森の中で見つけた青い異物
「麦くん、世界で一番不釣り合いな組み合わせって、何だと思う?」
ぬかるんだ山道を歩きながら、祢城さんは唐突にそんなことを聞いた。
霧が立ち込める湿った空気の中で、彼の仕立てのいいコートの裾が、泥を撥ねて汚れていく。普通の人なら「ああ、せっかくの高級品が」と嘆くところだが、祢城さんは全く気にする様子がない。倒木をひょいと軽やかに飛び越える姿は、森の精霊か何かのようにも見える。
「うーん。そうですね。焼きたてのパンに、イカの塩辛とか?」
俺――鹿嶋麦晴は、3ヶ月前のやさぐれていた自分なら絶対に言わなかったような、間の抜けた返事をした。
拾われる前の俺だったら、きっと「うるせえ、歩きにくいんだよ」と毒づいていただろう。でも、今は違う。このミステリアスな探偵、祢城 弥の助手なのだ。
「それはただの悪趣味だよ、麦くん」
祢城さんは振り返らずに笑った。伏せられた長いまつ毛の影が、その横顔に奇妙な色気を与えている。けれど、口を開けばいつもこれだ。人を煙に巻くようなことばかり言う。
「正解は、森の中の死体と、おしゃぶり、だ」
その言葉が終わると同時に、視界が開けた。そこには、奇妙なんて言葉では片付けられない光景が広がっていた。
18歳くらいの、まだ少年の面影が残る男の子が横たわっている。彼は何も着ていなかった。一糸まとわぬ姿で、湿った地面の上に、まるで彫刻のように置かれている。肌は驚くほど白く、日焼けの跡もない。ジムで鍛えたような筋肉はないが、若さ特有のしなやかさがあった。
そして、その口元だ。不自然なほど鮮やかな「青色のおしゃぶり」が、少年の唇に深くくわえさせられていた。
「これ、趣味なんですかね……?」
俺は喉を鳴らした。鼻を突くのは、雨上がりの土の匂いと、腐葉土のむっとする香り。それから――。
俺の鼻は、人並み外れて鋭い。元々ぐれていた頃、誰かが近づいてくる気配を「匂い」で察知していた名残だ。その鋭い嗅覚が、死体の周りから「ある匂い」を拾い上げた。
「死因は首を絞められたことによる窒息死。でも、身分証明書もなく身元がさっぱり分からない」
祢城さんは死体のそばにしゃがみ込んだ。
「まるで、空から降ってきたみたいじゃないか」
「でも、おしゃぶりって……。変質者の犯行ですか?」
「うーん。18歳の若者が、森の中で裸でおしゃぶりをくわえて死んでいる。犯人は何を伝えたかったんだろうね?あるいは、何を隠したかったのか」
そこへ、ドカドカと足音を荒立ててやってきたのは、地元警察の柳浦警部だった。
「おい、祢城!勝手に現場をうろつくなと言っただろう!」
柳浦警部は、まさに「怒りん坊」という言葉を擬人化したような男だ。33歳。祢城さんと同じ年のはずだが、いつも眉間にシワを寄せているせいで、5歳は老けて見える。
その後ろでは、部下の羽賀田くんが慌てて追いかけてきていた。
「あ、柳浦警部!すみません、またメモ帳を……あ、祢城さん、こんにちは!」
羽賀田くんは挨拶をしようとして、自分の帽子をポーンと飛ばしてしまった。風もないのにどうして帽子が飛ぶのか、それはこの界隈の七不思議のひとつだ。彼は慌てて帽子を追いかけ、泥だらけの地面に手をついた。
「柳浦警部。この仏さん、なんだか穏やかな顔をしていませんか?」
祢城さんが微笑むと、警部は顔を真っ赤にした。
「そんな感傷的なことあるか!これは変質者の犯行か、あるいは奇妙な儀式だ。現場を汚すな、帰れ!」
「分かりましたよ」
祢城さんはあっさりと立ち上がった。追っ払われるのはいつものことだ。
「でも警部。おしゃぶりのメーカー、調べました?あれ、20年前の限定品ですよ。ドイツのベビー用品メーカーが、創立記念で出した復刻モデルだ。今じゃ手に入れるのは至難の業です」
祢城さんはそう言い残すと、俺の肩を叩いて歩き出した。
「行こうか、麦くん。お腹が空いた」
祢城探偵事務所に帰ると、そこにはいつもの光景が待っていた。コーヒーの深い香りと、山のように積み上がった数人前の出前の容器。
祢城さんは事務所に戻るなり、コートを脱ぎ捨ててキッチンに立った。
彼はどれだけ忙しくても、コーヒーだけは自分で淹れる。ミルを回す「ガリガリ」という一定のリズム。これが彼の「思考を整理する儀式」だ。
「麦くん。あの現場で、何か『匂い』はしたかい?」
豆を挽きながら、祢城さんが背中越しに聞いた。
「はい。死体の周りから、微かに『絵の具』の匂いがしました」
「絵の具、か」
祢城さんは挽きたての粉をドリッパーに移し、丁寧にお湯を注ぐ。円を描くように細く。コーヒーの粉がふっくらと膨らむ。
「20年前のおしゃぶりをくわえた、身元不明の少年。そして君が嗅ぎつけた絵の具の匂い。点と点はまだバラバラだけど、きっといつか、綺麗な星座になるはずだよ」
彼は淹れたてのコーヒーを一口啜ると、満足げに目を細めた。
「これを見てごらん」
祢城さんが指差したのは、ある誘拐事件の記事だった。
17年前。当時1歳の男の子が、公園から姿を消した。犯人は見つからず、捜査は打ち切られた。
「もし、あの時の男の子が生きていたら?」
「18歳……。あの山で見つかった彼と同じ年齢です」
「誘拐して、世の中から隠して、ずっと自分のそばに置いていた。彼にとっては、18年間ずっと『家の中』が世界のすべてだったわけだ。1歳で時を止めたままね」
祢城さんの声が、少しだけ冷たくなった。
「麦くん、賭けようか」
祢城さんは言った。
「犯人は、その少年を『愛していた人』だ」
「愛していた?でも、殺して裸にしておしゃぶりをくわえさせるなんて、冒涜じゃないですか」
「そう見えるだろうね。でも、世の中には『そうするしかなかった』理由が、焼きたてのパンの数ほど転がっているんだ。僕の推理が当たっていたら、明日の朝ごはんは君がパンを買いに行ってくれ。外れたら、僕が君に特上のステーキを奢ろう」
「……分かりました。乗りますよ、その賭け」
俺はそう答えながら、祢城さんを眺めた。
祢城さんの賭けは、大抵当たる。悔しいけれど、この人は世界を「普通」とは違う角度から見ているのだ。
「でも、愛していたならどうして殺したんですか?ずっと一緒にいればいいのに」
その時、事務所の電話がけたたましく鳴った。相手は、あの「怒りん坊」の柳浦警部だった。
「……祢城か。お前の言った通りだ。おしゃぶりから検出された指紋が、20年前の別の事件の遺留品と一致した。羽賀田のやつがうっかり資料をひっくり返さなきゃ、一生見つからなかったところだ」
柳浦警部の背後で、「すみません、すみません!」と帽子を飛ばしながら謝っている羽賀田巡査の声が聞こえる気がした。
警部の話によれば、現場近くの古い洋館に住む「美術教師」が、数日前から無断で学校を休んでいるという。




