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72 自分の意思で

雪原のフェンに住む一族の族長――

ノート・ヴァン・イアールンヴィズ。


そう名乗った、額に刻印を持つエルフと俺達は、

ヘイム二階の席で向かい合っていた。


誰も口を開かない。

静かな空気だけが流れ、お互い何を話せばいいのか、

何を考えているのか分からないまま、重苦しい沈黙だけが続いていた。


族長であるノートさんがゆっくりとフードを外す。

その姿を見て、周りの者達も恐る恐るフードを外し始めた。

中には額の刻印を晒すことで、ヘイムのみんなから冷たい視線を

向けられるのではないかと、不安そうにこちらを窺う者もいる。


だが、そんな者は誰一人いなかった。

少なくとも、この場には。


本人に罪はない。


ただ生まれただけで態度を変えるような人達ではない。

俺はそう信じたかった。


転移してこの世界へ来た俺にとって、この世界の風習も問題も、

未だどこか他人事のように感じてしまう。

だからこそ、ダークの称号だとか刻印だとか。

そんなもので人を判断する感覚が、どうしても理解できなかった。

俺からすれば、皆同じ異世界の住人だ。

むしろ、この世界の常識を知らない俺の方が異物で、

見世物のような存在なのかもしれない。


だが、ここにいる人達は違う。

生まれた時からこの世界で育ち、この世界の常識を教えられ、

その中で生きてきた。

差別も歴史も伝承も、全てが生活の一部なのだ。


それでもなお、こうして普通に接してくれる。

本当に俺は恵まれている。

ここに集まった人達は、皆いい人ばかりだ。


女神様や師匠はチートは与えないと言っていた。


でも違う。

俺が貰った最大のチートは、きっとこれだ。


――良縁。


都合がいいくらい、良い人達と巡り会えた。

それだけで十分すぎるほど幸運だった。



昼間から続く睨み合いのせいだろう。

碌に食事も休憩も取れていなかったに違いない。

子供達だけでなく、大人達も温かい料理を口にし、ようやく肩の力を抜いていた。

中にはもう舟を漕ぎ始めた子供もいる。

そんな子供達を優しく見つめ、大人達がノートさんへ視線を送る。


ノートさんは静かに頷いた。


それを合図に、大人達は子供達を抱き上げたり手を引いたりしながら

住居スペースへ向かっていく。

風呂に入って、温かい布団で眠るのだろう。

せめて今夜くらいは、安心して休んでほしい。


その様子を見届けると、ノートさんは改めて俺の方へ向き直った。


「助かったぞ、ヴァルナ。」

「取り敢えず、あの場をしのげた事と、

 食事と休む場を提供してくれて感謝する。」


そう言って軽く頭を下げる。

続けて、机の上へゴルド金貨を並べ始めた。


「これは今晩の食事と宿泊代。そして明日の分だ。」


俺は慌てて断ろうとした。

だが、


「同情はいらん。それは俺達に対する侮辱だ。」


ノートさんは手を軽く上げ、俺の言葉を制する。


「心配するな。まともに働いて稼いだ金だ。犯罪などせん。

 俺達は真っ当な一族だからな。」


その言葉には、誇りがあった。

何百年も迫害されながら、

それでも犯罪に手を染めなかった者だけが持つ重みだった。


ノートさんはアンリ先生達へ視線を向ける。


「すまないが、明日の夜まででいい。ここにいさせてくれ。」

「夜陰に紛れて帝都を出る。」


そう静かに今後を語った。


「我らは元々流浪の民。たまたま帝都に長く居ついただけだ。元に戻るだけさ。」


その言葉に、ブラスさんが静かに問い掛ける。


「しかし……神殿にいる皆様は、よろしいのですか。」


ノートさんは懐から小袋を取り出した。

中には恐らくゴルドが入っているのだろう。


「頼み事ばかりで悪いが、これを渡してくれ。」

「まず体を治せ。そして周りの者の面倒を見ろ。」

「落ち着いた頃に迎えに行く、と。」


ブラスさんは小さく頷き、その袋を受け取った。

やがてアンリ先生が口を開く。


「先程から聞いておったが、

 そんな簡単に帝都を出入りできるとは思えんのじゃが。」


ノートさんは鼻で笑う。


「こんな広い帝都、隙なんぞいくらでもある。」

「華やかに見えるかもしれんが、その裏は闇だらけさ。」

「目立つ場所ばかり掃除して、見えない所は放ったらかし。」

「俺達がこれだけ長く帝都に潜めていた。それが何よりの証拠だ。」


そう言って、自分達の過去を語り始めた。


――雪原のフェンに住む一族。


他のダークの称号持ちと同じく流浪の民。


元は北方の雪原を遊牧しながら暮らしていたという。

だが超帝国時代。

一族の一部がトリックスターへ忠誠を誓い、北方各地を荒らした。

町を焼き、貴族を襲い、混乱を招いた。

その結果、『太陽神』と世界の怒りを買う。


ある日突然、一族全員が呪われた。


そこから遊牧民ではなく、流浪の民として生きるしかなくなった。

迫害され、定住も許されず。


それでも魔族にも犯罪者にもならなかった。


それだけが誇りだった。


「先祖は止められなかった。」

「だからせめて俺達だけは真っ直ぐ生きる。」

「それが人の身で『太陽神』へ抗議する唯一の方法だからな。」


その言葉には、長い年月積み重ねた覚悟が滲んでいた。

そうやって生きてきた。



ところが、ある事件が起こる。

一族の者が攫われたのだ。

犯人は、人攫いを生業とする奴隷商人だった。


「奴隷商人じゃと? 帝国では奴隷など認められておらんぞ。」


アンリ先生が思わず声を荒らげる。

ノートさんは、その言葉を聞いて小さく鼻で笑った。


「……はん。本当に帝国のお姫様だねぇ。」

「評判ではそれなりのやり手と聞いていたが、その程度なのかい。」


静かな声だった。

だが、その一言には長年積み重ねてきた皮肉と諦めが滲んでいた。


「帝国にもいるさ。」

「闇で奴隷を扱う商人も、貴族もな。」

「ハシュバルト公爵か。」


アンリ先生が苦々しい表情で呟く。


「おや、知っているじゃないか。」

「証拠がないのでな。」


アンリ先生は唇を噛む。


「いつも体よく尻尾切りをされて、辿り着けん。」

「それに今の我には、権限がない。」

「お姫様の遅き反抗期ってやつかい。」


ノートさんが皮肉っぽく笑う。

アンリ先生は片眉を上げるが、怒り返さない。

そんなアンリ先生を見て、ノートさんは少しだけ表情を和らげた。


「別に馬鹿にしてるわけじゃない。」

「むしろ感謝してるさ。」

「取り敢えず、戦争を止めてくれた。」

「戦争が起これば、いつも泣くのは力のない者だからな。」


その言葉だけは、本心だった。

部屋の空気が少しだけ静かになる。


ノートさんは視線を落とし、ゆっくりと続きを語り始めた。

攫われた仲間を救うため、一族総出で帝都へやって来たこと。

助け出した仲間や、牢に繋がれていた者達を救出したこと。

怪我人や病人は神殿へ預け、動ける者だけが再開発エリアに身を潜めていたこと。

旅へ連れて行けるまで。

体が治る、その日まで。


静かに暮らすつもりだった。


だが――。

今回の騒動で、その僅かな時間すら失われた。


「動ける者は、また旅だ。」

「定住する土地もなく。」

「旅から旅へ。」

「それが俺達だけじゃない。」

「ダークの称号持ち全ての宿命さ。」


ノートさんは、自嘲するように笑う。


「いつか、この刻印が消える、その日までな。」



……

なんだ、それは。

そんなもの。

世界が滅ぶか。

邪神やトリックスターが滅ぶか。

ダークの称号持ちが滅ぶか。

そのどれかが起きるまで終わらないじゃないか。

どれも現実的じゃない。

どれも救いになっていない。


「せめて……。」


思わず口から漏れる。


「どこか定住できる場所はないんですか。」

「保護してくれる領主とか……。」


ノートさんは首を横に振った。


「ない。」

その一言だった。


「人が住める土地には、もう誰かが住んでいる。」

「そこには領主がいる。」

「ダークの称号持ちを受け入れる酔狂な為政者なんかいやしない。」

「仮にいたとしても。」

「魔族と繋がっていると噂を流される。」

「痛くもない腹を探られる。」

「そんな面倒を背負う奴はいない。」


淡々と語られる現実。

反論の余地がないほど重かった。


「それに。」


ノートさんは少しだけ目を細める。


「そんな噂も気にせず受け入れられるような領主は、大抵『太陽神』の信徒だ。」

「……こちらから、お断りさ。」


その言葉だけは、鋭かった。

長年積み重ねた怒り。

恨み。

悲しみ。

全部がその一言に詰まっていた。


俺は言葉を失う。

気持ちは分かる。

俺だって同じ立場なら、簡単には許せないだろう。

でも……。

それでも。


「流浪の旅って……。」

「健康な人ばかりじゃないでしょう。」

「子供も。」

「老人も。」

「乳飲み子も。」

「病人も。」

「怪我人だっている。」

「帝国政府も住む場所や仕事を用意してくれるって聞いています。」

「受け入れてくれる場所があるなら……。」

「そこへ行くべきじゃないですか。」

「そんな恨みだけじゃ、生きていけません。」


その言葉に、ノートさんは静かに息を吐いた。


「……そんな単純な話じゃない。」

「もう何百年も、そうやって生きてきた。」

「その怒りを糧にして生きている者もいる。」

「俺だって分かってるさ。」

「どこかの『太陽神』の僕に尻尾を振って、仕事を貰った方が楽だってな。」


苦笑する。


「だが、それは俺一人の考えだ。」

「一族全員が納得するわけじゃない。」

「途中で飛び出す者もいる。」

「そうなれば、生きていけない。」

「だから一族は一緒にいる。」

「群れから離れた先にあるのは……。」

「魔族堕ちだけだ。」


力なく呟く。


「一族だけは見捨てられない。」


その言葉を聞いた瞬間。

俺は返す言葉がなくなった。


正しい。

誰も間違っていない。

帝国も。

神殿も。

アンリ先生も。

ノートさん達も。

なのに。


誰一人救われていない。


「それともないかい、ヴァルナよ。」


ノートさんが静かに俺を見る。

怒っている。

それなのに、その目の奥には怒りよりも、もっと深い諦めがあった。


「ここで、一生匿ってくれるとでも?」


その問いに、俺は答えられない。


「確かにここは、いい人ばかりだ。」

「帝国のお姫様もいる。」

「神官もいる。」

「腕のいい料理人もいる。」

「……だが。」


ノートさんはヘイムの食堂をゆっくり見回した。


「俺達がここに住めば、どうなる?」

「悪評が広まる。」

「店は潰れる。」

「二柱が降臨した店だろうが関係ない。」

「俺達がいる、それだけで客は離れる。」


誰も否定できなかった。

事実だからだ。


「神々が何をしてくれた?」

「『夜を司る女神』様以外、何をしてくれた。」

「ここに降臨した二柱が。」

「俺達も他の者達と同じです、と民衆の前で言ってくれるのか?」


静まり返る食堂。

ノートさんは続ける。


「何度神託が降りた。」

「何度『差別するな』と言われた。」

「それで何が変わった?」

「何一つ変わってない。」


その一言が、妙に重かった。


長い年月。

期待して。

裏切られて。

また期待して。

また裏切られて。

そんな人生を繰り返してきた者だけが言える重みだった。


「仮にここへ住めたとして。」

「一生、この建物から出るなと言うのか?」

「確かに広い。」

「だが、一生生きるには狭すぎる。」

「外へ出れば石を投げられる。」

「働けば噂になる。」

「子供達も同じ目に遭う。」

「そんな生活を、お前は幸せだと言えるのか。」


誰も答えられなかった。

ノートさんは俺を真っ直ぐ見据える。


「それとも。」

「ダークの称号持ちを匿う慈悲深い店。」

「そうやって俺達を見世物にする気か?」


その瞬間。


「貴公!」


アンリ先生が立ち上がる。


「それは勘ぐり過ぎじゃ!」

「店主はそのような者では――」

「さっきから言っているだろう。」


ノートさんも立ち上がった。


「同情はいらん。」

「当事者でもない奴に何が分かる。」

「言葉だけなら、誰でも言える。」


その声は怒鳴るようでいて。

泣きそうだった。


「奇跡でも起こしてみせろ。」

「俺達が安心して暮らせる村でも用意してみろ。」

「できもしないことを――」

「言うんじゃない。」


その一言が。

胸に突き刺さった。


…………。

できない。

何一つ。

俺は。

何も返せない。

助けたいと思った。

なのに。

何一つ。

返せない。


アンリ先生も。

ブラスさんも。

ベルンさんも。

ハルヴィンダちゃんも。

誰も悪くない。

ノートさんだって悪くない。

なのに。


誰も救われない。


俺は拳を握る。

爪が手のひらに食い込む。

痛い。

でも。

その痛みより胸の方が苦しかった。



俺は昔からそうだった。

やれば後悔すると分かっていても、我慢できずに動いてしまう。

結局失敗して。

また後悔する。

それでも止められない。


疲れているのか。


転移してから張り詰め続けた心が限界だったのか。


本当は。

俺は。

呑気に料理だけ作っていたかった。

流されて店を始め。

流されて人助けをして。

流されるまま、ここまで来た。

こんなの望んでいた人生じゃない。


でも。

本当にそうなのか。

その問いが胸の奥で何度も響く。

今回の件もそうだ。


何もできない苛立ち。


ダークの称号持ちへの同情。

偽善。


昔の自分への怒り。


転移してからも流されて生きている自分への嫌悪。


無力な自分への怒り。


アンリ先生を見れば、自分の信念で国と戦っている。

ハルヴィンダちゃんは家族を隣人を守るため命を懸けた。

ベルンさんは家族のため耐え続けた。

ノートさんは一族を背負って立っている。

みんな。

ちゃんと自分で決めて生きている。


俺だけだ。

俺だけ。

流されて。

流されて。

流されて。

何も決めていない。

その事実が。

胸の奥で何かを切った。


「……うるさい。」


誰に向けた言葉だったのか。

俺にも分からない。


「うるさい。」


もう一度。

誰も動かない。


「うるさい!」


食堂中に響き渡る叫びだった。

全員が俺を見る。


息が荒い。

胸が苦しい。

頭の中が真っ白になる。

今、俺を支配していたのは。

怒りだった。

違う。

怒りじゃない。

悔しさだ。


ふざけるな。

この世界。


何もしてないノートさん達が。

どうしてこんな目に遭う。

アンリ先生だって頑張ってる。

ベルンさんだって。

ブラスさんだって。

みんな頑張ってる。

なのに。

どうして。


誰も報われない。


どうして。


差し伸べた手を掴めない。


どうして。


差し伸べた手も届かない。


もう何が正しいのか分からなかった。

ただ一つだけ。

胸の奥から込み上げる想いがあった。


助けたい。


それだけだった。

もう訳が分からなかった。

今までの人生で溜め込んできた鬱憤や不満が、

全部まとめて爆発したみたいだった。


一族を受け入れられる場所。

窮屈な思いをせずに済む場所。

あるじゃないか。

クリスタルの山がある。

あそこなら、小さな村くらい収まる広さがあるだろう。

そう思った瞬間、また自分に腹が立った。


ここでもヘイム頼りか。


クリスタルの山が消えれば、天界も喜ぶんだろう。

消えた土地で暮らせばいい。

政治的な事は、アンリ先生や夫人達がいる。


また他人頼りだ。


本当に腹が立つ。

一番腹が立つのは、こんな時でさえ他人頼みな自分自身だった。


反吐が出る。


それでも。

願ってしまった。


さあ、ヘイムよ。

クリスタルの山を全て消してくれ。

あの広大な土地を、彼らが生きていける場所にしてくれ。


その瞬間。

ヘイムが震えた。

いや、ヘイムだけではない。

クリスタルの山も、確かに俺の意思に反応した。

けれど、すぐに強い抵抗が返ってくる。


――まだ早い。


そんな声が聞こえた気がした。


――その怒りで力を振るってはならない。


確かに反応している。

でも、拒まれている。

なぜだ。

いつも勝手に反応して大きくなるじゃないか。

なのに、なぜ俺が望んだ時だけ反応しない。

いや、拒否する。

それが我慢ならなかった。


「お、おい店主。落ち着け。どうしたんじゃ一体。」


アンリ先生が立ち上がる。


「疲れておるのじゃろう。最近忙しかったからのう。」

「もう休め。」

「外の話は、我らで何とかするから。」


その声は優しかった。

心配してくれているのが分かった。

周りのみんなも驚きながらも、俺を心配そうに見ている。

でも、俺は止まれなかった。

止まったら、また何もできない自分に戻ってしまう気がした。

怒りに燃えたまま顔を上げ、ノートさんを見る。


「待ってろ。」


自分でも驚くほど低い声だった。


「今、用意してやる。」


そう言って、俺は外へ飛び出した。

ここからでは駄目なら、直接触れて命令してやる。

そう思い、庭へ出て駆け出す。



夜気が頬を打つ。

庭を抜け、『大地母神』様の神殿を越え、さらに奥へ。

クリスタルの山の麓へ辿り着く。

ここが一番、クリスタルの山の中心に近い。


俺は荒い息のまま、巨大な結晶の表面へ手を置いた。


冷たい。

硬い。


人の手ではどうにもならない、途方もない大きさ。

それでも俺は命じた。


消えろ。


土地を明け渡せ。


彼らが生きる場所になれ。


クリスタルの山が、かすかに震えた。

けれどまた、強い反発が返ってくる。


――まだ早い。


――今のあなたには無理だ。


――怒りでこの力を使ってはならない。


知らない。

そんな事は知らない。

俺はその抵抗をねじ伏せるように、何度も命じた。


消えろ。

消えろ。

消えろ。

何も起きない。


それでも何度も命じた。

拳で叩いた。

手のひらで押した。

額を押し当てた。


「何をするのかと思えば。」


背後からノートさんの声がした。


「クリスタルの山に手を当てて、ぶつぶつ喋っているだけかい。」


振り向かなくても分かる。

呆れた顔をしているのだろう。


「あんな捨て台詞を吐いて、皆を驚かせておいて。」

「少しは申し訳ないと思わないのか。」


その声は冷たかった。

でも、それ以上に疲れていた。


うるさい。

見ていろ。

俺はさらにクリスタルの山へ命じる。


「付き合ってられん。」


ノートさんが背を向ける気配がした。


「俺達は予定通り、明日の夜ここを立つ。」

「それまでは世話になる。」

「待たんか。」


アンリ先生の声が響いた。


「確かに店主の行動には驚いた。」

「じゃが、そなたらのために何かしようとしておるのじゃ。」

「最後まで見ていく義務があるのではないか。」


アンリ先生だけではない。

あの場にいた皆が、俺を追って来ていた。


心配そうに。

不安そうに。

それでも、目を逸らさずに。


ノートさんは深くため息をつき、腕を組んで俺を見た。



俺はもう周りなど見ていなかった。

ただ、目の前のクリスタルの山へ思いをぶつける。


言う事を聞け。


いつもみたいに大きくなれ。


広がれ。


土地を出せ。


ただ、それだけだ。

ただ、それだけなのに。

何も起きなかった。



その様子を見ている者達がいた。

地上ではない。

天界。

水鏡のような泉に映る地上を、六大柱と、その場に集った神々が見つめていた。

その中で、師匠の訴えだけが響いていた。

どうか力を貸してください。

もしくは、ヴァルナさんを止めてください。

あのままでは壊れてしまう。

その必死の声に、『大地母神』が動こうとした。

しかし。


『ならぬ。』


静かな一言が、その場を止めた。

主神――『夜を司る女神』だった。


『なぜです。』


『大地母神』の声には怒りがあった。


『この一件は私の管轄です。』

『それに、あの子は私の使徒候補です。』

『あんなに救いを求めているのに、なぜ動いてはならないのですか。』


『大地母神』が『夜を司る女神』を睨みつける。

その視線を、『夜を司る女神』は真正面から受け止めた。


『此度の一件、あらゆる者の介入は許さぬ。』

『人の世の事は、人の手で。』

『これは、我ら管理者全体の意思です。』

『何を今更。』


『大地母神』がすぐさま言い返す。


『我らはこれまで、さんざん介入してきたではありませんか。』

『なればこそ、此度は許されません。』

『夜を司る女神』の声は揺るがない。

『あの者の資質が問われています。』

『そして、世界の答えも。』


そう言って、『夜を司る女神』は手にした杖で床を叩いた。


澄んだ音が、天界全体へ広がる。

その音は鈴のようであり、鐘のようであり、夜そのものが鳴ったようでもあった。


『これは主神としての命令です。』

『すべてが終わるまで、あらゆる干渉を禁じます。』


次の瞬間。

天界と地上を繋ぐ全ての扉が閉じられた。


光の道が消える。

祈りの道が塞がれる。

奇跡の通り道さえ閉ざされる。


『この泉以外、すべての扉を閉じました。』

『邪神やトリックスターにも手出しはさせません。』

『大人しく、ここから見ていなさい。』


それは、誰も逆らう事のできない決定だった。

主神としての、有無を言わせぬ命令。


『大地母神』は拳を握りしめる。


師匠は泉を見つめたまま、何もできずに震えていた。

泉の中では、ヴァルナがまだクリスタルの山に手を叩きつけていた。


何度も。

何度も。

何度も。




あれから、どれだけ経ったのだろう。


「店主、もうやめんか。」


アンリ先生の声が聞こえた。


「手が潰れるぞ。」


いつの間にか朝になっていた。

冷たい雨が降っている。

辺りは薄暗く、夜と朝の境目のような色をしていた。


みんなは近くの『大地母神』様の神殿からこちらを見ている。

その中で、アンリ先生とノートさんだけが俺のそばにいた。


二人とも、ずぶ濡れだった。


風邪をひきますよ。

さあ、お風呂に入って温まってください。


そう言おうとした。


「何を言う。」


アンリ先生が苦しそうに笑う。


「そなたが一番ずぶ濡れではないか。」

「手も、そんなにして。」


手?


言われて、自分の手を見る。

真っ赤だった。

どうやら、ずっとクリスタルの山を殴っていたらしい。

皮膚は裂け、爪は割れ、血と雨水が混ざって流れていた。


もう感覚はない。


そんな俺の手を、アンリ先生がそっと握ってくれる。


「のう、店主。」

「そなたが何をしたいのか、我には分からん。」

「そなたが何に悩み、何に怒っているのかも分からん。」

「じゃが……。」


アンリ先生の声が震えた。


「必死なのは伝わった。」

「もう、やめよ。」


アンリ先生が、とても悲しそうな顔をしていた。

まるで自分の事のように苦しんでいた。


違うんだ。


アンリ先生にそんな顔をさせるために、こんな事をしたんじゃない。

会ったばかりなのに、

呆れながらも俺の潰れた手を心配してくれるノートさん。


違う。


心配してほしくて、こんな事をしたんじゃない。


神殿から見ているみんなもそうだ。


これはただの俺の癇癪だ。

わがままだ。

だって悔しいじゃないか。


俺は無力だ。

何もできない。

何かしようともしない。


みんなみたいに心が強くない。


転移して、チートみたいなものを貰って、

少しばかり調子に乗っていたおっさんだ。


雨なのか、涙なのか分からないものが顔を濡らす。

俺はそれを拭いながら、周りを見渡した。


情けない。


目の前に助けたい人達がいる。

なのに、何もできない。

それどころか、心配までされている。


悔しい。

情けない。


そう思いながら、俺は再びクリスタルの山を見る。


ただ、何かしたかった。

何かは分からない。

でも、何か。


アンリ先生の顔が浮かぶ。

ハルヴィンダちゃん。

ベルンさん。

ノートさん。

子供達。

ヘイムのみんな。

俺も、この人達みたいに何かしたい。


自分の意思で。

誰かのために。

怒りは、もうなかった。

残っていたのは、ただ一つ。


助けたい。


それだけだった。


俺は今度こそ、力なく、そっとクリスタルの山に手を置いた。


その瞬間。

体の奥を、何かが走った。

魔力とも違う。

スキルとも違う。

今まで使ってきた力とは、まるで違う何か。

それは熱く、冷たく、重く、軽く。

自分の中にあるのに、自分だけのものではないような、不思議な力だった。

けれど、そんな事はどうでもよかった。


今、俺の中にあったのは、ただ一つだけだった。


何とかなれ。


ダークの称号持ちの人達の助けになりたい。

あの子供達が、怯えずに眠れる場所を作りたい。

ノートさん達が、胸を張って生きられる場所を作りたい。

アンリ先生を。

ハルヴィンダちゃんを。

ベルンさんを。

ヘイムのみんなを。

もう、悲しませたくない。


こんなにも強く何かを願ったのは、初めてかもしれない。

流されるのではなく。

誰かに命じられたのでもなく。

自分の意思で。

自分の願いで。

何かをしたいと、初めて本気で思った。


その時、俺は初めて使った。


自分の意思で、初めて力を。



魔法を。



体の奥で生まれた力が、一気に駆け巡る。

全身を貫き、心臓を叩き、血の流れに混ざり、骨の奥まで染み込んでいく。


そして――。


世界が、光った。


クリスタルの山が、朝の雨の中で輝き始める。

最初は小さな光だった。

雨粒に反射する程度の、淡い光。

だが、それはすぐに強くなり、

青く、白く、金色に揺らめきながら、山全体へ広がっていく。

まるで結晶の一つ一つが目を覚まし、長い眠りから解き放たれていくようだった。


誰かが息を呑む音がした。

雨音が消えた。

風も止まった。

鳥の声も、遠くの帝都の喧騒も、全てが遠ざかる。

世界そのものが、次に起こることを見守るように静まり返った。


そして、光は天へ昇った。


一本の巨大な光の柱。

それは帝都の空を貫き、雲を裂き、なお高く、高く伸びていく。

帝都の者達は皆、その光を見たという。

いや、帝都だけではない。

遠く離れた他国からも、その柱は見えたと言われている。

誰もが同じ方角を見上げた。


神殿の鐘が鳴った。


魔術師達は言葉を失った。


祈る者は膝をつき、恐れる者は震え、ただ美しいと涙を流す者もいた。


やがて、光の柱が静かに薄れていく。

そして、完全に消えた時。

そこに、クリスタルの山はもうなかった。


かつて巨大な結晶の塊があった場所。

その周囲には、城壁と呼んでいいほど立派な壁が築かれていた。

壁の外には堀が巡り、そのさらに外側には並木道が続いている。

木々は等間隔に植えられ、所々にはベンチや噴水が設けられていた。

雨に濡れた芝生は朝の光を受けて輝き、

石畳の道はまるで最初からそこにあったかのように美しく整えられている。

静かで、穏やかで、どこか神聖な場所だった。

散歩にも、語らいにも、祈りにも相応しい。

まるで世界が、ここを争いの場ではなく、

人が生きる場所として作り替えたかのようだった。


城壁の内側には、元からあったヘイムの建物。

庭園。

『大地母神』様の神殿。

それらだけが、何事もなかったように残されていた。


だが、それ以外は一面の広大な土地だった。


何もない。

だからこそ、何でも始められる。


誰かが畑を作るかもしれない。

誰かが家を建てるかもしれない。

子供達が走り回るかもしれない。

夜になれば、誰かが安心して眠れるかもしれない。



そして、その中心には大きな泉があった。

澄み切った水を湛えた泉。

その水面は、雨が降っているはずなのに波一つ立てず、空と大地を映していた。


その泉のほとりに、一本の木が立っていた。


いや、木というにはあまりにも大きい。


幹は城塔のように太く、根は大地を抱きしめるように広がっている。

枝は空へ向かって伸び、その先は城壁の内側全てを覆うほど広がっていた。

葉は淡く輝き、一枚一枚が小さな星のように揺れている。

雨粒が葉に触れるたび、鈴のような音が鳴った。

その音は優しく、懐かしく、聞く者の胸の奥へ静かに染み込んでいく。


マナの木。

ユグドラシル。

精霊の木。

宇宙樹。

乾坤樹。


世界によって、時代によって、様々な名で呼ばれるもの。


魔法使いの工房の象徴。


この世界に、今まで七本しか存在しなかったもの。


その八本目。


世界樹が、そこに立っていた。

誰もがその奇跡を見上げていた。


アンリ先生も。

ノートさんも。

ハルヴィンダちゃんも。

ベルンさんも。

ヘイムのみんなも。

ダークの称号持ちの人達も。


誰も言葉を発せなかった。

ただ、目の前に現れた神話を見上げていた。


でも、俺はそれを見る事ができなかった。

力を使い切った体は、その場に崩れ落ちていた。

全身が悲鳴を上げ、意識は遠く、指一本動かせない。


誰かが俺の名を叫んだ気がした。

誰かが駆け寄ってくる足音がした。

雨の冷たさも、痛みも、もうよく分からない。


最後にぼんやりと思ったのは、

ああ。

ちゃんと、できたのかな。

それだけだった。






《料理〇〇2》 → 《料理魔法3》


師匠のニューワールド講座 68

~世界樹編~


師匠。

『なんです。』

なんか……

生えちゃいましたね。

『ですねぇ。』

『生えちゃいましたねぇ。』

あれ何なんですか。

俺は世界樹って言ってますけど。

『そうですねぇ。』

『ファンタジーでお馴染みのアレです。』


『マナの樹。』

『ユグドラシル。』

『精霊樹。』

『宇宙樹。』

『乾坤樹。』


いっぱいある。

『正確には全部別物です。』

『ですが、この世界ではほぼ同じ意味ですね。』

『巨大なマナ』

『エーテル』

『魔力発生装置。』

『そう思っていただいても構いません。』

『まあ、半分だけですが。』

半分だけ?

『ええ。』

『半分だけです。』


『多くの人は』

『世界樹を手に入れれば巨大な力が手に入る。』

『そう勘違いしています。』

違うんですか。

『本来の役目は違います。』

『この傷つき』

『死にかけた世界を癒やす事。』


『地脈を整え』

『失われた生命力を循環させる。』

『星そのものを支える生命維持装置。』


それが世界樹。

『そういう事です。』


『これでようやく八本目。』

八本も。

『ええ。』

『少しでも星が元気になれば良いのですが。』

でも……

狙われますよね。

『もちろんです。』

『現在』

『世界樹を守る魔法使いはいませんからね。』

えっ。

いないんですか?

『何を言っているんです。』

『ヴァルナさん。』

『血だるまになって倒れたでしょう。』

あっ。

『あのまま本当に死んでいたら』

『主を失った世界樹は枯れてしまいます。』

怖っ。

『ですが』

『そんな事情など誰も知りません。』

『欲望に目がくらんだ者達は』

『世界樹を手に入れようと動き出します。』


でも俺、

生きてますよ?

ほら。

『何を今さら。』

『ここは裏話をするネタ空間です。』

『本編とは都合の良い所しか繋がっていません。』

そんなぁ。

じゃあ俺、

どうなるんです?

『さあ。』

『こちらでは元気そうですし。』

『まあ、そのうち作者が何とかするでしょう。』

作者ぁ!

『それに』

『最近はアンリが主人公みたいですし。』

『ここも世代交代で良いのでは?』

やめてください!

『……おっと。』

『今回は次回以降のネタバレが多そうですね。』

『ここまでにしておきましょう。』




作者メモ

※本編のおまけ設定です。読み飛ばしても問題ありません。

※本編とは時空が違います。

※本編の都合により、設定が変わる事があります。


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