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居場所

 午後の日差しが照り付ける中、クエルはマーヤの背中を追って歩いていた。赤茶けた生乾きの血がはがれ、足元に落ちていく。生臭い上に、さびた鉄を思わせる匂いがした。それを感じる度に、何もないはずの胃から、まだ何かがこみあげてきそうになる。


「追撃はしなかったのか?」

「敵の初撃を防ぐだけで――」


 クエルの耳に、人のざわめきが聞こえてきた。顔を上げると、レンガ造りの宿舎が見える。そこに何人もの負傷者が、担架によって運ばれてきた。


「うぉおおお――!」


 担架の上の負傷者が、獣のような叫び声を上げる。血が滲む包帯が巻かれた腕には、肘から先がない。負傷者のうめきに耳を抑えるものも、血にまみれたクエルを見て驚く者もいなかった。


「そのまま部屋に行くつもり?」


 中庭に入ったところで、背後から声がした。


「そんな姿で部屋に戻られると、私が迷惑なの」


 黒い髪を血で赤く染めたマーヤが、琥珀色の瞳でクエルを眺める。マーヤはクエルの手を引くと、中庭にある噴水の前へ連れ出した。


「子供じゃないんだから、言われなくても座ってくれない?」


 マーヤはクエルを噴水の縁に座らせると、自分もその横に座った。いきなり胸元のボタンを外し始める。慌てるクエルを前に、マーヤはつなぎの内側から止血布を取り出すと、それを噴水に浸した。


「自分で――」


 自分で洗えると言いかけたクエルに、マーヤが首を横に振る。


「目を瞑って」


 クエルは素直に目を瞑った。マーヤが乱暴に顔や首元を拭く。拭き終わって目を開けると、マーヤが赤黒く染まった止血布を、噴水に浸すのが見えた。


 透明だった水がたちまち赤く染まる。クエルを殺そうとした指揮官の血だ。マーヤが居なかったら、血を流して倒れていたのは自分だっただろう。


「助けてくれてありがとう」


 クエルの言葉に、マーヤは布を絞る手を止めると、はにかんだ顔でクエルを見つめた。クエルはその姿に、入学式の夜、フリーダとここで語り合ったのを思い出す。しかしマーヤはすぐに眉をしかめると、いつもの厳しい表情に戻った。


「勘違いしないで頂戴。あいつらを倒すのに、あなたが必要なの。だから勝手に死んだりしないで」


 マーヤは無言で自分についた血を洗い流す。それを眺めながら、クエルはここが戦場であることを、ここが自分の居場所であることを理解した。


 * * *


「あれは何だ――」


 エーリクは国学に戻る道を駆けながら、何度となく同じセリフをつぶやいた。単騎で遊撃戦をした上に、追撃戦まで行った体は鉛のように重い。しかし自分が目にしたものの衝撃に比べれば、そんなものはどうでもよかった。


()()()()()……』


 敵の指揮官のセリフが頭に浮かぶ。その思いはエーリクも同じだ。たった一人の人形師が、数十体の人形を繰る。歴史に名を残す人形師でも、せいぜいが数体の人形を繰れただけ。それが連携して動くなど、想像すら出来ない。


「自分はもう必要ない――」


 そんな考えがエーリクの心を締め付ける。エーリクは物心ついた時から、人形を繰る訓練に明け暮れてきた。そのエーリクが、生涯使えるべき主人として出会ったのが、東領公女のマーヤだ。


 マーヤと出会った日のことは、今でも鮮明に覚えている。少し年上の、白いドレスを纏った少女に出会った時、エーリクはそのあまりの美しさに立ち尽くした。執事に促され、慌てて床に跪く。


 トン、トン、トン――。


 軽い足音と共に、白い靴が眼の前に現れた。それに口づけをしろと言われても、喜んで口づけをする。そう思った時だ。


「立って顔を見せて」


 鈴の音を思わせる声がした。動けずにいるエーリクの前に、手が差し出される。恐る恐るその手を握り締め、立ち上がったエーリクの前で、マーヤは自分の体を眺めた。


「おかしな所でもあるかしら?」


 全てが完璧に思える。エーリクは慌てて首を横に振った。


「でしょう? 私もあなたと同じ人よ。だから私の目を見て話をして」


 ただの使用人であるはずのエーリクに、マーヤが朗らかな笑みを浮かべる。その瞬間から、エーリクはマーヤの盾であり、剣であることを誓った。王家の東領への侵攻以来、マーヤの顔から、あの日見た笑顔は失われている。


 それでも、エーリクの心は何も変わらない。だがエーリクは、その大事な背中が、自分から少し遠くなった気がした。


あの男(クエル)が現れたからだ――』


 マーヤは常にあの男の側にいる。それはヘラルドの指示によるものだったが、なぜヘラルドがそれを命じたのかを、エーリクは戦場で理解した。あの力を手に入れるためなら、ヘラルドも、そしてマーヤも、どんなことでもするつもりだ。


 カン、カン――。


 軽い鐘の音が聞こえた。戦闘が全て集結したことを知らせる鐘だ。気づけば、エーリクは宿舎の入口まで戻っている。エーリクは中庭で、噴水の縁に座るマーヤを見つけた。エーリクはマーヤの元に駆け寄ろうとして立ち止まる。


『あの男がいる……』


 マーヤは手にした布を水に浸すと、返り血に染まったクエルの顔を拭き始めた。その姿に、エーリクは戦場でも感じたことのない恐怖を感じる。自分の居場所が失われることへの恐怖だ。


「あのマーヤお嬢様が、坊や(クエル)の顔を拭いてやっているぞ?」


 エーリクの耳に、ささやき声が聞こえた。振り返ると、中庭にいる男たちが、驚いた顔でマーヤたちを眺めている。


「マーヤお嬢さんにも、春が来たと言う噂は――」


 エーリクが居るのに気付いた一人が、言葉を続けようとした男の脇腹を小突いた。男たちは気まずそうな顔をすると、装備を担いで中庭を出て行く。エーリクはマーヤに背を向け、自分の宿舎である貴賓室に向かった。


『やはり、自分はもう必要ないのか……』


 渡り廊下を歩くエーリクの頭に、そんな考えが行き来する。エーリクは貴賓室の扉を開けると、無駄に豪華なベッドに足を向けた。エーリクがベッドに身を投げ出した時だ。どこかから焦げ臭い匂いがした。


『火事か!?』


 一瞬そう思ったが、火の手を告げる声は聞こえない。それに匂いは外ではなく、隠し扉の向こうから漂ってくる。女が逃げようとして、火を放ったのかもしれない。


 エーリクは棚の仕掛けを動かすと、隠し部屋の気配を伺った。間違いなく、焦げた匂いは下から漂ってくる。エーリクは腰からナイフを抜くと、慎重に扉を開けた。


「フン~、フン、フン~」


 不意に階段の下から、鼻歌のようなものが聞こえてくる。エーリクは足音を立てぬよう、慎重に階段を降りると、ナイフを手に飛び込んだ。


「おかえりなさい!」


 思いがけない言葉が、エーリクの耳に響く。声のした方を振り向くと、女が炊事場の前に立っていた。しかもオーブンからは、白い煙が盛大に上がっている。


「な、何をしている!?」


「せっかく材料があるから、パンを焼こうと思ったんだけど……。火力を上げすぎちゃったみたい」


 女がエーリクに背を向けたまま、平然と答える。


「それと、とっても不便だから、枷は外させてもらったわ」


 慌ててベッドに目を向けると、女に着けていたはずの手かせと足かせが、外れてベッドの上に置かれている。


「髪留めのピンですぐに開いたから、鍵をいじるのは得意みたい。もしかしたら、私は泥棒さんだったのかも」

 

「ふざけるな!」


 女が少し怒った顔で、エーリクの方を振り向く。


「ふざけてなんかいないわよ。それよりも、パンが焼けたから、一緒に食べましょう」


 女はテーブルの上にパンを置くと、エーリクを手招きした。マーヤそっくりな女の指示に、エーリクは思わず椅子に腰を下ろす。


「なぜ逃げなかった?」


「あなたは私の命を救ってくれた。私はあなたを信用する。だから私も信用して。何も告げずに、勝手にここから出て行ったりしない」


 マーヤと同じ琥珀を思わせる瞳に、エーリクは素直に頷いた。


「それに自分が誰かも分からないのよ。ここを出ても、どこに行けばいいの?」


「何も思い出さないのか?」


「思い出す前に、日ごとに自分が溶けて、消えていく気がする。もしかしたら、私はもう死んでいるのかも……」


「馬鹿なことを言うな。お前は幽霊じゃない、俺の捕虜だ!」


「あなたの言う通りね。記憶は戻らないけど、まだ私は生きている。それに一つ分かったことがあるの」


「なんだ?」


 女はテーブルの上の盆を指さした。そこにあるのは丸焦げになったパンだ。


「私は料理がとっても下手みたい。覚悟して食べてね」


 エーリクは無言で黒焦げのパンをかじった。ただの焦げの味が口の中に広がる。それでもエーリクはパンを吐き出すことなく、それを飲み込んだ。

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