123 そんなこと知るか
もういい加減にしてくれないだろうか。
足の感覚がない。いつまでこの姿勢で説教を受けないといけないのか。
もう、なんで怒られているのかすら覚えていない。
途中で右から左へ聞き流していたのがバレたことと、
正座がきつくなって、魔法でバレないように少しだけ浮かんだのがバレたせいで、
説教の時間がさらに伸びたことだけは覚えている。
もう許してください。
しかも、こんな所に座らされて羞恥プレイまでさせられるなんて嫌です。
泣きたいです。
それに、飛空艇の甲板なんて怖いです。俺、高所恐怖症なんです。
高い所、怖いです。
昔、飛行機に乗った時だって、離陸時と着陸時にはいつも無事を祈っていました。
いくらシールドが張られていて安全だと言われても、
こうして直接外にいるだけで怖いです。
学生達みたいにはしゃぐことなんてできません。
そんな学生達の騒ぎもいつの間にか収まり、
今度は代わりに軍人さん達が慌ただしく動き始めていた。
甲板には武装した騎士達の姿が増え、
あちらこちらで指示を飛ばす声が聞こえてくる。
ほら、俺、邪魔になりますから。
もう説教はやめましょう。
そう心の中で何度お願いしただろうか。
ようやく解放された頃には、
日はすっかり傾き、遠くに帝都の姿が見え始めていた。
真っ先に目に飛び込んできたのは、帝都にそびえる世界樹だった。
世界樹が視界に入った瞬間、
これまで世界樹の枝を通して感じていた繋がりが、
今まで以上に強くなる。遠く離れていた時とは違う。
直接、世界樹そのものと繋がっているような不思議な感覚だった。
ああ……視界の共有までできるようになった。
俺はその感覚に促されるまま、眼下へと意識を向ける。
そこには見慣れたヘイムがあり、その先には帝都の街並みが広がっていた。
ようやく帰ってきた。
短かったけど、とても濃い旅路だった。
引き籠りには辛いよ。
しみじみと帝都を眺めていたのだが、そんな俺の感傷などお構いなしに、
甲板はますます慌ただしくなっていく。
俺は作業の邪魔にならないように甲板の隅へ移動した。
……しまった。
隅へ寄ったせいで、余計に周りの風景がよく見えてしまう。
眼下には夕焼けに染まった帝都と、その周辺の大地が広がっていた。
綺麗だ。ものすごく綺麗なんだけど……高い。やっぱり怖いよ。
なるべく下を見ないようにしながら、甲板で交わされている声に耳を傾ける。
どうやら、まだ魔族達は見つかっていないようだ。
甲板中央では、騎士団総長を中心に幹部らしい騎士達が集まり、
各方面から届く報告を受けていた。
第六騎士団は、
今回の黒幕だというハシュバルト公爵の屋敷をすでに包囲したらしい。
それだけではない。帝室派や西園寺公爵、ブルボン公爵、カスパール侯爵に
属する貴族達も、それぞれ手勢を率いて帝都中の捜索を開始している。
その一方で、ハシュバルト公爵に味方する貴族や商人達との間で揉め事も
起き始めており、帝都内の空気は少しずつ不穏になっているそうだ。
次々と入ってくる報告を、騎士団総長をはじめとする幹部達は
不機嫌そうな顔で黙って聞いていた。
彼らが焦っている理由は、俺にもなんとなく分かる。
潜伏している魔族達に、こちらが捜索していると気づかれてはいけないのだ。
だから俺達を乗せた空挺師団は、不自然な動きをせず、
帝都の軍港へ一直線に向かっている。
ここで帝都上空を旋回しながら捜索なんてしようものなら、
魔族達に「自分達を探している」と教えているようなものだ。
しかも、もう帝都は目と鼻の先だ。
フェンリルの子供達を傷つける場所は、別に帝都の中である必要なんてない。
帝都近郊で傷つけられたとしても、
甲板にいる太郎と花子――親フェンリルはすぐに気づくだろう。
そうなれば、まずこの飛空艇が沈められる。
そして、そのまま二匹が暴れ始める。
それを防ぐためにも、フェンリルの子供達を傷つけられる前に
魔族を見つけなくてはいけない。
チャンスは一度きり。
しかも、残された時間はもうほとんどない。
それが分かっているから、みんな焦っているのだ。
そして今度は、先ほどまでの騒がしさが嘘のように甲板が静かになった。
準備はすべて整った。あとは情報を待つだけだ。
でも、その肝心の情報が入ってこない。
時間だけが過ぎていき、とうとう日は沈んだ。
遠くには帝都軍港の着陸誘導灯まで見え始めている。
このまま軍港へ入り、情報部やスカウト部隊による
陸上からの移動捜索に切り替えるべきか。
騎士団総長達が、そんな相談を始めていた。
なんかこう、衛星からの監視映像もあるのだから、
ゲームみたいに捜索できないものかね。
こう、MAPがあって、敵や味方がマーキングされているような……。
そう思った瞬間、いきなり目の前に地形MAPが広がった。
なんだこれ。
驚いている俺の頭に、世界樹から次々と情報が入ってくる。
地形だけじゃない。そこに生えている植物や生息している動物、
採取できる鉱物などの資源、川や丘の名前、
さらには洞窟の位置まで表示されている。
まてまて、情報が多すぎる。
少し絞れないのか。
あまりにも多い情報に戸惑いながらも、
ゲームの機能を操作するような感覚で一つ一つ整理していく。
こんなことをするのは初めてのはずなのに、なぜかできる気がした。
すげぇ。マジで魔法使いってチートだ。
まず、表示されているすべての情報をOFFにする。
そして、生命体の反応だけを表示するように意識してみた。
すると、MAP上に無数の光点が浮かび上がる。
そこからさらに条件を絞り、魔族だけを表示する。
いた。
数は……三十。
その近くにフェンリルは……ええと、シロを一度見ているから、
シロと同じ存在を探せばいいのか。
一、二、三、四。
四つある。
だけど、そのうち一つだけ輝きが弱々しい。
まずいかもしれない。
俺は咄嗟に声を上げた。
「アンリ先生!」
甲板中央で騎士団総長達と話をしていたアンリ先生が、
驚いたようにこちらを振り向く。
「なんじゃ。今は立て込んでおる。急ぎでないなら……」
「見つけた。魔族とフェンリル達」
その一言で空気が変わった。
アンリ先生だけでなく、
騎士団総長や周囲の幹部達まで一斉に俺のところへ近づいてくる。
「本当か。どこじゃ」
俺はすでに暗闇に沈み、肉眼ではほとんど見えなくなった森の方角を指さした。
……暗くて、何も分からないよな。
俺には実際の風景に地形MAPが重なるように見えているけど、
みんなには見えていない。
ええい、マーキングとかできないかな。
そう思ったら、できた。
便利だな、おい。
ただし、これを全員に見えるようにしたら、恐らく魔族達にも見えてしまう。
そのことを説明すると、騎士団総長が森を見つめながら尋ねてきた。
「どの辺ですかな」
俺はMAPを確認しながら、大体の方向と距離を伝える。
騎士団総長は一度だけ頷いた。
「分かり申した。ヴァルナ殿、ワシが合図したら可視化してくだされ」
そう言うと、少し後ろへ下がった。
何をするんだろうと思った次の瞬間、騎士団総長はいきなり全力で走り出し、
そのまま甲板から飛び出した。
えっ。
「今じゃ!」
「えっ、あ、はい!」
驚きながらも、俺は慌ててマーキングを可視化する。
暗闇の中に光点が浮かび上がった。
赤が魔族、青がフェンリルだ。
その瞬間、騎士団総長の足元から、空を蹴りつけるような音が響いた。
光点に向かって飛んでいく。
いや、跳んだんじゃないよ。
飛んだんだ。
空を。
その後を追うように騎士団長達も次々と甲板から跳び出していく。
こっちは……跳んでいる。でも、武器と鎧しか身につけていないのに、
そのまま空を駆けているように見えるんだけど。
他の騎士達もそれに続いて降下していくが、
こちらはちゃんと降下用の装備を身につけている。
なんなの、あの人達。
しかも俺、皆さんと会ってまだ半日くらいですよ。
そんな怪しいおっさんの根拠もよく分からない情報に、
いきなり飛びついていいの?
「何言っているの。
この場でヴァルナ殿のことを疑う人なんて、いるわけないじゃない」
俺の独り言が聞こえたのか、トール夫人が笑いながら船縁に足をかけ、
こちらを振り向いた。
「それに、もし間違っていても、
太郎と花子の相手はヴァルナ殿がしてくれるのでしょう?」
そう言い残すと、そのまま甲板から飛び降りた。
えっ、待って。
それ、どういうこと?
俺の情報が間違っていて作戦が失敗したら、俺がフェンリルとバトルするの?
無理無理無理。
「アンリちゃんは駄目よ。その足だと、万が一の時に大変だから」
続いて船縁へ向かっていたハーケン夫人が、アンリ先生を振り返る。
「みんな余裕がないから、今回はサポートできないわよ」
そう言って、ハーケン夫人も迷うことなく飛び降りた。
「なっ……!」
その後に続こうとしたアンリ先生の肩を、横からミレディさんが掴む。
「姫様、駄目ですよ」
「しかし!」
ミレディさんに止められ、
アンリ先生は悔しそうな顔で飛び降りていく者達を見送った。
……というか、アンリ先生も何の降下装備もつけてないですよね。
どうやって降りるつもりだったんですか。
まさか騎士団総長みたいに飛べるの?
この世界、本当に飛べる人がいるのか。
そんなことに感心していると、突然横から声が聞こえた。
「行くぞ、ハルヴィンダ」
「分かっています」
えっ。
俺のすぐ横をソフィーさんとハルヴィンダちゃんが駆け抜け、
そのまま二人揃って甲板から跳び出した。
えええっ!?
待って、おっさん聞いてないよ!
なんでハルヴィンダちゃんまで跳んでるの!?
参加するなんて聞いてないよ!
慌ててアンリ先生とミレディさんを見ると、
アンリ先生が困ったように顔をしかめた。
「学生達の参加は許可しておらん。だが、ハルがどうしてもと言ってな」
「どうやら先ほどグレーター級と戦った際、
自分だけが攻撃を受けて皆の足を引っ張ったと思い、
かなり落ち込んでおりまして」
ミレディさんが小さくため息をつく。
「そこを父上が……ああ、騎士団総長が通りかかって、
相談に乗ったようなのです」
嫌な予感しかしない。
ミレディさんは、さらに深いため息をついた。
「実戦あるのみ。実戦こそ最大の訓練」
そこで一度言葉を切り、ものすごく嫌そうな顔をする。
「経験こそが最大の訓練。強者への道などと、ほざきまして」
えっ、そうなの?
俺も今、ゲームみたいな地形MAPが見えるようになったし、
やっぱり実戦経験って――
「そんなわけあるか、たわけ」
考えていたことが顔に出ていたのか、アンリ先生に即座に怒られた。
「それで強くなれるなら、新兵どもは苦労せん。あれは、あの男だけじゃ」
アンリ先生は、すでに遠くへ飛んでいった
騎士団総長をボロクソに言い始める。
その横では、実の娘であるミレディさんまで真顔で頷いていた。
「父上はおかしいのです」
それ、本人には言わない方がいいと思うよ。
きっとすごく落ち込むから。
「それをハルヴィンダもソフィーも真に受けまして……」
ミレディさんは心配そうに、二人が消えていった夜の森を見つめる。
「不安です。夜戦なんて初めてでしょうに。
それに今回は、敵を殲滅すればいいというわけでもありません」
そうだよな。
シロの兄弟達を助けないといけないんだ。
俺も心配になり、二人が降りていった方角を覗き込もうとした。
その瞬間、視点がいきなり高くなった。
「へっ?」
間抜けな声を上げた次の瞬間、
体がくるりと回り、何か柔らかいものの上に落ちる。
フワフワしていて気持ちいい。
でも、こんなの甲板にあったっけ?
というか、さっきより視点が高い。
まさか……。
恐る恐る下を見る。
フェンリルの背中だった。
どうやら太郎か花子のどちらかが俺を咥え上げ、
そのまま首の辺りへ乗せたらしい。
まて。
まてまてまて。
嫌な予感がする。
待ってくれ。
そんな俺の願いなど当然聞くはずもなく、
フェンリルはそのまま甲板から跳んだ。
俺はきっと、この時ものすごく変な声を上げていたに違いない。
学生の頃、生まれて初めて乗った鼠の国の宇宙山のジェットコースター。
あんなもの比じゃない。
急落下したかと思えば、空中で急停止。
その直後には猛烈な勢いで急発進する。
上下左右の感覚なんて、もう分からない。
フェンリルは夜空を駆けながら、
子供達のいる場所へものすごい速度で向かっていく。
よく俺、落ちなかったな。
現場に到着した時には、戦闘はすでにほぼ終わっていた。
最初は、ただ「すげぇ」と思った。
だが次の瞬間、目に入ってきたものを見て、俺の思考が止まった。
死体だ。
魔族の死体。
斬られたのだろう。地面に倒れた体から、生々しい赤い血が流れ続けている。
魔族とはいえ、ついさっきまで生きていたのだ。
それが今は、物言わぬ塊になって転がっている。
吐きそうだった。
映画やアニメでは何度も見たことがある。
でも、本物は全然違う。
怖い。
なんだこれ。
怖い。
フェンリルの子供達を助けるためだ。それは分かっている。
でも、この場所を見つけたのは俺だ。
俺が場所を指定して、その結果ここに死体ができた。
悪党だから仕方がない。
そう簡単に割り切れない俺は、駄目なんだろうか。
胃液が喉元まで上がってくる。
駄目だ。
吐く。
『沈静』
師匠の声が聞こえた。
その瞬間、激しく込み上げていた吐き気が引いていき、
混乱していた頭も少しずつ落ち着いていく。
『フェンリル様。この者は、まだ何の覚悟もできていないのです』
師匠は俺ではなく、俺をここまで連れてきたフェンリルへ静かに語りかけた。
『この世界では当たり前の光景でも、
この者が受け入れるには覚悟がいるのです』
フェンリルは納得しかねるように低く声を上げたが、
師匠が何かを説明すると、最後には仕方なさそうに頷いた。
吐き気も混乱も治まった。
でも、気分が悪いのは変わらない。
きっと俺は、こういう光景に慣れることはないだろう。
いや。
慣れてしまったら、それはもう俺じゃない気がする。
でも、師匠がさっき言った。
これが、この世界では当たり前の光景なのだと。
現実を目の前に突きつけられた。
頭では理解した。
でも、理解したくなかった。
俺は本当に、この世界の綺麗なところしか見てこなかったんだ。
アンリ先生やトール夫人、ハーケン夫人達が関わっている政治だって、
きっとどこか他人事だったのだろう。
大変だなぁ。
そんな程度にしか考えていなかった。
俺の知らないところで、この人達はもっとドロドロしたものを見て、
時には自分の手で何かを決め、実行してきたのだろう。
何度目か分からないけど、本当に誰か教えてくれ。
どうすれば、そんな現実に向き合える覚悟ができるんだ。
本当に引き籠もりになりそうだ。
ヘイムに籠って、最低限の、自分にとって心地よい人達とだけ触れ合って
暮らしていけば楽だろう。
多分、今の俺ならそれが許される立場なのだ。
フェンリルの背中から降り、改めて戦闘の跡を見る。
俺は、どうしたいのだろう。
そう考えていると、先に降りていたトール夫人達と合流した。
俺が戦闘の跡を見つめていることに気づいたのだろう。
トール夫人が俺の視線を追い、少し表情を変えた。
「そうか。ヴァルナ殿は、こういうものを見るのは初めてなのね」
俺が何も答えられずにいると、トール夫人は倒れている魔族達へ視線を向ける。
「これが戦闘。殺し合いの場よ。これでも、まだましな方」
「ちょっと、アルマ」
横にいたハーケン夫人がたしなめるように声を上げるが、
トール夫人は止めなかった。
「戦争なんて、この何倍もの規模でもっと悲惨な状況になるわ。
演劇や物語で語られるような綺麗な英雄なんて、
実際の戦場にはどこにもいないのよ」
ハーケン夫人が困ったように抗議しているが、
それでもトール夫人は俺から目を逸らさない。
現実を見ろ。
そう言われているのだと思う。
厳しいな、トール夫人は。
でも、それは紛れもなく現実なのだろう。
そんな重くなった空気を変えるように、ハーケン夫人が俺の腕を掴んだ。
「ヴァルナ殿、ちょうどよかったわ。力を貸して頂戴」
力?
俺、戦闘の役には立てませんよ。
攻撃魔法なんて知らないし、そもそもそんな覚悟もないです。
戸惑う俺を気にする様子もなく、ハーケン夫人はそのまま引っ張っていく。
連れて行かれた先では、
何人もの騎士達が三匹のフェンリルの子供を取り囲んでいた。
よく見ると、その首には細い紐のようなものが巻かれている。
『グレイプニルですね。神獣を捕らえるための魔法の紐です』
師匠が、それを見た途端に言った。
グレイプニル?
どこかで聞いたことがある。
『本来は、『夜を司る女神』がペット……いえ、使徒であるフェンリル様が
まだ子供だった頃、お散歩の時に使っていたリードです』
……今、ペットって言ったよね。
『最近はもう大人になりましたので、宝物庫にしまわれていたはずなのですが……
誰かが勝手に持ち出したのでしょう』
師匠の声がだんだん険しくなる。
『そんなことができるのは……ああ、もう。他にも何かなくなっていそうですね』
何やら嫌なことに気づいたらしい。
そして次の瞬間には、
『もしもし、女神様ですか』
いきなり天界へ連絡し始めた。
『はい、そうです。至急、宝物庫の確認をお願いします』
……師匠、普通に電話みたいな感覚で神様へ連絡するんですね。
どうやらグレイプニルというのは、俺も北欧神話で聞いたことがある物らしい。
それでフェンリルの子供達を縛り、逃げられないようにしていたようだ。
騎士達も外そうとはしたらしいのだが、子供達は人間を警戒している。
なんとか落ち着かせても、
今度は人の手ではグレイプニルそのものを外すことができず、
困っていたところに俺が現れたというわけだ。
すると、太郎と花子が俺の背中を鼻先で押してくる。
えっ。
俺にやれってこと?
ハーケン夫人達でも外せなかったのに、俺にできるのかな。
不安になりながらも、太郎と花子が現れたことで少し落ち着きを取り戻した
子供達へ近づく。
警戒するようにこちらを見ているが、逃げようとはしない。
俺はゆっくり手を伸ばし、首に巻かれたグレイプニルへ触れた。
うーん。
これ、どうやったら外れるんだ?
そう考えた瞬間、腰に差していた世界樹の枝が淡く輝いた。
……そういうことか。
俺は世界樹の枝を抜き、その先端をグレイプニルへそっと当てる。
次の瞬間、今までどれだけ引っ張ってもびくともしなかった紐が、
何の抵抗もなくするりと外れた。
「おお……」
周囲の騎士達から驚きの声が上がる。
続けて残りの二匹からもグレイプニルを外すと、
自由になった子供達は嬉しそうに鳴きながら
太郎と花子のもとへ駆け寄っていった。
親子が鼻先を寄せ合う姿を見て、俺もようやく少しだけ息をつく。
よかった。
……あれ?
でも、三匹しかいない。
確か、シロ以外に四匹いるって言ってなかったか。
「あと一匹は?」
俺が尋ねると、ハーケン夫人の表情が曇った。
「そうなのよ。見つけて保護できたのは、この子達だけ」
トール夫人も周囲の森へ目を向ける。
「最後の一匹がいないのよ」
戦闘が終わってから、騎士達が周辺を捜索しているらしい。
しかし、まだ見つかっていない。
太郎と花子も落ち着かない様子で辺りの匂いを嗅いでいるが、
我が子の居場所が分からないようだった。
師匠が回収したグレイプニルを調べながら説明する。
『これを巻かれると、匂いも気配も外へ漏れなくなるようですね。
存在そのものを隠してしまう、と言った方が近いでしょうか』
なるほど。
だから太郎と花子でも子供達の居場所を見つけられなかったのか。
『恐らく、このせいで捜索に苦労したのでしょう。
唯一グレイプニルを巻かれていなかったシロの匂いだけは
追うことができた。それでガイアースブルク侯爵領まで
たどり着いたのだと思います』
それを聞いて、俺は急いで先ほどの地形MAPを呼び出した。
生命体の反応を表示し、条件をフェンリルへ絞る。
三匹。
ここにいる。
飛空艇にいるシロを除けば……あと一匹。
どこだ。
範囲を広げる。
森の中を探す。
そして――。
いた。
「いた!」
思わず声を上げる。
俺はMAPに表示された方向を指さし、そのまま走り出した。
そこから戦闘音が聞こえている。
そしてMAPには、最後のフェンリルの子供だけではなく、
見覚えのある反応も表示されていた。
ハルヴィンダちゃんだ。
たどり着いた時には、ハルヴィンダちゃんが一人で戦っていた。
ボロボロじゃないか。
見つけた時に吹くはずの呼子を使う余裕すらなかったのだろう。
肩で大きく息をしながら、それでも相手から目を離さずに立っている。
相手の魔族はかなりの手練れらしい。
ハルヴィンダちゃんよりも一回り大きな体で、
片腕にフェンリルの子供を抱えたまま、余裕を持って相手をしている。
俺達が現れたことに気づいても、その顔から笑みは消えなかった。
太郎と花子が我が子を見つけ、今にも跳びかかろうと身構える。
しかし、それを見た魔族はフェンリルの子供へ剣を向けた。
二匹の動きが止まる。
いくらエンシェント級のフェンリルでも、
その力を振るうより先に子供を傷つけられてしまう。
それに太郎と花子の力は大きすぎる。
下手に攻撃すれば、子供だけでなく
ハルヴィンダちゃんまで巻き込んでしまうかもしれない。
それが分かっているのだろう。
魔族は余裕の笑みを浮かべたまま、
フェンリルの子供を盾にするように抱え、
ゆっくりとその場から離れようとする。
「行かせません!」
間近にいたハルヴィンダちゃんが斬りかかった。
だが、何度か同じやり取りを繰り返していたのだろう。
魔族は慌てることもなく攻撃を軽くいなし、そのまま反撃の剣を振るう。
刃がハルヴィンダちゃんを斬り裂いた。
おい。
今、お前何をした。
ドンッ――と、何か大きな音がした気がした。
次の瞬間、俺を中心に膨大な魔力の圧が一気に広がった。
自分でも分かる。
何か、どす黒い感情が俺の中から湧き上がり、頭の中を支配しかけている。
俺の魔力圧をまともに受けたからなのか、魔族の動きが一瞬止まった。
その隙をハルヴィンダちゃんは見逃さなかった。
傷ついた体で再び踏み込み、魔族へ跳びかかる。
そして、その腕からフェンリルの子供を奪い返すことに成功した。
「この子は渡せません。これ以上、傷つけさせません!」
ハルヴィンダちゃんはフェンリルの子供を胸に抱き、
魔族から庇うようにその場へしゃがみ込んだ。
ああ……。
本当にボロボロじゃないか。
もう歩くことすらできないだろう。
こいつ……どうしてやろうか。
俺は世界樹の枝に手を伸ばすことすらしなかった。
なぜか、できる気がした。
見えない大きな魔力の手で魔族を握り潰す。
そんなイメージが自然に頭へ浮かび、
俺はゆっくりと手を前へ伸ばそうとする。
その時だった。
「よう吠えた。待たせたな」
いつ現れたのか、
騎士団総長がハルヴィンダちゃんと魔族の間へ割って入った。
同時に魔族の剣が振り下ろされる。
だが騎士団総長は、その一撃を真正面から受け止めた。
金属同士がぶつかる激しい音が響き、そのまま力任せに剣を打ち上げる。
「ぬぅん!」
魔族の巨体が宙へ舞った。
そして、その背後にはいつの間にか太郎がいた。
次の瞬間、太郎の巨大な前足が魔族を地面へ叩きつけるように踏み潰した。
終わった。
……でも。
怒りが収まらない。
騎士団総長がこちらを振り返り、困ったように苦笑する。
「ヴァルナ殿、お怒りはごもっともだが……どうか、その魔力を治めてくだされ」
どういうことだ。
「味方まで萎縮しておりますぞ」
そう言われて、初めて周囲を見る。
トール夫人もハーケン夫人も、顔色があまりよくない。
近くにいた騎士達も、動きが固まっている。
中には俺を警戒するように見ている人までいた。
いけない。
どうすればいい。
分からない。
また、やってしまった。
魔力をコントロールできていない。
これじゃ、いつか本当に誰かを傷つけてしまう。
『ほら。フェンリルの子もハルヴィンダも怪我をしています』
師匠の声が聞こえた。
『その荒れた魔力を、良いことに使いなさい』
良いこと?
『誰かを傷つけるためではなく、誰かを助けるために使うのです』
師匠の穏やかな声が、
頭の中に広がっていた黒い感情を少しずつ押し流していく。
『さあ、癒しをイメージしなさい』
そうだ。
今は怒っている場合じゃない。
俺は急いでハルヴィンダちゃんのところへ駆け寄った。
まずはフェンリルの子供の首に巻かれているグレイプニルを外す。
そして、倒れているハルヴィンダちゃんとフェンリルの子供を、
傷口が地面に触れて汚れないように少しだけ浮かせる。
次に傷口を見る。
血も泥もついている。
まずはこれを綺麗にしないと。
傷口に入り込んだ汚れやバイ菌を取り除くようにイメージする。
《浄化》の応用だ。
傷口が綺麗になったことを確認すると、今度は目を閉じる。
思い浮かべるのは、いつものハルヴィンダちゃん。
ヘイムで元気に働き、大皿を軽々と持ち上げ、みんなの間を走り回っている姿。
そして、元気いっぱいに俺のところへ駆け寄り、
「遊んで」とでも言うようにまとわりついてくるシロの姿。
この子も、あんなふうに元気になってくれ。
治れ。
元気になれ。
そう強く願いながら、俺は魔力を解放した。
柔らかな光がハルヴィンダちゃんとフェンリルの子供を包み込み、
ゆっくりと二人の体へ吸い込まれていく。
しばらくすると、裂けていた傷が塞がり、流れていた血も止まった。
『良くできました。もう大丈夫ですよ』
師匠の声に、思わず息を吐く。
『少し時間はかかりましたが、私の補助なしで上手にできましたね』
えっ。
言われて気づいた。
本当だ。
いつもなら師匠に手伝ってもらわないとうまくできないのに、
今回は自分だけでできた。
傷が癒えて動けるようになったフェンリルの子供が、
横たわるハルヴィンダちゃんへ近づく。
「くーん」
心配そうな声を上げながら、
ハルヴィンダちゃんの頬を何度も舐め始めた。
その感触に反応したのか、
しばらくするとハルヴィンダちゃんの瞼がゆっくりと開く。
「……ん……」
最初はぼんやりとしていた視線が、
すぐ目の前にいるフェンリルの子供へ向いた。
無事だと分かった瞬間、ハルヴィンダちゃんの顔が一気に笑顔になる。
「よかった……無事で、よかった」
そのままフェンリルの子供へ抱きついた。
声を震わせながら、何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
泣いているハルヴィンダちゃんの頬を、
フェンリルの子供がペロペロと舐める。
大丈夫だよ。
それより、そっちこそ大丈夫?
そんなことを言っているように見えた。
その時、
「ウォォォォン!」
突然、夜の森に大きな遠吠えが響いた。
驚いて振り向く。
いつの間にか、ハルヴィンダちゃんとフェンリルの子供を囲むように、
太郎と花子、そして先ほど助けた三匹の子供達が集まっていた。
太郎と花子が最後の一匹へ鼻先を寄せる。
子供達も兄弟の周りへ集まり、体を擦り合わせるようにじゃれ始めた。
良かった。
これで飛空艇で待っているシロを含めれば、家族全員が揃った。
作戦の前半は、無事終了だ。
……いや。
無事じゃない。
俺はハルヴィンダちゃんを見る。
こんなにボロボロになるまで無理して。
もし死んでしまったらどうするんだ。
飲兵衛親方達だって悲しむ。
ソレイアちゃんも、ベルンさんも、マルタさんも悲しむ。
何よりリナちゃんがどれだけ悲しむと思っているんだ。
ヘイムのみんなだってそうだ。
これがこの世界の常識?
そんなこと知るか。
そんなことでは戦士としてやっていけない?
それも知るか。
俺は平和な日本で育った、平和ボケした人間なんだ。
それでいい。
少なくとも、大切な人が死にそうになっているのを見て、
「戦士だから仕方がない」なんて簡単に納得できる人間にはなりたくない。
ようやく戦闘が終わった夜の森に、
家族の再会を喜ぶフェンリル達の遠吠えが何度も響いている。
その声を聞きながら、俺は一つだけ心に決めた。
ハルヴィンダちゃん。
後で、たっぷり説教だからな。
師匠のニューワールド講座 116
~地形MAPと魔法使いの秘密編~
「師匠!」
『なんです?』
「今回、俺、地形MAPを出すことができました!」
『……はい』
「これ、チートですよね!」
「でも、魔法使いの標準装備ですよね?」
「だったらチーターだって、師匠に粛清されませんよね?」
『…………』
「師匠?」
『…………』
なぜ黙る。
『ヴァルナさん』
「はい」
『それ――どこまで見えるのですか?』
「ええと……」
地形MAPを思い浮かべながら答える。
「恐らく、世界樹のてっぺんから見える範囲というか……」
「世界樹が認識できる範囲だと思うんですけど」
『それで?』
「色んな物が見えますよ」
「地名や川、山」
「洞窟の位置とか」
「どこで何が採れるとか」
『…………』
「それに付随して、資源のある場所も分かります」
『…………』
「あと、どの土地が何の作物を育てるのに適しているかとか」
『…………』
「師匠?」
『続けなさい』
なんだろう。
だんだん師匠の声が低くなっている気がする。
「あと、動物とか人間とかも検索できます」
『…………人間を?』
「はい」
「種族とか性別とか、色々と条件を付けて検索できますよ」
『…………』
「ああ! 天気図も出ます!」
『…………』
「拡大縮小もできますし」
「それと……これ、ファストトラベルポイントでしょうか」
「画面の切り替えもできますね」
『画面の切り替え?』
「はい」
地形MAPを操作する。
「あっ!」
「これ、先輩――七葉の魔法使いの視点に切り替えられますよ!」
『…………』
「もしかして、他の魔法使いのところとか、
ファストトラベルポイントを増やしたら、
切り替えられる視点も増えるのかな?」
「どうなんです、師匠?」
『…………』
「師匠?」
さっきから、師匠が黙ったままだ。
『ヴァルナさん』
「はい」
『その力のことは――』
師匠の声が、いつになく真剣なものになる。
『誰にも言ってはいけませんよ』
「えっ?」
思ってもいなかった言葉に、俺は師匠を見る。
「なんでです?」
『最初は便利だと喜ばれるでしょう』
『どこに資源があるのか分かる』
『農業に適した土地も分かる』
『天候も分かる』
『行方不明者だって、条件次第では探せるかもしれません』
「だったら、役に立つんじゃ……」
『最初は、です』
「……?」
『やがて人は気づきます』
師匠が静かに俺を見る。
『――自分も、いつでも見られているのではないか、と』
「…………」
『どこにいるのか』
『何をしているのか』
『どこへ向かっているのか』
『全てヴァルナさんに知られているのではないか』
『そう考えるようになります』
「俺、そんなことしませんよ」
『私は知っています』
即座に師匠が答える。
『ヘイムの皆さんも知っているでしょう』
『皆さんは、魔法使いになる以前のヴァルナさんを知っています』
『そして――』
『魔法使いになった今も、貴方が何も変わっていないことを知っています』
「…………」
『だから、今まで通り普通に接してくれるのです』
『ですが――』
師匠の声が少しだけ厳しくなる。
『本当のヴァルナさんを知らない人達は違います』
『恐れて近づかなくなるか』
『あるいは、その力を利用しようとして近づいてくるか』
『そのどちらかになってしまうかもしれません』
「……そんな」
『ヴァルナさん』
『権力を持つということ』
『力を持つということは――』
師匠が静かに告げる。
『そういうことなのです』
俺は、目の前に浮かんでいる地形MAPを見る。
さっきまで、ただ便利な機能だと思っていた。
でも――
見方を変えれば、これは。
『それに、あまり自分の手の内を晒すものではありません』
『貴方が何をできるのか』
『どこまで見えているのか』
『どこまで知ることができるのか』
『それを他人に教える必要はありません』
「……はい」
『いいですね?』
『この力は――内緒ですよ』
「分かりました」
師匠が、ようやくいつもの調子に戻る。
『それにしても……』
「なんです?」
『このような力を使えるのは、魔法使い以外なら神々くらいでしょうね』
「そんなにスゴイんですか?」
『スゴイですよ』
『というより――』
師匠が地形MAPをまじまじと見る。
『私でさえ、魔法使いがこんな力を持っているなんて知りませんでした』
「えっ」
『…………』
「…………」
『…………』
「師匠?」
『ところで、ヴァルナさん』
突然、師匠の声が明るくなった。
嫌な予感がする。
「なんです?」
『その地形MAP――』
『美味しいお店とか、おしゃれなお店は表示されないのですか?』
「……はい?」
『ほら、星が付いていたりしません?』
『★★★★★』
『みたいな』
「なんで急にグルメMAPになってるんですか!」
『検索してみなさい』
「出ませんよ!」
『まだ分からないでしょう』
『ほら』
『料理――美味しい――評価――星五つ』
「勝手に検索条件を増やさないでください!」
『もし出るのでしたら――』
師匠が満面の笑みを浮かべる。
『日頃の感謝を込めて、私に教えなさい』
「どこが日頃の感謝なんですか!」
『私への感謝ですよ』
「俺が感謝する方!?」
『当然でしょう』
「さっきまでの真面目な話を返してください!」
作者メモ
※本編のおまけ設定です。読み飛ばしても問題ありません。
※本編とは時空が違います。
※本編の都合により、設定が変わる事があります。




