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96 私の若紫殿下

ああ、いつ乗っても気持ちいいですわ。


帝都の喧騒と華やかさも嫌いではありません。

けれど、

こうして我が家が所有する大型船――カスパール号三世の甲板に立ち、

風を受けながら進む時間は、また格別です。


帝都から我がカスパール侯爵領までを繋ぎ、

そのまま西の大海へと流れ込む大河、イーデル河。


その広大な水面を割りながら、

カスパール号三世はゆっくりと西へ進んでいました。

船の両脇では、白い波が規則正しく立ち、後方へ長い航跡を残しています。


甲板を吹き抜ける風に、私は大きく息を吸い込みました。

ああ、潮の香りが混じってきましたわ。

まだ海そのものは見えませんが、風の中に含まれる塩気が、

目的地が近いことを教えてくれます。


そろそろ、カスパール侯爵領ですわね。


私は甲板の手すりへ両手を置き、遠くに霞む河口の方角へ目を向けました。

帝都で行われた収穫祭は、すごかったですわ。

今年は、いつもの収穫祭とは何もかもが違いました。


何よりも大きかったのは、私の婚約が正式に決まったことです。


帝都の民が見守る中、私のデビュタントも兼ねて、その事実が公表されました。

私の婚約相手は、同じ収穫祭の場で皇太子として指名された御方。


アレキサンドリア・スリジ・ソルヴェイン・アステリア殿下。


私は、その第二妃となる予定です。

なぜ、第一妃ではないのか。

その理由は簡単です。

同じくあの場で紹介された、西園寺公爵家令嬢――西園寺春香様。

彼女が、アレク殿下の第一妃となるからですわ。


春香様ご本人は転生者で、中身は成人した女性なのだそうです。

そのため、まだ子供であるアレク殿下との婚約については、

最初こそ少々渋っておられました。

ですが――。


「ショタ萌えですわ」


ですとか、


「生足が眩しいですわ」


ですとか。

顔を真っ赤にして身悶えしながら、涎まで垂らしていたことを、

私は知っています。

傍から見れば、決して嫌がっているようには見えませんでした。


むしろ、満更でもない御様子でしたわ。


春香様ご本人がその調子であることに加え、此度の内乱騒動もありました。

そのため、これまで婚姻話に腰の重かった西園寺公爵家も、

ついに動くこととなったのです。


政治的な結婚を好まず、代々恋愛結婚を重んじてきた西園寺公爵家にしては、

非常に珍しいことだと、お父様がおっしゃっていました。


ですが、心配はいりませんわ。

どう見ても、春香様はアレク殿下に惚れておられます。

いわゆる、ほの字というものですわ。


残る問題は、家格です。

私と春香様の婚約話は、ほぼ同じ時期に進められていました。

帝国西部と南部、それぞれの筆頭貴族の令嬢が

同時にアレク殿下と婚約することには、大きな政治的意味があるそうです。

そのため、公爵家である西園寺家の令嬢、春香様が第一妃。

侯爵家であるカスパール家の令嬢、私が第二妃となりました。


次代には、北部や東部の有力貴族とも帝室の血を交え、

それぞれの家を帝室へ取り込んでいく予定なのだとか。


取りあえず現皇帝陛下は、武力による中央集権ではなく、

血縁による中央集権を選ばれたそうです。


ただし、将来どのような事態が起きるかは分からない。


決して油断しないようにと、お父様から言い聞かされました。


アレク殿下ご本人が、

今回の婚約をどのように考えておられるのかは分かりません。

皇族の務めとして受け入れているのか。

それとも、まだ幼いため、婚約の意味を理解していないのか。


私には判断がつきません。


ただ、どう見ても私達婚約者よりも、

姉君であるアンリシア第一皇女殿下の方に懐いておられます。

もしかすると、少しシスコンなのかしら。


ですが、そのお気持ちはよく分かりますわ。

アンリシア第一皇女殿下のようなお姉様。


私も欲しいですもの。


けれど、この婚約に関して、お父様から大切なお話をされました。

あれは、婚約を正式に受け入れるかどうか、

最後の確認をされた時のことです。


お父様は書斎の椅子へ深く腰掛け、

机を挟んで座る私を、厳しい表情で見つめていました。


「西園寺公爵令嬢、春香様と争うことは許さぬ」


低く、重い声でした。

別に、アレク殿下の寵愛を巡って競い合うことや、

どちらが先に御子を授かるかについては構わないともおっしゃいました。


嫌ですわ。


まだ早すぎますわよ。

私達は、まだ帝国学園の小学部に通う学生ですのよ。

そういうことは、帝国学園を卒業して、正式に結婚してからですわ。


とはいえ、春香様との関係については問題ありません。

悪役令嬢役の押し付け合いこそ、いまだに終わっておりませんが、

仲が悪いわけではありませんもの。


それに、春香様と松平様から受けた忠告に従い、

私の身辺にいる者達についても、改めて調査を行いました。

私やカスパール侯爵家の名を勝手に使い、

周囲へ圧力をかけていた者達は、それとなく遠ざけてあります。

他の者達にも、勝手な振る舞いをしないよう釘を刺しました。


今後も、そのようなことが起きないよう、定期的に調査を続けるつもりです。


……話が逸れましたわね。


お父様は、西園寺公爵令嬢と争うなとおっしゃいました。

政治的な争いを起こし、

敵へ隙を見せてはならないという意味だと思ったのです。

ですが、お父様は首を横へ振りました。


「それだけではない。西園寺公爵令嬢と協力し、アレク殿下を守るのだ」


どういうことでしょう。

アレク殿下の身辺警護には、

近衛騎士団をはじめ、多くの護衛がついています。

万が一のことがあれば、私も身を挺してお守りする覚悟ですわ。


けれど、お父様は再び静かに首を横へ振りました。

私の答えは、どうやら求めていたものとは違ったようです。


「そうではない」


お父様は肘掛けへ置いていた手を組み、

しばらく言葉を選んだ後、続けました。


「アレク殿下の心を守るのだ」


心。


私は、すぐにはその意味を理解できませんでした。


お父様のお話によれば、アレク殿下は、

本来ならば皇太子となる立場ではなかったそうです。

第一皇子殿下が次期皇帝として皇太子の地位に就き、

その皇太子を支える立場として、第二皇子殿下と第二皇女殿下がいました。

しかし、第一皇子殿下は転生者の手によって失脚しました。


これは、春香様や松平様がおっしゃっていた、

〝乙女ゲーム・悪役令嬢ざまぁ〟

というものですわね。

春香様達からは、私達の時代がその物語の続編である可能性もあるため、

十分に注意するよう、会うたびに言われています。

そんなものは嫌ですわ。

絶対に警戒しなくてはなりません。


第一皇子殿下が失脚した後、第二皇子殿下と第二皇女殿下は、

次期皇帝の座を巡って醜い争いを始めました。

その結果がどうなったのかは、皆様もご存じのとおりです。


おかげで、

内乱騒ぎに巻き込まれたこちらの身にもなっていただきたいものですわ。


そして、

その騒動の末に、アレク殿下が次期皇帝――皇太子として選ばれました。


言い方は悪いですが、消去法で選ばれたのです。


お父様は、それこそが問題なのだとおっしゃいました。

本来の皇太子であった第一皇子殿下を後ろ盾としていた者達。

第二皇子殿下や第二皇女殿下を支持していた者達。

彼らを利用して復権しようとしていた者や、成り上がろうとしていた者達は、

当てが外れ、いまだ不満を燻らせています。

まだ諦めずに動いている者もいれば、

その者達を陰で煽っている者もいるそうです。


その者達がアレク殿下を攻撃する、最も簡単な方法。


それが、陰口です。


最後まで残った者だから選ばれただけだ。

ろくに皇位継承者としての教育も受けずに育った。

晩年、狂気に陥った先帝カール様の手で育てられた。


そのような噂を、社交界だけでなく、一般の国民の間にも流すであろうと。

そして、それらの言葉は、必ずアレク殿下の耳にも届きます。


たとえアレク殿下が、どれほど立派な皇帝になろうとも。

どれほど民を思い、帝国を豊かにしようとも。


そのような陰口は、一生言われ続けるだろうと、お父様はおっしゃいました。

そして、何よりも大きな問題。


それは、アンリシア第一皇女殿下の存在です。


あの方が皇帝になっていれば。


人々は、必ずそう口にします。

アンリシア第一皇女殿下を嫌っている者ですら、

その皇帝としての器を認めています。

おそらく、誰もが心のどこかで思っているのでしょう。


アンリシア第一皇女殿下が皇帝になれば、

アステリア帝国はさらなる飛躍を遂げる。

此度のような内乱騒ぎも、二度と起こらないだろう。


人々は、そう言ってアンリシア第一皇女殿下を褒め称えます。


ですが、それはアレク殿下にとって、呪いとなる。


おそらく、アレク殿下が亡くなった後ですら、付きまとう言葉です。


それが、どれほどアレク殿下の心を傷つけるのか。


その心を守ることこそが、私と春香様に与えられた、一番大切な役目なのだと。


もしも皇太子が――未来の皇帝が、その言葉によって心を壊し、

狂ってしまえば、不幸になるのは本人だけではありません。

国内は乱れ、再び内乱騒ぎとなるでしょう。


そして今度こそ、多くの血が流れる。


アステリア帝国の混乱に乗じ、他国が介入してくる可能性もあります。

それだけは、何としても止めなくてはなりません。


誰か一人が悪いわけではない。


アンリシア第一皇女殿下が、ハイ・エルフとして生まれたこと。


アレク殿下よりも先に、アンリシア第一皇女殿下が生まれていたこと。


ただ、運が悪かったのだと。


ですが、国の頂点に立つ以上、運が悪かったでは済ませられません。

すべてを受け入れた上で、少しでも良い方向へ進まなくてはならない。


「その覚悟が、お前にはあるのか」


お父様は、まっすぐ私を見つめました。


「アレク殿下の心へ寄り添い、最後まで支え続ける覚悟が」

「その身だけではなく、その心を守り、国を守り抜く覚悟があるのか」


お父様は、私へ問いかけました。

まだ小学部の学生にすぎない私には、あまりにも酷な質問です。

けれど、それが侯爵家に生まれ、帝室へ嫁ぐということなのだと、

お父様はおっしゃいました。


私は、答えることができませんでした。


言葉を探そうとしても、何も浮かんできません。

ただ、膝の上へ置いた両手を強く握り締めることしかできませんでした。

同じ質問を、春香様も受けているそうです。


春香様は、何と答えたのでしょう。


中身が転生者で、大人の女性である春香様なら、

きちんと答えることができたのでしょうか。

黙り込んでしまった私を責めることなく、お父様は席を立ちました。

そして、私の前まで歩み寄ると、大きな手で、

私の頭を優しく撫でてくださいました。


「今すぐ答えを出さなくてもよい」

「ゆっくり考えなさい」


そう、おっしゃってくださいました。



後日、私は春香様へお聞きしました。

どのような覚悟をもって、お父上の問いへ答えたのかと。

すると春香様は、何でもないことのように肩をすくめました。


「そんな覚悟、あるわけないじゃない」

「えっ」


あまりにも堂々とした答えに、私は思わず目を見開きました。


「世の中、何があるか分からないのよ」


春香様は椅子の背もたれへ身体を預け、片手をひらひらと振ります。


「明日になったら、空からお酒やお金が降ってくるかもしれないでしょう」

「そんなことを考えるだけ無駄、無駄」


なんと無責任なことを。

第一、空からお酒やお金が降ってきたら、大変ではありませんか。

皆が混乱し、対処のしようもなくなりますわ。

私がそう指摘すると、春香様は指を鳴らしました。


「そういうことよ」

「どうしようもないの」


何が、そういうことなのでしょう。

私には、さっぱり分かりません。


「それに、リスティーナ様」


春香様は急に椅子から身を乗り出し、私の顔を覗き込みました。


「アレク殿下のこと、好きなのでしょう?」

「そ、それは……」


いきなり話を変えないでくださいませ。

そんなことは、その、あの。

決まっていますわ。


私だって、春香様には負けませんもの。


顔が熱くなるのを感じながら、私は胸を張りました。

そんな私を見て、春香様は満足そうにうなずきます。


「だったら、それでいいじゃない」

「アレク殿下の側にいて、間違ったことをしたら、きちんと注意してあげる」

「それで嫌われたり、他の女に目が向いたりしても」


春香様は一度言葉を切り、少しだけ真面目な表情になりました。


「その気持ちが本物なら、支えてあげればいいのよ」

「私も手伝ってあげますわ」

「春香様……」


思っていたよりも、ずっと立派なお答えでした。

私が感心しかけた、その時です。


「それでも駄目なら、こちらから婚約破棄ざまぁですわ!」


春香様は突然、拳を高く掲げました。


「二人続けてのざまぁ! 楽しみですわね!」


なぜ、嬉しそうなのですか。


「そうなった場合、今度こそ帝国中の貴族が反旗を翻しますわよ」


私は呆れながら注意しました。


「それこそ、アンリシア第一皇女殿下が、

 魔法使い様のお力を背景に動かれるかもしれませんわ」


だから、そのようなことにならないようにしなくてはならないのです。

春香様は掲げていた手を下ろすと、今度は小さく息を吐きました。


「アレク殿下の心なんて、本人にしか分からないのよ」

「本人ですら、自分の心が分からないこともあるのに、

 周りがどうこう言っても仕方ないですわ」

「大事なのは、簡単に見捨てないこと」


春香様は、私の額へ人差し指を軽く当てました。


「ざまぁ案件が来るまでは、側にいてあげなさい」


やはり、最後の一言で台無しですわ。


「それより、大変よ」


春香様は声を潜めると、さらに私の顔へ近づいてきました。


「私達、結婚したら最低でも二人ずつ、子供をもうけないといけないのよ」

「帝室と、私達それぞれの領地の跡取りを産まないとね」


どうして皆様、そのようなお話ばかりするのですか。

何度も言いますが、私達はまだ小学部ですのよ。


「ぐししし」


春香様は下品な笑い声を漏らしながら、

膝の上に置いていた薄い本の続きを読み始めました。


「いやぁ、分かっているわ、松平君。ショタはこうでなくては」


春香様。

涎が垂れていますわ。

それでも公爵家令嬢ですか。

未来の第一妃ですか。


私はハンカチを取り出し、春香様の口元を丁寧に拭きました。

これでは、どちらが年上なのか分かりません。


口元を拭かれていた春香様が、不意にこちらを向きました。

その目が、怪しく輝いています。


「そうだ。いい考えがあるわ」


嫌な予感がしますわ。


「光源氏計画って、知っている?」


光源氏ですか。

何ですの、それは。

私が首を傾げると、春香様は得意げに胸を張りました。


「そっか。知らないか」

「お姉さんに任せなさい」


そう言うと、春香様は私の手を掴み、半ば引きずるようにして部屋を出ました。



連れていかれた先は、ヘイムの一角に作られた、


〝ヘイム漫画研究部〟


です。


「たのもー! 松平君、いるー?」


勢いよく扉を開けた春香様の声が、部屋中へ響き渡りました。

相変わらず、すごい場所ですわね。

広い部屋の中には、いくつもの机が並べられています。

そこでは大勢の方々が、紙へ向かって一心不乱に筆を走らせていました。

誰もが春香様の大声に振り返る余裕すらないのか、手を止めようとしません。


机の上には描きかけの原稿や、絵の具、インク、

さまざまな道具が所狭しと積まれています。

室内には紙とインクの独特な香りが満ち、

何人かの方は眠気を覚ますためなのか、濃いお茶を飲んでいました。


あら。

新刊ですわね。


大口の出資者として、早速読まなくてはなりません。

私は作業机の端に置かれていた、完成したばかりらしい本を一冊手に取りました。

開いたページからは、まだ乾ききっていないインクの香りが漂ってきます。


この薄い本は、最近では貴族の女性達だけでなく、

帝都に住む一般の女性達の間にも広まりつつあります。


人気急上昇中の本ですわ。


全年齢向けのものと、大人向けのものがあるそうです。

ですが、春香様は私にはまだ早いと言い、

全年齢向けのものしか見せてくれません。

何が違うのか気になり、

以前こっそり大人向けの本を見ようとしたことがあります。

ですが、

その時は松平様が鈴木様や天宮様にぼこぼこにされてしまいました。

私が手に取った大人向けの本も、

冨樫様に取り上げられ、結局読むことができませんでした。


何が違うのでしょう。


少しだけ見えたところでは、紙の材質が良く、

中身もカラーで描かれていました。

全年齢向けのものには色がついていないのに、不公平ですわ。

そのため私は、さらに資金を出し、

全年齢向けの本もフルカラーで作るよう提案しました。


〝ヘイム漫画研究部〟の皆様は、涙を流して喜んでおられましたわ。


「うーん。それは作業量が増えて、泣いたんだと思う」


その時、春香様はそのようにおっしゃっていました。


喜びの涙ではなかったのですか。


私が新刊を読み始める一方で、

春香様は部屋の奥にいた松平様を見つけました。


「松平君」


呼ばれた松平様が、ゆっくりと顔を上げました。

顔色が悪く、目の下には濃い隈ができています。


「新作を描いてほしいの。新作」


春香様の言葉を聞いた瞬間。

松平様だけでなく、周囲で作業していた皆様まで驚いて顔を上げました。

やはり皆様、お疲れのようですわね。

どなたも目の下に隈を作り、頬が少し痩せています。

確か、収穫祭で行われる即売会へ出す新刊を、

今まさに描いている最中だったはずです。


「光源氏計画物を描いてほしいの。男女を逆転させたもので」


春香様は何でもないことのように注文を続けました。


「原典みたいに、そこまで複雑じゃなくていいわ」

「売り物でもないし、私とリスティーナ様の分だけでいいから」

「私達が帰郷するまでに、よろしく」


春香様。

それは、あまりにも無茶な注文ではありませんか。


「あっ、フルカラーじゃなくてもいいわよ。私、そこまで鬼じゃないし」


今から新作を描かせようとしている時点で、十分に鬼だと思いますわ。

どうやら先ほど話していた〝光源氏計画〟とやらを題材に、

新たな本を作らせるつもりのようです。


「無理でござるよ!」


松平様は椅子から立ち上がり、涙を浮かべながら抗議しました。


「今描いている原稿だけで精一杯でござる!」

「何を言っているの」


春香様は腰へ両手を当てました。


「伝説の勇者様が、この程度で音を上げるなんて」

「ほらほら、右手を真っ赤に燃やして描き上げるのよ」

「何か便利なスキルはないの?」

「そんなものはないでござる!」


松平様は両手で頭を抱えました。


「無理でござる! キャラクターデザインから始めて、

 構成も校正も何もできていないでござるよ!」

「仕方ないわね」


春香様は少し考え込んだ後、指を一本立てました。


「光源氏役はリスティーナ様」

「若紫役はアレク殿下でよろしく」

「もちろん、最後はハッピーエンドでね」


えっ。

私とアレク殿下が登場するのですか。

私は、読んでいた新刊から顔を上げました。


「そんなものを描いたら、不敬罪で処刑されるでござるよ!」


松平様は、今度こそ本気で泣き始めました。


私は肝心の物語の内容を知りませんので、

何がそれほど問題なのか、よく分かりません。

ですが、そこまで言われると気になってしまいます。


何ですの。

どのようなお話なのですか。

読んでみたいですわ。


周囲にいる皆様は、春香様の提案へ引いたような顔を向けています。

ですが、春香様はまったく気にしておりません。


『いいね。面白そうだよ』


その時、部屋の中へ突然、別の声が響きました。

松平様と向かい合う席で作業していた方が、顔を上げたのです。

その方は、何やら愉快そうな笑みを浮かべ、私達を眺めています。


『松平氏、ここは腕の見せ所ですぞ』

『収穫祭の新刊と合わせて、作るでござる』


あら。

こちらの方も、ござる口調なのですね。


新人さんかしら。


松平様やヴァルナ様と同じような体型をしています。

ですが、その身からは、なぜか歴戦の猛者のような気配を感じました。

それに、どこかで見たことがあるような気もします。

どこでしたでしょうか。


「そんなぁ、アカデミカー氏」


松平様は縋るような目を、その方へ向けました。


「無理でござるよ! 二作品を同時進行など、徹夜ものですぞ!」

『なぁに』


アカデミカー様は、筆を置くと余裕の笑みを浮かべました。


『収穫祭へ出す新刊は、すでに基礎ができている』

『後は同志の皆で仕上げれば、十分間に合うさ』


本当に間に合うのでしょうか。

周囲で作業している皆様が、絶望したような表情を浮かべていますわよ。


『拙者と松平氏の二人で、その源氏物語というものを――』

『アステリア帝国版の源氏物語を書いてみせようじゃないか』


アカデミカー様は胸を張り、力強く宣言しました。


『源氏物語は長いからねぇ。だが、あれはどこの世界でも人気の物語だよ』

『この世界でも、拙者達の手で書き上げ、名を残そうではないか』

『ああ、もちろん、原文・紫式部と書いておくのを忘れずにね』

『原作者への敬意を忘れてはいけない』


言っていることは立派な気もします。

ですが、ご本人の許可は必要ないのでしょうか。

異なる世界の方ですから、許可の取りようもないのでしょうけれど。


『今回は時間がないから、

 取りあえず大まかなあらすじと、登場人物の紹介だけにしよう』


アカデミカー様は、完全に春香様を援護するつもりのようです。

それにしても、アカデミカーというお名前。

どこかで聞いたことがあるような気がします。


『それに、人物のモデルについて何か言われたら、

 ここの主のせいにすればいいよ』


アカデミカー様は、さらに無責任なことを言い始めました。


確かに、ヴァルナ様のせいにしてしまえば、

帝国政府も強く文句を言うことはできないかもしれません。

ですが、勝手にヴァルナ様のお名前を使って、本当によろしいのですか。


春香様。

松平様と一緒に、私へ言いましたわよね。


悪役令嬢にならないためにも、

取り巻きが自分の名を勝手に使わないよう注意しろと。

それを自分達でして、どうするのですか。

ですが、松平様は押し切られてしまったようです。


力なく肩を落とし、椅子へ座り直しました。

最後に効いたのは、春香様の一言です。


「スポンサーの言うことが聞けないの?」


私と同じく、春香様も漫画研究部の大口出資者です。

薄い本を描くための道具も、完成した本を売るための販売経路も、

すべて春香様達が握っています。

松平様に、逆らえるはずがありません。



そうして完成した本を、私は船の上で読み終えました。


本を閉じたのと、ちょうど同じ頃。


ボオオオォォォ――。


カスパール号三世が、長い汽笛を鳴らしました。

港への到着を知らせる音が、河口と街の建物の間へ大きく響き渡ります。


なるほど。

これは、本編が楽しみになる物語ですわ。


私は読み終えた本の表紙を撫でると、

傷つかないよう丁寧に布へ包み、荷物の中へしまいました。


これを書いた紫式部という方は、すごいですわね。


そして、春香様が言っていた意味も、少しだけ分かりました。

私は手すりの向こうに広がる港町を見つめながら、不敵に笑いました。


そうですわ。

まだ時間は、たくさんあります。

アレク殿下。

見事な〝紫の上〟にしてみせますわ。


春香様も、協力を惜しまないと言ってくださいましたもの。



甲板では、家臣や船員達が接岸の準備を始めていました。

太い縄が用意され、帆が畳まれ、船は少しずつ速度を落としていきます。


カスパール号三世だけではありません。

後方を進んできた随伴船にも、帝都から運んできた数々の品物が積まれています。

それらは、まずカスパール港の市場へ並べられます。

一部の商品は、ここからさらに船を乗り換え、

そのまま西の大陸へと運ばれていくでしょう。


カスパール侯爵領で行われる収穫祭は、他の領地とは少し違います。


もちろん、カスパール侯爵領でも農作物を育てています。

ですが、それらは基本的に自領で消費するためのものです。

今年は『大地母神』様のおかげで豊作となりました。

備蓄へ回す分や、加工品を作るための作物にも、十分な余裕があるでしょう。


ですが、カスパール領の収穫祭で最も重視されるのは、

農産物だけではありません。


帝都へ集められた、帝国各地の特産品。


それらをカスパール港の収穫祭で並べ、商いを行うのです。

商品は、再び帝国各地へと運ばれる。

そして、価値のある品は西の大陸へ運ばれ、新たな商売の種となります。


それこそが、港町ならではの収穫祭ですわ。


帝都の収穫祭ほどの華やかさはありません。

ですが、賑わいでは決して負けておりません。


広い港には数え切れないほどの船が並び、埠頭には商人や荷運び人、

買い付けへ来た商会の者達がひしめいています。

店先には色とりどりの旗が掲げられ、

いたるところから値段を交渉する大声が聞こえてきました。

カスパール領の民は、皆、商魂たくましいのです。


収穫祭でさえ、彼らにとっては大切な商いの場ですわ。


船が埠頭へ接岸し、下船の準備も整ったようです。

帝都から到着した荷物をいち早く確認しようと、

すでに多くの商人達が集まってきています。


私が姿を見せても、手を振るだけ。

すぐに商品の方へ視線を戻してしまいました。

私とアレク殿下の婚約話など、今は二の次のようですわね。


ですが、それでこそカスパール侯爵領の民。


頼もしいですわ。

さあ。

収穫祭が終われば、あっという間に〝銀星祭〟です。

〝銀星祭〟の頃には、今度は西の大陸から新たな荷物が届くでしょう。

それらを持って、次は帝都で商いですわ。


アレク殿下。

どうか、お待ちになってくださいませ。


西の大陸から、アレク殿下にふさわしい品を見つけ、必ずお持ちいたしますわ。

家臣団にも、すぐ指示を出さなくてはなりません。

私のアレク殿下にふさわしい品を、必ず仕入れてくるようにと。



私は接岸した船から港へ渡された板の上へ、ゆっくりと足を進めました。

港を満たす潮風が、髪とドレスの裾を大きく揺らします。


ああ、私の若紫殿下。


年が明け、再びお会いできる日が楽しみですわ。


師匠のニューワールド講座 91

~船編~


師匠

『なんです。』

その格好、

何なんでしょうか。


船長帽子を被って、

手には、

ほうれん草水夫が持っていそうなパイプまで……。


『えっ?

分かりませんか?』

『船長帽子にパイプですよ。』

『前回が鉄道でしたから、

今回は船です。』


その発想だったんですね。


『さて、

今回も転生者や転移者によって、

見事に魔改造された船の紹介です。』

『船そのものの構造は、

昔とそれほど変わっていません。』

『ですが、

目玉はやはり魔動エンジンです。』

『蒸気機関も、

燃焼機関も通り越し、

大気中のマナや魔素を取り込み、

不足時にはクリスタルを使って動く、

強力な動力となっています。』


『残念ながら、

空を飛ぶための重量制御装置は失われています。』

『ですが、

大陸間を航海する大型船には、

簡易的な浮上装置が残されています。』

『嵐の際には、

船体を海面から少し浮かせ、

さらにシールドを展開。』

『暴風や高波を受け流しながら航海できる優れものです。』

『おかげで遭難事故は激減しました。』

『その代わり、

嵐を乗り切る航海技術は失われつつあり、

問題視されています。』


便利過ぎるのも考え物ですね。


『さらに、

重量制御装置という物があります。』

『これがまた厄介でして、

積載量を超える荷物でも運べてしまうのです。』

『重量バランスまで自動調整してくれますからね。』

『当然、

欲を出して積み過ぎる者も現れます。』

『ですが、

一度故障したら……。』

『結果は想像できますよね。』

『そんな馬鹿をするのは、

欲張りだけです。』


『一般客が乗る旅客船は、

揺れを抑えるため、

海面から少し浮いた状態で航行します。』

『ですが、

貴族や軍人が利用する船は違います。』

『訓練も兼ねていますから、

緊急時以外は、

普通に海へ浮かんで航海します。』

『いざ戦いになって、

船酔いで戦えませんでは困りますからね。』

『普段から慣れておく必要があるのですよ。』


なるほど。


『ちなみに、

大陸連合国には、

いまだ空挺部隊が存在します。』

『非常に危険ですよ。』

『上空から一方的に砲撃してきますからね。』

『こちらは魔術や大砲で迎撃するか、

風の大魔術で気流を乱し、

墜落させるしかありません。』

『もし、

搭載されている重量制御装置を解析できれば、

帝国でも空挺を造れるかもしれません。』

『ですが、

どうせ戦争にしか使われません。』

『……本当に、

人間とは愚かなものです。』


じゃあ、

その技術があれば宇宙にも?


『理論上は可能でしょう。』

『ですが、

宇宙へ耐えられる船体を造る金属も、

酸素を生み出す装置も、

その技術は既に失われています。』

『ですから、

今は無理ですね。』

『今度こそ、

この世界の誰かが、

地道に発明する日を待ちなさい。』


珍しく真面目な締めですね。


『たまには良いでしょう。』




作者メモ

※本編のおまけ設定です。読み飛ばしても問題ありません。

※本編とは時空が違います。

※本編の都合により、設定が変わる事があります。


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