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人肌

 クエルは夢を見ていた。間違いなく夢だと分かる夢だ。自分はまだ幼く、世界の全てを見上げるように歩いている。その前には、赤い髪をポニーテールに結んだ少女がいた。


 手袋をした手に細い棒を持ち、それをリズミカルに動かしながら、宵の気配が濃くなる路地を進んでいる。少女が髪の毛と同じ、赤いマフラーを翻して振り返った。


「暗くなっちゃった……」


 そうつぶやいた少女の口から、白い息が上がる。


「もう、クエルのせいだからね!」


「ぼ、ぼく?」


「クエルは走るのが遅すぎ!」


「フリーダが速すぎるんだよ」


 それを聞いたフリーダが、大きく頬を膨らませる。


「帰るのが遅れたら、お母さんに怒られるじゃない。今日は近道をするわよ!」


 フリーダの家は堀に面して建っている。その塀には、フリーダとクエルが作った秘密の通路があり、堤防の上を行けば、表に回るより早く着く。しかし堀の水が凍るような季節だ。石造りの堤防はガラスみたいに滑る。


「危ないから、やめた方がいいよ」


 クエルの答えに、フリーダは思いっきり首を横に振った。


「うちのおかあさんに怒られる方が、とっても危険なの!」


 フリーダはクエルにそう宣言すると、枯草に覆われた土手を駆け上がっていく。


『あれ?』


 その後ろ姿を眺めながら、クエルは首をひねった。この時、結局は堤防の上をあきらめて、普通に路地を歩いて行ったはずだ。それに夢にしては、体がとても冷える。それも、手や足の感覚がなくなるような冷たさだ。


「待って、フリーダ!」


 クエルは声を上げると、堤防の上に登ったフリーダを追いかけた。吹き抜ける風が、肩幅しかない堤防の上を歩くクエルの体を揺らす。クエルは恐る恐るその上を進んだ。


 足元を見ると、堀は白い氷に覆われていて、その所々から、防犯用の鉄製の杭が顔を覗かせている。そこに落ちたりしたら、串刺しになりかねない。


「フン、フフ~ン、フン――」


 前を行くフリーダはというと、鼻歌に合わせて棒を振りながら、ご機嫌に歩いていく。


「待ってよ!」


 クエルがフリーダに声を掛けた時だ。


 シュン!


 何かが堀の上に飛び上がってきた。茶と黒のまだら模様の子猫だ。しかしクエルを驚かせるには十分だった。足を滑らせたクエルの体が、背中から堀の中へ落ちていく。


 ドン!


 背中が堀を覆う氷にぶつかった。それは音を立てて割れると、クエルの体は冷たい水の中へと落ちていく。クエルは必死に手を伸ばして、氷の縁に掴まろうとした。だが氷が次々と割れて、掴まることが出来ない。


「クエル!」


 堤防から飛び降りたフリーダが、杭に掴まりながら、クエルに向かって手を伸ばしてくる。しかし子供の短い腕では届かない。フリーダは首にしていた赤いマフラーをほどくと、それを杭に巻き付けて、堀の中へ飛び込んだ。


「掴まって!」


 クエルは必死に手を伸ばすと、フリーダの手を掴んだ。フリーダがしっかりとクエルの手を掴み返してくる。だが一本のマフラーだけで、二人の体を支えるのは無理だった。


 ビリ!


 マフラーの破ける音がした。その衝撃で、クエルの手とフリーダの手が離れる。フリーダの体は瞬く間に氷の下へと姿を消した。


「フリーダ!」


 クエルはすぐにフリーダの後を追おうとしたが、水の下に沈んでいた流木に上着がからまり、動くことが出来ない。


「子供がおぼれているぞ!」


 対岸から大人たちの叫び声が響く。


「クエル、フリーダ!」


 堤防の上から、父のエンリケの声も聞こえた。


「父さん、フリーダが――」


 バシャン!


 エンリケはクエルの言葉を待たずに、堀に飛び込むと、腰に着けていたハンマーで氷を割る。


「フリーダ!」


 続けて、フリーダの母親のリンダが、クエルの母親のセラフィーヌと共に、堤防の上に姿を現した。リンダがエンリケの後を追って、水の中に飛び込む。


「手を伸ばして!」


 水しぶきを被ったクエルの前に、白い手が差し出された。クエルはセラフィーヌの手を借りて堤防に上がると、体を震わせながら、エンリケとリンダがフリーダを探すのを呆然と眺める。


「見つけた!」


 エンリケが氷の下から、フリーダを引きずり出した。その体をリンダが両腕で抱きしめる。リンダの腕に抱かれるフリーダの姿に、クエルは心の底から安堵した。だが様子がおかしい。フリーダの横腹に、金属の棒が深々と刺さっている。そこから流れる血が、リンダの白いエプロンを赤く染めた。


「フリーダ、目を開けて!」


 リンダの叫びに、クエルは心臓が止まるような恐怖を感じた。


「エンリケさん、すぐに世界樹の実を!」


 セラフィーヌの言葉に、エンリケは驚いた顔をしたが、すぐに水から上がると、屋敷に戻っていく。


「フリーダ――」


 クエルはリンダの腕の中で、力なく横たわるフリーダに声を掛けた。フリーダのまぶたがわずかに開く。


「クエル……よかった……」


 そう一言つぶやくと、まぶたは再び閉じられた。


「フリーダ!」


 悲鳴をあげたクエルの手を、セラフィーヌが握りしめる。セラフィーヌは()()()の瞳でクエルをじっと見つめた。クエルが今まで見たことがない、真剣なまなざしだ。


「あなたなら、フリーダを救える」


「僕が……?」


「クエル、あなたの力を貸して――」


 そう告げると、セラフィーヌはクエルの体をぎゅっと抱きしめた。セラフィーヌの心臓の鼓動がクエルの胸に響き、氷のように冷たかった体が、母のぬくもりで少しずつ温められる。それを全身に感じながら、クエルはこれが夢であることを思い出した。


『そう、これは夢だ……』


 自分も、フリーダも、決して堤防の上を歩いたりはしなかったはずだ……。




 クエルは目を開けると、薄暗い天井を眺めた。自分の部屋のようにも思えるが、壁や天井が煤にまみれていて分からない。それに薬草の生臭い匂いがして、真冬に薄着で外にいるような寒さだ。だが胸のあたりに、懐かしい温かさと、微かな鼓動を感じた。


『これは夢の続きだろうか?』


 ぼんやりとそんなことを考える。


「母さん……」


 クエルは目だけを動かして、自分の体へ視線を向けた。黒く長い髪の自分と年のそう変わらない少女が、クエルの胸に顔をうずめて、小さく寝息を立てている。


「母さんじゃ……ない……」


 そうつぶやいてから、クエルはそれが誰なのか気づいた。

 

「マーヤ……!」


 マーヤの肌が、直接自分の体に触れている。その心地よい温かさが、クエルの氷のように冷たい体を包んでいた。


「うーん」


 小さく声を上げたマーヤが、腕をクエルの首元へと動かす。それに合わせて、マーヤの胸のふくらみがクエルの胸に触れるのを感じた。


 ドクン、ドクン――!


 まるで銅鑼が鳴るような鼓動が聞こえてくる。クエルの心臓が激しく脈打つ音だ。


『どうしてマーヤが……』


 焦るクエルの視線の先で、マーヤがゆっくりとまぶたを開く。はちみつを思わせるオレンジ色の瞳が、クエルをぼんやりと眺めた。


「良かった、気が付いたのね」


 マーヤの言葉に、クエルは何か答えようとしたが、言葉が口から出てこない。それを見たマーヤが、口元に笑みを浮かべて見せる。


「あなたは血を流し過ぎた。だから私があなたの体を温めたの」


「血?」


 クエルの問いかけにマーヤが頷く。


「冷えた男の体を温めるのは女の仕事よ。それとも、裸の男に温めてもらいたかった?」


「い、痛い!」


 クエルは首を横に振ろうとして、激しい痛みを感じた。クラウンのナイフで、首を切られたのを思い出す。


「動脈をかすっていたの。まだ動かさないで。それにアプサラスで血を凍らせて止血したから、凍傷にもなっている。傷跡が残るでしょうけど、死ぬよりはましなはずよ」


「うん」


 マーヤの言葉に、クエルは素直にうなずいた。そして自分が生き残れたことよりも、マーヤが無事だったことに安堵する。


「助けてくれてありがとう」


 それを聞いたマーヤが、不思議そうな顔をした。


「あなたが私を助けてくれた」


「でもマーヤさんには、前にも命を助けてもらったし……」


「お返しのつもり? あなたらしいわね。そう言えば、年はいくつなの?」


「ぼ、僕の年?」


 クエルは17と告げようとして、誕生日が過ぎてしまっているのに気付いた。


「ちょうど18になったところだよ」


「私の方が一つ年上ね。勝手に壊れないでって言ったでしょう。私がお姉さんなんだから、言うことを聞きなさい」


「お、お姉さん……?」


 マーヤはクエルに頷くと、ベッドから身を起こした。白い裸身がクエルの前で露わになる。


「今度言うことを聞かなかったら、ここを切り落とすわよ」


 マーヤがクエルの下半身を指さす。慌てるクエルに、マーヤは意地悪な笑みを浮かべた。マーヤは恥ずかしがる様子も見せずに、シーツをはぎ取ると、素早く体に巻き付ける。


「何か食べ物を持ってくるわ。それと――」


 扉の前で立ち止まったマーヤが、クエルの方を振り返った。


「安心して。裸の男と一緒に寝るのは、あなたがはじめてじゃない」


 ギィ――!


 耳障りなきしみ音を立てて、扉が開く。廊下へ出ていくマーヤの後ろ姿を、クエルは茫然と眺めた。

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