喪失
エーリクは自分が宿舎に使っている貴賓室に入ると、黒光りするオーク材の棚に手を差し込んだ。
カチリ……。
僅かな金属音と共に、巨大な棚が回転する。背後に鉄でできた頑丈な扉が現れた。エーリクがこれを見つけたのは偶然だ。アイゼンの部品を置こうとした時に、それが棚の裏側に隠された仕掛けに引っかかった。扉には鍵がかかっていたが、棚の裏側には小さなくぼみがあり、それを押すと中から鍵が現れた。
脱出用の通路かとも思ったが違う。上の部屋と同じぐらいに立派で、快適な場所だ。緊急時に避難するための部屋だったらしい。それか、密かに誰かを招き入れる場所のいずれかだ。王族用の部屋だったと言うことは、きっと後者だったのだろう。
「腐った奴らの考えそうなことだ……」
そうつぶやいてから、エーリクはランタンを手に扉を開けた。中の様子を伺うが、特に異変はない。大理石で作られた階段を降りると、天井が明るく光っていた。どういう仕組みかは分からないが、外の明かりが天井に導かれている。
エーリクは部屋の奥に置かれた、天蓋付きのベッドを眺めた。そこには自分より少し年上の女が横たわっている。その顔はまるで死人のように青白いが、赤い髪の毛が、薔薇の花びらみたいに寝台の上に広がっていた。
この女をここに連れてきてから、すでに二日が過ぎている。女は浅い呼吸を繰り返すだけで、未だ意識は戻らない。
「死なれると、後の始末が面倒だ」
眠り続ける女の顔を眺めながら、エーリクがその口元に水差しを運んだ時だ。
「うーん……」
女の口から呻き声が漏れた。瞼が開き、オレンジ色の瞳がエーリクをぼんやりと眺める。エーリクは思わず寝台の横に跪きそうになった。やつれてはいるが、その顔はどう見ても、エーリクの主人であるマーヤに瓜二つだ。寝姿を眺めていることに、背徳感すら覚えてしまう。
「ここはどこ?」
女は消え入りそうな声で、エーリクに問いかけた。エーリクはそのあまりにも無防備な表情に焦る。それでも威圧的に聞こえるよう声を絞り出した。
「質問するのはこっちだ。お前は何者だ? なぜマーヤ様に似ている?」
「私は……」
瞼を閉じると、女は苦しそうに首を横に振った。
「痛むのか?」
「痛みはないわ……。だけど……自分が……誰か……思い出せないの………」
「ごまかしても無駄だ。谷底で人形の残骸に抱かれていたのを見つけた」
「人形……? ごめんなさい。本当に何も覚えていないの」
オレンジ色の瞳が大きく見開かれ、すがるような目でエーリクを見つめる。
「私は誰なの?」
「ふざけるな!」
エーリクは腰からナイフを抜くと、それを寝台の上に突き立てた。こぼれた水鳥の羽が、雪のように辺りを舞う。
「お前とは一度やり合っている。こいつをお前の首につきつけたのを、忘れたとは言わせない」
ナイフで脅しても、女の表情は変わらない。ただ茫然とエーリクを眺め続けている。エーリクがそれを睨みつけると、女の顔に笑みが浮かんだ。
「ありがとう……」
その言葉と眼差しに、エーリクは戸惑った。それはかつて東領がまだ平和だった時、マーヤが館の使用人に向けていたものと同じだ。そして今では失われたものでもある。
「なぜ俺に感謝する?」
「だって、私を助けてくれたんでしょう? もし私が何か知っているのなら、全部教えてあげたのに……」
「何を勘違いしている。ここに運んだだけだ。それにお前は捕虜だ。何者なのか分かるまで、ここに監禁する!」
エーリクは女の手と足につけた鎖を乱暴に持ち上げた。これ見よがしに、女の目の前で振って見せる。
「それでも、あなたが私を救ってくれたことに変わりはない」
「言っておくが、ここは地下だ。俺以外には誰もこないし、叫んでも誰も助けに来ない。分かったか!」
女が素直に頷く。その顔には何の恐れも感じられない。それがエーリクをさらに戸惑わせる。
「また後で話を聞く。とりあえずはこれを食べろ」
パンとチーズがのった盆をベッドの横に置くと、エーリクは重い扉を開けて外に出た。鍵をかける手が、戦いの時よりも汗に濡れているのに気付く。
「たかが偽物だぞ……」
吐き捨てるようにつぶやくと、エーリクはマーヤの元に向かうべく貴賓室を出たが、その足取りはどこか虚ろだった。
* * *
フローラは紺色の侍従服に身を包んだ侍女たちによって、車椅子のまま浴室へ運ばれていた。ローレンツ邸の浴室は国学の大浴場と同じぐらいの広さがあり、真っ白な蒸気がフローラを包み込む。
「失礼いたします」
一番年かさの侍女が、フローラに声を掛けてきた。この屋敷で侍女たちの手で入浴させられるのは、これが初めてのことではない。屋敷に来るたびに、まるで儀式みたいに毎回行われる。だが今夜は何かが違った。
服を脱がす侍女たちの手が震えている。その顔はいつもと同じで無表情だが、瞳に娼婦を眺めるような嘲りの色がない。緊張のためか、ボタンを外そうとした爪が肌に食い込んだ。
「申し訳ありません!」
そばかすの目立つ若い侍女が慌てた顔をする。
「大丈夫です」
そう答えながら、フローラは彼女たちが何を恐れているのかを理解した。決して自分が変わった訳ではない。この館の中庭にいる巨大な竜、「ファーニヴァル」を恐れている。
「湯舟までお連れ致します」
全ての服が脱がされた時だ。
「あっ!」
先ほどの若い侍女が声を上げた。そのままフローラの背中をじっと見つめている。フローラは浴室の鏡に目を向けた。それが映すのは、とても魅力があるとは思えない細い体だ。しかしそれだけではなかった。背中に黒いあざのようなものが浮かんでいる。まるで黒い羽根が背中に生えてきたように見えた。
「すぐにお医者様を――」
「呼ばないで!」
年かさの侍女の言葉をフローラは遮った。
「痛くもないし、そのうち消えます」
「ですが――」
言い淀んだ侍女を、フローラは睨みつけた。
「大丈夫と言っているでしょう!」
こんなことで、マクシミリアンの側を離れる訳にはいかない。
『すべてを……すべてを焼き尽くせ……』
ほの暗い何かが自分にささやく。
「このことは誰にも言わないで。漏らしたら、あなたたち全員を焼き殺す!」
フローラの脅しに、侍女たちは金縛りにあったみたいに立ちすくんだ。
「分かったの?」
「はい、フローラ様――」
震えながら答えた侍女たちを、フローラはとび色の瞳で冷ややかに眺める。侍女たちは慌ててフローラの体を湯舟へ入れた。フローラは水面に浮かぶ自分に向かって頷く。
『そうよファーニヴァル……。あの人の為に、この世界の全てを燃やしてやるの……』




