何かか?」


「失礼だね。僕はただ、ポップコーンを食べに来ただけだよ。そうだろう、麦くん?」


「ええ、まあ、そうですけど……」


俺は、柳浦警部の鋭い視線から逃げるように少し身を引いた。

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