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 バラ、バラ、バラ――。


 外から響いてくる激しい雨の音に、エーリクは目を覚ました。目の前には愛くるしい顔をしたクマの顔がある。胸にクマのぬいぐるみを抱いたまま寝てしまったらしい。


「それであんな夢を見たのか……」


 エーリクは思わず苦笑いをしながら、ベッドから身を起こした。それでも夢の中でクマのぬいぐるみが、自分に告げた言葉ははっきりと覚えている。


『あなたは盾なの。とっても大事なものを守る盾――』


 自分が守るべきはマーヤだ。しかしマーヤは自分から破滅の道へ走り出そうとしている。それを止めることはできるだろうか?


『いや、無理だ――』


 エーリクは首を横に振った。共に死ぬことはできても、止めることなどできない。あの日、王都で生き残った時から、こうなる運命だった。


『あの娘はどうする?』


 地下室にいる赤毛の女の姿が浮かんだ。たとえ戦乱で命を落とさなくても、ここにいれば、「請願者」の一味として処分される。


あの男(クエル)の元に返すべきだろうか?』


 それがあの女にとっては一番いいのだろう。だがあの男はもうこの「請願者」の一部だ。中心だと言ってもいい。女があの男の側にいれば、結局は同じことになる。


『あなたの大事なものを、ちゃんと守って――』


 エーリクは夢の中の言葉を思い出した。


『まだ間に合う……』


 今ならあの女を連れて、「請願者」の外へ連れ出すことが出来る。名前さえ分かれば、王都で知り合いを見つけられるだろう。マーヤからは離れることになるが、それほど時間がかかるわけではない。せいぜいが一昼夜というところだ。


『マーヤはどう思うだろうか?』


 ふと、そんなことを考える。マーヤが自分のことを許してくれなければ、それはそれで仕方がない。甘んじて処罰を受ける。


『それにあの男がいる……』


 クエルの顔が頭に浮かぶ。自分がいなくても、マーヤはあの男と戦い続けるだろう。マーヤ自身もそれを望んでいる。


 エーリクはベッドから離れると、行軍鞄に日持ちする食料を詰め込んだ。棚の仕掛けを開けて、地下室へと足を踏み入れる。


 ランタンの明かりが灯る中、女はベッドの上で小さな寝息をたてていた。しかしエーリクの足音に気づくと、すぐに飛び起きる。


「手荒な真似をするつもりはない。すぐにここを離れる。この鞄に必要なものを詰めてくれ」


 女のオレンジ色の瞳には、明らかに警戒の色が見える。エーリクは行軍鞄を床に置くと、女に向かって両手を挙げた。


「俺を信用しろとは言わない。だがここにいれば、間違いなく死ぬ」


 女が明かり窓になっている天井を見上げた。


「やっぱりここは戦場なのね……」


「分かっていたのか?」


「あなたは間違いなく兵士だし、雷みたいな音が何度もして、焦げ臭いにおいもしたから、なんとなくそうだと思っていた」


「これからもっとひどいことになる。その前に俺とアイゼンで、王都の近くまでお前を連れていく」


「連れて行ってどうするの?」


「俺が出来るのはそこまでだ。名前を知っている人間を探して逃げろ。そこはすぐに戦場になる」


 女はしばし考え込むような顔をすると、エーリクにうなずいた。


「うん、わかった。いつまでも、あなたの重荷になるわけにもいかないしね」


「重荷?」


 戸惑うエーリクに、女は口元に笑みを浮かべた。


「だって、あなたには大事な人がいるんでしょう?」


「なぜそう思う?」


「女の感――冗談よ。あなたが泣いている姿を見てそう思ったの。そうじゃなかったら、あなたを殴り倒しているわ」


 女はベッドから起き上がると、エーリクが持ち込んだマーヤの古着を、手早く鞄に入れていく。

 

「外向きの服に着替えるから、後ろを向いて頂戴!」


 女がエーリクをにらみつける。エーリクは素直にうなずくと、固く目をつむって後ろを向いた。


 * * *


 バラ、バラ、バラ――。


 森の中を夏の驟雨が降り注いでいる。エーリクは滝のような雨に打たれながら、背後を振り返った。小柄な影が、アイゼンの後ろにいるのを確認する。この雨のおかげで、誰にも咎められることなく、貴賓室を出て森に入り込むことが出来た。


 もっとも、ここからが本番だ。エーリクは覆いをしたランタンを掲げると、目の前にある木の枝を眺めた。そこでオレンジの紐が風に揺れているのを見ると、表情を険しくする。


 「請願者」はこの国学の森に沿って、三重の警戒線を張っていた。警戒線とはそれぞれが目視可能な小陣地で、敵の襲撃を、他の陣地や本陣に素早く知らせるようになっている。


 今は人手がないため、一番外側の警戒線しか機能していない。それに森の中に張られている、敵の侵入を探知するトラップも、この風と雨の中では無力だ。


 エーリクは風でマントのフードが飛ばされないように抑えながら、アイゼンの背後に回ると、同じようにフードを被った人影に声をかけた。


「ここからは絶対に頭を上げるな」


 エーリクの言葉に、赤い髪の毛を濡らしたフリーダがうなずく。エーリクは顔を上げると、木の幹の影から周囲を見渡した。ところどころに倒木や枝が密集している場所がある。それが警戒線だ。


 だがすべてが使われているわけではなかった。どれを使用するかは毎日変更されている。それを知っているのは、前線に配置された者だけだ。


 後続との連携に問題が出そうなこの仕組みを、なぜヘラルドが採用したのか。エーリクはその理由がやっと分かった。


「ヘラルドさんは、中にいる者も信用していないということか――」


 どれが本物か分からない警戒線は、勝手にここを抜け出そうとする者にとっても、危険な障壁だ。


『どれが本物だ?』


 エーリクは警戒線の一つ一つをじっと眺めた。だが雨で視界が限られているため分からない。かといって、分かるまで待っていれば、雨が上がってしまう。


「賭けだな……」


 警戒線の間を抜けるのはむしろ危険だ。もし本物なら、奇襲で制圧して抜けるしかない。エーリクが背後のフリーダに合図した時だ。


 ガサ――!


 倒木の影から何かが飛び出してくるのが見えた。それはあたりを警戒するように動くと、木立の間へと姿を消す。


 エーリクは警戒線に駆け寄って、それが出てきた倒木の影を覗き込んだ。視線の先には首を失った男たちの死体がある。足元の水たまりには、切り落とされた首が落ちていた。首から流れる血で、水たまりが瞬く間に赤く染まっていく。


「どうしたの?」


 背後に続くフリーダが、エーリクの肩越しに倒木の下を覗こうとする。


「見るな――」


 エーリクはフリーダの顔の前に手を出すと、その視界を遮った。何者かが侵入してきている。それも偵察ではなく、刺客の類だ。その証拠に、死体は抵抗する暇もなく、一瞬で首を切り落とされている。


 敵が刺客を送り込んでくるとすれば、その目標はヘラルド、マーヤ、クエルのいずれかだが、敵の目標は間違いなくクエルだろう。


『一緒にいるマーヤも危ない!』


 エーリクは背後を振り返った。しかし今夜を逃せば、この女を逃す機会はもうないかもしれない。エーリクはどうすべきか分からず、雨に打たれながら立ち尽くした。


「何か忘れ物をしたのね」


 不意にフリーダの声が聞こえた。


「私は大丈夫。ここで待っているから、忘れ物を取ってきて」


 フリーダの言葉にエーリクはうなずいた。この女の言うとおりだ。マーヤの危険を見過ごすようなことがあっては、自分はもう盾ではなくなる。


「下弦だ」


「下弦?」


「『月』と問われたら、『下弦』と答えろ。それが今日の合言葉だ」


「うん、分かった」


「すぐに戻る。余計なものは見ないで、倒木の陰に隠れていろ」

 

 エーリクはフリーダに背を向けると、アイゼンを率いて影の後を追って走り出した。

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