113 死の大地で拾った命
ガイアースブルク侯爵領の領都――クフシュタインの街。
列車が駅へ到着し、俺達がホームへ降りた時だった。
宰相さんを始め、大人達が揃って首を傾げた。
何かがおかしい。
今回の旅はお忍びだ。
だが、それでも俺達が来ること自体は事前に連絡が行っているはずだ。
なのに――。
誰も迎えに来ていない。
それどころか。
駅員達の動きが妙に慌ただしい。
ホームのあちらこちらを、駅員や兵士らしき人達が走り回っている。
怒鳴り声まで聞こえてきた。
「何かあったのかしら」
ハーケン夫人が周囲を見回す。
俺達も何事かと思っていたが。
いつまでもホームに立っていても仕方がない。
移動しようとした、その時だった。
「お待ちください!」
駅員と、武装した騎士達が慌ててこちらへ駆け寄ってきた。
アンリ先生。
宰相夫妻。
そしてハーケン夫人。
その前へ並び、深く頭を下げる。
「お出迎えが遅れ、大変申し訳ございません!」
しかし。
謝罪もそこそこに。
「申し訳ありませんが、すぐに移動をお願いします!」
と、急かされた。
当然。
アンリ先生達の顔が険しくなる。
何の説明もない。
だが。
「現在、軍事活動中です!」
そう告げられれば、流石にその場で問い詰める訳にもいかない。
俺達は移動を始めた。
ただし。
その並びを見れば。
何かが起きているのは、素人の俺にも分かった。
春香様。
西園寺公爵家から同行している非戦闘員。
学生達。
そして俺達。
そういった戦えない者達を内側へ入れる。
その外側を。
アンリ先生。
宰相夫妻。
ハーケン夫人。
護衛の兵士達。
戦える者が囲んでいる。
いつでも戦闘へ移れる陣形だ。
……これ。
本当にヤバい状況なんじゃないの?
そういえば。
俺達以外の乗客はどうしたんだろう。
周りを見ても、一般の旅行客らしき姿がほとんどない。
後で聞いた話だが。
この駅へ降りる者は。
俺達のように、何か特別な目的がある者。
あるいは物資を運んできた軍人や関係者くらいらしい。
普通の一般人。
商人。
旅行者。
そういった人達は。
たとえ数日余計にかかったとしても、この荒れ地を避ける。
北回り。
あるいは南回り。
そちらから東方へ向かうそうだ。
……そんな場所なのか。
駅の中を移動している間も。
怒声が響いていた。
兵士が走る。
武器や物資が運ばれる。
どこかから、魔動車のエンジン音まで聞こえてくる。
通されたのは。
駅の中にある、大きな会議室のような場所だった。
この世界では。
鉄道は重要な移動手段であると同時に。
重要な軍事拠点でもある。
大量の兵士。
大量の物資。
それらを一度に運べる。
さらには。
補給。
物資の保管。
兵士達の休憩。
指揮。
そういった機能まで備えているそうだ。
そのため。
こうして大勢の人間が集まれる会議室まで用意されている。
俺達が部屋へ入っても。
アンリ先生達は警戒を解かなかった。
むしろ。
さっきよりも空気が張り詰めている。
考えてみれば。
今ここにいるのって。
皇族。
帝国宰相夫妻。
前侯爵夫人。
将来の皇后候補。
転移勇者。
……帝国の重要人物だらけじゃないか。
「これだけの人間が一か所に集まっておるのじゃ」
アンリ先生が低い声で呟く。
「人質に取ろうと考える馬鹿がおっても不思議ではない」
なるほど。
何の説明もなく、こんな部屋へ押し込められた。
警戒するのも当然か。
あれ。
そういえば。
爺やがいない。
いつの間に?
後で聞いたら。
駅のホームからここへ移動する途中。
情報収集のために、気配を消して消えていたらしい。
……あの人、本当に何者なんだろう。
しばらくして。
会議室の扉が開いた。
入ってきたのは。
豪華ではない。
だが、いかにも実戦向きと分かる鎧を纏った一団。
その先頭。
年配の男性が部屋へ入った瞬間――。
俺達の警戒態勢を見て目を見開いた。
「あまた」
ハーケン夫人が一歩前へ出る。
「これは、どういうことですの」
次の瞬間。
手にしたハルバードの穂先が、男性へ向けられていた。
空気が一気に凍りつく。
男性は。
突き付けられた武器を見て。
深いため息をついた。
「……誰も説明をしていないのか」
そう言って、背後の者達を見る。
見られた部下達は。
互いの顔を見合わせた。
「おい」
「誰だ。こちらへ案内したのは」
「いや、俺では――」
「私は駅の警備を――」
どうやら。
本当に連絡が抜けていたらしい。
先頭の男性は。
突き付けられたハルバードの刃を、軽く手で押さえた。
そして。
アンリ先生。
宰相さん。
その前へ進み。
片膝をつく。
深く頭を下げた。
「大変申し訳ございませんでした」
「どうやら、こちらの不手際により、
要らぬ警戒をさせてしまったようです」
そのまま。
頭を上げない。
「ロビン殿」
宰相さんが声を掛けた。
「そのままでは状況が分かりません」
「まずは顔を上げて、何が起きているのか話していただけますかな」
「はっ」
ようやく。
男性――ロビンさんが顔を上げる。
「実は、今朝方より――賊が現れまして」
「賊ですか?」
宰相さんが眉をひそめた。
「この地に?」
それは。
俺でも疑問に思う。
だって。
ここは荒れ地だ。
盗む物なんて、ほとんどない。
あるとしても。
駅。
軍の物資。
ガイアースブルク侯爵家の物資集積所。
でも。
そこを狙うということは。
帝国軍やガイアースブルク侯爵家に真正面から喧嘩を売るのと同じだ。
そんな馬鹿。
普通はいない。
「宰相殿がそう思われるのも当然です」
ロビンさんが頷く。
「ですが」
表情が険しくなる。
「目撃情報によれば、魔族の一団です」
「さらに」
「魔物を率いております」
その言葉に。
部屋の空気がさらに張り詰めた。
「魔族の一団」
宰相さんが繰り返す。
「それに、魔物を率いていると」
「はい」
ロビンさんが頷く。
「実際に私も、先程まで戦闘の指揮を執っておりました」
「騎士団は――」
宰相さんが何か思い出したように地図の方を見る。
「ああ」
「ちょうど入れ替わりの時期でしたな」
「はっ」
「第三騎士団は東方国境へ向かいました」
「代わりに第五騎士団が北方から到着する予定でしたが」
一瞬。
ロビンさんが言葉を止める。
「第五騎士団も、魔物の襲撃を受けまして」
「到着が遅れております」
「騎士団が魔物に襲われて遅れておるじゃと?」
アンリ先生が口を挟んだ。
流石に。
顔からいつもの余裕が消えている。
「はっ」
「まだ情報が錯綜しておりまして、正確な状況は把握できておりません」
「ですが」
「大型の魔物二体に襲撃され、
かなりの被害が出たとの報告が入っております」
「この報は帝都にも伝えられており」
「すでに他の騎士団を派遣する準備が進められているそうです」
…………。
なんだろう。
俺達。
とんでもない時に来てしまったんじゃない?
魔物って。
ほとんどいないんじゃなかったの?
いても。
すぐに騎士団や領兵が討伐してしまう。
そう聞いていたんだけど。
このロビンさん。
どうやら、ハーケン夫人の旦那さん。
前ガイアースブルク侯爵らしい。
流石にいつまでも片膝をつかせておく訳にもいかず。
立ってもらい。
改めて話を聞くことになった。
大きな机が用意され。
その上へ地図が表示される。
……って。
すごっ。
俺はてっきり。
紙の地図が広げられると思っていた。
でも違った。
これは――。
衛星映像だ。
地形がリアルタイムで映っている。
拡大。
縮小。
情報の切り替え。
全部できる。
「お前達」
アンリ先生が。
学生達を鋭く睨んだ。
「これは最重要国家機密の地図じゃ」
「他言無用じゃぞ」
ですよね。
昔から。
詳細な地図というのは、それだけで国家機密だ。
一般に出回る地図なんて。
大きな都市が、なんとなくの方向に描かれている程度。
川。
海岸線。
詳しい町や村の位置。
そこまで正確に描かれた地図を持っていたら。
場合によってはスパイを疑われてもおかしくない。
流石に、この世界ではそこまで極端ではないらしいけど。
精密な紙の地図ですら重要だ。
まして。
衛星から。
リアルタイムに映す地図なんて。
とんでもない機密だろう。
俺達は。
部屋の隅に並べられた椅子へ座った。
正直。
居心地が悪い。
完全に場違いだ。
春香様だけは。
将来の皇后ということで。
話が全部理解できなくても。
地図の前へ座らされ。
作戦会議に参加させられている。
春香様。
顔が引きつってるよ。
頑張って。
俺が横で話を聞いていて。
なんとか理解できたのは。
こんなところだった。
ガイアースブルク侯爵領。
かつて存在していた龍穴。
そこから伸びる龍脈。
それが失われ。
今では広大な荒野となっている。
復興の目処は立っていない。
それでも。
諦めず復興を目指しているのが。
ガイアースブルク侯爵家。
そして、その家臣団。
この駅。
クフシュタインを中心に。
土地を蘇らせるため、様々な研究や実験を続けているそうだ。
帝国政府も。
それを援助している。
その一環として。
帝国騎士団が定期的に駐屯している。
何もない荒野。
人がほとんど住んでいない。
そのため。
皮肉にも。
大規模な軍事訓練。
魔術の試射。
新兵器の実験。
そういったことを、周囲を気にせず行える。
その使用料という形で。
帝国政府から、かなりの額の援助が侯爵領へ入っているらしい。
定期的に。
各騎士団が交代で駐屯する。
最近までいたのは第三騎士団。
訓練を終え。
東方国境へ移動。
その交代として。
第五騎士団が北方から来る予定だった。
だが。
その第五騎士団が。
大型魔物に襲撃された。
そのため。
現在。
ガイアースブルク侯爵領を守っているのは。
領兵のみ。
その状態で。
魔族の一団から襲撃を受けた。
ということらしい。
しかも。
問題は。
この荒野の広さだ。
ガイアースブルク侯爵領を中心に広がる。
途方もない荒れ地。
最も遠い場所では。
鉄道で半日近くかかるという。
およそ。
二千五百から三千キロ。
東京から博多までを、何度か往復できるくらい。
……広すぎるだろ。
そんな荒野が延々と続き。
人が暮らせるのは。
駅の周辺だけ。
駅へ集められた物資。
魔道具。
そして。
駐屯している魔術師達。
その力を借りて。
なんとか生活を維持している。
川はない。
井戸もない。
水脈そのものが枯れている。
荒野で暮らす人達は。
帝都。
他の地域。
そこから運ばれてくる物資に頼り切っている。
水ですら。
運び込まれる物だけでは足りない。
水魔術を得意とする魔術師達が。
魔術で水を作り。
貯水槽へ溜めているほどだ。
そんな。
生きるだけでも厳しい土地なのに。
賊は潜んでいる。
当然。
こんな場所へ潜む賊は。
ただの賊じゃない。
隠れるためには。
食料。
水。
魔道具。
術者。
膨大な物資。
それを用意しなくてはいけない。
そんなことができるのは。
他国の工作員。
あるいは。
表へ出ることのできない大規模組織くらいだ。
ちなみに。
後ろ暗いことをしている貴族でも。
普通はそんなことをしないそうだ。
理由は単純。
金がかかりすぎる。
帝国政府ですら。
騎士団の軍事訓練。
国境への物資輸送。
治安維持。
そういった複数の目的があるから。
ようやく維持できている。
数少ない飛空艇まで使い。
鉄道路線と駅を確保しているそうだ。
そのおかげで。
数年おきに起こる東方国境での戦争へ。
兵士と物資を送ることもできる。
帝国以外で。
この荒野へ継続的に潜伏できる者。
その一つが。
魔族。
彼らの背後には。
邪神。
トリックスター。
そういった存在がいる。
その加護。
あるいは援助によって。
荒野の中に潜んでいるらしい。
隠された神殿まである。
そんな噂もあるそうだ。
そして。
騎士団が不在になったタイミングで。
今回の襲撃が起きた。
だが。
妙なのは。
彼らの目的。
保管されている物資を狙った訳ではない。
鉄道を狙った訳でもない。
領都である。
クフシュタインの街そのものを。
無差別に襲った。
幸い。
この街にいるのは。
領兵。
学者。
研究者。
そして、その家族。
ほとんどが街の中心部に集まっていた。
そのため。
人への被害は、それほど大きくなかったそうだ。
だが。
無人の建物。
研究施設。
それらには被害が出た。
今までも。
物資を運ぶ列車が狙われたことはある。
だが。
クフシュタインの街そのものが襲われたことはない。
だから。
「目的が分からない」
そういうことらしい。
……。
俺が理解できたのは。
それくらいだった。
アンリ先生。
宰相さん。
ロビン前ガイアースブルク侯爵。
その他。
軍や政府の人達。
みんな。
地図を前に難しい話を続けている。
大切な話なのは分かる。
それは分かるんだけど。
……いつまで俺達。
このまま座ってればいいんだろう。
関係ないとは言わない。
でも。
ずっとじっと座っているのも苦痛だ。
そんなことを考えていたら。
……トイレ行きたくなった。
申し訳ない。
俺は席を立った。
近くに立っていた人へ。
小声で話しかける。
「あの……トイレ行ってもいいですか」
一瞬。
すごい顔をされた。
「こんな大事な会議の途中で?」
って顔。
いやいや。
ここで漏らしたら。
もっと大変でしょう。
おっさん。
泣くよ。
みんなドン引きするよ。
女性陣なんて。
しばらく口きいてくれなくなるよ。
だいたい。
非戦闘員を。
こんな国家機密丸出しの場所へ置くなと言いたい。
……まあ。
この会議室が。
駅の中で一番安全な場所らしいんだけど。
一応。
ちゃんと考えてくれているのね。
どうやら。
トイレへ行きたかったのは、俺だけではなかったらしい。
「私も行きます」
ハルヴィンダちゃん。
「あっ、私も」
鈴木さん。
二人も付いてきた。
そうだろ。
そうだろ。
もうちょっと考えてくれ。
人間。
トイレくらい行くからね。
周囲から少し呆れた顔をされたけど。
俺達は会議室を出た。
そして。
用を済ませる。
「ああ、スッキリした」
これで。
また長い会議に耐えられる。
……と思った時だった。
何か。
聞こえた。
「ん?」
声?
いや。
音?
弱々しい。
何かが。
助けを求めているような。
幸い。
周囲の人達は。
俺なんて気にしていない。
ハルヴィンダちゃん達も。
まだトイレから出てきていない。
俺は。
その声が聞こえた方向へ。
少しだけ歩いてみた。
どうしても。
気になったからだ。
「なになに?」
後ろから。
鈴木さんの声が聞こえた。
「どこ行くの?」
どうやら。
ちょうど出てきたらしい。
「なんかさぁ」
鈴木さんが。
周囲を見回しながら俺の横へ来る。
「あの場所」
「私ら、場違いじゃない?」
「国家機密なんか私らに見せるなって」
……もっともです。
その後ろから。
ハルヴィンダちゃんも出てきた。
真面目な娘だから。
文句は言わない。
でも。
顔を見る限り。
思っていたことは同じみたいだ。
少しくらい。
息抜きで歩いてもいいだろう。
師匠もいるし。
もし何かあっても。
大丈夫だ。
たぶん。
俺は苦笑いしながら。
声の聞こえる方へ進んだ。
駅のホーム近く。
大量の荷物。
木箱。
袋。
補給物資らしき物が積まれている。
その辺りから。
聞こえる。
弱った。
助けを求めるような声。
「この辺だと思うんだけど……」
俺は。
荷物を少しずつかき分ける。
そして――。
「いた」
その隙間。
小さな身体が。
丸まっていた。
子犬だ。
白っぽい毛。
でも。
泥と血で。
かなり汚れている。
怪我をしている。
身体のあちこちから。
血が流れている。
でも。
まだ生きている。
「この子の声だったのか……」
魔族の襲撃に。
巻き込まれたのだろうか。
俺達に気づいたのか。
子犬が。
小さく身体を起こす。
「グルル……」
弱々しい。
それでも。
必死に唸っている。
警戒しているんだ。
そりゃそうだ。
こんなに傷ついて。
隠れていたところへ。
大きな人間が三人も現れた。
怖いよな。
「大丈夫」
俺は。
しゃがみ込む。
「怖くないよ」
ゆっくり。
そっと。
手を伸ばした。
その瞬間――。
ガブリ。
「店長さん!」
「うわっ!」
ハルヴィンダちゃんと鈴木さんが声を上げた。
子犬の牙が。
俺の手へ食い込んでいる。
鋭い。
思っていたより。
ずっと鋭い歯だ。
血が流れる。
でも。
俺は。
空いている手を上げた。
二人を止める。
「大丈夫」
「動かないで」
怖いのは。
この子の方だ。
傷ついて。
逃げ場もなく。
大きな人間に囲まれた。
必死に。
最後の力で抵抗しているだけ。
俺は。
黙って。
その抵抗を受け入れた。
「大丈夫」
「何もしないよ」
「怖くないから」
しばらく。
そのまま。
じっとしていた。
やがて。
子犬の力が。
少しずつ抜けていく。
噛むのを。
やめた。
「クーン……」
小さく鳴く。
そして。
俺の血が流れている手を。
ペロペロ。
舐め始めた。
「……偉いな」
自分が。
こんなに傷ついているのに。
俺の怪我を気にしてくれている。
どうやら。
俺達が敵じゃないと。
思ってくれたみたいだ。
俺は。
今度こそ。
ゆっくりと。
下から手を入れた。
そして。
子犬を抱き上げる。
こういう時。
上から手を伸ばすのは駄目だ。
犬は。
襲われると思って。
反射的に反撃することがある。
昔。
犬を飼っていた頃に覚えたことだ。
抱き上げて。
近くで見る。
……酷い。
思っていた以上に。
全身が傷だらけだ。
「なんとかしないと」
俺は。
頭の上の師匠を見る。
「師匠」
助けてください。
海底都市で。
先輩から教えてもらった。
治療魔法。
それを。
使ってみる。
でも。
俺一人じゃ。
まだ魔力を上手く扱えない。
だから。
師匠の助けが必要だ。
『仕方ないですね』
師匠が。
俺の髪を掴んだ。
……そこ掴む必要あります?
でも、今は言わない。
俺は、世界樹の枝を握る。
念じる。
お願い。
力を貸して。
この子を、癒してくれ。
世界樹の枝が淡く輝いた。
そして力が溢れる。
俺一人では、暴れそうになるその力。
師匠が細く整えてくれる。
その流れを子犬へそっと注ぐ。
最初、子犬は驚いた。
身体を強張らせる。
でも。
痛みが消えていく。
傷が塞がっていく。
それが分かったのだろう。
やがて。
身体から力を抜いた。
静かに俺の腕の中で、治療を受け入れてくれた。
傷が。
一つ。
また一つ。
塞がっていく。
血も止まる。
呼吸も落ち着いていく。
そして。
最後の傷が消えた。
「ワフッ!」
元気な声。
次の瞬間。
俺の顔を、ペロペロと舐め始める。
「わっ、ちょっと!」
嬉しそうだ。
尻尾まで、元気よく振っている。
「よかった……」
俺も笑う。
師匠も。
ハルヴィンダちゃんも。
鈴木さんも。
みんな、自然と笑顔になっていた。
その時。
ぐぅぅぅぅ。
小さな音。
みんな、子犬を見る。
「……お腹?」
「ワフ」
そうか。
元気になったら、今度は腹が減ったのか。
俺は、子犬を抱いたまま世界樹の枝を振るった。
ホームの隅。
そこへ皿が現れる。
さらに。
ドッグフード・暖かいミルク、それを皿へ入れる。
……ドッグフード。
大丈夫だよな?
この世界の犬にも、問題ないよね?
念のため。
《料理鑑定》。
――問題なし。
よし。
俺は、子犬を皿の前へ下ろす。
でも、子犬はすぐには食べなかった。
皿。
俺。
皿。
俺。
何度も見る。
「食べていいよ」
俺が頷く。
すると――。
一気に食べ始めた。
よっぽど腹が減っていたんだろう。
夢中になって食べている。
その姿を見ていたら。
昔。
家で飼っていた犬を思い出した。
本当に可愛がっていた。
俺にとって弟みたいな存在だった。
社会人になって家を出てしばらく経ったある日。
親から電話があった。
死んだ。
そう聞いた。
悲しかった。
本当に悲しかったあまりにも辛くて。
もう二度と犬なんて飼うものか。
そう思ったくらいだ。
…………。
ハルヴィンダちゃん。
鈴木さん。
二人も。
嬉しそうにしゃがみ込んで一生懸命食べる子犬を見ている。
俺はもう一度、世界樹の枝を振った。
生活魔法。
《洗浄》。
魔術として使っていた頃とは違う。
より綺麗に。
より手軽に。
隅々まで。
汚れが消えていく。
これも。
師匠に散々使わされたからなぁ。
一時期俺が掃除しすぎて、エマさん達の仕事がなくなるくらいだった。
人が掃除している横で、優雅にリビングでお茶を飲んでいたのを思い出す。
……やっぱり。
エマさん達。
何か間違っていると思う。
怖くて口には出せないけど。
食事を続けながら《洗浄》でどんどん綺麗になる子犬。
汚れの下から現れたのは。
真っ白な毛。
その毛先。
ところどころが銀色に輝いている。
「わぁ!」
鈴木さんが声を上げる。
「綺麗!」
ハルヴィンダちゃんも目を輝かせている。
子犬自身も身体が綺麗になったことに気づいたのか。
「ワン!」
一鳴き。
でもすぐに食事へ戻った。
……食欲が勝ったらしい。
『む……』
突然、師匠が声を出した。
「どうしました?」
『この子……』
師匠が子犬を見る。
『何かの加護を感じます』
「加護?」
『ええ』
少し考える。
『この子、ただの犬ですよね?』
俺に聞かれても犬に見えますけど。
師匠はさらに子犬を観察する。
『まあ』
『子供の場合』
『親が無意識に加護を願い、それが実現する場合がありますからね』
特に。
まだ一人では生きられない幼い子。
その親が死に別れる時、強く。
「この子だけでも助かってほしい」
そう願った時、何かの力が加護として宿る。
そういうことが稀にあるらしい。
……。
もしかして。
この子魔族の襲撃で親と離れたのかな。
俺は食べ終えた子犬を見る。
尻尾を振って。
俺達へ元気よく吠えている。
ハルヴィンダちゃん。
鈴木さん。
二人に撫でられご機嫌だ。
その姿を見ていたら。
俺は無意識に、子犬を抱き上げていた。
もう二度と犬は飼わない。
そう決めていたのに。
「なあ」
子犬が俺を見る。
「行くところがないなら」
少し迷った。
でも口から出ていた。
「俺のところに来るか?」
子犬は俺の顔を見る。
少し首を傾げる。
本当に、考えているみたいだ。
そして。
「ワフッ!」
耳を垂らし、尻尾を振る。
「……それ」
「了承でいいのかな」
もう一度。
「ワフッ!」
「そっか」
俺は少し笑った。
「来るか」
親犬あるいは飼い主がいるなら。
その時はその時で考えよう。
でも、うちへ来るなら名前を付けないと。
「わぁ!」
ハルヴィンダちゃんが嬉しそうに声を上げる。
「ヘイムに来るのですか?」
「うん」
「たぶん」
さて。
オスかな。
メスかな。
俺は子犬の大事なところを見る。
……。
どうやら。
オス。
名前どうしよう。
自分にネーミングセンスがないことくらい分かっている。
「うーん……」
「うーん……」
俺が唸る。
子犬が首を傾げる。
……可愛い。
あ、そうだ。
「シロ」
白いとても綺麗な毛並み。
だからシロ。
メスだったらユキとかも考えたけど。
オスだしシロでいい。
「ええー」
鈴木さんが不満そうな声を上げる。
「なんか単純」
「もっとカッコイイ名前がいいよ」
いいの単純で。
変な厨二ネームよりずっといいだろう。
名は体を表すって言うし、ぴったりじゃないか。
俺は子犬を見る。
「お前」
「シロで嫌か?」
「ウォフッ!」
「そうか」
俺は嬉しくなって頭を撫でる。
「シロでいいか」
その瞬間。
『あっ』
師匠の声。
同時に。
俺と。
シロ。
その間に何かが繋がった。
…………。
なんだ?
今。
何か――。
『やってしまいましたね』
師匠の深いため息、嫌な予感。
『使い魔契約してどうするんですか』
「えっ?」
『親犬』
『あるいは飼い主がいたら』
『どう弁解するつもりですか』
…………。
いや。
まさか。
名前付けただけで使い魔契約になるなんて、知らないよ!
でも、当のシロはものすごく嬉しそうだ。
俺達の周りをくるくる走り回っている。
「シロちゃん!」
ハルヴィンダちゃんが嬉しそうにしゃがみ込む。
「よろしくね」
「私はハルヴィンダ・ウォルフガング」
「店長さんと一緒に、ヘイムに住んでいるんだよ」
シロがハルヴィンダちゃんの前へ座る。
「ヘイムにはね」
「私の妹のリナもいて――」
早速、色々と説明を始めている。
「あっ」
鈴木さんも横から割り込む。
「私も私も」
二人でシロを可愛がり始めた。
こうして見ると。
二人とも本当に普通の女の子なんだけどなぁ。
「あら?」
後ろから声が聞こえた。
「その子はどうしたのです?」
「あっ!」
「わぁ、可愛いワンちゃん!」
天宮さん。
冨樫さん。
いつまで経っても俺達が戻ってこないから探しに来たらしい。
そしてシロを見た瞬間輪の中へ。
…………。
木乃伊取りが木乃伊だ。
「かわいい!」
「触ってもいい?」
「ワン!」
シロも嫌がる様子はない。
むしろ楽しそう。
こうして緊張状態の駅のホームで。
完全に場違いな子犬を囲んだ女子会が始まった。
そして――。
天宮さん。
冨樫さんまで戻ってこない。
流石に本当に何か起きたのではないか。
そう心配して探しに来たアンリ先生。
「お主らぁぁぁぁ!」
怒声。
次の瞬間。
ゴンッ!!
「痛ぁぁぁぁっ!」
俺の頭へ拳骨が炸裂した。
この緊張状態にあるクフシュタイン駅。
その片隅で始まった場違いすぎる子犬騒動は――。
アンリ先生の拳骨が俺の頭へ炸裂するまで続いた。
師匠のニューワールド講座 106
~使い魔編~
「師匠」
『なんです。』
「使い魔ってなんですか。
あの、よく物語に出てくるカラスとか黒猫みたいな奴ですか。」
『そうですねぇ。』
『それに近いです。』
「やっぱり、魔法使いの横にいる黒猫とか?」
『別に黒猫限定ではありませんよ。』
師匠がいつもの調子で説明を始める。
『契約方法はいろいろありますが、基本的にはお互いが了承し、
名前を付けることで契約が成立します。』
「名前を付けるんですか。」
『ええ。名付けというのは、魔術的にも大きな意味を持ちますからね。』
『それに、使い魔になるのは犬や猫、カラスだけとは限りません。
主人と波長が合い、使い魔としての素質があれば、いろいろな者がなれます。』
「例えば?」
『それこそ魔物や精霊、中には人やゴーレムまでいますよ。』
「人も!?」
『いますよ。本人が了承しているのなら問題ありません。
使い魔だからといって、必ずしも主人より弱い存在とは限りませんからね。』
それはもう、使い魔というより相棒なんじゃないだろうか。
『そして契約が成立すると、主人と使い魔は魔術的に繋がります。』
『ヴァルナさんの場合なら、魔法的に繋がることになりますね。』
「俺の場合、また何か違うんですか……」
『魔法使いですから。諦めてください。』
「そんなぁ。」
『そして絆が深まっていけば、離れていても意思疎通ができるようになったり、
視覚や聴覚を共有したり、使い魔を通して話すこともできるようになります。』
「おお、それは便利ですね。」
『便利だけで終わらないのが使い魔ですよ。』
『使い魔となった者も、主人から少しずつ力を受け取ります。
その力を長い年月をかけて蓄えれば、使い魔自身も成長していきます。』
『それまで話せなかった者が人の言葉を話せるようになったり、
魔術やスキルを使えるようになったりしますね。』
「成長するんだ。」
『ええ。長く仕えた使い魔の中には、
人の姿に化けて主人の世話をしている者までいますよ。』
「なんか、それはそれで見てみたいなぁ。」
『ただし――』
師匠の声が少し低くなる。
『使い魔だからといって、好き勝手に扱っていいわけではありません。』
「そりゃそうでしょう。」
『契約は、どちらかが契約の破棄を願い出るか、どちらかが死ぬまで続きます。』
『ですから、使い魔だからと酷い扱いをしていると……』
「していると?」
『長年、主人から力を受け取って強くなった使い魔に契約を破棄され――』
師匠がニッコリ笑う。
『反撃されます。』
「怖っ!」
『当然でしょう。』
『自分で力を与え、自分で育てた相手ですよ。
そんな存在に恨まれたら、どうなると思います?』
「……考えたくない。」
『しかも、力を持った元使い魔がそのまま世に放たれるわけですからね。
場合によっては周囲まで巻き込んで、大変なことになりますよ。』
「使い魔って、結構責任重大なんですね。」
『当たり前です。命ある者を自分の都合で従わせるのではありません。
お互いに認め合って結ぶ契約なのですから。』
そして師匠が、じーっとこちらを見る。
「……なんです?」
『ヴァルナさん。』
「はい。」
『貴方、ものぐさですからねぇ。』
「いきなりなんですか。」
『散歩を忘れたり、食事を忘れたりして、使い魔に反抗されないでくださいね。』
「ちゃんとやりますよ!」
『本当ですかぁ?』
「やりますって!」
『ただでさえ、魔法使いの使い魔なんて、
どれほど強くなるか想像もつきませんからね。』
「……」
『ある日、朝起きたら――』
『ご主人、今までよくも散歩をサボってくれたな。』
『――なんて、人の姿になった使い魔が枕元に立っているかもしれませんよ。』
「怖いこと言わないでください!」
作者メモ
※本編のおまけ設定です。読み飛ばしても問題ありません。
※本編とは時空が違います。
※本編の都合により、設定が変わる事があります。




