99 立ち止まる勇気
新年を迎え、帝都全体が喜びに沸いていた。
内心にどのような思惑を抱えているにせよ、
貴族も帝都の民も、皆それぞれの形で新しい年の訪れを祝い合っている。
街の至る所から笑い声が響き、華やかな音楽と、
新年を祝う人々の歓声が夜空へ吸い込まれていく。
しかし、そんな浮かれた帝都の中で、
苛立ちを隠そうともせず、ひたすら酒を煽る者たちもいた。
帝都の一角に建つ、巨大な屋敷。
その大広間には、新年を祝う飾りも、楽団の奏でる音楽もない。
高い天井から吊るされた豪華な魔導灯が、
広すぎる室内を冷たく照らしているだけだった。
男は、手にしていた高級なワインを一息に飲み干した。
しかし、どれほど上等な酒を流し込んでも、
胸の内で煮えたぎる怒りは少しも静まらない。
「忌々しい!」
怒りに任せ、男は空になったワイングラスを床へ叩きつけた。
本来ならば、甲高い音を立てて砕け散るはずだった。
だが、床一面に敷かれた高級な絨毯が衝撃を吸収し、
ワイングラスは割れることなく、その上を転がっていく。
「……くそっ」
男は割れなかったグラスを忌々しげに睨みつけると、
新しいグラスへ注ぐことすらせず、ワインの瓶を直接口へ運んだ。
赤い酒が口元からこぼれ、豪華な衣服を濡らしていく。
それすら気に留めず、男は誰もいない大広間を睨み回した。
「なぜだ……」
低い声が、静まり返った室内へ響く。
「なぜ、誰も朕のところへ来ぬ!」
その声は次第に大きくなり、怒鳴り声へと変わっていった。
「超帝国の後継者にして、真の皇帝たる朕のもとへ、
新年の挨拶に来るのが当然であろう!」
男は、玉座を模して作らせた巨大な椅子の肘掛けを強く叩いた。
「このハシュバルト・ヒデオン九世のもとへ!」
広大な屋敷の大広間。
その中央に置かれた偽物の玉座へ一人で座り、
ヒデオン九世は再びワインを煽る。
本来ならば、今頃は大勢の貴族たちが列を作り、
自分の前へ平伏しているはずだった。
それなのに、屋敷を訪れる者は誰もいない。
使用人たちの姿すら、ほとんど見えなかった。
「ふん。どいつもこいつも使えぬ」
ヒデオン九世は苛立たしげに鼻を鳴らす。
転生者の女を利用し、皇太子を失脚させる。
続いて第二皇子と第二皇女が皇位を争う状況を作り出した時は、
すべてが上手くいったと思っていた。
以前から密かに抱き込んでいた貴族たちを使い、双方の対立を煽った。
その結果、
簒奪者の国であるアステリア帝国は、見事に二つへ割れていった。
第二皇子と第二皇女が争い、双方が共倒れになる。
その混乱を自らが治め、簒奪者の一族から帝位を取り戻す。
その時こそ、真の皇帝である自分が玉座へ返り咲くはずだった。
そのために、騎士団の掌握も進めていた。
さすがに騎士団長を始めとした上層部を取り込むことはできなかったが、
中堅の騎士や下級指揮官たちには、
金と地位をちらつかせ、相当数を抱き込んでいた。
だが――。
「ランデマリオン伯爵の縁者が起こした、くだらぬ一件さえなければ……」
思い出しただけで、握り締めたワインの瓶が震える。
些細な問題だと思っていた。
ところが、その一件をきっかけに、
あのじゃじゃ馬に騎士団内部の動きを嗅ぎ付けられた。
その結果、アンコルディア侯爵まで逮捕されてしまった。
「あの騎士団を掌握するために、
どれだけの時間と金をかけたと思っておる!」
ヒデオン九世は怒りに任せて瓶を傾け、喉を鳴らしながら酒を飲む。
長い年月をかけて築き上げた人脈も、
仕込んだ者たちも、すべてが泡となって消えた。
ダマムテサネ伯爵へ命じて行わせた勇者召喚も、
大した成果を残すことはできなかった。
手駒を数人、確保できただけだ。
それすらも、途中であのじゃじゃ馬に妨害された。
覇王や賢者には、大量の経験値を得られる環境まで用意してやった。
それなのに、ろくな結果を残せなかった。
「賢者など、わざわざあのお方へ引き合わせ、
魔族にまでしてやったというのに……」
その声には、怒りだけでなく、呆れさえ混じっていた。
結局、何の成果も挙げられないまま、
覇王と賢者は《太陽神》などという偽神を祀る神殿に力を奪われ、
捕らえられている。
《ネットスーパー》の力を持つ者も、第二皇子へ貸し与えてやった。
あの力があれば、物資を自在に調達し、第二皇子の軍を支えることができる。
そう考えていた。
しかし、そちらも簒奪者どもに押さえられてしまった。
「これにも、あのじゃじゃ馬が関わっておる」
ヒデオン九世の目が、憎悪に染まる。
「それにしても、第二皇子も第二皇女も、ここまで使えぬとはな」
吐き捨てるように言い、椅子へ深くもたれかかった。
「さすがは簒奪者の息子と娘どもだ」
皇族としての資質も、国を治める能力もない。
ただ自分の欲望に従い、互いに争うことしかできなかった。
それを利用できると思っていたが、利用する価値すらないほど無能だった。
「それに……我が家の秘法と呼ばれていた魔王の分体」
ヒデオン九世は、空になりかけた瓶を見つめながら呟く。
どれほど大きな混乱を起こしてくれるものかと、期待していた。
帝都を恐怖に陥れ、簒奪者たちを追い詰めてくれるはずだった。
ところが、蓋を開けてみれば、大したことはなかった。
「伝説は、所詮伝説ということか」
落胆したように首を振る。
「朕の祖先ながら、情けない」
もっとも、すべての策が潰えたわけではない。
密かに仕込んでいる貴族は、まだ残っている。
現在の帝国に不満を持つ者も、決して少なくはない。
新たな皇太子が決まり、政争に敗れた者たち。
外戚としての地位を得る機会を失った貴族たち。
騎士団内部の粛清により、地位を失った者たち。
利用できる者はいくらでもいる。
「しかし……」
ヒデオン九世は、これまでの失敗を一つずつ思い返す。
どの計画にも、あのじゃじゃ馬が関わっていた。
「忌々しい」
握り締めた手の中で、瓶が軋む。
「あれほど目を掛けてやったというのに」
わざわざ自分の妾にしてやろうと誘ってやった。
この自分に選ばれるという、
これ以上ない名誉を与えてやろうとしたのだ。
それなのに――。
「あの女……朕の屋敷を半壊させおって!」
あの日の光景を思い出すだけで、腸が煮えくり返る。
「どうしてくれようか。あのじゃじゃ馬め」
その怒りを鎮めるかのように、
ヒデオン九世は残っていたワインを一気に飲み干した。
空になった瓶を床へ放り投げ、偽物の玉座へ深く腰を沈める。
「さて……どうするか」
残った召喚勇者たちは、すべて東方にある反逆者の国へ送り込んでいる。
彼らには、浮遊大陸の制御端末を渡していた。
それを使って浮遊大陸を起動させ、こちらまで運んでくるよう命じてある。
「反抗しても無駄だ」
ヒデオン九世の口元に、歪んだ笑みが浮かぶ。
勇者たちには、隷属の首輪を取り付けてある。
さらに、浮遊大陸を完全に支配するためのマスターキーは、
こちらの手元にある。
浮遊大陸がマスターキーの効果範囲へ入った瞬間、
そのすべては自分の物となる。
そして、あの浮遊大陸には――。
「魔王の分体が封印されておる」
今度こそ、役に立ってもらわなければならない。
「今度こそ、働いてもらいますぞ。祖先様」
ヒデオン九世は楽しそうに笑った。
それから、次の策を考えるために、手元に残っている秘法を思い浮かべる。
「さて、有用な物は……」
椅子へ座ったまま、何も存在しない空間へ片手を差し入れた。
その手首から先が空間へ吸い込まれ、見えなくなる。
あのお方から授けられた《アイテムボックス》だ。
ヒデオン九世は内部を探り、指先に触れた物を掴み取った。
「ふむ。次は、これを使うか」
空間から引き抜かれた手には、細く頼りない一本の紐が握られていた。
一見したところ、何の変哲もない紐にしか見えない。
しかし、それはただの紐ではなかった。
「グレイプニル」
神獣を捕らえるために作られた、魔法の紐。
現在の魔術によって作られた品ではない。
超帝国時代の遺産。
魔法によって作り出された、再現不能のアーティファクトである。
「今度は、これで混乱を呼ぶとしよう」
ヒデオン九世は傍らに置かれたベルを鳴らす。
澄んだ音が大広間へ響くと、どこからともなく数人の男たちが現れた。
扉が開いた気配はない。
まるで最初から室内にいたかのように、
男たちは玉座の前へ並び、無言で跪いた。
全員の額には、淡く輝く紋章が刻まれている。
あのお方が、自分のもとへ遣わせてくれた手駒たちだ。
ヒデオン九世は、
その中でもリーダー格と思われる男へグレイプニルを差し出した。
男は両手で恭しく受け取る。
「年明けの混乱に乗じて、事を起こせ」
ヒデオン九世は低い声で命じる。
「社交シーズンに合わせて戻ってくる貴族たちが、帝都へ集まる前にな」
男たちは一言も発することなく、静かに頭を下げた。
そして次の瞬間には、その姿が闇へ溶けるように消えていた。
再び一人となった大広間で、ヒデオン九世は偽物の玉座へ座り直す。
新しいワインの瓶を手に取り、そのまま口へ運んだ。
これから起こるであろう混乱を思い浮かべながら。
自らの手によって、再び超帝国を復活させる未来を夢見ながら。
そして、その頂点に君臨し、真の玉座へ座る己の姿を思い描きながら――。
ヒデオン九世は笑い始めた。
「くくく……ははははは!」
その歪んだ笑い声は、誰もいない大広間へ、いつまでも響き渡っていた。
◇
少し前、新年の訪れを知らせる花火が上がった。
収穫祭の時にも負けないほどの数の花火が、帝都の夜空を鮮やかに染め上げた。
赤、青、緑、金。
次々と打ち上げられる色とりどりの花火が、夜空へ大輪の花を咲かせる。
それを合図に、ただでさえ盛り上がっていた人々の熱気は、さらに高まった。
あちらこちらで乾杯の声が上がり、酒を酌み交わしながら歌い、踊る。
もう、めちゃくちゃだ。
少し前まで興奮して大騒ぎしていたちみっこたちも、
今はマルタさんに促され、それぞれの部屋へ戻っている。
明日――いや、もう日付が変わったから今日か。
早起きをして、神殿参りへ行くらしい。
この世界にもあるんだな。
新年の神社参拝みたいな行事が。
さすがに、煩悩を払うための鐘撞きまではないと思っていたのだけれど――。
「えっ、あるんですか?」
思わず聞き返すと、隣にいたルインドさんが大きく頷いた。
「ありますとも」
《天秤の女神》様を祀る神殿で、
一回いくらという料金を取り、鐘を撞かせているらしい。
新年近くになると、商人たちがこぞって集まるそうだ。
「ルインドさんは、行かなくていいんですか?」
俺が尋ねると、ルインドさんは豪快に笑った。
「ここへ来る前に、もう行ってきましたわ」
そう答えながら、立派な太鼓腹を得意げに叩く。
なるほど。
だから少し遅れて来たのか。
「いや、もう……煩悩を鎮めるための行事のはずですよね?」
俺が呆れながら言うと、
ルインドさんは手にした杯を傾けながら、深いため息を吐いた。
「ところが、皆さん煩悩を鎮めるどころではありません」
ルインドさんは肩をすくめる。
「ご利益を授かろうとして、煩悩が積み上がる一方ですわ」
話を聞けば聞くほど、凄まじい行事だった。
鐘を撞くために、商人たちは我先にと神殿の入口へ集まる。
そして新年を迎えると同時に、
合図とともに鐘撞堂へ向かって一斉に走り出すらしい。
完全によーいドンだ。
鐘を撞くことができるのは、先着百八名。
しかも、その競争へ参加するだけでも参加料が発生する。
煩悩を払う鐘を撞くために、金を払い、他人を押し退けて走る。
何かがおかしい気がする。
そもそも《天秤の女神》様は、裁きの神様ではなかっただろうか。
ルインドさんによれば、《天秤の女神》様は裁きと情報を司る神らしい。
その御姿にも、天秤を手にした姿と、算盤を持った姿があるという。
罪人を裁く裁判官として、正しい判決を下すために情報を集める。
ところが、その情報の中には、商売に役立つ情報まで集まってくる。
そして、ご本人もお金が好き。
その結果、いつの間にか商人たちから、
商売の神としても崇められるようになったらしい。
しかも、ご本人も神殿も、それを否定しない。
知れば知るほど、俗物に思えてくる。
カチカチ。
その瞬間、どこからともなく算盤を弾く音が聞こえた気がした。
「……ごめんなさい」
俺は反射的に両手を合わせ、何もない空間へ向かって頭を下げた。
突然拝み始めた俺を、ルインドさんが不思議そうな顔で見つめている。
ここは、何が起こるか分からないんですよ、ルインドさん。
俺の表情から何かを察したのか、ルインドさんは特に追及することなく、
そのまま杯を煽った。
新年を祝っているのは、ルインドさんだけではない。
ヘイムの中では、大勢の人々が思い思いに新年を楽しんでいる。
さすがに、家族連れは少ない。
多くの者は、自宅で家族と一緒に過ごしているのだろう。
収穫祭が終わった後も領地へ戻らなかった貴族や、
帝都に住む宮廷貴族たちは、ほとんどが帝宮の晩餐会へ参加している。
おかげで、今日のヘイムは一般の人々ばかりだ。
さすがに二柱の神様も、今日は姿を見せていない。
皆がそれぞれ食事を楽しみ、酒を飲み、笑い合っている。
日中はラジオから音楽を流しているが、夕方からは楽団や芸人、
劇団の人々がやって来て、舞台の上からヘイムを盛り上げてくれていた。
今も楽団が陽気な曲を奏で、その音楽に合わせて大勢の人々が踊っている。
本当に、この帝都の人たちは踊るのが好きだ。
何か良いことがあると、すぐに陽気に踊り出す。
おっさんには無理だ。
相変わらず、少し動いただけで息が上がる。
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損。
そうは言うけれど、俺は見ているだけでいい。
人々は、このまま朝まで祝い続け、踊り続けるのだろう。
昼間のうちに、今日は覚悟するように言われていた。
新年を迎えた夜は、帝都中が朝まで騒ぐらしい。
しかし、そのまま酔っ払った状態で神殿へ参拝に行くのだろうか。
ヘイムの神殿は駄目だからな。
酔った状態で庭園を抜けるなんて、とんでもない。
本当に帰って来られなくなるぞ。
それに、酔った勢いで庭園を荒らされても困る。
俺は改めて、ヘイムの中を見渡した。
お客様に混じり、ヘイムで働く皆も、あちらこちらで楽しんでいる。
今日の料理は、ほとんどが作り置きだ。
飲み物を注ぐためにセバスさんたちが動いているものの、
それ以外の人たちは仕事を終え、この宴を楽しめばいい。
少し離れた場所では、
エルミナさんが佐々木君を連れ、誰かに紹介している。
確か、昼間に紹介されたフェルディア子爵家の人たちだ。
もしかして――。
彼氏です。
あるいは、将来の旦那さんです。
そんな紹介をしているのではないだろうか。
でも、佐々木君はまだ学生さんだよ。
本人も、いまいち状況を理解できていない顔をしている。
大丈夫だよね。
貴族の慣習とかで、
紹介された時点でもう逃げられないとか、そんなことはないよね。
俺は、そっと目を逸らした。
なぜなら、俺の視線を感じ取ったのか、
エルミナさんが一瞬、こちらを睨んできたからだ。
怖くなんかないからね。
プリンセスガードの皆さんも、婚約者や仲の良い人がいる者は、
ヘイムで同じ机に座って食事を楽しんでいた。
あるいは、実家へ戻って過ごしている。
アンナさんは、大丈夫だろうか。
「婚約破棄よ!」
そう叫びながら、勇ましく実家へ向かっていったけれど。
アンリ先生も、呆れた顔で見送っていた。
飲兵衛親方たちも、弟子や子供へ譲った工房へ戻っている。
今夜は、そちらで新年を過ごすらしい。
明日の昼には、またこちらへ戻ってくるそうだ。
転移勇者の生徒たちのうち、貴族に取り込まれていない者たちは、
ヘイムの専用フロアでカラオケパーティーを開いている。
師匠、よくカラオケなんて許したな。
貴族に取り込まれた者たちは、それぞれの貴族のもとで新年を迎えている。
恐らく、そのままその家に就職するのだろう。
では、ここに残っている生徒たちは、これからどうするつもりなのだろう。
まあ、何かを見つけるまでは、ここにいればいいさ。
その分、しっかり働いてもらうけれど。
この世界の子供たちと比べれば、甘いのかもしれない。
それでも、そんなに急いで将来を決めなくてもいいと思う。
何も分からないまま異世界へ連れてこられ、政争に巻き込まれ、
その中で自分の進む道を決められる方がすごい。
俺自身、今でも迷っている。
俺は、何がしたいのだろう。
あの日。
キッチンで、子供たちと一緒に野菜の皮を剥いていた時。
俺は、ふと思ってしまった。
ヘイムが好きだ。
こうして、
自分たちが作った料理を皆が楽しそうに食べてくれるのは、とても嬉しい。
料理を作ることも楽しい。
一つ一つの食材が、切られ、焼かれ、煮込まれ、
やがて一つの料理になっていく。
その過程を見るのが、俺は好きだった。
けれど――。
自分のせいで怪我をし、キッチンから離れていた間も、
ヘイムは何の問題もなく回っていた。
俺がいなくても、皆は料理を作り、店を開き、お客様を笑顔にしていた。
もちろん、それでいい。
俺がいなくても店が回るのは、良いことだ。
俺一人が倒れただけで、すべてが止まるような店ではいけない。
頭では、分かっている。
これはくだらないプライドだ。
子供の癇癪と変わらない。
それでも、思ってしまった。
俺の居場所は、もうないのではないかと。
勘違いなのは分かっている。
誰も、そんなことを言っていない。
皆、俺を必要としてくれている。
それなのに、心の中に、何かが生まれてしまった。
ハンスさんたちからは、早く復帰してくれと言われている。
その言葉は、本当に嬉しかった。
それなのに、素直に喜ぶことができなかった。
心の奥に生まれた何かが、俺の喜びを邪魔した。
気が付いた時には、俺は世界樹の根元に立っていた。
俺は、胸の内に生まれた、どす黒い何かを抑えることに必死だった。
これは、嫉妬なのだろうか。
自分がいなくても問題なく回っているキッチンを見て、俺は嫉妬したのか。
苦しい。
この苦しさから解放されたかった。
何も考えず、暴れてしまいたかった。
体の中を、凄まじい力が巡る。
ああ。
この力を解き放てば。
力任せに、すべてを壊してしまえば。
どれほど気持ちがいいだろう。
手にした世界樹の枝が光を放つ。
俺の感情へ呼応するように、世界樹全体が大きく揺れた。
枝葉が擦れ合い、ざわざわと不気味な音を立てる。
俺は、世界樹の枝を武器のように構えてしまっていた。
そして――。
俺は泣いた。
なんで、俺なんだろう。
何をしても上手くいかず、仕事を失い続けた、ただの無職のおっさんだった。
そんな俺が異世界へ転移した。
最初は狂喜した。
これで、俺も俺ツエーができる。
俺スゲーができる。
小説や漫画の主人公のように、圧倒的な力を手に入れ、皆から称賛される。
そう思っていた。
しかし、与えられた力を使うためには、努力が必要だった。
何度も失敗した。
怒られた。
体中を痛めながら修行を続けた。
それでも、楽しかった。
自分にもできることがある。
少しずつでも、成長している。
そう思えることが嬉しかった。
そして遂に、念願だったチートの力を手に入れた。
魔法使いとなった。
だが、力を手に入れたことで、俺は気付いてしまった。
怖い。
なんだ、この力は。
この、体の内側から湧き上がってくる全能感は。
まるで、昔、海外旅行へ行った時に、
観光地の射撃場で実弾を撃った時のようだった。
いや。
あの時よりも、遥かに怖い。
引き金をほんの少し引くだけで、物が壊れる。
人の命を奪うことができる。
あの恐怖が、分かるか。
漫画や小説の主人公よ。
どうして、そんな簡単に人を殺す覚悟ができる。
どうして、力を振るうことを恐れずにいられる。
俺には無理だ。
これは、安全な場所にいる者の甘えなのだろうか。
実際に誰かを守らなければならない時が来れば、
俺も覚悟を決められるのだろうか。
分からない。
怖い。
俺は震えながら泣き、そのまま世界樹の根元で眠ってしまっていた。
目を覚ますと、すぐ側にアンリ先生がいた。
俺と同じように世界樹へ背を預け、静かに座っている。
恥ずかしい。
いい年をしたおっさんが泣いているところを、見られてしまった。
きっと、頬に残った涙の痕も見られただろう。
俺は顔を見られないように、そっぽを向いた。
隣から、アンリ先生の小さな苦笑いが聞こえる。
けれど、アンリ先生は何も言わなかった。
俺も何も言えない。
そのまま、しばらく無言の時間が続いた。
世界樹の枝葉が、夜風に揺れている。
遠くから、ヘイムで働く人々の声が、かすかに聞こえてきた。
「辛いか」
やがて、アンリ先生が静かに語りかけてきた。
俺は答えることができなかった。
何と答えればいいのか、自分でも分からない。
アンリ先生は、こちらを見ることなく、再び口を開いた。
「そうか。辛いか」
少し間を置いて、今度は問いかける。
「その力が怖いか」
違う。
そうじゃない。
力が怖いだけではない。
自分自身が怖いのだ。
力を手にし、暴れたいと思ってしまった、自分の心が。
けれど、その言葉も口には出せなかった。
「我もな、同じじゃ」
不意に、アンリ先生の独白が始まった。
「なぜ、皇族として生まれたのか」
アンリ先生は、夜空を見上げる。
「なぜ、ハイ・エルフとして生まれたのか」
その横顔は、いつもの子供っぽい先生ではなかった。
長い年月を生きることを定められた、一人の少女の顔だった。
「何度疑問に思い、両親を、神々を罵ったことか」
俺は黙ったまま、その言葉へ耳を傾けた。
「気付いた時には、諦めたのか、受け入れたのか……こうなっておった」
アンリ先生は片手を伸ばし、夜空へ向けて開いた。
指の隙間から、星の光がこぼれている。
「知っておるか。ハイ・エルフは、とても長生きするそうじゃ」
アンリ先生は、自嘲するように笑う。
「数百年ではないぞ。千年単位……ひょっとしたら、万年を生きるそうじゃ」
その言葉を口にしたアンリ先生の顔は、とても寂しそうだった。
「我を可愛がってくれる親方たちも、アルマ様も、リオニー様も」
声が、わずかに震える。
「もちろん、ミレディも、アレクも……皆、我を置いて逝く」
俺は、何も言えなかった。
「同じ時を過ごした者は、いなくなる」
「楽しいことも、苦しいことも、共に経験した者たちは、皆いなくなる」
「最後には、我一人だけが残される」
アンリ先生は、空へ伸ばしていた手をゆっくりと下ろした。
「我は、一人ぼっちじゃ」
その小さな声が、胸へ突き刺さった。
「じゃから我は、働いた褒美として、人里離れた小さな領地を求めた」
誰にも会わず、誰とも親しくならず、
ひっそりと生きていくつもりだったという。
「親しい者がおらねば、置いて逝かれた悲しみを知らずに済むじゃろう」
アンリ先生は、俺の方を見て笑った。
その笑顔は明るく見えたが、どこか無理をしているようにも見えた。
「そう言ったら、ミレディを始め、皆に怒られたがのう」
その時のことを思い出したのか、少しだけ楽しそうに笑う。
「結局、ミレディのところ――サフィール伯爵家が、
その領地に屋敷を用意してくれることになってのう」
「末代まで付き合ってやる、と言われた」
アンリ先生は肩をすくめる。
「困ったものじゃ」
困ったと言いながら、その声には嬉しさが滲んでいた。
「そして、また考えるようになった」
アンリ先生は再び、ヘイムの方へ視線を向ける。
「我は、何のためにここにいるのか」
「何のために、この力と寿命を与えられたのか」
「じゃがのう、答えは出ん」
アンリ先生は小さく息を吐く。
「いつか、出るのかのう」
そう言いながら、遠くに見えるヘイムを眺める。
「ここへ来て、随分としがらみが増えてしもうた」
困ったような口調だった。
しかし、その顔はどこか楽しそうだった。
そうか。
アンリ先生にも、こんな悩みがある。
そして、その悩みから逃げずに立ち向かおうとしている。
それに比べれば、俺の悩みなど、そんなに重い物ではない。
とても小さく、くだらない。
ハンスさんたちへ勝手に嫉妬して。
自分の居場所がなくなったと思い込み、癇癪を起こして。
その腹いせに、力を使って暴れたいと考えて。
そんな自分に恐怖して、こうして逃げ出してきただけだ。
気が付けば、俺は口を開いていた。
胸の内に溜まっていたわだかまりを、一つずつアンリ先生へ話していく。
キッチンに自分の居場所がないと感じたこと。
ハンスさんたちへ嫉妬してしまったこと。
暴れたいと思ってしまったこと。
自分の力が怖いこと。
いつか、この力で誰かを傷付けてしまうのではないかという恐怖。
余程、溜まっていたのだろう。
気付けば、随分と長い間話していた。
「別に、よいのではないか」
話を聞き終えたアンリ先生は、俺を否定しなかった。
「ヴァルナ。そなたも、人間なのじゃな」
アンリ先生は、どこか安心したように笑う。
「いつも、のほほんとしておる」
「魔法使いにまでなったというのに、それすら平然と受け入れておる」
「いったい、どんな英雄なのかと思っておったぞ」
俺は英雄なんかじゃない。
ただのおっさんだ。
「じゃが、そんな人間らしい悩みと葛藤を抱えておると知って、安心したわ」
アンリ先生は、小さく笑った。
「そなたも魔法使いなのじゃろう」
「ならば、普通の者より遥かに長く生きることになる」
「いずれ、我と同じように表舞台から姿を消すことになるじゃろう」
その言葉に、俺はアンリ先生を見た。
「いつまでも、我らのような存在が表舞台に居続けてはならぬ」
「他の魔法使いたちも、皆、表へは出て来ぬじゃろう」
「ただ、それが早いか、遅いか。それだけじゃ」
アンリ先生は、世界樹へ背を預けたまま、足を伸ばす。
「好きにすればよいではないか」
「天下の魔法使い様じゃ。誰が文句を言える」
その口調は軽かったが、目は真剣だった。
「納得がいくまで悩めばよい」
「引き籠もるのもよし。キッチンへ戻るのもよし」
「そなたの好きにすればよい」
「力を持つ者が、
中途半端な心構えのまま事へ挑めば、周囲が迷惑するだけじゃ」
アンリ先生は、優しい顔で俺を見つめる。
「ヘイムのことは心配するな」
「料理はできぬが、経営くらいなら手伝ってやる」
そして、いたずらっぽく笑った。
「ただで居候しておるのも、気が引けるからのう」
それから俺たちは、一晩中、様々な話をした。
くだらない話。
将来の話。
お互いの不安。
ヘイムのこと。
皆のこと。
アンリ先生は、俺がどれほど弱音を吐いても笑わず、最後まで話を聞いてくれた。
それからだ。
一日中立っているのは、まだ体に辛い。
忙しいキッチンの隅に、体の大きな俺がいたら邪魔になる。
魔法の練習で忙しい。
そんな理由を付けて、俺はキッチンへ行かなくなった。
全部、苦しい言い訳だ。
まだ、心の整理が付いていない。
少しだけ、時間が欲しかった。
だから朝は、パン工房で作業をする。
その後は、リハビリと魔法の練習を兼ねて、ヘイムの中を巡る。
昼時になると、だいぶ完成してきた住宅地へ向かい、
独身者たちのために、子供たちやご婦人たちと一緒に料理を作る。
家が完成し、家族で暮らしている者たちは、
それぞれの家庭で料理を作り、食事をしている。
しかし、ヘイムや帝都へ働きに出ていない者。
建築作業をしてくれている者。
料理のできない独身者たち。
そうした者たちのためには、誰かが料理を作らなければならない。
店へ出せるような物ではない。
そう言って、俺はここでも苦しい言い訳をしている。
その後は、その時々だ。
魔法を練習したり。
庭園を歩いたり。
新しく完成した施設を確認したり。
それでも、やはり俺はヘイムに惹かれる。
時々、まだ開放されていない三階席へ上がり、
そこから客席を眺めている。
ほら。
俺がいなくても、ヘイムは平常運転だ。
皆が笑っている。
料理が運ばれている。
お客様が楽しそうに食事をしている。
俺がいなくても、何も問題はない。
それなのに。
あそこへ戻りたいと思っている自分もいる。
複雑な気分だ。
それが、ここ最近の俺の日常だった。
俺は、いつになれば前へ進めるのだろう。
新年を祝う皆の姿を横目に、俺は静かに自室へ戻った。
今日は疲れた。
もう寝よう。
◇
目が覚めたのは、昼頃だった。
窓から差し込む日差しが眩しい。
俺は何度か瞬きをし、眠たい目を擦りながらベッドから起き上がった。
昨日は随分と遅くまで起きていた。
体もまだ重い。
欠伸をしながら着替えを済ませ、昼食を食べるために社員食堂へ向かう。
食堂の扉を開けると、そこにはすでに皆が集まっていた。
入ってきた俺へ、一斉に視線が向けられる。
「……何?」
なぜか、嫌な予感がした。
俺が食堂へ入ると、皆がぞろぞろと動き始め、俺の前へ並ぶ。
いや、正確には全員ではない。
列の先頭にいるのは、ちみっこ達。
その後ろには、松平君や冨樫さんを始めとする転移勇者の生徒たち。
さらに、エマさんを始めとした家事妖精たち。
エウポリアーさん。
オルトシアーさん。
ベルーサーさん。
大勢の冥土たちまで並んでいる。
列の一番端では、天宮さんが申し訳なさそうな顔をして立っていた。
何だ。
俺、何かしたか。
今日はヘイムも休みのはずだ。
ご飯も、昨日のうちに作り置きしている。
俺が何かを忘れているのだろうか。
皆の顔を不安になりながら見回していると、
鈴木さんが元気よく一歩前へ出た。
その顔には、とても良い笑顔が浮かんでいる。
嫌な予感がする。
ものすごく嫌な予感がする。
鈴木さんは、俺の前へ片手を差し出した。
それに合わせ、並んでいた全員が一斉に手を伸ばす。
そして、食堂全体を揺らすほどの声で叫んだ。
「「「「お年玉、ちょう~だい!」」」」
師匠のニューワールド講座 94
~超帝国の遺産編~
師匠
『なんです。』
なんだか、
禿ネズミの人が、
とんでもない物ばかり持っていますけど……。
大丈夫なんですか。
しかも怖い事ばかり言っていますし。
『そうですね。』
『本当に困ったものです。』
『腐っても、
超帝国皇帝一族の血筋ですからね。』
『もっとも、
本家から見れば傍流も傍流でしょう。』
『ですが、
先祖が逃げ出す際、
色々と持ち出したようです。』
『二百年戦争末期には、
異星からの侵略者まで呼び込んでいますしね。』
『まだまだ、
何か隠し持っていても不思議ではありません。』
そんなに危険な一族なんですか。
『超帝国とは、
まさに無法時代の産物です。』
『転生者や転移者が好き勝手に暴れ回り、
互いのチート能力をぶつけ合い、
最後まで生き残った国です。』
『ですから、
当時の遺産は、
バランスブレイカーばかりなのですよ。』
『今回登場した、
浮遊大陸のマスターキー。』
『そして、
グレイプニル。』
『どちらも、
とんでもない代物です。』
『浮遊大陸のマスターキーは、
現在、
大陸連合国の首都であり、
軍の移動基地でもある浮遊大陸を、
支配できる鍵です。』
『もし、
あれが禿ネズミの手へ渡れば……。』
『もう戦争ですね。』
『大陸連合国も、
基地ごと兵器を奪われる訳ですから、
黙ってはいられません。』
でも、
今までは攻めて来ませんでしたよね。
『理由は単純です。』
『彼らは連合国家だからです。』
『どこか一国が戦果を挙げようとすれば、
別の国が面白く思わず足を引っ張る。』
『つまり、
一枚岩ではありません。』
『だからこそ、
今の均衡が保たれているのです。』
『ですが、
共通の敵が現れれば話は別。』
『一丸となって攻めて来るでしょう。』
『それは悪夢ですね。』
『そして、
もう一つがグレイプニル。』
『ファンタジー好きなら、
一度は聞いた事があるでしょう。』
『魔法の紐です。』
『さて、
あれで何をするつもりなのでしょうね。』
『……名前の時点で、
大体分かってしまいますが。』
嫌な予感しかしません。
『能力も無い者ほど、
伝説級の遺産を持ちたがるものです。』
『子供へ、
ミサイルの発射装置を渡すようなものですよ。』
『恐ろしい話です。』
『そして、
あの禿ネズミのような、
超帝国皇帝の血を引く者が、
世界中へ散らばっていると考えると……。』
『まだまだ、
平和への道は遠そうですね。』
この世界、
思った以上に爆弾だらけですね。
作者メモ
※本編のおまけ設定です。読み飛ばしても問題ありません。
※本編とは時空が違います。
※本編の都合により、設定が変わる事があります。




