125 やっぱりお前らはオカシイ
世界樹を囲む湖の側に、新たな神殿が建っている。
その裏手、湖を望む芝生の上に置かれた白いアイアンガーデンセット。
そこには『夜を司る女神』様が優雅に腰掛け、
その側ではブラスさんが珍しく困った顔をしながらお茶を淹れていた。
「俺達には、あのお方の相手は無理だ」
隣にいたノートさんが小声で呟く。
「頼んだぞ、ヴァルナ」
そう言うなり、俺の背中を押して『夜を司る女神』様の方へ突き出してきた。
ちょっと。
なんで俺なんですか。
というか、なんで女神様がいるの?
俺、もうクタクタなんですけど。
マジで飲めない酒でも飲んで、そのまま寝たいくらいなんですけど。
俺達の姿に気づいたブラスさんが、途端にホッとしたような笑顔になる。
その向こうでは『夜を司る女神』様が、
こちらへ来いとばかりに手招きをしていた。
……逃げられないらしい。
まあ、ノートさんが俺を突き出したくせに逃げずについてくるだけマシか。
でも、ノートさんって『夜を司る女神』様の熱心な信者だよね。
ブラスさんが『大地母神』様に直接お会いした時みたいに、
もっと喜ばないのかな。
俺がそんなことを口にすると、ノートさんがギロリとこちらを睨んだ。
「馬鹿か。近づくだけでも恐れ多いぞ」
凄まれてしまった。
まあ、普通はそうだよね。
みんな最近おかしいんだよ。
飲んだくれ二柱のせいで、神様との距離感がおかしくなってる。
でも事前に言ってくれたら、俺からノートさんにアドバイスできたのに。
「諦めろって」
「それが一番の解決策だ」
「なんの解決にもなってないだろうが」
そんなやり取りをしながら近づくと、
『夜を司る女神』様はブラスさんが淹れたお茶を一口飲んでから、
ようやくこちらへ顔を向けた。
『戻ったか。此度の一件、どうなったかと思ってな』
『たまには直接報告を聞くのも悪くなかろうと思って来てみた』
なるほど。
それでいらっしゃったんですか。
……じゃなくて。
俺は目の前に建っている神殿を見上げる。
ええと、この神殿はいつからあるのでしょう。
修学旅行に行く前にはなかったよね。
『先ほどじゃ』
先ほど?
『私がしばらく滞在すると知ったら、勝手に建ったぞ』
『気の利く工房じゃ』
女神様は満足そうに神殿を見上げた。
『良い工房を持ったの、未熟者よ』
未熟者。
まだそれで呼ぶんですね。
『なんじゃ。名で呼んでほしいのか?』
俺の不満が顔に出ていたらしい。
『呼んでほしかったら、その(笑)を卒業するのだな』
冷たく言われてしまった。
まだ駄目ですか。
俺なりに頑張ってるんですけど。
『さて、報告を聞こうと思ったのじゃが……その前に』
女神様は手にしていたカップを見つめると、少し不満そうな顔をした。
『もう茶は飽きた。先ほどから、こればかりじゃ』
ブラスさんの表情が引きつる。
一生懸命淹れてたのに。
『ここは飲食店なのじゃろう? 何か別の物を所望する』
始まった。
神様の無茶振りだ。
だったらヘイムの方へ行きませんかと提案してみたのだが、
女神様はあっさりと首を横に振った。
『私は騒がしいのは好かん』
『こうして静かな場所で、静かに過ごすのが好きなのじゃ』
そう言いながら、湖と世界樹へ視線を向ける。
『ほれ、酒でも出さんか』
『月に世界樹。ここは酒を飲むには良い場所じゃ』
確かに綺麗ですよね。
空には月。
目の前には月明かりを映す湖。
そして、その向こうには巨大な世界樹が聳え立っている。
お酒を飲みながら眺めるには、最高の場所なのかもしれない。
ただし。
反対方向にある帝都では、今まさに火の手が上がっていますけど。
貴方様にも関係ありますよね?
まあ、それは置いておくとして。
お酒と言われても、俺が分かるのは料理酒くらいだ。
食事と一緒に飲むようなお酒なんて全然分からない。
一度ヘイムへ戻って、セバスさんにでも聞いてこないと。
そう断って戻ろうとしたところで、女神様が俺ではなく師匠を見た。
『何をしておる。そこにあるじゃろう』
えっ?
『海底から、七葉にたんまり貰った物が』
女神様の視線が師匠へ向く。
師匠が口を開けたまま固まった。
『……いや。なんで。あれは私のよ』
何言ってるんですか。
違いますよね?
ヘイムのみんなへのお土産ですよね?
俺がジト目で見ると、
師匠は大事な宝物でも守るような雰囲気で抵抗している。
でも、あまりにも嫌がるので少し可哀想になってきた。
分かりました。
今度、先輩にお願いして、また貰いましょうね。
そう説得して、ようやく一本出してもらった。
でも師匠、俺知ってますからね。
かなり沢山貰ってたでしょう。
一本くらいケチケチしない。
……と思ったのだが。
しばらくして、師匠があれほど嫌がっていた理由を理解した。
この一柱も飲兵衛だった。
ねえ。
神様って、こんなのばっかりなのかな。
残りの三大神もこんなのだったらどうしよう。
さて。
酒は用意できたとして、今度は酒のあてだ。
どうしようかと考えたが、すぐに思いついた。
この場でキッチンを呼び出して料理してもよかったのだが、
空と湖に浮かぶ月、そして夜空に聳え立つ世界樹。
この美しい景色の中に、
いきなりキッチンを出すのはさすがに似合わない気がする。
俺は新しく建った神殿へ入ることにした。
『大地母神』様の神殿と同じ造りなら、キッチンもあるはずだ。
料理を作る間、誰か女神様のお相手をしてくれないと困るので、
俺はノートさんを見る。
「えっ」
ノートさんが明らかに動揺した。
お願いします。
俺、料理してきますから。
助けを求めるように周囲を見回しているが、
いつの間にかブラスさんの姿が消えていた。
逃げたな。
さすがブラスさん。
こういう時の判断が早い。
それとも、ついてきたシロに任せる?
俺がシロを見ると、ノートさんが深いため息をついた。
「覚えていろ、ブラス……」
肩を落としたノートさんは、
諦めたように『夜を司る女神』様のところへ戻っていった。
さて。
何を作ろうか。
酒のあてを考えながら神殿のキッチンへ入った俺には、
西園寺公爵領へ行った時から作ってみたいと思っていた料理があった。
刺身と握り寿司だ。
西園寺公爵領の街を回った時、みんな美味しそうに食べていたんだよな。
俺も食べたかった。
ラーメンの時と同じだ。
食べられないなら、自分で作ればいい。
刺身に関しては西園寺公爵領へ行く前から練習を始めており、
今では一応、お客様へ出せるくらいにはなっていた。
問題は寿司だ。
ちらし寿司ならなんとか。
巻き寿司はまだまだ。
まして握り寿司なんて、もってのほかだった。
だから今回、改めて修行することにした。
もっとも、それはまだヘイムのキッチンへ戻りたくないという、
俺自身への言い訳でもあった。
西園寺公爵領にいる間、俺はこっそりファストトラベルでヘイムへ戻り、
マルタさんにお願いして魚介類を仕入れるためのお金を貰っていた。
その時に仕入れた魚介類を師匠に出してもらい、冷蔵庫へ並べていく。
まずは酢飯を作るため、米を研いで炊飯器へ入れる。
炊き上がるまでの間に、魚を捌いておこう。
包丁を手に取り、魚へ刃を入れる。
その瞬間だった。
さっきの戦場が頭に浮かんだ。
地面に倒れた魔族達。
流れていた血。
一瞬、気分が悪くなる。
それでも、体に染みついた動作と料理スキルのおかげなのか、
手は止まらなかった。
魚を捌き、皮を引き、部位ごとに切り分けていく。
これが獣肉だったら無理だっただろうな。
魚介類で助かった。
そう思いながら作業を続ける。
ちなみに、俺が好きな寿司は卵の握りと鉄火巻き、それに稲荷寿司だ。
よく「お子ちゃま」と言われるけど、
好きなものは好きなんだから仕方ない。
自分の好物を中心に、それぞれのネタを用意していると、
キッチンの入口からノートさんが顔を出した。
あれ?
女神様のお相手をしなくていいの?
「手酌でやるからいいと言われた」
ノートさんは、げっそりした顔で答える。
「それに、そんなにガチガチに緊張している者が側にいたら、
気になって酒を楽しめないと言われてしまった」
ああ。
それで追い出されたんですか。
「だから、酒のあてを取ってこいとな」
なるほど。
「お相手はシロがしている」
シロが?
女神様とシロが一緒にいる姿を想像していると、
ノートさんが少し声を潜めた。
「なあ。あれもフェンリル様なんだよな? 使徒様なんだよな?」
そうですよ。
俺が当たり前のように答えると、ノートさんは深いため息をついた。
「世界樹に神々にフェンリル……ここは本当に別世界だな」
遠い目をしている。
「俺には恐れ多いことばかりだ。もう居住区で大人しくしているよ」
あっ。
そういえば。
「でも、『夜を司る女神』様の神殿ができたんだから、
誰か管理しないといけないんじゃないですか?」
「……ん?」
「居住区からも近いですし。ブラスさんみたいにさ。
住み込みか、通いかは分かりませんけど」
ノートさんの顔が固まった。
そして、ゆっくり俺を見る。
「それは……俺達の一族からか?」
まあ、『夜を司る女神』様を信仰している一族なんだし、
その方が自然じゃないですか?
「無理だ」
即答された。
「みんな俺と似たような反応をするぞ。
全員がブラスみたいに心臓に毛が生えているわけではない」
酷い言われようだな、ブラスさん。
「なんであいつは、神々の前で平然としていられるんだ……」
ノートさんが頭を抱えて唸り始める。
まあ、別にヘイムで働いている誰かにお願いしてもいいだろうし、
帝都にある『夜を司る女神』様の神殿へ相談してもいいと思う。
でも、せっかくなら『夜を司る女神』様を信仰する
雪原のフェンに住む一族から誰か出してもいいと思うんだけどな。
とはいえ、神殿が建った今日の今日で決める必要もないだろう。
「まあ、その辺は後で考えましょう」
「……そうしてくれ」
俺は出来上がった刺身を綺麗に盛り付け、ノートさんへ渡した。
「とりあえず、これをお願いします」
「お、おう」
刺身の盛り合わせを受け取ったノートさんは、
覚悟を決めたような顔をして、再び『夜を司る女神』様のもとへ戻っていった。
これだけあれば、しばらく持つだろう。
ネタの用意ができたので、
ご飯が炊き上がるまでの間に別の料理を作ることにした。
やはり料理は楽しい。最初は刺身だけ作るつもりだったのに、
一度始めると次から次へと作りたくなってしまう。
野菜もあるし、エビもある。
小麦粉、卵、水を混ぜて天ぷらの衣を作り、鍋に米油を入れて火にかける。
油が適温になったところで、衣をつけた具材を次々と揚げていく。
野菜の天ぷらに海老天。
油の中へ具材を入れるたび、パチパチと小気味いい音が響き、
香ばしい匂いがキッチンの中に広がっていく。
夢中になって次々と揚げていると、
「ワフッ、ワフッ」
足元から鳴き声が聞こえた。
見ると、いつの間に入ってきたのかシロが俺の足元に座り、
尻尾を振りながらこちらを見上げている。
こら。
キッチンに入ったら駄目って言っただろう。
それに今は油を使ってるんだぞ。油が飛んだら危ないだろう。
俺が注意しても、シロは揚がっていく天ぷらから目を離さない。
なんだ。
お前もお腹が減ったのか。
確かに、天ぷらのいい匂いがしているし、
油で揚がる音も食欲をそそるからな。
食べたいのか?
でも、天ぷらってあげても大丈夫なんだろうか。
シロは犬でも狼でもなく神獣らしいけど、こういう食べ物は問題ないのかな。
雑食らしいとは聞いているけど……。
念のため料理鑑定を使って確認する。
特に問題は出ていない。
じゃあ大丈夫なのかな。
「仕方ないな。熱いから気をつけろよ。
それと、もう遅い時間だから今日だけだからな」
俺は一度火を止め、大量に揚げた天ぷらの中から幾つか取り分けて餌皿に入れる。
「ほら。ここは危ないから、外で食べるんだぞ」
皿を持って外へ出ると、シロは嬉しそうについてきた。
目の前に置いてやると、少し匂いを嗅いでから勢いよく食べ始める。
気に入ったらしい。
その様子を眺めていると、刺身の皿を返しに来たノートさんが現れた。
今度は出来上がった天ぷらを『夜を司る女神』様のところへ持っていくらしい。
ノートさんは天ぷらを受け取りながら、
シロが普通に料理を食べている様子を何とも言えない顔で見つめた。
「……大丈夫なのか、それ」
「料理鑑定では問題ないですよ」
俺が答えると、ノートさんは俺とシロを交互に見たあと、深いため息をついた。
「やっぱり、お前らはおかしい」
そう言い残して、天ぷらを持って女神様のところへ戻っていく。
大丈夫。
そのうちノートさんもこちら側になるから。
ちょうどその時、炊飯器からご飯が炊き上がったことを知らせる音が聞こえた。
随分早いな。
でも、この世界の炊飯器ならこれで問題ないらしい。
蓋を開けてみると、ちゃんとふっくら炊けている。
さすが魔道具と言うべきか。
俺は炊き上がったご飯を寿司桶へ移し、
あらかじめ用意しておいた寿司酢を回しかける。
しゃもじで切るように混ぜ、全体へ均等に寿司酢を行き渡らせていく。
問題はここからなんだよな。
握れるくらいまで、ちょうどよく冷めるのに少し時間がかかる。
魔法で冷ましてもいいけど、別に急いでいるわけでもない。
それに天ぷらも出してあるから、しばらくは大丈夫だろう。
自然に冷ますことにする。
やることがなくなったので椅子に腰掛け、外を見る。
お腹いっぱいになったのか、
シロは芝生の上で丸くなり、気持ちよさそうに眠っていた。
さっきまでの戦場が嘘だったみたいに静かだ。
月明かりが湖を照らし、その向こうでは世界樹が風に葉を揺らしている。
そんな光景をぼんやり眺めていると、ノートさんが俺を呼びに来た。
「ヴァルナ。女神様がお呼びだ」
ええ。
今度は何ですか。
まさか、天ぷらが足りないとか、別の物を作れとかじゃないだろうな。
作れと言われても、もう神殿のキッチンにある食材だけでは限界があるぞ。
追加するなら一度ヘイムへ戻らないといけない。
そんなことを考えながら『夜を司る女神』様のところへ戻る。
すると、まず目に飛び込んできたのは泣いている師匠だった。
……どうしたんですか。
その理由はすぐに分かった。
『夜を司る女神』様の側には、空になった酒瓶が幾つも転がっている。
こんな短時間で、こんなに飲んだの?
師匠は自分の酒が次々と消えていくのがよほど悔しいらしく、
今にも泣き出しそうな顔で空瓶を見ている。
いや、もう泣いてるか。
でもエマさんも結構持って帰ってたでしょう。
……ああ。
エマさんのことだから、女神様に言われても自分の分は絶対に出さないか。
あの人なら何があっても自分の取り分だけは確保するだろう。
師匠。
宮仕えって辛いですね。
俺が同情の眼差しを向けていると、
『夜を司る女神』様が手にしていた杯を静かにテーブルへ置いた。
そして俺へ、近くへ来いと手招きする。
何だろう。
さっきまでの酒飲みとは違い、どこか空気が変わった気がした。
俺が側へ近づくと、女神様はまっすぐ俺を見る。
『どうであった。この世界の事実を見た気分は』
一瞬、意味が分からなかった。
でもすぐに分かる。
恐らく、魔族達との戦闘のことだ。
その言葉を聞いた瞬間、頭の中に魔族達の死体が浮かんだ。
地面を流れていた血。
鼻についた、生臭い匂い。
もう何も映していないはずなのに、最後まで俺を恨めしそうに見ていた目。
料理を作る楽しさで、ようやく忘れかけていたのに。
思い出してしまった。
胸の奥が重くなる。
『あんなもの、ほんの一部にすぎん。それも、かなり軽い部類じゃ』
女神様は淡々と告げる。
『今もこの世界のどこかで、もっと残酷で無慈悲なことが起こっておる』
『どれほど止めるよう言うても、人は止めはせん』
静かな声だった。
怒っているようにも、悲しんでいるようにも聞こえない。
『それどころか、私達の言葉を都合よく解釈し、誇張し、
自らの欲望を満たすために利用しよる』
『夜を司る女神』様の顔は無表情で、何を考えているのか分からなかった。
長い年月を生きてきた神様だからこそ、
もう怒ることにも疲れてしまったようにも見える。
ふと女神様が視線を俺から外す。
『人間どもより、こ奴らの方がよほど賢い』
『無駄で無益な争いはせん』
そう言って、いつの間にか側へ来ていた太郎と花子の頭を撫でる。
二匹は女神様の手を嫌がることもなく、静かにされるがままになっていた。
女神様はしばらく何も言わず、
二匹の頭や首筋をゆっくり撫でていたが、やがて手を離す。
すると太郎と花子は眠っているシロのところへ歩いていき、
その小さな体をそっと咥えた。
そのまま軽々と地面を蹴り、夜空へ舞い上がる。
二匹は湖を越え、
世界樹の根元へ着地すると、しばらく周囲を歩き回っていた。
良さそうな場所を見つけたのだろう。
やがてシロを真ん中にして横になり、親子三匹で静かに眠り始めた。
その様子を見つめながら、女神様が再び口を開く。
『人の世のことは、人の手で』
『これは私達のお決まりの言葉じゃ』
女神様は遠くを見るように世界樹へ視線を向けた。
『一人立ちを促すための言葉ではあるが……同時に、諦めでもある』
……諦め。
『何度介入しても、人は争いを止めん』
その声にも、やはり感情はほとんど表れていなかった。
ただ、その無表情が逆に重く感じる。
どれほど長い間。
どれほど多くの争いを見てきたのだろう。
女神様はしばらく眠っているフェンリル達を眺めていたが、
やがてその視線を俺へ戻した。
『怖かったか』
少し間を置いて続ける。
『恐ろしかったか』
俺は何も答えられなかった。
『その与えられた力を、振るいたいとは思わなかったか』
……思った。
怖かった。
恐ろしかった。
そして、あのどす黒い何かに飲み込まれそうだった。
怒りに任せて、全部壊してしまえばいい。
自分にはそれができるんじゃないか。
そんな感情が、一瞬ではなく確かに自分の中にあった。
女神様は俺の顔を見ながら、静かに頷いた。
『よく踏みとどまったな』
その言葉に顔を上げる。
『あのまま飲み込まれておったら、私が直接手を下しておったぞ』
……えっ。
手を下すって。
それは、もしかして。
『当たり前であろう』
女神様の声が僅かに低くなる。
『新たな魔王の誕生など、許すものか』
魔王。
その言葉が、思った以上に重く胸へ落ちた。
俺が?
『ただでさえ、そなたの周りには厄介な者がおるが』
そこで女神様の視線が俺の後ろへ向いた。
『私達とて、黙って見ているわけではないぞ』
その時、女神様が初めて笑った。
でも、それは今まで見せていた楽しげな笑顔とは違った。
冷たい。
鋭い。
ああ。
この方は、本当にこの世界を統べる主神なんだ。
そう思わせるような笑みだった。
そして、その視線の先。
俺の後ろには、いつの間にかキューブが立っていた。
「マスター。ご報告を」
いつも通りの落ち着いた声だった。
「お客様方はお風呂へ入られ、それぞれのお部屋で休まれております」
キューブは淡々と報告を続ける。
「アンリ様方だけは、お仲間が戦っているのに休めぬと仰られまして、
現在リビングで軽い食事を取られております」
そうか。
やっぱりアンリ先生達は寝ないんだ。
あれだけ疲れているんだから、少しくらい休めばいいのに。
「エマ達も配置は済んでおります」
……配置?
何の配置?
キューブはそう言ってから、『夜を司る女神』様へ視線を向けた。
女神様も、その視線を正面から受け止める。
ちょっと。
どうしていつもそうやって神々と睨み合うの。
仲良くしなさい。
「マスターの仰せのままに」
俺がそう言うと、キューブは一歩だけ後ろへ下がった。
でも視線は『夜を司る女神』様から外していない。
女神様も何も言わず、キューブを見返している。
ふと世界樹の方を見ると、
さっきまで眠っていたはずの太郎と花子まで起き上がっていた。
何なの、この緊張感。
「もう。女神様も何か用事があったのでしょう」
俺はパンッと手を叩き、強引に空気を切り替える。
いいから話を戻しましょう。
『そうじゃな』
女神様は何事もなかったかのように俺へ視線を戻した。
『そなたの口から直接聞きたい』
『何を見て、何を感じた』
俺は少し考えてから、
魔族達との争いの現場を見てから今まで考えていたことを話し始めた。
俺は、この世界の綺麗な部分しか知らなかった。
アンリ先生達はずっと、この世界の醜い部分にも向き合っていた。
政治。
争い。
裏切り。
人が傷つき、時には死ぬこと。
俺はそれを側で見ていたくせに、どこか他人事として見ていた。
知ったつもりになっていた。
実際に目の前で人が死ぬまで、本当の意味では何も分かっていなかった。
怖かった。
恐ろしかった。
そして、その恐怖を忘れるために、
もっと大きな力を振るいたいと思ってしまった。
自分を怖がらせるものを全部消してしまえば、もう怖くなくなる。
そんな気持ちが、自分の中に確かにあった。
それだけじゃない。
怒りも。
悲しみも。
自分の感情なのに、上手く制御できない。
もしまた同じようなことが起きたら、今度も踏みとどまれるのか分からない。
「俺、どうしたらいいんでしょうね」
最後には、そんな言葉しか出てこなかった。
俺の話を黙って聞いていた『夜を司る女神』様は、
しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに口を開く。
『全ては、心が未熟なまま覚醒してしまったからじゃ』
俺が?
『もっと時間をかけ、この世界を学んでほしかった』
『だが、覚醒したものは仕方がない』
女神様は俺の胸元でも見るように、少し目を細める。
『ならば、その力と感情を制御する術を学ばねばならん』
『それを学ぶために、私達もおる』
少し間を置き、
『そして、もし道を踏み外せば――』
女神様の視線が再びキューブへ向いた。
やめて。
また睨み合わないで。
それができたら苦労しないよ。
師匠達が今まで上手く誘導してくれていたから、どうにかなっているけど。
今回だって騎士団総長が止めに来てくれなかったら、
俺はどうなっていたのか分からない。
考えるだけでため息が出る。
すると女神様が、そんな俺を見て小さく笑った。
『案ずるな』
何を安心しろと言うんですか。
『学ぶべき試練なら、これからいくらでも向こうからやってくるぞ』
……えっ。
俺が顔を上げると、女神様は楽しそうに笑い始めた。
『別に、私が用意するわけではないぞ』
いや、今ちょっと疑いました。
『大きな力にはな、向こうから厄介事が寄ってくるものじゃ』
嬉しくない。
全然嬉しくない。
そんな俺を無視して、
女神様は世界樹の根元にいるフェンリル達へ視線を向けた。
『まずは、あ奴らの住処を整えてやれ』
……え?
俺もフェンリル達を見る。
「えっ。フェンリル達、ここに住むんですか?」
元の住処へ戻らないの?
『何を言っておる』
女神様は呆れたように俺を見る。
『そなた、フェンリルの赤子を使い魔にしたのであろう』
……あ。
『まだ赤子であるシロを、太郎と花子から引き離すつもりか?』
そうだった。
俺はシロに親も飼い主もいないと思っていたから、
使い魔として一緒にいることにした。
でも今は、その親が見つかっている。
……ということは。
太郎と花子もここに?
いや。
まさか。
俺は少し嫌な予感がして、女神様を見る。
親だけですよね?
飼い主まで一緒だなんて言わないですよね?
『さて、良い神殿も建ったし、ここは静かでよい』
『で、まだか。寿司の用意はまだできんのか』
……やっぱり、他の二柱と同じように居座るつもりですよね。
俺はもう諦めて、神殿のキッチンへ戻ろうとした。
『まあ待て』
呼び止められて振り返ると、『夜を司る女神』様が軽く手を振った。
その瞬間、首から下げたままになっていた
『大地母神』様のアミュレットが淡く光る。
「……ん?」
俺は胸元のアミュレットを手に取る。
あれ。
こんなんだったっけ。
最初は大地を表す黄色の石が嵌められていたはずなのに、
いつの間にか紫と黒の石まで増えている。
『ふっ。少しは気づいてやれ』
女神様が呆れたように笑った。
『黒の石なら、だいぶ前からついておるぞ』
えっ。
全然気づかなかった。
『あの男、豪快そうに見えて意外とナイーヴだからな。
こっそり加護を与えておったぞ』
あの男?
ええと。
『大地母神』様が黄色。
今の物言いだと、紫が『夜を司る女神』様。
じゃあ黒って、もしかして……。
「『軍神』様?」
『夜を司る女神』様が頷いた。
マジか。
全然気づかなかった。
影薄いよ、『軍神』様。
……いや。
いつもヘイムで騒いで、かなり目立ってるけどさ。
そう思いながら改めてアミュレットを見る。
すると、今度は別のことに気づいた。
三つの石は、中央にある何かの模様を囲むように配置されている。
……ん?
この配置。
どこかで見たような。
俺はアミュレットと、湖の周囲に建つ神殿を交互に見る。
似てない?
慌てて黒い石がある方向へ顔を向ける。
でも、そこに『軍神』様の神殿はない。
うん。
気のせいだ。
偶然だよね。
なぜか一瞬だけ、世界樹を中心にして湖の周りに
六つの神殿が建ち並ぶ光景が頭に浮かんだけど。
気のせいだ。
絶対気のせい。
『それとな』
現実逃避している俺に、女神様が声をかける。
『飲めぬ酒を飲んで寝ようと思っているようじゃが、それはやめておけ』
……え。
なんで知ってるんですか。
『確かに、嫌なことを忘れて眠れるかもしれん』
女神様は静かに杯を置いた。
『じゃが、魔法使いの夢はな、全てとは言わんが、
誰かが助けを求めるためのものだったり、警告だったりする』
俺は思わず女神様を見る。
『とても大切なものじゃ』
『気になることがあるなら、
そこの『大地母神』の使いにでも相談するとよい』
女神様は少しだけ表情を柔らかくした。
『もっと私達を頼れ』
『この世界へ転移してきた者であろうと、
この世界で生きている以上、私達の子であることに変わりはない』
その言葉に、俺は何も返せなかった。
少しだけ胸の奥が軽くなった気がする。
……と思った次の瞬間。
『夜を司る女神』様が空になった杯へ酒を注ごうとして、
酒瓶まで空になっていることに気づいた。
そして、ゆっくり師匠を見る。
師匠の顔が引きつった。
『……』
女神様は何も言わない。
ただ見る。
『……うぅ』
師匠が泣きながら、新しい酒瓶を取り出した。
宮仕えは辛いですね。
本当に。
さすがに見ていて可哀想になってきた。
今度、本当に先輩に頼んであげよう。
さて。
どうせ寿司を作るなら、目の前で握った方がいいだろう。
俺はアイアンガーデンセットの近くに握り台や必要な道具を召喚し、
それから今度こそ神殿のキッチンへ戻った。
一度にネタや酢飯を全部運ぶのは無理なので、
キューブを呼んで手伝ってもらう。
酢飯、寿司桶、包丁、皿。
それに、ネタを入れた保冷機能付きのケース。
必要な物を何度かに分けて運び終えて戻ると。
「……増えてる」
白いアイアンガーデンセットには、三柱が揃って座っていた。
『夜を司る女神』様。
『大地母神』様。
そして『軍神』様。
いつ来たの。
しかも三柱揃って、師匠に酒をせびっている。
師匠は半泣きだった。
……本当に先輩にお願いしてあげよう。
こうして、夜の世界樹を眺めながらの簡単な寿司パーティーが始まった。
俺は握り台の前に立ち、酢飯を取って寿司を握っていく。
三柱は次々と寿司を食べている。
それだけじゃない。
師匠までやけ食いしていた。
いつもなら俺の握りを見て、
『なってません』
だの、
『握りが甘い』
だの、色々文句を言いそうなのに。
今日はそれどころじゃないらしい。
取られた酒の恨みを、寿司にぶつけているように見える。
ノートさんも食べればいいのに。
「ノートさんも食べます?」
「こんな状況で食えるか、馬鹿!」
怒鳴られた。
何がそんなに怖いのか。
三柱とも普通に寿司食べてるだけですよ。
……神様だけど。
そんな中、キューブがふとヘイムの方へ顔を向ける。
「新たなお客様のようですね」
そう言うと、そのまま静かにヘイムへ戻っていった。
また誰か来たのかな。
こんな時間に誰だろう。
トール夫人やハーケン夫人なら、
キューブも今さら「お客様」とは言わないだろうし。
まあいいか。
俺は考えるのをやめ、ひたすら寿司を握る。
最初は料理魔法でブーストしようかとも思った。
でも、さっきから色々ありすぎて疲れたので、使うのをやめた。
酒を取られた師匠の仇だ。
これくらいの意趣返しは許されるだろう。
未熟な握り寿司を食うといい。
……いや。
別に不味くはないよ。
商売としてお客様に出せるほどじゃないだけで、
身内に食べてもらう分には十分な味だと思う。
だから安心して食べてください。
そうして黙々と握っていると、
「いいかな、ヴァルナ殿」
聞き覚えのある声がした。
顔を上げると、ベルンさんが立っていた。
「あっ、ベルンさん」
なんだか、ものすごく久しぶりな気がする。
留守の間、ヘイムのことをありがとうございます。
ベルンさんは軽く頷いたあと、俺の周囲を見回す。
さすがに『大地母神』様と『軍神』様の二柱には慣れてきたみたいだけど、
今日はさらに一柱増えている。
そのせいか、普段より少し戸惑っているように見えた。
まあ、そうなるよね。
そんなベルンさんの後ろから、ひょこっと顔が一つ覗いた。
……あれ。
「ソフィーさん?」
ハーケン夫人のお孫さん、ソフィーさんだった。
「よう、コック――じゃなかった」
いつもの勢いで言いかけて、慌てて言い直す。
「ええと……ヴァルナ様」
「いや、コックでいいですよ」
思わずため息が出た。
様付けされるような立派な人間じゃないし。
ソフィーさんは少し考えてから、ポンと手を打った。
「そうか。そうだ。ハルの奴が店長さんって呼んでたな」
それならまだいいかな。
「店長さんよ。一応、終わったぜ」
終わった?
恐らくハシュバルト公爵邸のことだ。
「ばばぁからは、もう遅いから報告は明日にしろって言われたんだけどさ」
ハーケン夫人ですね。
本当に呼び方変わらないな。
「姫様も待っててくれたし……」
そこでソフィーさんの声が少し小さくなる。
「それに、ハルの奴が心配だったから」
最後の方はかなり小さくて聞き取りづらかった。
でも、どうやらハルヴィンダちゃんのことが心配で、
屋敷へ戻らずそのままヘイムまで来てくれたらしい。
優しいじゃん。
本人には絶対言わないんだろうけど。
残念ながら、ハルヴィンダちゃんはもう眠っている。
ソフィーさんは先にアンリ先生へ報告を済ませ、
その後キューブに「マスターにも報告を」と言われて、
ここまで連れてこられたそうだ。
ただ。
俺がいるだけだと思っていたらしい。
まさか、その側に三柱も神様がいるとは思っていなかったようだ。
ガイアースブルク侯爵領や飛空艇で見せていた、
あの勇ましい姿はどこへ行ったのか。
腰が完全に引けている。
その様子を見たノートさんが、深く何度も頷いていた。
「そうだ。それが普通なんだ」
何に納得してるんですか。
そんなソフィーさんに気づいたのか、
『夜を司る女神』様がこちらへ顔を向けた。
『そこの娘』
ソフィーさんの肩がビクッと跳ねる。
『こちらへ来い』
明らかに顔が引きつった。
どうやら女神様は、ハシュバルト公爵邸で何があったのか、
本人の口から直接聞きたいらしい。
しかも『大地母神』様と『軍神』様までソフィーさんへ視線を向ける。
三柱から一斉に注目されたソフィーさんが、助けを求めるように俺を見る。
……いや。
そんな目で見られても。
俺、ハシュバルト公爵邸で何があったか知らないから。
むしろ俺も知りたい。
特に、あの怪獣大決戦は一体何だったのか。
俺は三柱の前へドナドナされていくソフィーさんへ、
心の中でエールを送りながら寿司を握り続ける。
頑張れ。
生きて帰ってきて。
「あっ、ベルンさんも食べます?」
師匠のニューワールド講座 118
~師匠のお酒がなくなりました編~
「師匠」
『なんです』
「そう、いじけないでくださいよ」
『いじけてなんかいません』
「でも……」
『ただ、私の取り分がなくなって……』
『なくなって……』
「…………」
『…………』
なんか、ものすごく落ち込んでいる。
「ええと……こんな時に言うのもあれですが」
『なんです』
「ヘイムのみんなへの、お土産の分は?」
『…………』
「…………」
『…………』
「師匠?」
『大丈夫です』
師匠がゆっくりと顔を上げる。
『それは死守しました』
「おお!」
『ですが……』
師匠の視線が、どこか遠くへ向かう。
『確か、エマもお土産分を持っているはずです』
「……はい?」
『ならば、こちらで預かっている分を少しくらい――』
「駄目ですよ」
『まだ何も言ってませんよ』
「みんなへのお土産ですからね」
『…………』
「駄目ですからね?」
『分かっていますよ!』
師匠が少しムッとする。
『そこまで落ちぶれていません!』
「ならいいんですけど」
『でも……』
「でも?」
『でもでも!』
師匠が堪えきれなくなったように声を上げる。
『楽しみにしていたんですよ!』
「は、はい」
『それなのに、あの柱達!』
『私の分まで全部飲むんですよ!』
「全部?」
『全部です!』
『私が何本がめていたのか、ちゃんと知っていて!』
「がめてたって自分で言った……」
『一本くらい残してくれてもいいでしょうに!』
『最後の一本まで!』
『綺麗さっぱり!』
『全部飲み干して!』
「…………」
『酷い!』
師匠が天を仰ぐ。
『あんまりです!』
『私が何をしたというのですか!』
「いや、それは俺に聞かれても……」
『そもそもですよ!』
嫌な予感がする。
師匠がこちらを指差した。
『ヴァルナさんという、特大の問題児を私に押し付けておいて!』
「ちょっと!?」
『それくらいの役得があってもいいと思いません!?』
「いやぁ、そんなこと俺に言われても……」
「それに――」
「特大の問題児って……」
『…………』
「…………」
ちょっと腹が立ってきた。
「先輩に頼むの、やめようかなぁ」
『なっ!?』
師匠の顔色が変わった。
『そ、そんな!』
『何を言っているのですか!』
「だって俺、特大の問題児なんでしょう?」
『ヴァルナさんは特大の――』
師匠の言葉が止まる。
『…………』
「特大の?」
『…………』
師匠の中で何かが激しく戦っている。
『い、いえ……』
「いえ?」
『…………』
「…………」
『どう繕っても問題児です』
「おい!」
『馬鹿弟子です!』
「もっと酷くなった!」
『仕方ないでしょう!』
師匠が悲痛な声を上げる。
『私には――』
『お酒のためとはいえ、嘘はつけません!』
「そこは嘘つけよ!」
『ああ……』
師匠が崩れ落ちる。
『私はどうすれば……』
「知らないですよ」
『私のお酒……』
「諦めてください」
『最後の一本くらい……』
「もう飲まれたんでしょう?」
『うぅ……』
「…………」
『…………』
「…………」
なんだこれ。
「駄目だこりゃ」
『何がです?』
「今回――」
「何の講座にもなってないじゃないですか!」
『…………』
「…………」
『お酒の大切さについての講座です』
「違うよ!」
作者メモ
※本編のおまけ設定です。読み飛ばしても問題ありません。
※本編とは時空が違います。
※本編の都合により、設定が変わる事があります。




