98 星空の誓い
間もなく日付が変わろうとしているというのに、
帝都の灯りは消えることなく、
今なお大勢の人々が街を行き交っている。
帝宮の《赤真珠の間》にいても、テラスへ出れば、
そのにぎわいが遠くから伝わってきた。
笑い声に、楽器の音。通りを埋める人々の歓声。
今日は今年最後の日。
あとわずかで、新しい年が明ける。
今年は、本当に色々なことがあった。
おかげで、帝国の勢力図も大きく変わった。
私も本来なら、すでに隠居した身だ。
こうして帝宮で催される銀星祭に参加するのは、いったい何年ぶりだろう。
宰相夫人――アルマデッタ・ヴァル・セイレス・ミョルニルとして
社交界に姿を現すのも、随分と久しぶりだわ。
「ああ、リオニーが羨ましい」
人気のないテラスで、思わず本音が口からこぼれる。
リオニーは今頃、ヘイムで銀星祭を楽しんでいるのだろう。
私だって、堅苦しい宰相夫人ではなく、
ただのアルマ・フォン・トールとして過ごしていた方がずっと楽だ。
確かに、帝宮も以前と比べればだいぶましになった。
けれど、ここは今も伏魔殿。
ほんの少しの油断もできない。
建国当時は、ここまで酷くなかったでしょうに。
二百年戦争の終結を求め、その後の混乱を治め、
長く続いた戦乱を終わらせて平和を目指す。
その目的のため、誰もが一致団結していた。
それが今では、顔を合わせれば腹の探り合いばかり。
皇帝陛下が絶対帝政を目指すのも理解できる。
外から見れば強固にまとまった大帝国も、
内側から眺めれば、あちらこちらが綻びだらけだ。
もっとも、第二皇子と第二皇女も表舞台から姿を消した。
皇太子にはアレク殿下が立てられ、正式な後継者に決まった。
これで、皇位を争う大義名分も消えた。
まともな貴族なら、ひとまず大人しくなり、
次代に向けた争いへと移るだろう。
まず始まるのは、側近候補を巡る争いかしら。
これまで後継者争いから除外され、
先帝のもとで育てられてきたアレク殿下には、
側近どころか婚約者すらいなかった。
しかし今では、西園寺公爵令嬢の春香様と、
カスパール侯爵令嬢のリスティーナ様が、
それぞれ第一妃、第二妃に決まっている。
内定が発表された時点では、
誰もアレク殿下を次期皇帝候補として相手にしていなかった。
だからこそ、貴族たちには争う暇すらなかったのだ。
自分の子供を次期皇帝の配偶者に据え、
外戚として権威を握ろうとしていた貴族たちにとっては、
まさしく寝耳に水だっただろう。
アレク殿下の次の皇帝は、
西園寺公爵家か、カスパール侯爵家との間に生まれた子供になる。
さらに両家の後継者にも皇室の血が入り、皇位継承権を持つ貴族となる。
その子供たちの配偶者についても、
今度はブルボン公爵家と我がミョルニル公爵家から迎えるところまで、
すでに話が進んでいる。
どうしようもない。
それぞれの婚約者候補が、よほどの何かをしでかさない限り、
他の家が外戚となる機会は当分潰れたわけだ。
それこそ、第一皇子が起こしたような騒動でもない限り――。
「あら?」
そこで、ふと春香様の言葉を思い出す。
自分は、乙女ゲームの続編に登場する悪役令嬢役なのではないか。
確か、そんなことを言っていた。
松平君から聞いた話に当てはめてみると――。
姉に劣等感を抱く皇子様。
悪役令嬢の家にいる、これまた姉に劣等感を抱く弟。
そこへ、今度は側近候補として帝国学園へ通うことになった、
リオニーの家の筆頭魔術師の息子。
さらに、私の孫――宰相の孫までいる。
「あらまあ……」
思わず頬に手を当てた。
お約束の顔ぶれが、見事なほどに集まっているではないか。
これで後は、騎士団長の息子と、在学中の教え子に手を出す変態教師。
その二人まで現れたら、もう間違いないわね。
騎士団総長の家には、年齢の合う子供はいない。
となれば、八つある騎士団のうち、どこかの騎士団長の息子が来るのかしら。
隠しキャラとやらで、外国の王族が登場する話もあったわね。
そこまで考え、口元から笑みが消えた。
これは、笑い事ではない。
あまりにも条件が揃いすぎている。
第一皇子の一件もある。
今から手を打っておかなければならない。
もしアレク殿下まで婚約破棄騒動など起こしたら、
今度こそ帝国は終わりよ。
後で夫と、皇帝陛下、それにマリーとも相談しなくては。
「やれやれ……」
帝国の新体制を内外へ示すためとはいえ、
久しぶりに社交界へ呼び戻されて、さっそくこれとは。
マリーも大変ね。
帝都に残っていた貴族たちとの腹の探り合いに疲れ、
休憩のために出てきたテラスから、私は東の空を眺める。
遥か彼方にある、私の故郷。
ミョルニル公爵領。
かつて、ミョルニル王国と呼ばれていた地。
ミョルニル王国は、当時のアステリア辺境伯と同盟を結び、
二百年戦争の終結に向けて動き始めた。
私がミョルニル王国の姫として戦場に立ったのは、
もう二百年戦争が終結を迎えようとしていた頃だった。
それでも、戦場の恐ろしさは今も鮮明に覚えている。
戦争が終わった後に続いた、数々の紛争も。
今でも時折、夢に見る。
幼い頃に憧れた騎士の世界とは、あまりにも違っていた。
そこに名誉も正義もない。
あるのは、ただの殺し合いだけ。
つい先ほどまで隣で楽しそうに話していた者が、
ふと振り返れば、二度と動かぬ亡骸となっている。
個人の武など、何の意味もなかった。
私より遥かに優れた者たちが、
大量破壊兵器によって、跡形もなく消えていく。
何より恐ろしかったのは、異星から現れた侵略者たちだ。
あれは、私たちの想像を遥かに超えていた。
言葉すら通じない。
怒りも、憎しみも見せない。
まるで決められた作業を淡々と処理するかのように、
ありとあらゆる生命を滅ぼしていった。
あんなものに、勝てるはずがなかった。
奴らは休むことなく殺戮を繰り返した。
こちらが反撃できたのは、奴らが補給を行っている、ほんのわずかな時間だけ。
侵略者の補給基地へ決死の奇襲を仕掛けた、
その戦場で再会したのがリオニーだった。
学生の時から、ずっと私の相棒。
マリーと再会したのは、もう少し後だったわね。
確か、二百年戦争終結後の紛争。
戦争が終わった後も戦いをやめようとしない地域を鎮める、平定戦の最中だった。
帝国学園を卒業してから、みんな戦場を駆けまわっていて
久々の再会だった。
いずれにせよ、異星からの侵略者たちは、
《大地母神》様のご降臨によって退けられた。
神が本気で力を振るう姿を、私はあの時初めて見た。
それを見て、神々が地上へ直接介入しない理由も理解した。
あのような力で介入されれば、人類には何もできない。
圧倒的な無双劇。
そして、戦いが終わった後に行われた大地への癒やし。
まさしく、神の奇跡だった。
その後、ミョルニル王国とアステリア辺境伯領は併合され、
アステリア帝国が誕生した。
私たちミョルニル王家は公爵家となり、ここ帝都へ移り住んだ。
公爵家でありながら、
当主は代々宰相を務めることが定められ、夫で二代目となる。
もっとも、実のところは体のいい人質ね。
今は息子夫婦が領地を治めている。
収穫祭の後に領地へ戻ることを許され、来月には帝都へ戻ってくる予定だ。
けれど、それも孫が大きくなるか、夫が宰相職を引退するまでのこと。
夫が引退すれば、今度は息子が新たな宰相となり、
息子夫婦が帝都への常駐を義務付けられる。
宰相を務めるためという、もっともらしい理由を付けられて。
夫が引退したからといって、私たちも自由になれるわけではない。
許されるのは、たまの帰郷だけ。
それ以外は、帝都で暮らすことを義務付けられている。
アステリア帝国建国の最大の功労者に対する報酬が、これだ。
故郷を離れ、帝都へ移ることになったあの日。
先帝の盟友であり、ミョルニル国王だった祖父の言葉が思い出される。
どちらが皇帝になるかを決める勝負で、祖父は先帝に勝った。
しかし祖父は、皇帝の座を先帝へ譲った。
「国の頂点に立つなど、面倒なことはもうこりごりだ。
側で支えてやるから、お前がやれ」
そう言って帝位を譲った話は、今でも有名だ。
けれど、真相は違う。
故郷を離れる私に、祖父は疲れ切った顔で言った。
「いずれ分かる。なぜ私がカールに帝位を譲ったのか」
そして、その意味が、この年になってようやく分かった。
祖父はすでに鬼籍に入り、確認することはできない。
それでも、きっと間違いない。
魔王退治の際に見せた、先帝の醜悪さ。
それまで私たちが知っていた大英雄は、いったいどこへ消えてしまったのか。
あれこそが、先帝の本性だったのだろうか。
しかし、その後に行われた神々の裁きもまた、恐ろしいものだった。
今ではヘイムに二柱の神が頻繁にご降臨されている。
けれど、あの裁きに立ち会った者としては、神々を見る目も変わってしまう。
皇帝陛下の命により、偽物として捕らえられた先帝。
その裁きの場へ、当事者としてアンリちゃん、リオニー、そして私も呼ばれた。
その場に集められたのは――。
皇帝陛下。
皇后陛下。
宰相。
筆頭魔術師。
騎士団総長と、各騎士団長。
帝国の目の頭領。
海軍大提督と海軍提督。
帝国を真に動かす、中枢の者たちだった。
さらに私たち三人と、第一皇子、第二皇子、第二皇女。
そして、六大神を祀る各神殿の神殿長。
場所は、帝宮の奥の奥。
最深部に存在する、普段は誰も立ち入ることのできない部屋だった。
そこには――。
主神たる《夜を司る女神》様。
アステリア帝国の守護神である《太陽神》様。
そして、手に裁きの天秤を持った《天秤の女神》様がおられた。
先帝が連れてこられるや否や、激昂した《太陽神》様が先帝を糾弾し始めた。
もともと真っすぐで、生真面目なお方だとは聞いていた。
それゆえ、時折感情が昂りすぎて暴走してしまうとも。
まさしく、そのとおりだった。
《太陽神》様は怒り狂っていた。
その怒気だけで、離れた場所にいた私たちの身まで焼かれてしまいそうだった。
そして先帝は、本当に燃えた。
《太陽神》様の炎によって、その身に宿っていたスキルも、ジョブも、
積み重ねてきた経験も、何もかもが焼き尽くされていった。
《天秤の女神》様による力の封印、あるいは剥奪。
私たちは、その程度の処罰を想像していた。
だからこそ、裁きの神がおられるのだと思っていた。
だが、そんな生易しいものではなかった。
先帝は、二百年戦争を終わらせた功績により、
《太陽神》様から直々に神剣ソルブレイドを授けられ、帝権を認められた。
生ける伝説。
大英雄。
それほどまでに期待されていた人物だった。
そして、その期待を裏切った。
魔王が復活したあの時。
それまでのわだかまりをすべて捨てるか、せめて一時だけでも封印し、
皆で力を合わせて戦うべきだった。
先帝は、あの場で魔王とまともに戦える、唯一の力を持っていた。
そのような時のために、神剣ソルブレイドを授けられていたのだ。
ただの帝権の象徴ではない。
人類の力だけではどうにもならない脅威へ立ち向かうための神器。
それを、こともあろうに。
先帝は魔王との戦いを傍観した。
それどころか、魔王退治の功績を奪うため、
戦いに貢献した者たちを殺そうとしたのだ。
裏切られた《太陽神》様の怒りは、凄まじかった。
そして私は理解した。
《夜を司る女神》様が、なぜこの場におられるのか。
《太陽神》様を見張るためだ。
怒りに任せて先帝だけでなく、この場にいる者たち、
あるいは帝都そのものまで滅ぼしてしまうことを防ぐため。
《夜を司る女神》様は何も語らず、
ただ静かに《太陽神》様の動きを見つめていた。
《天秤の女神》様もまた、常に《太陽神》様の背後に立ち、
いつでも動ける位置を保っている。
先帝の言い訳など一切聞かず、一方的に怒りをぶつけ、罰を下す《太陽神》様。
『カール。そこにいる出来のよい孫娘に感謝するがいい』
炎の中でもがく先帝へ、《太陽神》様は冷たく告げた。
『本来であれば、貴様を二度と転生できぬよう、
魂まで燃やし尽くすところだった』
その声に、部屋全体が震えた。
『あるいは、その額に罪人の証たる紋章を、
貴様だけでなく一族全員へ刻んでやろうかと思っていた』
《太陽神》様は、アンリちゃんへ一瞬だけ目を向けた。
『だが、このような状況にも屈せず、
見事に魔王を退けた孫娘に免じ、この程度で許してやる』
その言葉が出た瞬間。
第一皇子、第二皇子、第二皇女は、揃って自分の額を押さえた。
ダークの称号を持つ者たちと同じように、
額へ罪人の証を刻まれると思ったのだろう。
三人の顔は、恐怖に引きつっていた。
《太陽神》様は燃え尽きた先帝を無造作に突き放し、
今度は第二皇子と第二皇女の前へ立った。
『さて、言い分を聞こうか』
低い声が、部屋に響き渡る。
『我らが遣わした世界樹を襲った言い訳を』
『この世界を、この大地を癒やす存在を、
私利私欲のために利用しようとした理由を』
先帝を処しただけでは、怒りが収まっていない。
第二皇子と第二皇女は完全に腰を抜かし、まともに話せる状態ではなかった。
《太陽神》様が、先帝へした時と同じように片手を上げる。
その手に、再び神炎が集まり始めた。
《太陽神》様の怒りを前に、誰も動くことができない。
いや。
一人だけ、動いた者がいた。
マリーだった。
その顔は、皇后のものではない。
我が子を守ろうとする、一人の母親の顔だった。
マリーは第二皇子、第二皇女と《太陽神》様の間へ身を滑り込ませると、
その場へ跪いて許しを請うた。
「この子たちが犯した罪は、すべて私にあります」
震える声で、それでも顔を上げて訴える。
「親として、うまく接してあげられませんでした。
そのために、この子たちは政争へ巻き込まれ、
まともな判断ができなくなってしまったのです」
背後で、第二皇子と第二皇女が震えている。
「どうか、罰するのであれば、私をお罰しください」
マリー。
本当に変わったわね。
いえ。
元に戻った、と言うべきなのかしら。
共に戦場を駆け回り、アンリちゃんが生まれ、
皆で心から喜んでいた頃のマリーに。
皇后となり、政争に明け暮れるようになる前の彼女に。
その時、マリーの胸元で輝いていた
《軍神》様のアミュレットが音を立てて砕け散った。
《太陽神》様の怒りを前に、その加護さえ耐えられなかったのだろう。
このままでは、マリーまで焼かれてしまう。
そう思った時には、私もリオニーも動いていた。
どこまで通用するかは分からない。
それでも私たちは魔力で防御膜を張り、マリーの前に並んで立った。
背後から、マリーが息を呑む気配が伝わってくる。
いいのよ。
私たちは、もう引退した身。
確かに最近は、ヘイムで随分と楽しい思いもしているけれど。
昔の三人に戻れた。
それだけで、十分なのよ。
隣に立つリオニーが、わずかに笑ったような気がした。
けれど、私たちが覚悟を決められたのは、そこまでだった。
硬質な音が、静まり返った部屋へ響く。
杖の先が、床を叩く音。
『太陽神』
静かで、威厳に満ちた声が響いた。
《夜を司る女神》様の声だ。
力を放つ直前に呼び止められた《太陽神》様は、
鋭い目で《夜を司る女神》様を睨みつける。
けれど、《夜を司る女神》様は主神として命じることはしなかった。
その表情を柔らかく緩め、まるで幼い妹へ戻ったかのような声で呼びかける。
『お姉さま……』
その一言に、《太陽神》様の瞳が揺れた。
先ほど、マリーが皇后ではなく母親として我が子を守ろうとしたように。
《夜を司る女神》様もまた、主神ではなく妹として、姉の情へ訴えたのだ。
《太陽神》様は苦々しげに顔を歪める。
怒りが収まったわけではない。
目の前の者たちを許したわけでもない。
それでも、可愛い妹の願いを退けることはできなかったのだろう。
やがて《太陽神》様は、燃え盛っていた手をゆっくりと下ろした。
その姿を、《夜を司る女神》様は安堵したような、
優しい眼差しで見つめていた。
《太陽神》様は最後に先帝をひと睨みすると、その姿を消した。
それに続き、《夜を司る女神》様も静かに姿を消される。
裁きは、これで終わったのかしら。
『は~い。終わり、終わり』
張り詰めた空気を壊すように、陽気な声が響いた。
《天秤の女神》様だ。
女神様は笑顔で肩を回し、
まるで長い仕事を終えたかのような仕草を見せる。
その場にいた誰もが、大きく息を吐いた。
先ほどまでの緊張から解放され、心の底から安堵したのだ。
力なく床へ座り込む先帝には、もはや英雄と呼ばれた頃の面影はない。
一気に何十年も老け込んだように見えた。
活力をすべて失った、ただの老人。
第二皇子と第二皇女は涙を流しながら、マリーへ縋りついている。
これで、この一件は終わった。
誰もが、そう思っていた。
けれど、本命はこれからだった。
《天秤の女神》様は陽気な笑顔を浮かべたまま、
皇帝陛下の前へ近づいていく。
『なあ、皇帝はん』
親しげな呼びかけ。
けれど、その声を聞いた瞬間、皇帝陛下の表情が強張った。
『わてらが憎いか?』
その一言に、再び場が凍りついた。
『“人の世のことは、人の手で”』
『これが口癖のくせに、こうして何度も介入するわてらが疎ましいか?』
皇帝陛下は突然の問いに戸惑いながら、それでも首を横に振った。
「い、いえ。そのようなことは……」
《天秤の女神》様は笑顔を崩さぬまま、手にした天秤を皇帝陛下の前へ掲げた。
『裁きの神の前で嘘をつくとは、ええ度胸やな』
逃げ場のない眼差しで、皇帝陛下を見つめる。
やがて皇帝陛下は観念したように目を伏せた。
「……はい」
静かな答えが落ちる。
『そうか、そうか。正直でええわ』
《天秤の女神》様は楽しそうに笑いながら、
皇帝陛下の前をゆっくり歩き始める。
『でもな、勘違いしなや』
陽気な声。
けれど、その目は笑っていなかった。
『わてらかて、好きで介入しとるんと違うわ』
『逆に聞きたいわ。いつまで介入せんとあかんねん』
その声に込められた苛立ちが、空気を震わせる。
『なあ、皇帝はん。そんなに嫌なら、手ぇ引いたろうか?』
《天秤の女神》様は皇帝陛下の目前で足を止め、顔を覗き込む。
『天界と地上をつなぐ門をすべて閉じて、
あんたらの好きにできるようにしたろうか』
慌てて各神殿の神殿長たちが声を上げた。
そのようなことは、どうかおやめくださいと。
しかし、《天秤の女神》様は片手を上げ、その訴えを制した。
『心配せんでええ』
『門を閉じたら、邪神もトリックスターも、地上へ干渉できへん』
『わてらの力を使った奇跡も、クリスタルも、百年くらいは持つやろ』
『その間に対策を打てばええんや』
そこで、女神様は口元を吊り上げた。
『まあ、状況を打開しようとして、
また転生者や転移者を呼んだら、百年も持たんやろうけどな』
誰も笑えない。
『どや、皇帝はん』
『世界でも有数の権力者として、あんたが決めてええで』
『もう、ええ加減にお互い子離れ、親離れしてもええんとちゃうん?』
『いつまで甘えてんねん』
その顔から、陽気な笑みは消えていた。
そこにいるのは、神。
人の上に立つ、絶対的な上位者だった。
誰も言葉を発しない。
ただ、皇帝陛下を見る。
突然、神から突き付けられた、この世界そのものを揺るがす問い。
『一つ、サービスや。教えたる』
《天秤の女神》様が、静かに告げた。
『創造神がなあ、考えてるで』
創造神。
六大神や、邪神、トリックスターよりもさらに上位に存在するとされる、
この世界を創り上げた存在。
神話の中でのみ語られてきた存在だ。
けれど、こうして神の口から語られる以上、実在するのだろう。
その存在が、いったい何を考えているというのか。
『次は、どんな世界にしようかとな』
その言葉に、私を含めた全員が《天秤の女神》様の顔を見た。
冗談を言っている顔ではない。
それは、この世界の終焉を意味しているのではないだろうか。
『今さら、わてらが手を引いても変わらんやろ』
『せやから、もうええやろ。門を閉じても』
《天秤の女神》様は、にこりと笑う。
『“人の世のことは、人の手で”』
『これは、わてらの本音やねん。好きにしたらええんや』
『だいたい、いつわてらが、あんたらの政治に介入したん?』
『軍神かて、邪神やトリックスターが関わらん限り、
戦へ力を貸す時は平等や』
『国の方針に口を出したか?
よほどの虐殺を行う者に、苦言を呈する程度やろ』
『帝権も王権も、あんたらが求めたから応えただけや』
『今回かて、人類が人の領域を超えた行いをした、その尻拭いや』
『それが、あんたらにとって“介入”やと言うなら、そうなんやろうな』
そう語りながら、《天秤の女神》様は私たちの前をゆっくり歩いていく。
『でも基本、全部あんたらが求めた結果やで』
そして、アンリちゃんの前で足を止めた。
『あんな、ヘイムのことやけど』
『あれは、ようやったな。うまくわてらを利用した』
一瞬、アンリちゃんの表情が強張る。
『責めてへんで。逆や。褒めてるんや』
《天秤の女神》様は、朗らかな笑みを浮かべた。
『あんな、なんでわてらがヘイムへ、あれほど介入すると思う?』
『ほぼ毎日現れて、飲み食いしとる。普通なら禁止事項や』
それは、私も聞きたい。
ヴァルナ殿が転移者だから。
魔法使いだから。
世界樹があるから。
けれど、世界樹が顕現するより前から、神々はヘイムを訪れていた。
『どれも正解や』
《天秤の女神》様が、不意にこちらを見た。
私の心を読んだのだ。
『一応、神様やからな』
女神様は悪戯っぽく笑う。
『あれはこちらの都合というか、世界のためやねん』
『世界を修復するには、世界樹が七本では足りんようになってきたんや』
『せやから、新たな世界樹と、その守護者を用意する必要があった』
誰もが息を呑む。
『心配せんでええ。今すぐどうこういう話やない。千年単位の話や』
『その準備のために適合者を探しとったら、
たまたま見つけたんがヴァルナはんや』
『なかなか、おらんのやで。適合者は』
《天秤の女神》様は、人差し指を立てた。
『知っとるか? 魔王と呼ばれる存在の半分くらいは、
魔法使いのなり損ないやねん』
突然明かされた魔王の正体に、部屋のあちこちから息を呑む音が聞こえた。
『魔法使いになろうとして、その力に溺れたり、
何かが欠けとったりして、魔王になってまう』
『魔王城は、それに反応した世界樹が姿を変えたもんや』
魔王城が、世界樹。
あまりにも途方もない話だった。
『せやから、ヴァルナはんがそうならんように、
皆で見守って、ちょっかいを出しとるんや』
《天秤の女神》様は、再びアンリちゃんへ顔を向ける。
『アンリはん。あんたは、
たまたまその場に出くわして、わてらを利用しただけや』
『ようやった。褒めたるわ』
『その機転、大事にしいや。太陽はんも認めとるから、
今回の件もこの程度で済んだんや』
女神様はアンリちゃんの前へしゃがみ込み、目線の高さを合わせた。
『せやから、ヴァルナはんを助けてやり』
そして、その表情がわずかに曇る。
『気ぃつけや。ヴァルナはんは今、心に大きな闇を抱えとるで』
闇。
いったい、何のことだろう。
私には、いつもどおりのヴァルナ殿に見えるけれど。
『本当はな、数百年かけて、
ゆっくりヴァルナはんの成長を見守るつもりやったんや』
『身も心も成長して、魔法使いになるまでをな』
《天秤の女神》様は、呆れたように肩をすくめる。
『せやのにヴァルナはん、こんな短期間で覚醒しおった』
『ぶったまげたで。しかも癇癪でや。まるで子供や、あのおっさん』
愉快そうに笑う《天秤の女神》様。
けれど、すぐにその笑みは消えた。
『危うい』
静かな声だった。
『とても危ういで』
女神様は立ち上がる。
『せやから、ヘイムにはこれからも積極的に介入する。それだけや』
そして再び、皇帝陛下へ目を向けた。
『皇帝はん。今すぐ決めんでもええ。よう考えて決めるんや』
『他国と協議してもええ。待ってるで』
『“人の世のことは、人の手で”』
『好きにしたらええねん』
『わてらは、世界を修復する。それだけや』
そう言い残し、《天秤の女神》様も姿を消された。
あの後、誰も動けなかった。
言葉を発することさえできなかった。
皇帝陛下は、いったいどのような決断を下すのだろう。
それ以来、誰もその話題を口にしようとしない。
口に出した瞬間、答えを出さなければならなくなるような気がするからだ。
それにしても、ヴァルナ殿が抱えているという闇とは、何なのだろう。
先日、リハビリを兼ねて子供たちと野菜の皮を剥いていた時、
ヴァルナ殿が突然立ち上がり、キッチンから出ていったそうだ。
その後、世界樹の根元で一人ふさぎ込み、
アンリちゃんと一晩中話し合っていた。
御使い様が温かな笑顔で二人を見守っていた姿を、私も覚えている。
その日を境に、ヴァルナ殿は変わった。
リハビリのためにキッチンを使うのは、皆の迷惑になる。
魔法使いの修行で忙しい。
そんな、もっともらしい理由を口にし、
今では建築中の現場で子供たちと料理をしている。
ヘイムのキッチンへは、めったに寄らなくなった。
そのくせ、未解放の三階席から、客席をじっと眺めていることがある。
あれと、関係があるのかしら。
けれど、そのことについて、誰も何も言わない。
御使い様も、二柱の神々も、黙ったまま見守っている。
あのヴァルナ殿が、闇へ落ちる。
そんなことは、とても考えられない。
けれど、私たちから見れば、ヴァルナ殿もまだひよっこだ。
確かに、道を踏み外してしまわないよう、見守っていなくてはいけない。
今夜は、ヘイムでも銀星祭が開かれているはずだ。
「私も参加したかったなあ……」
思わず、ため息がこぼれる。
だって、こちらよりあちらの方が、どう考えても楽しそうだもの。
その時、背後から足音が近づいてきた。
私を迎えに来た夫だった。
「何を考えているんだい?」
夫は穏やかな声で問いかけてくる。
「色々よ」
私は短く答え、帝都の街灯で少し見えにくくなった星空を見上げた。
故郷の空が懐かしい。
あの地では、ここよりも遥かに美しい星空が見える。
急速に膨れ上がった帝都とは違い、故郷は時代遅れの街だ。
それでも最近は鉄道が走り、
東方の国境へ向けて飛空艇も飛んでいるという。
今頃、どのような姿になっているのかしら。
まだ何も考えず、馬に乗って駆け回っていた草原。
夏になれば、皆で遊びに行った河。
その河にも、今では鉄道を通すための橋が架けられたと聞く。
私の知っている景色は、まだ残っているのだろうか。
それでも、守らなくてはいけない。
たとえ皇帝陛下が神々の力を拒み、
文明が後退することになったとしても。
私が生きている限り、この地に生きる者たちを。
今、遠くから聞こえてくる、新しい年を迎える人々の声を。
きっと変わってしまったであろう、故郷を。
私は星空から視線を下ろした。
帝宮からでも見ることのできる、虹色の光を放つ世界樹。
その光へ向かい、心の中で願う。
お願い。
そのためにも、どうか力を貸して。
私は隣に立つ夫の手を取り、再び《赤真珠の間》へ戻った。
扉の向こうから、年明けを告げるカウントダウンが聞こえてくる。
新しい年は、どうか落ち着いた一年になりますように。
帝国が安定し、もう争いが起こりませんように。
私の願いを感じ取ったのか、夫が静かに呟いた。
「そのために、この頭脳を、経験を、そして命を使おう」
夫は私の手を握り返し、優しく微笑む。
「君の笑顔が、曇らないように」
直後、帝都全体を揺らすような歓声が上がった。
「オー、グレージレグト・ニーアール!」
――新年、明けましておめでとう。
師匠のニューワールド講座 93
~飛空艇編~
師匠
『なんです。』
今回はコスプレしないんですね。
『そうですね。』
『今回は無しです。』
『軍帽でも被ろうかと思いましたが、
私は平和の使徒です。』
『軍人の格好はやめておきました。』
『できれば、
こういう技術は平和利用してほしいですからね。』
でも今回のお題は……。
『はい。
軍事利用されている飛空艇です。』
『まあ、
ご想像どおり、
空飛ぶ船ですね。』
『大勢の人員や大量の物資を積載でき、
滑走路も必要ありません。』
『垂直離陸・垂直着陸が可能な巨大船です。』
『軍用艦には、
当然ながら大砲も搭載されています。』
『そして、
例によって重力制御装置で飛んでいます。』
『これも超帝国時代の遺産です。』
『さらに古い飛空艇は、
別の動力で動いていたらしく、
完全なアーティファクトですね。』
『再現は不可能です。』
『噂では、
もっと前の文明の遺産とも言われています。』
『……噂ではなく、
実際そうなんですけどね。』
さらっと真実を言いましたね。
『その遺物を解析した結果、
現在の重力制御装置が生まれました。』
『今では様々な乗り物や設備に応用されています。』
『これが現地の人々だけで発明された技術なら、
素直に喜べたのですが……。』
見た目はどんな感じなんですか。
『超帝国時代の技術者、
そして開発に関わった転生者が、
「飛空艇と言えばこれだろう。」
というノリで作った結果ですね。』
『ゲームに出てくる、
最後の幻想に登場しそうな、
あの飛空艇です。』
『しっかりプロペラまで回っています。』
どう見てもあの形ですよね。
空気抵抗とか、
色々問題がありそうですが……。
『ロマンなんでしょう。』
納得していいのかな、それ。
『大陸連合国は、
浮遊大陸と共に相当数の飛空艇を保有しています。』
『飛行機と合わせ、
強力な空軍を編成しています。』
『アステリア帝国も少数ながら保有しており、
兵員や物資の輸送に利用しています。』
『どうして、
こんな素晴らしい技術を、
平和利用できないのでしょう。』
『災害救助、
国際貿易、
空の観光船……。』
『活躍できる場所はいくらでもあるでしょうに。』
『まあ、
さっきも言いましたが、
見た目はゲームに出てくる飛空艇と、
ほとんど同じです。』
『ですので、
そちらをイメージしてください。』
最後、
説明を放り投げましたね。
『投げやりではありません。』
『皆さんの想像力を信じているだけです。』
作者メモ
※本編のおまけ設定です。読み飛ばしても問題ありません。
※本編とは時空が違います。
※本編の都合により、設定が変わる事があります。




