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93 ここから、やり直しだ

むうう……辛い。


俺は今、リハビリをしている。

身体のあちこちに重りをつけ、ひたすら歩いているのだ。


場所は、クリスタルの山が消えてできた広大な空き地。

その外周を囲む障壁の内側を、延々と歩かされている。


一歩足を前に出すたび、足首や膝に取りつけられた重りが、

ずしりと身体を下へ引っ張る。


身体が重い。

足が痛い。

息が苦しい。


なぜ、いきなりこんなことになったのか。

話は、収穫祭の最終日に俺が厨二病デビューを果たした時まで遡る。


それまでの俺は、服を着替えるだけでも全身の痛みに耐えながら、

誰かに手伝ってもらわなければならなかった。

それなのに、あの時の俺は宙に浮かび、杖を構え、店内を自由に動き回っていた。

そのことに気づいたのは、飲兵衛親方達に正座させられ、散々怒られた後だった。


親方達は、俺が看板に勝手に文字を加えたことを怒っていた。

いや、正確には、

文字を加えた行為そのものが気に入らなかったわけではないらしい。

俺のセンスのなさが、職人としてのプライドに触れたのだそうだ。


「元から彫られている文字と、お前の刻んだ文字で字体が違う!」

「色が合っていない!」

「刻む位置も角度も悪い!」

「全体のバランスがなっていない!」


と、もうネチネチ、ネチネチと言われ続けた。

俺としては、十分格好よくできたと思っていた。

だが、それを口にすれば、さらに怒られそうだったので黙っておいた。

だって、飲兵衛親方達の顔、めちゃくちゃ怖かったんだもん。


あの時、店の奥へ逃げ込んだ時も。

親方達に怒られ、ようやく解放された後も。

俺は普通に歩いていた。

その事実に気づいた瞬間だった。

ふっと身体から力が抜け、俺はその場に座り込んだ。


「いっ……痛ぇ……」


全身が痛い。

先ほどまで自由に動いていたのが嘘のように、

指一本動かすのさえ億劫になった。


師匠によれば、俺は無意識のうちに身体へ魔力を流し、

身体強化を行っていたらしい。


何それ。


魔力による身体強化。

戦闘系の職業を持つ者にとって、定番ともいえる能力だそうだ。


魔力を身体へ流し、筋力、神経の強度、反射速度などを高める。

熟練者ともなれば、普段の数倍もの力を発揮できるという。

ただし、そこまでの力を使いこなすためには、

それに耐えられる肉体が必要となる。

つまり熟練者は、元々の身体もしっかり鍛えられており、

その上で身体強化を使用して、さらに力を増幅させている。

とんでもなく強いそうだ。


もっとも、身体強化と戦闘技術は別物らしい。

どれほど力を増しても、戦闘技術まで鍛えなければ、

ただの力自慢の肉体労働者になってしまうという。

ゲームみたいに、簡単に強くはなれないのね。

この世界。


そして、俺の場合。

女神様が俺の身体を再生した際、本来ならば長い年月をかけて

鍛え上げるはずの魔法回路が、全身へ張り巡らされた。

そこへ魔力を流すことで、身体強化と同じ効果を得られるのだそうだ。


魔法回路。


俺の身体に新しく生まれた器官。

魔法回路が身体へ馴染み、安定したからこそ、あの日は自由に動くことができた。


師匠は、そう説明してくれた。

そして、その時だった。


師匠が笑った。


俺には、それがとても嫌な笑顔に見えた。

そして、その予感は見事に当たった。

師匠は、魔法回路が俺の身体へ馴染むのを、今か今かと待っていたらしい。


ようやくリハビリを始められる、と。


身体そのものの再生は、女神様の力によってすでに完了している。

残る問題は、魔法回路の安定と、長い療養生活で落ちた筋力の回復。

魔法回路が安定した後、本格的な筋力回復のリハビリを始める予定だったという。


ちなみに、この説明を受けていた時、すぐ近くには爺さんがいた。

ハーケン夫人の父親であり、帝国学園の学園長だ。


「ほうほう。魔法回路とは、我らにある魔術回路とは異なるものなのですかな」


学園長は興味深そうに何度もうなずきながら、

俺の身体を上から下まで観察していた。


やめい。


その、今にも俺を解剖し始めそうな、知的好奇心に満ちあふれた顔は。

隣では、ハーケン夫人が額へ手を当て、深いため息をついていた。



そうして、現在のリハビリへとつながる。

最初に始めたのは、身体へ魔力を流す練習だった。


『あまり流しすぎると、また身体が爆発しますよ』


師匠にそう言われ、俺は思い切り身構えた。


また爆発するの?

嫌なんですけど。


だが、実際にやってみると、これがまた難しかった。

師匠によれば、いずれは呼吸をするのと同じように、

無意識に魔力を流せるようにならなければならないらしい。

だが、生まれてこのかた、俺は魔力というものを意識したことがない。


そもそも、魔力が何なのかすら分からない。


それを、どうやって身体へ流せというのだ。

スキルは、念じれば発動した。

生活魔術も同じだ。

なんとなく念じれば、普通に使えていた。

ところが、いざそれを意識しながら使おうとすると、頭の中が混乱する。

どうやって使っていたのか、分からなくなってしまうのだ。


そんな俺を、師匠は空き地の端へ連れていった。

そして、車椅子に座らせたまま放置した。

一応、パラソルを立てて、日陰だけは作ってくれた。

水筒も手元に置いてある。

だが。


『ほらほら。トイレに行きたくありませんか』


師匠は、楽しそうに俺の周囲を飛び回った。


『身体強化で身体を動かせないと、トイレへ行けませんよ』


なんという無情。


身体が思うように動かない俺は、トイレへ行きたくなっても、一人では動けない。

誰かに車椅子を押してもらわなければ、ヘイムに戻れないのだ。


こうなったら、以前失敗したように、魔力で車椅子を押してみようかとも考えた。

だが、あの時の速度を思い出すと怖い。

遠くに見えるヘイムの建物を眺めながら、俺は考え直した。


これは、最終手段として取っておこう。


何とか漏らす前に、身体を動かせるようになって、ヘイムへ戻らなくては。

しかし、本当に身体は治っているのだろうか。


全身がまだ痛い。

力も入らない。


俺が不満を訴えると、師匠は平然と答えた。


『それは、身体の筋力が弱っているからです』

『弱った身体へ、魔力という強い力が流れ込むことで、

 身体が耐えきれず、痛みが出ているのです』


師匠は、まるで当たり前のことを説明するように続ける。


『さあ、早く身体を鍛えないと、いつまでもその痛みはなくなりませんよ』


厳しいお言葉だった。

それから、どれほど時間が経っただろう。

何度試しても、魔力を身体へ流す感覚がつかめない。

時間だけが過ぎていく。


まずい。

喉が渇いてきた。


水分を取ること自体は問題ない。

手元に水筒が置かれている。

だが、水を飲めば、それだけ早くトイレへ行きたくなってしまう。

俺は水筒を見つめながら、必死に記憶を探った。


思い出せ。


小説やアニメの転生者達は、どうやっていた。

確か、丹田へ意識を集中するのだ。

そこにある魔力を、血液のように全身へ巡らせる。

丹田。

丹田。

確か、へその辺り。

いや、へそより少し下。

さらに身体の奥。

仙骨と呼ばれる場所の近く。

よく転生者の主人公達がやっていたはずだ。


そんなの分かるかーい!

どこやねん!


へその場所は分かる。

だが、その奥と言われても分からない。

主人公達は、なぜあんなにすぐ理解できるのだ。

これが才能の差なのか。

おっさんには、さっぱり分からんぞ。


何かヒントが欲しい。


そう思い、師匠の方を見る。

そこには、器用に空中へプールサイドチェアとパラソルを組み立て、

サングラスをかけ、トロピカルジュースを飲んでいる師匠の姿があった。


『何です。喉が渇いたのですか』


師匠はストローをくわえたまま、こちらを見た。


『水筒の水より、こちらの方がよいなら、作ってあげますよ』


にこやかな笑顔だった。

日差しはまだ強いが、もう秋だろう。

その格好は、季節外れではないのか。

そう言いたかったが、俺は黙り込んだ。


いかん。


師匠のペースに乗ってはならない。


『もう秋ですけど、熱中症には気をつけてください』


師匠はジュースを一口飲んでから付け加えた。


『病み上がりなのですから』


その病み上がりを、こんな空き地へ放置しているのは誰ですか。


師匠は駄目だ。


誰か、他に助けてくれそうな者はいないのか。

俺は辺りを見回した。

しかし、誰もいない。

その代わり、視界に大きな世界樹が入った。


そうだ。


俺は、茶毛親方が作ってくれた携帯用のホルダーへ収められている、

世界樹の枝へ手を伸ばした。

このホルダーはとても格好よく、俺のお気に入りだ。


世界樹の枝へ触れ、心の中で念じる。

魔力というものを教えてくれ。

少しだけ、手助けをしてくれ。


すると、世界樹の枝が小さく震え、淡い光を放ち始めた。

いける。

そう思った瞬間。


『駄目ですよ』


師匠の声が飛んできた。


『緊急事態でもないのに力を貸してもらっては、修行になりません』


その言葉を聞いた途端、世界樹の枝から光が消えた。

消える間際、


「ごめんね」


と聞こえたような気がした。


ぬううう。

最後の手段が。

困った。

どうすればよいのだ。

だいたい、最初からこれは難しすぎるだろう。

せめて魔力とは何なのか。

それを感じられるようになってから始めてくれ。

何の説明もなく、いきなりこんな場所へ放置するのはおかしい。

俺が恨めしそうに師匠を睨むと、師匠はいつの間にかラジカセまで用意し、

音楽を聴いていた。


おのれ。


しかし、これは本当にまずい。

トイレ、トイレと考えていたせいか、本当にトイレへ行きたくなってきた。

この痛む身体で歩けば、まさしく牛歩。


とても間に合わない。


ここは、封印していたあれを使うしかない。

速度は怖い。

ブレーキの方法も、まだ思いついていない。

それでも、やるしかない。


お漏らしだけは嫌だ。


俺は何とか車椅子の向きを変え、遠くに見えるヘイムへ正面を向けた。


方向よし。

角度よし。


俺は車椅子へ深く腰を下ろし、左右の肘置きを強く握った。

車椅子の後方へ、魔力を集める。

さらに、ブレーキとして使えるように、車椅子の前方にも魔力を張り巡らせる。


行くぞーー!


俺は、後方へ溜めた魔力を一気に解き放った。

車椅子が勢いよく動き出す。

最初はゆっくりだった。

だが、すぐに速度が上がった。


「うおおおおおっ!」


風が顔面へ叩きつけられる。

さらに加速する。

身体が背もたれへ押しつけられた。


Gが。

Gが凄い!


遠くにあったはずのヘイムが、瞬く間に近づいてくる。

車椅子から、ギシギシと嫌な音が聞こえ始めた。


いかん。

ブレーキ。

ブレーキをかけなくては。


このままでは、ヘイムの壁へ突っ込む。

俺は車椅子後方の魔力を消し、前面へ張っていた魔力を一気に解放した。


急激な減速。


俺の身体が、車椅子から前へ投げ出されそうになる。


「うおっ!」


とっさに魔力で自分の身体を押さえつけ、何とか座席へ踏みとどまった。

車椅子は、壁の少し手前で止まった。


危なかった。


何とか壁へぶつからずに済んだ。

俺は肘置きを握ったまま、荒い息を整えた。

ここまでは来られた。

だが、ここからどうする。

まだ建物の外だ。

トイレまでは遠い。

俺は大きく息を吸い込み、助けを求めて叫んだ。


「誰かー! 誰か助けてくれー!」


そんな俺を見ながら、師匠は呆れた声を出した。


『どうして、それほど器用な魔力の使い方ができるのに、

 魔力が分からないのですか』


師匠は、理解できないものを見るような目で俺を見ている。


『魔力を認識し、自分の思うように自在に扱っているではありませんか』


しかし、俺にはその言葉の意味を考える余裕などなかった。


トイレに行きたい。


この時は、

車椅子が出していた異音へ気づいたムラマサ親方が俺を見つけてくれた。

そのおかげで、何とか無事にトイレへたどり着くことができた。

本当に危なかった。

しかし、翌日。

俺は同じ空き地の同じ場所へ連れていかれ、今度はただの椅子へ座らされていた。

車椅子は、無茶な速度を出したせいで壊れかけていた。

そしてまた、飲兵衛親方達に正座させられ、散々怒られた。


解せぬ。


車輪がないのなら、椅子そのものを浮かせて移動すればよい。

そう考え、すぐに行動へ移した。

だが、椅子は途中で大きく傾き、俺は地面へ転げ落ちた。

その後、


「お昼ですよ」


と、ハルヴィンダちゃんが迎えに来てくれるまで、地面の上へ放置された。


師匠。

酷いです。


そんなことを繰り返して、数日。


俺はようやく、自分がすでに魔力を扱えていることに気づいた。

身体全体へ魔力を巡らせる感覚は、まだつかめていない。

しかし、身体の外側から魔力で自分自身をつかみ、

動かすことならできるようになった。


まるで操り人形のようだったが。



すると、次の段階として、身体のあちこちへ重りをつけたリハビリが始まった。


この重りは、騎士養成学校でも使用されている品らしい。

身体が慣れてきたら、少しずつ重さを増やしていく。

筋力増強には、もってこいなのだそうだ。


だが。

痩せていない。


普通、こういう時はどうなるものなのだろう。

大怪我から復活したり、厳しい筋力訓練を続けたりすれば、

痩せて格好よくなるのではないのか。

そして周囲から、


「キャー、ヴァルナさん素敵!」


とか言われるものではないのか。

俺の体重は、まだ三桁だ。

これだけ病人食を食べ、運動も続けているのに。


解せぬ。


しかし、城壁内の空き地は広い。

今の俺では、外周を一周するだけで半日かかる。


元気なハルヴィンダちゃんでも、それなりに時間がかかるそうだ。

ハルヴィンダちゃんは、毎朝プリセスガードの皆さんと一緒に、

運動を兼ねてこの場所を走っているらしい。

その後は模擬戦闘を行い、身体と武術を鍛えているという。


誰と戦うつもりなのか。


そう尋ねると、ハルヴィンダちゃんは真剣な顔で答えた。


「また魔王が現れても、大丈夫なようにです」


その目には、強い決意が宿っていた。


「それに、武装集団が攻めてきても、ヘイムを守れるように強くなりたいんです」


えっ。

魔王は、もう出てこないよね。

そんなことを言っていると、変なフラグが立ってしまうよ。

それに、武装集団って何だ。

盗賊団か何かだろうか。

江戸時代には、集団で押し入る強盗がいたと聞いたことがある。

この世界にも、そのような連中が出るのか。

俺が不安そうな顔をしていたのだろう。

ハルヴィンダちゃんは、俺を安心させるように胸を張った。


「大丈夫です」


そして、まっすぐ俺の目を見つめる。


「お店も、店長さんも、全部守れるようになります」


とても頼もしい言葉だった。


だが、まだ若い女性にこのようなことを言わせている俺は、

情けないのではないだろうか。


それに、プリセスガードの皆さんも凄い訓練をしている。

アンリ先生の侍女であり、護衛でもあるとは聞いていた。

だが、思っていた以上に、かなりの武闘派らしい。



俺は重い足を引きずりながら、再び歩き始めた。

城壁内の空き地、その中央には世界樹がそびえ立っている。

その根元には湖が広がり、湖の近くには神殿が建っていた。

北西には、今なお拡張を続けているヘイムと庭園。

北東には、小さな集落と畑が作られ始めている。

まだ何もない南側の土地を反時計回りに抜け、湖から流れ出た川を渡ると、

その集落へたどり着くことができる。


いつの間にか、川には立派な橋まで架けられていた。


この橋は、誰が作ったのだろう。

やはり、飲兵衛親方達だろうか。

その橋を渡った先では、グスタンさんの指示の下、

広い土地の測量が行われていた。


いくつもの杭が打ち込まれ、縄を張り、土地の区画が決められている。

その一部では、すでに土が掘り返され、畑を作る準備が始まっていた。

ここには、水田や野菜畑。

さらにブドウ畑や、紅茶の木を育てる畑を作る予定だという。


「水田や野菜畑は、まず水路を引き、畦を作る必要があります」


俺と並んで歩きながら、グスタンさんが説明してくれた。


「土地を整えるのに、半年から一年ほどはかかるでしょう」


水路を作り、田畑の形を整えてから、田植えや作付けが始まる。

順調に進めば、来年の今頃には収穫できるかもしれない。


「楽しみにしていてください」


グスタンさんは、そう言って笑った。

だが、ブドウ畑や紅茶の木については、もっと長い目で見るようにと言われた。


十年。

二十年。


場合によっては、次の世代まで待たなければならないかもしれないという。

グスタンさんが長い年月をかけて培ってきた技術と経験。

そして『大地母神』様から祝福された、この土地。

その二つの力によって、普通よりは少し早く育つかもしれない。

それでも、本当においしい実がなるまでには、時間が必要だという。


「無理に魔術で急成長させても、おいしいものにはなりません」


グスタンさんは、畑となる土地を見つめながら静かに語った。


「それに、無理をさせれば木そのものを傷めてしまいますからな」


なるほど。

それなら、酒造所を作るのはまだ先ですね。


俺がそう口にすると、グスタンさんは無言で指を差した。

視線を向ける。

そこには、すでに大きな建物の土台が作られていた。


早い。

早すぎる。


グスタンさんは、少し困ったように笑った。


「ムラマサ親方が、米は来年から収穫できるだろう、と」


グスタンさんは、ムラマサ親方の口調をまねるように続けた。


「米があるなら、ジパング酒を造れるはずじゃ。

 ワインは先の楽しみに取っておく。それに、味噌も醤油も作るからのう」


そう言って、張り切っているらしい。

そうか。

さすが、飲兵衛エイト。

酒のことになると行動が違う。


「ですが、おそらく何年かすれば、よい酒ができるでしょう」


グスタンさんは、出来上がりつつある酒造所を眺めた。


「ムラマサ親方の酒造りの腕も、知識も本物です」


そして、耕され始めた土地へ視線を移す。


「それに、この祝福された土地で育つ米」


グスタンさんは、今度は世界樹の根元に広がる湖を指差した。


「穀物を育てるための水も、酒造りに使う水も、

 あの世界樹の立つ湖から引く予定です」

「あれは、とてもよい水ですぞ」


えっ。

いいのか。


そういえば、水田も野菜畑も、たくさんの水を使う。

一体どこから水を持ってくるのかと思っていた。

特に水田は、とんでもない量の水が必要だったはずだ。

昔、稲作をするゲームを遊んだことがある。

うろ覚えだが、たくさん水を使っていた。


湖の水は、なくならないのだろうか。


俺が心配して尋ねると、グスタンさんは笑った。


「それが、こんこんと湧き続けているのですよ」

「私も、お告げがあってから心配になり、見に行きました」


お告げ?

グスタンさんは、湖から流れ出る川の方向へ顔を向けた。


「あの湖は、常に水が湧き出ています」

「そこから川へ水が流れ、城壁を囲む堀の水を満たしているのです」


だが、そこまで説明したところで、グスタンさんは首を傾げた。


「ただ、その堀の水が、最終的にどこへ流れているのかが分からないのですよ」


そして楽しそうに笑う。


「本当に、不思議な場所ですね」


それが本当なら、確かに不思議だ。

だが、待ってくれ。


今、お告げと言わなかったか。


俺が尋ねると、グスタンさんは平然とうなずいた。


「そうなのですよ」

「夢枕に『大地母神』様が現れ、湖の水を使って穀物を育てるように、と」

「御使い様にも確認しましたが、その通りだそうです」


俺は、ゆっくりと師匠を見る。

師匠は、なぜか疲れ切ったような顔でうなずいた。


あれか。

酒だろう。

酒に違いない。


最初に、プリンツ・アレクの歓迎会へ御降臨なされた時には、本当に緊張した。

その後で、御降臨なされた本当の意味を知り、俺は感動した。

それに、この命を二度も救っていただいた。


心から感謝している。


だが。

あの御方も、飲兵衛だ。

音楽を奏で、歌っているおっさん神と同じだ。


最近は絶対に、酒を目当てに来ている。

というか、ほぼ毎日来ていないか。

店内を覗けば、常連客達に混じって、普通に飲み食いをしている。

最初のうちは驚いていた常連客達も、今では同じ常連客のように接している。


いいのか。

二柱とも。

天界よ。

本当に大丈夫なのか。


最近、天界から降ってくるチラシに、涙目のような模様が混じっているぞ。

何か問題が発生しているのではないか。


いいのか、主神様。

『夜を司る女神』様。


本当によいのですか。

俺は思わず天を仰いだ。

まさか、貴方様まで飲兵衛ではないですよね。


俺は深く肩を落とし、再び歩き始めた。

すると、背後からグスタンさんに呼び止められた。


「それと、ヴァルナさん」


俺は振り返った。

何でしょう。

今、何か立ててはいけないフラグを立てたような気がしているのですが。

グスタンさんは、広大な畑の予定地を見渡した。


「いずれ、ここの畑が本格的に動き始めると、

 世話をする人手が足りなくなります」


やはり、そういう話でしたか。


「今ここにいる者達だけでは、全ての畑の世話をすることはできません」


グスタンさんは、耕され始めた土地へ目を向けた。


「農作業というものは、思っている以上に人手が必要なのです」

「最近では魔道具や魔動機も導入されていますが、

 私のような古い人間には、なかなか使いこなせません」


少し照れくさそうに笑うと、グスタンさんは俺へ視線を戻した。


「今すぐというわけではありません」

「ですが、頭の隅にでも置いておいてください」


そう言い残し、グスタンさんは作業へ戻っていった。

ここでも人手不足かぁ。

俺は重い足を引きずりながら、リハビリの散歩を再開した。



次にたどり着いたのは、住宅地だった。

住宅地と呼ぶには、今はまだ少し大げさかもしれない。

だが、将来的には本当にそうなるのだろう。


現在は、雪原のフェンに住む一族や、グスタンさんを始めとする、

ここで働く者達の家を建てているところだ。


アンリ先生やキューブ達によれば、

今後ここへ住む者は、さらに増えていく可能性が高いという。


他の魔法使いの工房の周囲にも、小さな村が作られているらしい。

規模の大きな工房ともなれば、

その周囲が一つの街へ発展している例もあるそうだ。

そのため、ここも将来的な人口増加へ対応できるよう、

計画的に、拡張性を持たせて設計されている。


今も、飲兵衛親方達がその指揮を執っていた。

赤毛親方や茶毛親方が、建築現場の中央で大声を張り上げている。


「そこの柱は、もう少し右だ!」

「基礎を適当にするな! あとで全部に響くぞ!」


普段の飲兵衛の姿は、どこにも見当たらない。


やれやれ。


普段の飲兵衛と、今の頼れる親方。

一体、どちらが本当の姿なのだろう。


現場では、皆が忙しそうに働いていた。

雪原のフェンに住む一族だけではない。

ヘイムの常連客である若者達も、建築作業を手伝っている。

配管工ブラザーズも、上下水道の工事について指示を出しながら、

現場中を動き回っていた。


働いている者達の顔は、皆、生き生きとしていた。


汗を流しながらも、よい笑顔を浮かべている。


よかった。


今はまだ、この城壁の中だけかもしれない。

それでも、雪原のフェンに住む一族には、

フードなどかぶらず、堂々と生活してほしい。


俺は、そんな光景を眺めながら歩いた。

途中、俺の存在へ気づいた者達が、

慌てたように作業の手を止め、挨拶をしてくる。


そんなに緊張しなくてもよいのに。

俺は、ただのおっさんだぞ。


それに、今の俺がここへいても、作業の邪魔になるだけだろう。

俺は軽く手を振って挨拶を返し、早々にその場を立ち去ることにした。


ここも、近いうちに完成するだろう。

今から楽しみだ。



住宅地を離れ、俺は庭園へ入った。

庭園の中を通り抜け、ヘイムへ向かう。

途中では、精霊や妖精達が俺の姿を見つけるたび、楽しそうに挨拶をしてくれた。

色とりどりの花が咲き、木々の間を淡い光が舞っている。

小さな妖精達が花びらの上へ座り、こちらへ手を振っていた。


ここだけは、本当に別世界だ。

幻想的で、美しい。


俺はしばらくその景色を楽しみながら歩き、ヘイムの裏口へたどり着いた。



建物の中へ入り、まずは浴場へ向かう。

全身から流れ出た汗を洗い流す。

温かい湯が、疲れ切った身体へ染み込んでいった。

その後、社員食堂で皆と一緒に昼食を取った。

食事を終えると、俺はキッチンへ向かった。


まだ、本格的な料理はできない。


長時間立ち続けるだけの筋力も戻っていない。

だが、リハビリを兼ねて、野菜の皮をむく程度ならできる。


俺は調理台の前へ座り、野菜と包丁を手に取った。


ここから、やり直しだ。

レシピも残っている。

料理のスキルも残っている。


だが、身体が料理の感覚を覚えているかどうかは分からない。

今の俺が料理を作ったとしても、きっとスキルの力に引っ張られてしまう。

自分自身の手で作ったという実感を、持つことができないかもしれない。


ならば、また最初から始めよう。

パン作りからだろうか。

あの地獄のようなパン作り。

確かに、きつかった。

休みなど、ほとんどなかった。

朝から晩まで、同じ作業を繰り返す地獄のルーティンだった。

だが、今ではそれさえ楽しみに思える。


また、包丁を握りたい。

また、生地をこねたい。

また、自分の手で料理を作りたい。


この世界へ来てから、こんなにも胸がわくわくしているのは初めてかもしれない。

早く。

一日でも早く。

元の身体へ戻りたい。

そして、もう一度。

料理人として、最初からやり直したい。


師匠のニューワールド講座 88

~世界樹の水編~


師匠

『なんです。』

グスタンさんが言ってましたけど、

世界樹の周りの湖の水って、

そんなに良いものなんですか。


『そうですね。

とても良いものですよ。』

『どこからともなく湧き、

どこへともなく消えていく水です。』


『そう言えば、

よくありますよね。

「○○の名水」とか言って、

わざわざ山まで汲みに行く人。』

『あれ、

本当に大丈夫なんでしょうか。

病原菌とか、

ちょっと心配になります。』


そこなんだ。


『ですが、

世界樹の水は安心してください。』

『大量の魔素を含み、

豊富な栄養を持ち、

さらに神聖な力まで宿っています。』

『そのまま聖水として使っても問題ないくらいですね。』

『もちろん、

病原菌など存在しません。』


『もっと言えば、

普段ヘイムで使っている水もそうですよ。』

『以前お話ししたように、

大気中のマナや魔素を変換して生み出していますから、

十分に良い水です。』

『その水が世界樹の側へ湧き出す事で、

さらに力を宿しているのです。』

『もっとも、

栄養があり過ぎても害になりますから、

その辺りは丁度良い塩梅に調整されています。』


便利ですね。


『その水は川となって流れ、

畑へ引かれ、

農作物を育てます。』

『酒造りや料理に使えば、

当然出来上がる品も良くなります。』

『ヘイムへ住み着いた小動物達も、

毎日美味しそうに飲んでいますよ。』


でも、

その水って外堀まで流れてますよね。

街の人が汲みに来たり、

取り合いになったりしないんですか。


『そこは安心してください。』

『ご都合主義です。』


開き直った。


『城壁の外へ出た瞬間、

ただの綺麗な水になります。』

『そのまま外堀を満たし、

やがて魔素へ還って消えていきます。』

『そして再び、

世界樹の湖へと循環するのです。』

『ヘイムと同じく、

きちんと完結した循環になっていますので、

ご安心ください。』


なるほど。


『もっとも、

そのうち学園長あたりは、

真相に気付いて調査へ来るかもしれませんね。』

『魔法使いの工房は、

魔術師にとって神秘の塊ですから。』

『まあ、

害があるようなら、

以前の騎士団や貴族の私兵のように、

近付く事すら出来なくなります。』

『ほどほどにしてくださいね、

と学園長の娘さんには伝えておいてください。』


なんで俺経由なんですか。




作者メモ

※本編のおまけ設定です。読み飛ばしても問題ありません。

※本編とは時空が違います。

※本編の都合により、設定が変わる事があります。


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