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48 愛しき子よ

ワシは深くため息をつき、近くの椅子へ腰を下ろした。

向かいでは、トレースの奴も同じように腰を下ろしている。

互いに顔を見合わせる。

そして、再びため息をついた。


「変わったのう……」


トレースの声は、いつになく悲しげじゃった。


「ああ、変わったのう。」


ワシも静かに頷く。

昔のマリーは、もうおらんのじゃろうな。


なんじゃ、今日のあの目は。

店主を見ても、従業員を見ても、店そのものを見ても。

まるで品定めをするような、値踏みをするような目じゃった。


いや、値踏みするのは解る。


皇后じゃしな。

娘も通う店じゃ。

立場上、相手を見るのは当然じゃろう。


じゃが違う。


あの目は。

利用価値があるか。

利用価値がないか。

それだけを見ておる目じゃ。

どれだけ顔を取り繕おうと、目が語っとる。

そこらの貴族共なら騙せるかもしれん。


じゃがな。

職人の目は誤魔化せん。

何十年も人を見て。

何十年も物を見て。

そうして“親方”と呼ばれるまで腕を磨いてきた人間の目はな。


「あやつは昔、もっと綺麗な目をしておった。」


トレースがぽつりと呟く。


「理想に燃えておった。」

「この国を良くするのだと。」

「誰にでも優しく、清廉潔白で、誇り高い娘じゃった。」


ワシも思わず笑う。


「そうじゃったな。」


「逆に帝宮みたいな魑魅魍魎の巣窟で、

 本当にやっていけるのかと心配するほどじゃったわい。」


思い出す。

戦場を駆けておった頃。

まだ皇后になる前のマリーを。


真っ直ぐで。

不器用で。

理想ばかり語っておったあの頃を。


「いつからじゃろうな。」


トレースが遠くを見る。


「あんな濁った目をするようになったのは。」

「気持ち悪い笑い方をするようになったのは。」

「トレース親方。」


いつの間にか側へ来ていたリオニーが、静かにたしなめる。

じゃが、その目もまた悲しげじゃった。


「なんじゃ。」


トレースは顔を上げる。


「ワシは本当の事しか言っとらん。」


その顔は真剣そのものじゃ。


「トレース親方、その辺で。」


今度はアルマまでやって来る。

周囲を警戒しながら、そっと目配せをする。


誰かに聞かれては困るのだろう。

じゃが、今さらじゃ。


「目なんぞ気にしとったら生きていけんわい。」


ワシは鼻を鳴らした。


「ワシものう、馬鹿ではない。」

「いつも見張られとる事くらい知っとる。」


そう。

ワシも。

トレースも。

四六時中見張られておる。

じゃが、困った時に助けてくれる為ではない。


弱みを探し。

失言を探し。

失脚させる材料を探しとるだけじゃ。


「あれは、いつ頃からじゃったかのう。」


ワシは記憶を探る。


「帝宮に呼ばれんようになってからか。」


トレースも頷く。


「昔はよう呼ばれとった。」

「アンリも赤子の頃から知っとるぞ。」

「あの頃のマリーは、良き母であり、良き統治者じゃった。」

「そうじゃな。」


ワシも頷く。


「ここ十年近くか。」

「呼ばれるのは外向けの催しばかりじゃ。」


愚痴が止まらん。

アルマもリオニーも、苦い顔で黙り込んでおる。


「帝宮に呼ばん事は別に構わん。」

「もう隠居の身じゃからな。」

「じゃがの。」


トレースが拳を握る。


「信用されとらんとは思わなんだ。」

「友情があったと思っとったのは、ワシらだけじゃったか。」


その言葉に、アルマとリオニーが悲しそうな顔をする。


「スミズル親方。」

「私もリオニーも、お二人の事を今でも友と思っています。」

「そうですわ。」

「スミズル親方も、トレース親方も。」


アルマが続ける。

ワシは苦笑する。


「解っとるわい。」

「じゃがな。」

「向こうはどうじゃ」

「もうマリーとは呼べんわい。」

「皇后陛下か。」

「それとも奥方様か。」

「そう呼ぶべきなんじゃろう。」


今日でよう解った。

ワシらの間にあるのは友情ではない。


統治する者と。

統治される者じゃ。


「そうじゃな。」


トレースも頷く。


「長年の友情など、もうない。」

「あの目と態度が全てじゃ。」

「利用できるか。」

「利用できないか。」


アルマが膝をつき、ワシの手を握った。


「スミズル親方。」

「そんな悲しい事を言わないで。」

「マリーの事は今まで通り、マリーと呼んであげて。」


リオニーも続く。


「そうよ。」

「貴方達は私達の師であり、友なの。」


じゃがな。

向こうはそう思っとらん。

ワシは静かに二人を見る。


「のう、アルマ。」

「リオニー。」

「もし本当にワシらを友と呼んでくれるなら、

 一つ忠告を聞いてくれんか。」


二人が真剣な顔になる。

ワシとトレースは顔を見合わせた。

そして頷く。


「世の中にはな。」

「触れてはならんものがある。」

「手を出してはならんものがある。」


突然の話題転換に二人が困惑する。

今度はトレースが続けた。


「ここで何かするなら覚えておけ。」

「ワシらからの忠告じゃ。」

「ここにはのう。」

「触れてはいかんモノがある。」

「手を出してはいかんモノがある。」

「人も、物もな。」


相変わらず優しい奴じゃ。

ワシならもっとハッキリ言う。

だから続ける。


「なぜ、ワシらが先程、

 店主や皇后陛下を差し置いて話したと思う。」


アルマが答える。


「店主を守る為ですか。」


トレースが首を横に振る。


「違う。」


ワシが答えた。


「皇后陛下を守る為じゃ。」


二人が目を見開く。


「店主を始め、ここの住人に手を出すな。」

「当然、店にもじゃ。」

「店主が身内と認めた者にも手を出すな。」

「ここは外の世界ではない。」

「帝国の法も。」

「貴族の常識も。」

「権力も。」

「通用せん。」

「ここは、別の世界じゃ。」


ワシの言葉に、アルマとリオニーは顔を見合わせた。

どうにも納得がいかぬらしい。


「スミズル親方、それはどういう意味ですか。」


アルマが問い返す。


「アルマよ。」


ワシは苦笑する。


「そのうち解る。」

「いや、解らんとここではやっていけんぞ。」

「でも……」


リオニーも戸惑った顔をしておる。


解る。

その気持ちはよく解る。

ワシらも最初から解っておった訳ではない。

初めて来た頃は同じじゃった。


何が特別なのか。

何が危険なのか。

何も解らんかった。


そんな二人を安心させるように、トレースが柔らかく笑った。


「心配するな。」

「要はその……なんじゃ。」


珍しく言葉を選んでおる。


「今のお主は、“リオニー・フォン・ハーケン”なんじゃろう。」

「リオニー・アルス・フェルセア・ガイアースブルク前侯爵夫人ではなく。」

「ええ、そうですけど。」

「それで良い。」


トレースは大きく頷く。


「ただのリオニーでおれば問題ない。」

「ここでは貴族である事を忘れろ。」

「それだけで十分じゃ。」


そして今度はアルマを見る。


「あとは皆と普通に接して。」

「仕事をして。」

「飯を食って。」

「騒いで笑えばいい。」

「アルマ、お主もじゃぞ。」


二人はまだ理解できておらん。

じゃが、それで良い。

無理に理解する必要もない。

そのうち嫌でも解る。


ここがどんな場所なのか。

店主が何者なのか。

そして、この場所に集まる者達が何者なのかを。

ワシは店内を見渡した。


さて。

皇后陛下の姿が見えんのう。

どこへ行った。

嫌な予感がする。


触れてはならんモノ。

手を出してはならんモノ。


そういうモノに限って、自ら手を伸ばしに行く者がおる。

まあ、店主の性格を考えれば酷い事にはならんじゃろう。

ならんじゃろうが……。


ワシは天井を見上げる。


あの執事も。

エマの嬢ちゃんも。

御使い様も。

その上のお方も。

普段は優しい。

本当に優しい。


じゃがな。

店主の事になると話は別じゃ。


あれは怖い。

本当に怖い。


「おい、ベルン。」


ワシは不安そうにしているベルンへ声を掛けた。


「慌てんでよい。」

「なるようになる。」


そう言いながらも、内心では。


――頼むから余計な事だけはしてくれるなよ。


そう祈っておった。



最初に見た時、それは美だった。


この世の美の結晶を、完璧なまでに磨き上げたような美。

その澄んだ黒瞳に見つめられれば、どんな者でも吸い寄せられてしまうだろう。

静かで低く、どこか色気の漂う声で囁かれれば、

それだけで大概の女は失神してしまうに違いない。


これほどの者が、この世に存在するのか。


背後に広がる、光すら通さぬ闇への恐怖よりも、その美しさに心を奪われる。

もし、わらわが精神異常回復の魔道具を身につけていなければ、

間違いなくそうなっていただろう。

魅了の魔術か、あるいは特殊なスキルかと思った。

だが、対魅了の魔道具は一切反応していない。


つまり――この者自身の魅力なのか。


「ふっ、そのような魔術やスキルに頼る様な者に見られるとは心外ですね。」


男は小さく肩をすくめた。

まるで雑談でもするかのような気軽さだった。

しかし、その黒い瞳だけは笑っていない。

こちらの心を読んだかのように話してくる。


「さて、招かざるお客人よ。そろそろお帰り頂きましょうか。」


男は優雅に一礼する。

その仕草は完璧だった。

帝宮の礼法教師ですら舌を巻くであろう、美しい所作。


「ここは、我がマスターとその家族の場なのですよ。」


そして顔を上げる。


「土足で昼間から忍び込むとは、恥知らずな盗人ですね。」


なっ――我を、盗人じゃと。


皇后たる、このわらわを。

叱責しようと口を開きかけた、その時だった。


「誰が発言を許可しました。まったく礼儀がなってないですね。」

「目上の人から話しかけて貰うまで話してはいけないと習ってないのですか。」


まるで、デビュタントで失態を犯した若い貴族を

笑いものにするような口調だった。


一体、誰に向かって――。


そう怒鳴りつけようとしたのに、声が出ない。

まるで喉を掴まれているかのようだった。


「やれやれ、盗人にも三分の理と言いますし。」

「特別に発言を許してあげますよ。」


男は心底面倒そうにため息をつく。


「ああ、二度目を待つ必要もありませんよ。」

「盗人に割く時間は、あまりにももったいないので。」


そう言われて、ようやく声が出せるようになる。


「貴様、無礼であろう。一体誰に向かっての発言か、我は――」


その男は感心したような顔をする。

だが、それすらわざとらしいほど美しい。


「この状況で最初に出てくるのが、身分による威嚇ですか。」

「知りませんよ。こんな世界の、ちっぽけな国の道化なんて。」


わらわの言葉を遮っただけではない。

道化じゃと。


頭の中にある店の報告を思い出す。

執事服を着た男。

確かキューブとか言ったか。

この店の店主ヴァルナの執事だったはず。


「誰が許可しました。」

「人の名前を勝手に呼ばないで頂きたい。」

「それに、我がマスターの事を呼び捨てとか。不敬ですよ。」


澄んだ黒瞳が細められる。

睨まれている。

明確な敵意を向けられている。

それなのに。


その目で、ずっと見つめられていたいと思ってしまう。


胸元の魔道具が震えた。

次の瞬間、正気が戻る。


「貴様、何度もわらわを愚弄しおって。」

「貴様だけではない。このような小さな店など――」

「店主もろとも潰してくれるぞ。」


そうだ。

この程度の店。

騎士団の一個中隊でも差し向ければ十分だ。

数十分もあれば制圧できる。

不敬罪で捕らえ、全てを奪ってしまえばよい。


「ほう。」


底冷えのする声だった。

その一言だけで思考が止まる。

男の顔から、表情が消えていた。

先程までの笑みも。

人を小馬鹿にするような余裕も。


何もない。


そこにいたのは、ただ静かに死を見下ろす何かだった。

わらわを小馬鹿にした顔は、もはやどこにもない。

なんじゃ、この感覚は。

魂ごと、命ごと握り潰されるような感覚。

紛争地帯を駆け回った時も。

敵軍に包囲された時も。

異星の侵略者と戦った時ですら感じた事のない恐怖。


そして気づく。

男の背後。

光さえ飲み込む闇の中に、無数の輝きが浮かんでいる事に。

最初は星かと思った。

夜空に散る星々のように見えた。

だが違う。


あれは――瞳だ。


赤。

蒼。

金。

紫。


色とりどりの瞳。


一つではない。

十でもない。

百でもない。

数える事すら出来ない。

闇そのものが見つめ返しているようだった。


何かがいる。

それも無数に。

魂が悲鳴をあげる。

本能が叫ぶ。


見るな。

逃げろ。


あれは見てはならないものだと。


精神異常回復の魔道具だけでなく、

あらゆる防御のための魔道具が砕け散っていく。


男が手を挙げると、

闇の中の瞳が消える。

最後に何かが一鳴きした。


それは警告とも、

威嚇とも取れる鳴き声だった。


それを聞いた瞬間、

最後の魔道具が砕け散る。


「壊れてしまっては、我がマスターが困りますからね。」

「さて、何の話でしたっけ。」

「そうそう。帝国軍の総出で攻めてくる話でしたっけ。」

「どうぞ、ご自由に。」

「こんな狭い場所で大軍を展開するなど、愚かですね。」


違う。

いつ総出などと言った。

騎士団の一個中隊と――


「同じですよ。どうせ、すり潰されていくのですから。」

「最初の者が敗れれば、援軍が後から来るのでしょう。」


何を言っている。

この男は帝国軍全てを一人で――


違う。

先ほど闇の中にいた者達がだ。


「おや、ようやく理解できましたか。」

「我がマスターは頭がお菓子で……いや、お花畑でしたっけ。」

「ともかく、我がマスターでさえもっと早く理解されますよ。」

「大体、あなたの策謀など机上の空論ばかりなんですよ。」

「その、考えているようで考えていない思いつきの策謀に。」

「実用性を持たせようと。

 温もりを持たせようと。」

「この国の皇帝を称する男や、その取り巻き達がどれほど苦労しているか。」

「大事な娘が、どれほど心を殺しているか。」

「あなたは知らないでしょう。」


何を知っているというのだ。

わらわの行いが机上の空論じゃと。

夫や宰相、大臣達が苦労しているじゃと。

それにアンリシアが心を殺しているじゃと。


「本当におめでたい人ですね。」

「まだ、皇后になる前の方がまともでしたよ。」


こいつは何を言っている。

わらわは、この国のために。

夫のために。

全てを捧げて――


「ほら、今も。」

「あなたがこの店にしようとした事の報告を受けて、

 頭を抱えていますよ。」

「愛しの皇帝陛下が。」


そう言って帝宮の方を見る。


「な、何をでたらめな事を。」

「第一帝宮の中が見える訳が――」

「見えますよ。」


男は当然のように答えた。

そして皇帝陛下の執務室の様子を語り始める。

置かれている物の配置。

隠れている護衛の位置。

本当に見えているのか。

そう思わせるには十分だった。


「さて、これ以上言っても無駄のようですし。」


男は、こちらを見下ろしたまま静かに告げた。

その声に、怒鳴り声のような荒さはない。

だからこそ恐ろしい。


「もう一度言いますよ。招かざる客はお帰りください。」

「今なら、不法侵入した事は黙っていてあげますよ。」

「周りに知られると、この間の転移勇者達と同じと思われますからね。」


許せん。

あのような者達と一緒にするなど。

わらわを侮辱して。

何より、その目だ。

本当に帝宮の中まで見えているのなら。


そうだ。

あの男だ。

ヴァルナを人質に取れば――。


「懲りない人ですねぇ。」


男が、呆れたように笑った。


「アンリ様の母親だから、

 一応マスターの客人として優しくしてあげていたら調子に乗って。」

「これだから、この世界の名ばかりの皇族は。」


その言葉に、わらわの最後の理性と誇りに火がついた。

男を睨みつけようとする。

だが、その顔を見た途端。


理性も。

誇りも。

全て吹き飛んだ。


男は、美から、美しき死へと変わっていた。

先ほどの闇の中にいた何かよりも恐ろしい。


根源的な恐怖。


生き物が決して逆らってはならないものが、そこにいた。

ようやく気づく。

この男は今迄、わらわが口に出さず思考した事に返事している。

そして、これでも手加減されているのだと。


その証拠に、わらわはまだこうして思考できている。

まだ、壊れていない。


男はそんなわらわを眺め、失笑した。


「おや、何かお探しですか。」


何かを探しているじゃと。

何を言って――。

そこで気づく。


右手が、胸元を探っておった。

かつて、そこにあった物を。

戦場を駆けていた頃。

泥と血にまみれながらも、決して外さなかった物。


『軍神』のアミュレット。


そして、左手が無意識に『軍神』の聖印を切っている事にも気づいた。


ありえぬ。


ありえぬではないか。

神々など不要だと。

人の世に口を出すなと。

そう言ったのは、わらわ自身だ。

アミュレットを外したのも。

神殿から距離を置いたのも。

祈りを止めたのも。

全て、わらわ自身の意思だった。

なのに。

どうして今になって。

死を前にした途端、縋ろうとしている。


男は、今度は声を出して笑った。


「滑稽ですね。」

「すでに管理者達に見放されているのに頼るなんて。」

「いや、先に見捨てたのは貴方でしたっけ。」


見放されているだと。

馬鹿な。

わらわは力を失ってなどいない。


「それは、貴方が皇后だからですよ。」

「今の帝国で、力しか能がない皇后が力を失ったら、その座を狙い、

 賢い者達が動き出しますよ。」

「更に帝国は混乱しますね。」

「だから管理者達は、貴方から力を奪わないのですよ。」


 男の言葉が、刃のように突き刺さる。


「気づきませんでしたか。」

「聞いているでしょう。」

「ここは、『大地母神』を名乗る管理者の領域である事を。」

「そこで私が、力をほんの少し解放しているのに何の干渉もない。」

「それは、黙認されているという事です。」


何も言い返せない。

喉が動かない。


「貴方は、もう昔のような気高く優しい国母ではなくなった。」

「下手な策謀を巡らす、権力争いに取り憑かれた、ただの愚か者にすぎない。」


一言ごとに追い詰められていく。

違う。

わらわは昔から変わってなど――。


「そう言えば、少し前に、この地に異星からの侵略者が来た事に

 ついて管理者達を愚痴っていましたね。」


いつの事を言っている。

この店に入る前か。

それとも帝宮にいた時か。


「確かに、管理者達の不手際もあります。」

「ですが、管理者達が貴方達のやらかしの後始末に奔走している隙をついて、

 異星への扉を開いたのは誰です。」


あれは、神々の争いのせいで――。


「何も知らず、勝手に決めつけて。」


男は、もう隠す気もなく嘲笑った。


「本当に皇后ですか。」

「管理者達がいらないですと。」

「この逝かれた狂った世界に、管理者達の助力がなければ、

 穀物どころか雑草すら育たないというのに。」

「『人の世の事は、人の手で』」

「当たり前ですね。」

「いつまで頼っているのですか。」

「自分達のしでかした事は、自分達で始末なさい。」

「この世界をこのようにしたのは、貴方達でしょう。」

「安易に異世界から召喚を繰り返し、世界の理を壊す。」

「それでは、悪質な管理者達に付け込まれて当然ですよ。」


男はそこで、一度黙り込んだ。

ほんの僅かな沈黙。

だが、それすらわらわには長く感じられた。


「失礼しました。」

「これは、貴方一人の責任ではありませんね。」

「この世界の為政者を始め、人間全ての責任ですね。」


そう言って、また見下してくる。


「でも、貴方も為政者の一人ですよね。」

「第一皇子の件も、他のお子さん達も、全部貴方のせいではないですか。」

「皇帝陛下が忙しい合間に父親として接しているのに、

 貴方はどうしていました。」


どうしていただと。

わらわは皇后として政務に勤しみ。

子供達には、ちゃんと乳母や教育係を付けて。

アンリシアなど、ちゃんと育ったではないか。

夫が甘やかすから、他の子供達は――。


「本当に得難い存在ですね、アンリ様は。」


男は見下すような笑みを消した。

無表情に戻る。

それが、余計に恐ろしかった。


「さて、貴方に時間を使いすぎました。」

「二度もチャンスをあげましたが、どうやらいらないようですので。」

「サヨナラです。」


空間が死に支配される。


ああ。

あの闇の中の何かなど必要ない。

この者一人で帝国を滅ぼせる。


神々よ。

力を。

加護を。

助けを。


どれだけ願っても、もう胸元には『軍神』のアミュレットはない。

わらわが、当の昔に捨てた。

誰に奪われた訳でもない。

誰に命じられた訳でもない。

政治の邪魔だと。

皇后に神への信仰は不要だと。

そう判断したのは、他ならぬわらわ自身だ。


今更、何を祈る。

今更、何を願う。


捨てたのは、わらわだ。

見捨てられたのではない。

先に背を向けたのは、わらわなのだ。

せめてもの抵抗をと、力を練ろうとする。

だが、やり方が分からない。


どうやって力を巡らせていたのか。

どうやって雷をまとっていたのか。

どうやって戦場を駆けていたのか。

何も思い出せない。


「貴方は、してはならない事をしました。」


男の声が、裁きのように響く。


「この店を利用しようとしました。」

「我がマスターを侮辱しました。」

「我がマスターを利用しようとしました。」

「我がマスターを害しようとしました。」


男は感情を失ったような瞳で、わらわを見下ろした。

そこには怒りも憎しみもない。

ただ、裁定だけがあった。


「有罪。」

「安心なさい。塵一つ残さず消してあげます。」

「ここには、誰もいません。」

「お付きの者も、貴方が勝手に入って扉を閉め、

 そのままいなくなったと思うでしょう。」

「ここをどれほど調べても、何も出てきませんよ。」

「住人は皆、店舗の方にいて、証人も沢山います。」

「貴方は、日頃のストレスに耐えかねて逃げ出したのです。」


男が、静かにこちらへ手を向ける。

ああ。

今言った通りになるだろう。

理由もなく理解した。

ここで私は終わるのだと。


どこで間違った。


ただ、夫を愛し。

子を愛し。

本当に?


あの人の為に。

国の為に。

いつまで?


必死で政務をこなしてきたのに。

妻としては?

母としては?


神々でさえ見限ったのに。

なら、なぜこの瞬間に縋る?


いつしか涙が流れていた。

私は、何をしているのだろう。


男が静かに手を握り始める。


あの手が完全に握りしめられた時。

それが、最期だろう。


目をつむる。

最後に思い浮かぶのは、愛する夫の顔。

愛したかった子供達の顔。

いつの出来事だろう。

本当に、こんな出来事があっただろうか。

家族で皆そろい、笑っている顔。


夫の笑い声が聞こえる。


子供達の笑い声が――。


「いっばん、に到着!!」

「もう、リナちゃん早いよ。」


本当に、子供の声が聞こえた。


その瞬間。

わらわを囲っていた死が消える。

目を開くと、闇は消えていた。

通路にいた男の先には、リビングらしき場所が見える。


「あっ、キューブ兄ちゃん、聞いて!」


狼族の娘だろうか。

その少女が何か紙のような物を持って、嬉しそうに男へ駆け寄ってくる。

その後ろから、向日葵のような笑顔の娘も続いた。


「見て見て、これ。ほら、ソレイアちゃんも。」


そう言って、二人の少女は紙を広げる。


「今日、学園でね、礼儀作法の小テストがあったんだ。」

「じゃーーん!」


男は、先ほどとはまるで別人のような優しい顔になった。


「おやおや。お二人とも満点ではないですか。すごいですね。」


その声は、先ほどとは違う。

温かく、穏やかで。

まるで本当の兄のようだった。


「ベルン殿やマルタ殿、ハルヴィンダ殿には見せたのですか。」

「それがね、お父さんもお母さんも、ハル姉さんも、いま来客中で後でねって。」

「アンナ姉ちゃんも、セバスさんも今はごめんねって。」

「みんな、知らない人とお話しているの。」

「そうですか。それは残念ですが、間もなくお客様はお帰りですよ。」

「ねぇ。」


男は、満面の笑みでこちらを向いた。

わらわは黙って頷くしかなかった。


「ねぇ、大丈夫?」

「顔が真っ白だよ。」

「椅子に座る?」


少女達が心配そうにわらわを見てくる。

先ほどまで死に呑まれていたわらわを。

何も知らぬ顔で、ただ案じてくる。


「だ、大丈夫じゃ。」

「問題ない。」


なんとか声を絞り出す。


「さあさあ、お客様は大丈夫ですよ。」

「それより手を洗ってきなさい。」

「マスターに紅茶を淹れて貰いましょう。」

「テストで満点を取ったご褒美に、

 とっておきのお菓子も出して貰いましょう。」

「とっておき?」

「ええ。お師匠様が作ったクッキーを、マスターが隠していますので。」

「「やったー!」」


少女達が走り出す。

その横を、一人のメイドが歩いてきた。


「エマ、貴方ですか。」


男が静かに問いかける。


「二人をここに連れてきたのは。」

「時間を止めて、空間も遮断していましたのに。」


時間を止めただと。

そんなの、神々の――。


「うん。」


エマと呼ばれたメイドは、あっさり頷いた。


「喜んで帰ってきた、あの子達が可哀想だったので。」

「それに。」

「それに、なんです。」


これが家事妖精シルキー族か。

無表情なのに、どこか淡々とした圧がある。


「酔っ払いがうるさかったから。」

「親方達ですか。」

「違う。」


そう言って、メイドはこちらを向く。


「酔っ払いからの伝言。」


伝言だと。

なんだ。

酔っ払いとは誰だ。


「今回だけだぞ、愛しき子よ。」


「だそうよ。」


あっ。

その物言いは。

毎回、戦地で救ってくれたあのお方。



その後の事は、あまり覚えていない。

扉を開けて再会したマチルダが何か言っていた気がするが、

アルマもリオニーも置いて帝宮へ急いで戻った。


馬車の中で、マチルダに出していたこの店に関する指示を全て取り消す。

何があったのか聞かれたが、答えられなかった。


マチルダの話では、扉が閉まったと思ったら、すぐにわらわが出てきたらしい。


帝宮の自室に戻ると、部屋をかき散らした。

マチルダが呆れていたが、関係ない。


どこだ。

どこにある。

あれは、どこにしまった。


それが見つかった時、部屋は戦場で乱取りされた後のようだった。


それは、一枚の写真の傍らに転がっていた。

まだ子供達が幼かった頃に撮った、家族全員で写る写真。


良かった。

まだ、あった。


わらわは、久しぶりに『軍神』様のアミュレットを握りしめた。


見捨てたのは、わらわなのに。

あの方は、見捨てなかった。

捨てたと思っていたのに。

捨てられていたのは、わらわの方ではなかった。


わらわは一体、何をしていたのだろう。



その日の夜。

“ヘイム”のいつもの夜。


みんなで囲む晩御飯の席で。

今日は疲れた、礼儀作法は大変だと愚痴るヴァルナの前で、

小テストで満点を取った二人の少女が、


余裕で見事な礼儀作法を見せていた。


皆から喝采が起こる。


その中心で、ヴァルナだけが微妙な顔をしていた。


『礼儀作法が小学生に負ける五十のおっさんって。』



師匠のニューワールド講座㊹

貴族の子供は大変編


「ねぇ師匠」

『なんです』

「今回、本編一万字超えてるんです」

「お休みですよ」

『そんなぁ……』

『少しだけ』

「駄目です」

『ケチですねぇ』

「作者が死にます」

『仕方ありませんねぇ』

「それで?」


『リナちゃんとソレイアちゃん』

『帝国学園の小テストで礼儀作法満点だったじゃないですか』

「はい」

『そして最後に』

『ヴァルナさんが負けました』

「やめて」

『そんなに驚く事ですか?』

「だってまだ小学生ですよ?」

「そんな難しい事習うの?」

『ヴァルナさん』

『あなた、どれだけ色んな物語を読んできたんですか』

『そこに出てくる、王侯貴族ってどんなんでしたか』

「へ?」


『王侯貴族の礼儀作法』

『武術』

『学問』

『政治』

『領地経営』

『法律』

『外交』

『歴史』

『季語』

『花言葉』

『酒の知識』

『舞踏』

『乗馬』

『楽器』


『まだまだありますが』

『それらを限られた時間で学ばなければなりません』

「うわぁ……」

『時間が足りませんよ』

『だから幼少期から教育するのです』

『究極の詰め込み教育ですね』

「大変だなぁ」


『余程の馬鹿貴族でない限り』

『跡継ぎ教育は徹底しています』

『そうしないと』

『家はあっという間に没落しますからね』

「なるほど」


『なので私は思うのです』

『幼少期からの詰め込み教育の反動で』

『みんな少し頭がおかしくなるのではないかと』

「師匠」


『我儘な子』

『極端な子』

『変な方向に努力する子』


『だいたい原因はそこでしょう』

「偏見だ」

『偏見ではありません』

『経験則です』

「怖いなぁ」

『貴族に生まれてラッキー』

『なんて言えるのは』

『継承権に関係ない男子くらいかもしれませんね』

「そうなの?」

『長子は跡継ぎ候補』

『次子は予備』

『男女関係ありません』

『いつ家を継ぐ事になるか分かりませんから』

『常に教育です』

「ひえぇ……」

『そして継承権から外れた女子も大変です』

『嫁入り先で恥をかかないように』


『家政』

『礼儀』

『経営』

『社交』


『色々学ばされます』

「逃げ場ないじゃん」

『ありません』

『別の職業に就くにしても』

『貴族として恥ずかしくない教養が求められます』

『結局勉強です』

「世知辛い……」


『それに比べると』

『継承権に関係ない男子は気楽ですよ』

「そうなの?」

『最悪』

『兵士になります』

『もっと最悪だと』

『家を飛び出します』

『さらに最悪だと』

『犯罪者になります』

「最悪しかないじゃん!」

『当然そんな事になれば』

『家の名誉に傷がつきます』

『貴族社会は意外と厳しいのです』

『だから皆』

『嫌でも勉強するんですよ』

「なんか貴族って大変なんだな……」

『ようやく分かりましたか』

『リナちゃんとソレイアちゃんが満点だった理由が』

「うっ」

『そして』

『礼儀作法で小学生に負けた理由も』

「そこは言わなくていいだろ!」


※帝国学園小学部は本日も元気です。

※なおヴァルナさんの礼儀作法は補習対象です。

※師匠は嬉しそうです。





作者メモ

※本編のおまけ設定です。読み飛ばしても問題ありません。

※本編とは時空が違います。

※本編の都合により、設定が変わる事があります。


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― 新着の感想 ―
キューブかっこいいなぁ ヴァルナさんとの関係が気になりすぎる
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