時が止まった洋館
現場に向かう車の中で、祢城さんは一切の食事を摂らなかった。
彼は大食漢だが、事件を解いている間は「最低限」のエネルギーしか補給しない。自分を飢えさせることで、野生の勘を研ぎ澄ませているようにも見える。
「祢城さん、お腹鳴ってますよ」
「これは脳が『もっと謎をよこせ』と叫んでいる音だよ」
嘘をつけ。絶対にハンバーグのこととか考えてるだろ。
たどり着いたのは、街外れの森にひっそりと佇む古い洋館だった。湿った土の匂いに混じって、俺の鼻が強烈な「あの匂い」を捉える。油絵の具の匂いだ。それも、何十枚、何百枚と塗り重ねられたような、濃密な香りが空気にへばりついている。
「柳浦警部、遅いですよ」
祢城さんが車を降りるなり、先に到着していた警部に声をかけた。
「黙れ!こっちは手続きやら何やらで忙しいんだ!」
柳浦警部は顔を真っ赤にして怒鳴ったが、その隣で羽賀田くんが「ペンがどこかに落ちてしまった……」と地面に這いつくばっている。
「警部、この家……中から『悲鳴』が聞こえます」
俺が言うと、警部が顔を強ばらせた。
「悲鳴だと?鑑識の報告では静まり返っているはずだが……」
「いえ、鼻で聞こえるんです。絶望の匂いが、壁を突き抜けて漂ってきます」
俺の嗅覚は、感情さえも「匂い」として捉えることがある。この洋館は、腐った果実のような、甘酸っぱくて苦い匂いで充満していた。
「お邪魔します」
祢城さんが躊躇なく扉を開けると、そこには無数の絵画が飾られていた。すべて、同じ男の子の絵だ。
ハイハイをしている姿。よちよち歩きの姿。どの絵も色彩は豊かで、筆致は丁寧だ。犯人がこの少年を、どれほど深い――そして歪んだ愛情で包んでいたかが痛いほど伝わってくる。
「……10歳を過ぎたあたりから、絵が変わっている」
俺は壁に並んだ絵を見つめた。10歳を超えたあたりの絵から、急にタッチが乱れているのだ。それまでの穏やかな雰囲気は消え、絵の具が塗りたくられ、少年の表情はどこか歪んでいる。
「犯人は、彼が大人になっていくのが耐えられなかったんだ」
祢城さんが、静かに呟いた。
「子供はいつか親の手を離れる。けれど、彼は、それを許さなかった。17年前に公園からさらってきたあの日から、この家の中だけ時間が止まっていなければならなかったんだ」
奥の部屋に進むと、そこには一人の男が座っていた。40代後半くらいの、優しそうな顔をした男だ。彼はイーゼルの前に座り、パレットを持っていた。
「ああ、お客様ですか」
男の指は、様々な色の絵の具で汚れていた。
「柳浦警部。この方が、僕たちの探していた『芸術家』ですよ」
祢城さんの言葉と同時に、背後から柳浦警部たちが踏み込んできた。
「動くな!警察だ!」
警部の怒鳴り声が響く中、祢城さんは、男の前に飾られた「最後の絵」を見つめた。
そこには、青いおしゃぶりをくわえ、眠るように横たわる18歳の少年の姿が描かれていた。
「美術教師の三田だな。17年前の誘拐、そして今回の殺人容疑で同行願おう」
男は、抵抗することなく手錠をかけられた。パトカーへ向かう足取りの中で、男は、つらつらと話し始めた。
「彼は、最高傑作でした。でも、最近は可愛くなかった。背が伸びて、私を追い越して、あんなに低い声で喋るようになった。私の赤ちゃんじゃないみたいだった」
男は、自分の手をじっと見つめた。
「だから、戻してあげたんです。服を脱がせて、あの子が一番輝いていた頃の小道具を添えて。そうすれば、彼は永遠に私の赤ちゃんのままでしょう?」
「あなたには、時間を止める権利なんてない」
祢城さんが、静かに、でもはっきりと言った。
「彼は人間だ。あなたの作品じゃない」
柳浦警部が男を強く促す。男は抵抗せず、ただ寂しそうに笑って、暗い車内へと消えていった。
「最高傑作……か」
俺はその言葉の意味を深く、嚙み締めた。
「子供は成長する。声が変わり、肩幅が広くなり、髭が生える。それが『生きている』ってことなのに」
祢城さんは、少し寂しそうにまつ毛を揺らした。
「犯人が愛していたのは、被害者という人間ではなく、『赤ん坊』という記号だけだったってわけだ。成長という変化を拒むのは、生命そのものの否定だよ」
事件が解決した後、俺たちはまたあの山道を歩いていた。警察の現場検証も終わり、規制線のテープだけが風に揺れている。
「祢城さん。どうしておしゃぶりが20年前のものだって分かったんですか?」
「ああ、あれね。僕の弟が昔使っていたんだ。色が綺麗だったから覚えていたんだよ」
祢城さんは、どこか遠くを見るような目で空を見上げた。
「麦くん、世界は悲しいことで溢れているけれど、たまに救いがある」
「救い、ですか?彼は殺されてしまったのに」
「そう。あの男の子は、最期に空を見ることができた。18年間、窓のないアトリエで絵の具の匂いしか知らなかった彼が、死ぬ直前、本物の森の匂いを嗅ぐことができた。暗闇から解放されたんだ。それは、彼にとっての唯一の自由だったのかもしれない」
祢城さんは、ポケットからキャンディを取り出し、俺に投げた。
「ほら、おしゃぶりの代わりにこれを舐めて、少しは賢くなりなさい」
「ちょっと!子供扱いしないでくださいよ!」
俺は文句を言いながらも、包み紙を剥いて口に入れた。甘酸っぱいレモンの味が、乾いた喉に広がった。
「さあ、賭けも僕の勝ちだ。明日の朝は、クレイスベーカリーの焼き立てパンを買ってきておくれよ。クロワッサンと、カレーパン。それからメロンパンと、ベーグルと……」
「分かりましたよ、目覚ましをかけます……」
俺は溜息をついた。祢城さんの食欲は、事件が終わると同時に爆発する。今夜はこれから事務所で寿司かピザの「暴食」が始まるはずだ。
俺たちは、夕焼けに染まる道を歩いて帰った。
森の中には、もう「赤ん坊」はいない。
ただ、静かな風が吹いているだけだった。
その風には、腐った絵の具の匂いではなく、確かな土と草の、生命の匂いが混じっていた。




