緊急事態発生:父の療養環境と現状確認
前世の私に、父との思い出はそれほど多くない。子煩悩な方ではなく、出張や単身赴任を繰り返していて家にいなかった。たまに家にいても会話は一向に噛み合わず、帰省しても基本的には母としかコミュニケーションをとらなかった。同世代の友達はみんなそんな感じだったし、特別寂しいとか仲良くしたいとか思ったことは無い。
しかし、転生してからの私はそういう訳にいかなかった。領地というものは基本領主が決定権を握っており、領地改革には父の承認が必要なことが山ほどある。
レティシアとして公爵と議論していく中で、"私"は初めて父というものに触れた。この世界の高位貴族の父が、一般的にどの程度娘に愛情を注ぐものなのかは分からないが、ヴァレンティーノ公爵は亡き妻の忘れ形見であるレティシアに惜しみない愛情を注いでいる。
前の私は、父を“理解しようとしなかった”。
今の私は、父が“理解しようとしてくれていた”ことにようやく気づいた。
その事がわかったのは、"私"がもういい年齢の大人だったからかもしれない。
慌ただしく使用人たちが行き来している玄関ホールを抜け、屋敷の奥深くにある重厚な扉をそっとノックした。返事の代わりに苦しそうな咳が聞こえてきたので、思わず部屋の主の返事を待たずにドアを開けると、心なしか顔色の悪いお父様がベッドの上に座っていた。
「お父様」
「……レティ、どうしたんだいそんな顔をして」
「ヨハンから聞きました……段々咳がひどくなっていると」
薬の独特な匂いが充満する父の寝室は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
朝食を共にしなくなったのはいつからだったっけ?元々朝食べない派だった私は転生後もおざなりにコーヒーやパンを摘むだけで早々に退席してしまっていたので気づかなかった。"本物"のレティシアであれば、もっと早く気づけたのだろうか。
「ヨハンか、あいつはおしゃべりだからなあ……執事失格だ。」
「なぜ……私に隠していたのです。今日だって朝から咳が止まらず、緊急に医者を呼ぶほどだとっ!」
使用人たちがバタバタしていたのは、今朝から医師の手配や看病などに手を取られているせいだった。なぜ私に報告しないのかと詰め寄ると、皆一様に首を振ってこう言った「お嬢様にご報告差し上げた方がいいと進言したのですが……公爵様のご指示で」と。
「なあレティ、ヨハンから何を聞いたのか分からんが、心配することはない。ヴァレンティーノ公爵家をこのままにしてこの世を去ってしまうような無責任な父じゃないこと、お前もよく分かっているだろう。」
「分かっています、分かっていますわ……」
コソコソと逃げ帰ろうとしていた医者のマティアス・クラインをヨハンととっ捕まえ、病状について詰問した。「宰相としてお忙しくされていた疲れが」とか「季節の変わり目ですし」とか言い張り、非を認めようとはしなかった。
挙句の果てに「私の腕をお疑いなら医師を変えてはいかがか!」とまで言い放ち強引に馬車で逃げ去った。
怪しいのは確かだが、証拠がない以上無理に拘束する訳にもいかない。しかし、マティアスが父の体調に悪影響を及ぼしていたはずだ。マティアスが乗った馬車の後輪が、石畳を叩いて遠ざかる音が妙に耳に残った。
「おやおや、そうやってぽろぽろ泣いていると小さい頃に戻ったようだな。」
「父様、私が……レティシアが必ずお父様を、元気にしてみせますわ……」
「最近のレティの辣腕ぶりはすさまじいからね。楽しみにしてるよ。」
少し眠る、と言いおいて父は力尽きたように眠りについた。
転生前の知識と照らし合わせると、できることはいくつかありそうだった。窓を開けて換気、度数の高そうなアルコールで簡易的に消毒、ミント系のハーブを庭から探してくるとか。でも、ここから一歩も動けない。
──暖房設備の整っていない部屋で、急に換気してもいいの?飲料のアルコールで消毒しても意味はある?ハーブに肺炎を促進してしまうものは無い?
少なくとも早く別の医者を呼んでくるべき、と思っているのに、全く足は動いてくれない。
正しく恐れたいのに、間違って動くのが怖かった。何もしない方が安全だと、頭が勝手に震えつづけていた。私のおぼろげな知識が役に立つかなんてわからない。怖い、誰か助けてほしい。
どのくらいそうしていただろうか、控えめなノックの音と共に誰かが遠慮がちに入室してきた。どうせまた何か面倒な事態が起きたに違いない。王宮案件とはそういうものだ。
「……先触れもなく訪問してすまない。たまには早とちりもしてみるものだな。」
嫌な予感がする。例えば、珍しく残タスクのない金曜日の午後、コーヒーでもいれようと席を立った瞬間に聞こえるチャットの通知音みたいな……。この声は、使用人の誰か、ではない。
「で、殿下!?なぜこんな時間にこんなところに!?」
「いや、馬車の御者が……」
「御者が勝手にこの屋敷に向かったとでも!?」
流石にそれは不自然すぎる。我が家に王太子誘拐の冤罪でも被せる気なの?
「君を送った御者が……何やら君が婚約者を探そうとしてるようだと……あと、婚活ファーストペンギン?とか言っていたと……」
「あぁ、そのお話ですか。善は急げと言いますでしょう?」
「……そうか、善は急げ……ね。君は本当に、急ぎすぎる」
殿下は一瞬だけ言葉に詰まり、ほんのわずかに視線を逸らした。
「……君をわざわざ王妃のお茶会の翌日に王城へ招待した意味がよく分かってないようだな?」
ん?それは私のプロジェクトマネジメントに興味があるって話じゃなかったっけ?
転生して思ったが、王子を筆頭に貴族の人達は正直話しにくい。表現が回りくどいし、本題が見えないことが多い。まず結論から言え!と怒られ続けてきた私には信じられないコミュニケーションだ。
「……伝わってないならもういい、それは置いといて!珍しいなレティ、そこで何をしているんだ」
「何って、見れば分かりますでしょう……」
病床の父の横に、娘が椅子に腰掛けて座っているのだ。何がおかしいと言うのだろう?無言でぎろりと王子を見ると、場に似つかわしくないロイヤルスマイルを返された。
「さっきまでの勇ましさはどうした?あんなにすごいことを次から次へと思いつく君が、お父上の病気に対して何も対応策が浮かばないわけがないだろう。」
王子はニコッと笑ったあと、なんだこの部屋は、窓開けるぞ、と言うと迷わず部屋で一番大きな窓を開けた。
「王子は、窓を開けるくらいしかできないからな」
窓から静かに夜の冷えた空気が入ってくると、心なしか父の寝息が安らかになった。
「そう……でしたわ。」
入れ替わった空気と一緒に、なんで立ち止まっていたのだろう?と思うくらいやったほうがいい看病や調べたいことが次々と湧いてきた。不思議だ、さっきまで袋小路で立ち止まっている気分だったのに、今はなんだか無駄に走り出したい気分。
「殿下。お願いがありますわ、私が例の直轄領のプロジェクトを推進したら、父を後宮医師にみせていただけます?」
「え、それはもう、母上にとっては願ったり叶ったりみたいなものだと思うが……直轄領までやらなくても……」
「いいえ!私今はなんでもできそうな気分なのです、殿下のおかげですわ。」
翌朝、なるべく早く王妃に掛け合ってくれるとのことで殿下は10分もせずに帰って行った。結局何をしにきたのかは謎のままだが、なぜか元気が出た。ヨハンが次は王子のお好きなお茶を発注しておきましょう、と言うので、2種類までならいいわよ、と言っておいた。




