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誘惑

 開け放たれた窓から吹き込む風が、白いカーテンを揺らしている。少女が一人、長椅子の上で、クマのぬいぐるみを抱いて横たわっていた。少女は目を開けると、片手で銀色の髪をかき上げながら、ゆっくりと体を起こす。


「こんなところに隠れていたのね」


 一言告げると、少女は傍らに置かれた呼び鈴を鳴らした。すぐに幾人かの侍女が現れ、少女に深々と頭を下げる。


「お父様たちは?」


「朝から会議をされているようです」


「人の命はどうでもいいのに、自分たちの命はよほどに大事なのね……」


 クマのぬいぐるみを相手に、アイリスが小声でつぶやく。


「あの、何か?」


「気にしないで。それよりも、お茶の用意を二人分お願い」


「お客様でしょうか?」


 当惑する侍女たちに、アイリスは胸に抱いたクマの人形を指さした。


「ソフィアの分もよ」


 侍女たちがお茶の用意をして退出すると、アイリスはテーブルの向かいの席に、クマのぬいぐるみを置いた。


「それじゃソフィア、あちらにいるあなたの分身に、私のお願いを伝えてもらうことにしましょう」


 アイリスはぬいぐるみに語りかけると、そのつぶらな瞳をじっと見つめた。


 * * *


 夏の強い日差しが西に沈み、紺色の空が刻一刻と濃さを増していく。宿舎の前で警護についていたエーリクは、マントの裾についていた泥を払うと立ち上がった。太陽が沈んだ西の空に、大きな入道雲が湧き上がっているのが見える。


「じきに雨になるな……」


 そうつぶやくと、エーリクは半壊した宿舎の二階を眺めた。ガラスが割れ、板を張り付けただけの窓に明かりが灯っている。その明かりの前を人影が横切った。クエルの体は自分で動けるようになっていたが、マーヤは夜通しクエルの世話をするつもりらしい。


 エーリクはその灯りを眺めつつ考えた。自分はマーヤのために命を張っている。それには何の疑問も感じない。だがその守るべき相手が、他の誰かのために命を張っているとすれば、自分は一体何に命を張っているのだろう?


 そんな疑問が頭に浮かぶ。その答えをみつけられないまま、エーリクは宿舎の明かりに背を向けると、アイゼンを率いて、食堂になっている天幕に向かった。


 夕刻だというのに、天幕の中はひとけがなく閑散としている。戦場には付き物の、負傷者のうめき声すら聞こえない。実際のところ、マーヤとエーリクが属する「請願者」の人員は、ここを占拠した時から半分以下になっていた。そのため、動ける者は哨戒線に張り付きっぱなしになっている。


 とはいえ、人が全くいない訳でもなかった。天幕の隅では数人の疲れた顔をした男たちが、パンをスープに浸して夕飯をとっている。


「こちらから王都に仕掛けるんだって?」

「マーヤお嬢さんが、ヘラルドさんに主張したらしい」


 彼らの小声で話す内容が、エーリクの耳に入ってきた。エーリクは籠に盛られたパンを取りながら、彼らの話に耳を澄ます。


「この間の襲撃で、こちらも全滅しかかっただろう? 王都に侵攻なんてしたら……」

「誰も生きては帰れないな」


 そこでエーリクに気づいた一人が、口に指を立てる。エーリクは何も聞いていないふりを装いつつ、天幕の下を離れた。


「マーヤ様は変わってしまった――」


 エーリクの口からつぶやきが漏れる。東領にいた時のマーヤは、決して争いなど望むような人ではなかった。変わったのは燃え続ける故郷と、灰の中に横たわる無数の亡骸を見てからだ。


 そこからマーヤの逃亡生活が始まった。王家は東領公家の生き残りであるマーヤに追っ手を向けると同時に、莫大な賞金をかけた。東領公に恩があった者たちの裏切りにもあう。「請願者」の元にたどり着いてからも、マーヤに忠誠を誓った者たちの多くが命を落とした。


 今のマーヤを支えているものはただ一つ、王家に対する復讐だけ。たとえこの「請願者」の最後の一人になろうとも、マーヤは決してそれを諦めたりはしないだろう。


「用心しなければ……」


 エーリクは顔をしかめた。これまでは敵からマーヤを守ることだけを考えていたが、これからはマーヤの背中をねらう者も現れるかもしれない。気づけば、エーリクは貴賓室の前まで来ていた。


 重厚なオーク材の扉を開けて中に入る。エーリクは手にした籠からパンとスープが入ったポットを取り出すと、それを木の盆にのせた。あれ以来、エーリクは女と顔を合わせるのを避け、食事を階段の入口に置いている。


 そこにパンとスープが載った盆を置こうとした時だ。空の盆の上に何かが乗っている。愛らしい顔をしたクマのぬいぐるみだ。


 エーリクは扉を閉めると、ぬいぐるみをテーブルの上に置いた。クマの手には一枚の紙が挟まっている。エーリクはそれを手に取ると、ランタンの明かりにかざした。


「食事、ありがとう」


 紙には短い一言が、丁寧な文字で書かれている。エーリクはクマの手に手紙を戻すと、マントも脱がずに、ベッドの上に身を投げ出した。


 居場所を奪われたぐらいで、怒りに我を失った自分とは違う。あの女は記憶を失っているにも関わらず、自分を失わない強さを持っている。


『これこそが、本当の強さなのかもしれない……』


 そんなことを考えるうちに、いつしかエーリクは夢の中へと落ちていた。それはエーリクがいつも見る悪夢だ。侍女たちの好きな絵物語のように、エーリクの目の前を、いくつもの場面が通り過ぎていく。


 最初はエーリクがマーヤに初めて会った時の笑顔。そしてマーヤがエーリクに人形の繰り方を聞いてくる。


「目を覚ませ!」


 エーリクは夢の中の自分に向かって、必死に叫び声をあげた。ここで目を覚まさなければ、この後に待っているのは、燃え盛る東領を見て、涙を流して崩れ落ちるマーヤの姿だ。しかし目の前に浮かんだのは、燃える街でも、涙を流すマーヤの姿でもなかった。


 薄暗い闇の中、女が一人、赤い髪の毛をバラの花びらのように広げて、ベッドに横たわっている。女は目を開けると、エーリクをぼんやりと眺めた。


「ありがとう」


 女の口から言葉が漏れる。エーリクは夢の中に、マーヤではなく、フリーダが出てきたことに戸惑った。


「あなたが私を救ってくれたことに変わりはない」


 無言のエーリクに女が言葉を続ける。エーリクが何を告げるべきか迷っているうちに、場面が切り替わった。今度は地下室の天井から差し込む明かりの下で、女が台所に立っている。


「おかえりなさい!」


 女がエーリクのほうを振り向く。地下室に閉じ込められているはずなのに、その笑顔はとても朗らかだ。


『何かが違う――』


 その笑顔を眺めながらエーリクは思った。マーヤの笑みは温かくはあったが、常に何かを背負っている緊張感があった。だがこの女の笑みは自然で、エーリクに安らぎを与えてくれる。


「私はあなたを信用する。だから私も信用して。何も告げずに、勝手にここから出て行ったりしない」


 パンを前に女が告げる。女の言葉の一つ一つが、エーリクの心を締め付けた。自分はこの女を傷つけようとし、あの男に会わせることなく、地下室に閉じ込め続けている。


『あなたは彼女を守りたかっただけよ』


 不意に誰かの声が聞こえた。さらに何かがエーリクの裾を引っ張る。足元を見ると、茶色いふわふわの毛に包まれたクマが、丸いつぶらな瞳でエーリクを見上げていた。


「何者だ!」


「あら、私のことを忘れちゃったの? あなたがここに連れてきたんじゃない!」


 クマがまるで子供みたいに、地団太を踏んで見せる。


「私はソフィア。あなたのお友達よ」


「友達?」


「そう。あなたが何を望んでいるかを教えてあげる友達――」


『なんておかしな夢だ……』


 エーリクが思わず含み笑いをもらした時だ。


『あなたは何?』


 クマがいきなりエーリクに問いかけてくる。


「俺はマーヤ様の従者で……」


 エーリクの答えに、クマは首を横に振った。


「違うわ。あなたは盾なの。とっても大事なものを守る盾――」


 エーリクはクマの瞳に映る自分の姿を見つめる。


「そうだ。俺は盾だ」


 エーリクの答えに、クマは満足そうにうなずいた。


「そうよ。あなたの大事なものを、ちゃんと守って――」

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