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97 海と星の故郷

建設中のリゾートホテルが立つ高台から、私は勢いよく海へ飛び込んだ。


眼下に広がるのは、どこまでも透き通った青い海。

海面が一瞬で近づき、次の瞬間、私の身体はほとんど

水しぶきを上げることなく水中へ吸い込まれていった。


日本でOLをしていた頃なら、怖くてとてもできなかっただろう。

たとえ恐怖を感じなかったとしても、こんなに高い場所から、

これほど綺麗な姿勢で飛び込むことなど不可能だったに違いない。


飛込競技の選手も驚くほどの高さだ。


もちろん、人間の身体のままでは無理である。

高台から飛び出す直前、私は《メタモルフォーゼ》を使い、


人魚の姿へと変わっていた。


腰から下が魚の尾へ変化し、海中へ入ると同時に、尾びれが水を大きくかく。

人魚にならなければ、これほど見事な姿勢で飛び込み、

そのまま泳ぎ始めることなどできなかっただろう。


収穫祭も終わり、季節はすでに冬へ入りかかっている。


西園寺公爵領が南国に位置しているとはいえ、

さすがに普通の人間が海水浴を楽しめるほど、海水は温かくない。

それでも、私をはじめとした海人の属性を持つ者達は、

平気な顔で泳ぎを楽しみ、海中で仕事をしている。


冷たい海水が肌を撫でていくが、不快感はない。


むしろ、久しぶりに故郷の海へ帰ってきたという喜びの方が大きかった。


現在、この海岸では、おばあ様が提案し、

自ら監督している『南国ビーチリゾート作戦』が進められている。


砂浜を整備し、宿泊客を迎えるためのリゾートホテルを建設し、

海を活用した新しい観光地を作り上げようとしているのだ。


何代か前のご先祖様が残してくれた旅行雑誌をヒントにして、

異世界ファンタジーにふさわしい施設を次々と建設している。


特に、全面をガラス張りにした水中レストランは、とても綺麗だった。

厚い透明な壁の向こうを、色鮮やかな魚達が泳いでいる。

陽光が海面から降り注ぎ、白い砂地やサンゴ礁を照らしていた。

小魚の群れがキラキラと輝きながら泳いでいく姿は、

まるで宝石が海中を舞っているかのようだ。


本当に、竜宮城みたいですわ。


開業すれば、きっと大勢の客が訪れるでしょうね。

もっとも、施設ばかり作ればいいという話でもない。



最近、帝国政府に所属する“帝宮錬金術師”から、

さまざまな女性用品が大量に送られてくるようになった。

値段も安く設定されており、庶民の方でも気軽に買える。

製法も公開されていて、新しい品が届くたびに、

日本で使われていた物へ近づいている。

いずれは、日本にあった物を越えてしまいそうな勢いだ。


帝都の屋敷へ初めて品物が届いた時は、大騒ぎになった。

誰も使い方が分からず、


「これは何に使う物なのだ?」

「薬ではないのか?」

「いや、衣服に付ける物では?」


などと、皆がああでもない、こうでもないと揉めていた。

私が用途を説明すると、男性陣は一斉に顔を赤らめ、

品物を放り出すようにして逃げていった。

一方、女性陣は半信半疑ながらも、実際に使ってみると大いに喜んでいた。


今では、その女性用品は海外への輸出品としても扱われている。

それどころか、六大神のうち四柱の女神様から、


『これを全世界へ、製法と共に安価で広めなさい』


という神託まで下された。

海の向こうにある神殿にも、同じ神託が降りているらしい。

私が思っていた以上の速さで、全世界へ広まりそうだ。


最初に話を聞いた時、おばあ様は良い商売になると考えていたらしい。

しかし、これに関しては神々が許さなかった。

必要以上の利益を得るのではなく、

誰もが安価で手に入れられるようにしなければならないそうだ。


まあ、そうですわね。

これは良い物だ。

もし私が庶民として転生していたなら、

この値段で買えるのはありがたいと思っただろう。


そして、この女性用品の原型となった物が、

帝都にあるヘイムという飲食店から生まれた。


ヘイムには、日本製の化粧品をはじめ、

シャンプーやボディーソープなどのスパ用品まで存在している。


その話を聞いたおばあ様は、ぜひ仕入れて、

開発中のリゾートホテルで使いたいと考えた。

そして、あの手この手で交渉しようとしていたらしい。


しかし、ヘイムがただの飲食店から、

魔法使いの工房へとクラスチェンジしてしまった。

その結果、おばあ様は泣く泣く、直接仕入れることを諦めた。


それでも、どうにかサンプルだけでも手に入れ、

自領で似た物を開発できないかと考えているらしい。


私は、そんなおばあ様に一つ忠告した。


「下水処理をきちんとしないと、海が汚れますわよ」


そう伝えると、おばあ様は腕を組み、さらに難しい顔で唸り始めた。


そうだよね。


西園寺公爵家には、転生者だけでなく、多くの海人の血が流れている。


皆、海が好きで、大切にしている。


西園寺公爵領は、南方の大陸だけでなく、

海底に広がる海人の国々とも交易を行っている。

交易するのは、魚介類だけではない。

海底で採掘される貴重な鉱石や、地上では手に入りにくい資源も扱っている。


これは、初代様の時代から延々と築き上げてきた信頼の証だ。


その海を汚すなど、とんでもない。


だからこそ、西園寺公爵領の下水処理技術は世界一だといわれている。


生活排水は何度も何度も丁寧に処理され、

十分に浄化されてから河や海へ流される。

時には、領主自らが領民の前で処理水を飲み、

その安全性を証明するほどだ。


それほどまでに、西園寺公爵家は海を大切にしている。

そこへ、現代日本にあったようなシャンプーやボディーソープが

大量に持ち込まれれば、大変なことになる。

さらに下水処理能力を高めなければならない。

最近は自然に優しい製品もあるが、

それでも私達が満足できるほど無害とは限らない。


魔法使い様が慎重になるのも、一理あるわね。


それにしても。

あのメタボ体型の日本人転移者のおじさん店主が、

伝説の魔法使い様だなんて。

世の中、何が起こるか分からない。


転移者特権というものなのかしら。


転移する時、女神様に会ったそうだし。

私は会っていないけれど、いったいどうやって転移したのかしらね。


以前、ヘイムを訪れていた女神様――『大地母神』様へ、

そのことを尋ねたことがある。

すると、大地母神様は少し難しい顔をされた。


『創造神がねぇ』


女神様は困ったように頬へ手を当てた。


『日本のカルチャー文化を見本に、

 今回の世界を作ったから、変な繋がりができてしまったのよ』

「変な繋がり、ですの?」


私が聞き返すと、大地母神様は周囲を気にするように声を落とした。


『それを、日本とこちら側の邪神やトリックスターが悪用して……』


そこで、女神様は言葉を切った。

なんとも不審な話である。


『これは内緒ね』


大地母神様は、にっこりと笑った。


しかし、それを聞かされた私は、いったいどうすればいいのだろう。

内緒と言われても、聞いてしまった以上は忘れることもできない。


ついでに私は、海の中を泳いでも形が崩れない、

この金髪の縦ロールをどうにかしてほしいと頼んでみた。

泳いでいる最中ですら、

私の髪は見事なドリルの形を保ったまま、水中を漂っている。


どう考えても物理法則を無視している。


しかし、大地母神様は私の髪を眺め、首を横へ振った。


『うーん、無理』

「無理なんですの?」

『あなたの悪役令嬢因子は、とても高いわ』


女神様は、妙に真剣な表情で私を見つめた。


『断罪されないように精進しなさい』

「待ってくださいませ。それはどういう意味ですの?」


私が詰め寄ると、大地母神様は、さらにとんでもない言葉を続けた。


『困ったら、ここの主に頼りなさい』


そう言って、ヘイムの店主を指さしたのだ。

爆弾発言をぶっこんできた。


何?

本当に始まるの、乙女ゲーム。


『さあ? でも、ルート管理は大事よ。あと、フラグもね』


大地母神様は楽しそうに笑いながら、今度はリスティーナ様を見た。


やはりここは、リスティーナ様に悪役令嬢になってもらうしかないのでは?


しかし、リスティーナ様も、この手の話には敏感だ。

最近では松平君に『悪役令嬢講座』を開いてもらい、

断罪回避について勉強しているらしい。


となると、リスティーナ様と協力して、ヒロイン候補を探すべきかしら。

西園寺公爵家とカスパール侯爵家が協力すれば、大抵のことは調べられる。


それに、帝国政府も二度目の婚約破棄騒ぎだけは、

さすがに勘弁してほしいはずだ。

帝国政府まで巻き込めば、ヒロインらしき人物も見つかるだろう。


ただ、見つけたからといって、即座に排除すればよいという話でもない。

実際に会ってみないと、どんな人間かは分からない。


ゲームの世界と勘違いして、

世界が自分を中心に回っていると思い込んでいない限り、

ピーするのは可哀想だ。


できることなら味方にしたい。


転移者であれば、帝国学園へ編入してくる可能性が高い。

そうなれば、すぐに分かるわね。


そう考えてみると、アレク殿下は乙女ゲームのメイン攻略対象として、

かなり条件がそろっている。


皇太子になった経緯。

優秀すぎる姉。

周囲から姉と比べられ続ける立場。


そのコンプレックスを解消することが攻略条件だなんて、

ベタベタではないか。


まずいわね。


これは、魅了や精神汚染系の魔術から身を守る魔道具だけでなく、

帝国学園へ録画魔道具も設置する必要がある。


さらに、私の無実を証言してくれる友人も用意しておかなければ。


ソレイアさんとリナさん、引き受けてくれないかしら。


あの二人なら賢いし、帝国政府から圧力をかけられても簡単には屈しない。

何より、後ろには魔法使い様がいる。

ひょっとして、女神様が困ったら頼れと言ったのは、

こういう意味なのかしら。


よし。

そういうことにしておこう。


それにしても、アレク殿下もねぇ。


確かにショタで、私の好みではある。

しかし、それはあくまで趣味の世界での話だ。

私、中身はこちらの世界で過ごした時間まで含めると、


もう三十歳を越えているのよ。


この世界は長命種が多く、それくらいの年齢差は誤差の範囲らしい。

でも、アレク殿下が二十歳を越える頃には、

私は中身だけなら五十歳が目の前に見えている。


微妙なのよね。


その辺りは、まだ日本人としての価値観が抜け切っていない。

他の転生者は、どう考えているのかしら。

現実世界で手を出すショタやロリコンって、犯罪じゃないかしら。


うーん。

これも、リスティーナ様に任せましょう。


どうせアレク殿下でなくても、年下の相手なら同じことだ。

かといって、年上の男性へ嫁ぐのも嫌だし。

今回の婚約には政治的な意味合いもある。

その点を考えれば、アレク殿下との婚約はちょうどいいのだろう。


子作りの義務だけ果たして、ある程度距離を取り、私は政務に励む。

そういう夫婦関係も、悪くないかもしれない。


私は故郷の海を泳ぎながら、

ヘイムで交わしたリスティーナ様との会話を思い出していた。


そうよ。


未来に何が起こるかなんて、誰にも分からない。

冗談抜きで、私は断罪されているかもしれない。

病気や事故で死んでいる可能性もある。

結婚できたとしても、アレク殿下から相手にされないかもしれない。


備えは必要だ。


しかし、今から深く考えすぎても無駄なのだ。

そう結論づけ、私は尾びれを強く動かした。

一気に泳ぐ速度を上げると、後ろにいた護衛の家臣達が慌てて追いかけてくる。


「ああ、この海を泳げるのも、あと何回でしょうね」


水中で呟いた言葉は、泡となって上へ昇っていった。

私はまだ小学部の学生だ。

しかし、帝都の収穫祭で、アレク殿下の第一妃として正式に紹介され、

社交界へもデビューした。


今年は故郷で行われる“収穫祭”と“銀星祭”に合わせ、帰郷することができた。

だが、帝都でも“銀星祭”は行われる。

これからは、アレク殿下の婚約者として、

彼のパートナーを務めなければならない。

そう何度も故郷へ戻ることはできなくなるだろう。


帝都には海がない。


西へ流れるイーデル河が近くにはある。

しかし、第一妃ともあろう者が、そこで自由に泳ぐわけにはいかない。

警備の問題もある。

船の航行を邪魔する可能性もある。


そんな我儘は許されない。


帝国学園にもプールはあるが、あれでは満足できない。

所詮は、学生の水泳訓練用に造られた長さしかないのだ。


そうね。


ヘイムの世界樹の周囲にある泉を、使わせてもらえないかしら。

初めて見た時は泉だと思ったけれど、あれはもう湖と呼んだ方が正しいわよね。

見た目と、実際の広さがまったく違う。


以前、一緒に見に行った学園長が、大興奮していたのを覚えている。

学園長は泉だけでなく、城壁の中そのものが、

外から見た時よりもはるかに広いと気づいた。


「これは大規模な空間魔術なのか! いや、魔術ではない。

 空間魔法か! この規模の事象が、常時発動しているだと!」


などと騒ぎ続けた。

あまりにも騒がしかったため、最後にはハーケン夫人に頭を押さえつけられ、

強制的に鎮められていた。


あそこなら、十分に泳ぎを堪能できそうだ。


でも、世界樹の周囲を泳がせてほしいと頼むのは、さすがに不敬かしら。


そんなことを考えながら、私は海面へ向かって急上昇した。


勢いよく水面から飛び出す。


同時に、近くを泳いでいたイルカも海面から跳ねた。

陽光を浴び、水滴がキラキラと輝く。


「ああ、最高ですわ!」


思わず声が出る。

こんな体験、日本ではできなかった。


私はイルカ達と並んで泳ぎながら、同時に彼らの健康状態を確認していく。


日本にいた頃、オーストラリアで野生のイルカと触れ合ったことがある。

その時は、いろいろと大変だった。

水族館などで飼育されているイルカとは違い、

自然に生きるイルカには、こちらから触れてはいけない。

人間の身体に付着している菌が、

イルカにとって有害になる場合があるからだ。

そして、その菌に侵されたイルカを治療するのは難しい。

触れることが許されるのは、イルカの方から接触してきた時だけだった。


それは、この世界でも同じだ。

だから私は、イルカ達が近くにいる時に《健康診断》のスキルを発動する。

視界の中に、イルカ達の健康状態が次々と表示されていく。

異常があれば、その個体へ印を付け、治療スキルを持つ者へ伝える。

そうして、皆でイルカ達を保護している。


自然界の摂理へ介入しているような気もする。


しかし、昔から海人達は、イルカだけでなく、海に住む良き友人達へ、

このように接してきた。

地上でいうところの、犬や猫のような存在なのかもしれない。

初代様も、そしてパパとママも、

こうした健康診断を通じて、今の相手と知り合ったらしい。


本当に異世界。

アニメ的な出会いだわ。


イルカ達の健康診断を続けながら、

私は開発中のリゾートビーチへ視線を向けた。


ここは元々、海流の影響で多くのゴミが漂着する場所だった。

漁場としても港としても使いにくく、長い間、放置されていたらしい。


そこへ、おばあ様が目を付けた。

パパとママへ領主の代が移り、

おじい様も一年の大半を帝都で過ごすようになった。


その結果、手が空いたおばあ様が始めた事業だった。


最初は、ただのゴミ拾いだったそうだ。

散歩の途中で目にした、ゴミだらけの砂浜。

おばあ様は、それを見過ごすことができなかった。

同じく一線を退いた者達へ声をかけ、少人数で清掃作業を始めた。


最初はほんの小さな活動だった。


しかし、気づけば参加者は増え、かつての綺麗な砂浜が姿を現していた。

そして、海から流れ着くゴミを自動的に回収する仕組みを作っている時、

おばあ様はご先祖様が残した旅行雑誌を思い出した。

そこから思いついたのが、『南国ビーチリゾート作戦』である。


今のところ、計画は順調に進んでいる。


今年の“銀星祭”には間に合わないが、来年には大勢の観光客が訪れるだろう。

西園寺公爵領では、“収穫祭”よりも“銀星祭”の方が盛大に行われる。


収穫祭ももちろんあるが、他領と比べれば普通の祭りだ。


その代わり、南国の温暖な気候の下で行われる

“銀星祭”は、とても華やかで美しい。


真冬だというのに、日中は半袖でも過ごせる。


そして夜になれば、澄み切った空いっぱいに星が浮かぶ。

人工の明かりが少ないこの土地では、

空そのものが天然のプラネタリウムになる。


日本にいた頃には、見たことのない星空だ。

本当に、夜空へ宝石箱をひっくり返したように見える。


その星空を眺めながら、年越しの夜を過ごす。


家族と共に。

あるいは、恋人と共に。


この時期は、酒場よりも神殿の方が忙しい。

西園寺公爵領では、収穫祭よりも“銀星祭”の夜に、

プロポーズや結婚式を行う者が多いのだ。


満天の星空の下で、愛を誓い合う。


とてもロマンチックな風習である。


パパとママも毎年、領主としての仕事を放り出し、

海上で抱きしめ合いながら愛を語っている。


近年では、家臣も領民も完全に諦めた。

二人を放置して、勝手に年越しと新年のパーティーを始めている。


それに倣うように、多くの夫婦や恋人達も、

海岸や船の上で愛を語り合っている。


こんな時に敵が攻めてきたら、どうするつもりなのか。


一度、聞いてみたいものだ。

まあ、攻めてくる者などいないけれど。


……いや、今年はいきなり魔王が復活したではないか。


ここでも何も起こらないとは言い切れない。

海人の国の神殿には、魔王の分体が封印されているそうだし。

かつての勇者様が残した剣によって

封印されているから大丈夫だと、皆は言っている。


しかし、万が一ということもあるでしょう。


これは、決してフラグを立てているわけではない。

領主一族としての危機管理意識の問題よ。


そうよ。

フラグではないわ。


それより、弟達は大丈夫かしら。


もし私とアレク殿下の間に子供ができなければ、

西園寺公爵領を継ぐのは弟になる。


元々は、長子である私がこの領地を継ぐ予定だった。

そのため弟達は、領主ではなく、

それを支える家臣として教育されているらしい。

自分が領主になる予定ではないから、比較的自由に育てられている。


本当に大丈夫かしら。


まさか、跡継ぎになれないのに、スペアとしても教育を受けさせられ、

中途半端な立場になったことがコンプレックスと

なっている攻略対象ではないわよね。


身内からの断罪。

あり得るわ。


今のうちから仲良くして、

シスコンにならない程度に好感度を上げておかないと。


もう、忙しいじゃない。


年が明ければ、后妃教育も始まる。

地獄だと聞いている。

予習として渡された、表へ出しても問題ないという教本を見た時は、

白目をむいて倒れそうになった。


あれで予習なの?


分厚い教本が、机の上に何冊も積み上げられていた。

皇后陛下へ助けを求めるように視線を向けると、

皇后陛下はそっと目を逸らされた。


確か皇后陛下は、侯爵家の傍流にあたる騎士の家の出だったはずだ。

戦場での活躍が皇帝陛下の目に留まり、本家の養女として迎えられ、

その後、皇后になった。


皇后陛下。

后妃教育、きちんと受けていませんね?


だって、その後も戦場を駆け回っていたはずだ。

そんな時間があるはずがない。

戦場から離れた後も、長く政争に明け暮れていた。

ようやく落ち着いたのは、今年に入って、

ヘイムへお忍びで出かけた後だと聞いている。

この話は、トール夫人やハーケン夫人から直接聞いた。


「フォローが本当に大変だった」


と、二人は遠い目をしていた。


それなのに皇后陛下は、

何もなかったような顔で、私達へ教本を渡された。


陛下の側にいたマチルダ様の目が、とても怖かった。

リスティーナ様も、隣で小さく震えていたわ。


「はぁ……」


私は海面で大きく息を吐いた。


考えまいと思っていたのに、考えることが山ほどある。

私、中身はともかく、身体はまだ小学部の子供なんですのよ。



すべてを忘れようとするように、私は再び海へ潜った。


間もなく、楽しい“銀星祭”が始まる。


しかし、その後に待っているのは、帝都での后妃教育。


ああ、嫌だ嫌だ。


ここは日本とは違う、素晴らしい世界だ。

生活水準も、一部では日本を越えている。

魔術や魔法が存在し、人魚となって海を泳ぎ、

イルカ達と共に過ごすこともできる。


それでも、貴族として生まれた以上、その義務からは逃げられない。


権利と義務。


それは、こちらの世界でも同じだ。

せちがないわね。


師匠のニューワールド講座 92

~モノレール編~


師匠

『なんです。』


……いえ、

何でもありません。


『何を言っているのですか。』

『魔改造された汽車、

魔改造された船ときたら、

今回はモノレールでしょう。』

『ほら、

見てください。』

『これは耐Gスーツですよ。』


そうだったんですね。

良かった……。

某宇宙世紀のロボット作品で、

パイロットが着ていそうな服だけが、

ふよふよ浮いていて、

頭の部分から師匠の声が聞こえてきたので、

とうとう頭がおかしくなったのかと思いました。


『失礼ですね。』


でも、

陸・海と来たら、

次は空じゃないんですか。


『何を言っているんですか。』

『北は汽車。

西は船。

南はモノレール。』

『これが主要交通網です。』

『今回はモノレールなんですよ。』


『以前、

アステリア帝国の広さ編でも紹介しましたね。』

『弾丸特急です。』

『馬車なら一か月。

鉄道なら三日。

飛空艇なら一日。』

『モノレールは、

飛空艇と同じ一日で目的地へ到着します。』


『帝都から西園寺公爵領まで、

巨大な支柱が建ち並び、

そこへ敷設されたレールへ、

モノレールが吊り下げられています。』

『大量の貨物を積み、

昼夜を問わず走り続けています。』


『空中を走りますから、

障害物はありません。』

『帝都城壁南側のステーションから、

各目的地まで、

ほぼノンストップで運行されています。』


速いですね。


『運搬量では汽車に及びません。』

『ですが、

速さと運行本数で補っています。』


『その秘密が、

前回も登場した重量制御装置です。』

『車体全体を特殊フィールドで包み、

重量を制御しながら、

積み荷を傷付けず運搬しています。』

『当然、

そんな無茶苦茶な性能ですから、

運転士や乗務員は大変です。』

『耐Gスーツを着用し、

厳しい操縦訓練を受けて初めて運転できます。』


だからその格好なんですね。


『もっとも、

特別仕様の車両も存在します。』

『こちらは、

西園寺公爵家をはじめ、

ごく一部の者しか利用できません。』

『その車両では、

耐Gスーツも不要。』

『特別な訓練も必要ありません。』

『普通の人でも、

客室で自由に過ごせます。』


『ですが、

この車両は非常に貴重です。』

『再現不可能なアーティファクトですからね。』

『もっとも、

設計図は残っています。』

『特殊な金属と技術者さえ揃えば、

修理や再現は可能でしょう。』

『ですが、

それは西園寺公爵家の秘術として、

厳重に秘匿されています。』


『帝国政府には教えてはいけませんよ。』

『絶対に、

「よこせ。」

「いや、よこさない。」

で揉めますから。』


容易に想像できます。


『ちなみに、

事故率は飛空艇より低いですよ。』

『金属の摩耗や、

運行データに少しでも異常があれば、

即座に整備へ回されます。』

『悪天候も、

重力フィールドのおかげで、

ほとんど影響を受けません。』

『ですが、

人員輸送にはあまり向いていません。』

『軍事利用も、

基本的には物資輸送だけです。』

『そのため、

帝国政府も危険度は低いと判断しています。』


『人を運ぶとなると、

他の交通機関には敵いません。』

『ですから、

帝国南部でも、

旅客輸送用として鉄道の敷設が検討されています。』


結局そこなんですね。


『やはり、

鉄道はいいですね。』




作者メモ

※本編のおまけ設定です。読み飛ばしても問題ありません。

※本編とは時空が違います。

※本編の都合により、設定が変わる事があります。


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