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106 蟹の恨みは恐ろしい

先ほど訪れた蟹料理の高級店。


あの店でも、師匠の姿は店の人たちには見えていなかった。

俺の前に置かれた蟹料理を、師匠が次々と平らげていたため、

店の人たちからは、俺一人で全て食べているように見えていたはずだ。

この体型もあって、またしても大食い競技者か何かだと思われたのだろう。

その証拠に、帰りに渡されたお土産の量が、明らかに一人分ではなかった。


本当に何だったんだろう、あの無料券。


まあ、そのお陰で、今は助かっているのだが。

一人に一つというわけにはいかなかったが、三人で一つくらいは行き渡った。


大きな蟹の身が、これでもかと盛られた蟹飯だ。


皆、無言で蟹飯を口へ運んでいる。

だが、一つを三人で分けたため、あっという間になくなってしまった。

空になった容器を、全員がとても寂しそうな顔で見つめている。


何だよ。

昼には、握り寿司を沢山食べたんじゃないの?

夜の歓迎会でも、美味しい料理を食べたんだろう?


「全然、食べられる状況じゃなかったのよ」


綺麗にドレスアップした鈴木さんが、

空になった容器を眺めながら呟いた。

聞けば、身内だけで行われるはずだった歓迎会に、

どこからか情報を仕入れた貴族や商人たちが押し寄せてきたらしい。


本来なら、招待状も持たない者が参加することなどできない。

しかし彼らは、


「偶然、近くを通りかかった」

「西園寺公爵へ、急ぎの挨拶があった」


などと理由をつけ、先触れもなく屋敷を訪れた。

そして、なし崩し的に歓迎会へ参加したそうだ。


南部地方には、大らかな気質の貴族が多い。

そのため、このような飛び入り参加は珍しくないらしい。


だが、今回は余りにも人数が多かった。

完全に、こちらの予定が漏れていたと考えるべきだろう。


「ヘイムや、帝都駅のターミナルは、

 常に誰かに見張られていると思った方がいいわ」


ハーケン夫人は、残っていた蟹の身を肴にしながら、

ビールを口へ運んだ。

駅員や係員を取り締まればよい、

という単純な話でもないらしい。

本人に情報を流している自覚がなくても、

雑談や仕草、利用した車両、同行者の数。

様々な場所から情報が集まり、

必要とする者の元へ流れる仕組みが、

既に出来上がっている。


それを完全に潰そうとすれば、駅や輸送機関の仕組みそのものを

一から作り直さなければならない。

たとえ作り直したとしても、いずれ新しい情報網ができる。


やるだけ無駄だそうだ。


それに。

アンリ先生。

ミレディさん。

ハーケン夫人。

これほどの大物が、誰にも知られず帝都から出られるはずがない。

帝都を離れる許可を取った時点で、

既に情報は漏れているようなものだった。


「情報戦は大事よ」


ハーケン夫人は、

そう言って蟹の身を口へ運び、満足そうにビールを飲んだ。


歓迎会へ押しかけた商人たちの目的は、ヘイムとの取引だ。

現在、南部地方からヘイムへ品物を卸しているのは、

ほとんど西園寺公爵家が独占している。

そこへ、自分たちも割り込めないか。


アンリ先生。


ミレディさん。


ハーケン夫人。


三人は、次から次へと押し寄せる商人たちから、

商談を持ちかけられたそうだ。


そして貴族たちは、

普段は帝国学園やヘイムにいて、なかなか接触できない

転移勇者たちを取り込もうとした。


女性陣の所へは、甘い顔立ちの若い貴族や、

渋い魅力を持つ年上の貴族たちが押し寄せたらしい。


本人。


あるいは自分の息子を紹介し。


次々とダンスへ誘ってきた。


「もう、その手の勧誘は十分受けているのよ」


鈴木さんは、空になった蟹飯の容器を握りしめた。

容器が、嫌な音を立てて潰れていく。

怖い。


「私は、お菓子と結婚すると決めていますので」


冨樫さんは、

食べ終わった蟹脚の切れ端を、未練がましく見つめていた。

いや。

お菓子とは結婚できないと思うよ。


「私は、お姉様一筋ですわ」


天宮さんは、

まだ自分の分の蟹飯を確保していたエマさんの横へ座り、

口へ運ばれていく蟹飯を、羨ましそうに見つめている。


「私には、リナが一人前になるまで、

 そのような話を受けるつもりはありません」


ハルヴィンダちゃんは箸を握ったまま、

空になった取り皿を悲しそうに眺めていた。

狼の耳も、尻尾も、力なく垂れ下がっている。

すごく悲しそうだ。


一方、男性陣の所へは、貴族としての上品さを崩さず、

それでいて魅力的な格好をした女性たちが集まったそうだ。

そして、色々なお誘いを受けたらしい。


「でへへへへ」


斎藤君は、また酒を飲んだようだ。

蟹飯争奪戦にも参加せず、

ソファへ寝転がり、幸せそうな顔で眠っている。

一体、何があったんだ。


「連れて行かれるのを止めるのが大変だった……」


佐々木君は、

斎藤君が眠るソファの隅へ座り、未だに肩で息をしていた。

斎藤君を守った疲れのため、

蟹飯争奪戦へ参加できなかったらしい。


「怖かったでござる……」


部屋の隅では、松平君が膝を抱えて震えていた。


「女性が、あれほど恐ろしいとは……」


恐らく、男性陣の中で一番人気だったのだろう。

服装は乱れ、顔や首筋のあちらこちらに口紅の跡が残っている。

俺が確認できるだけでも、かなりの数だ。

一体、何があったの。


どうやら皆、満足に食事を取る暇もなく、

歓迎会へ押しかけてきた人々の相手をさせられ、

疲れ切っているようだ。

今、下手に自分の部屋へ戻れば、

屋敷へ泊まった貴族令息や令嬢たちが訪ねてくる可能性もある。

そのため、皆、この応接間へ避難しているそうだ。

ここにはアンリ先生を始め、大人たちも揃っている。


そう簡単に問題は起きないだろう。


ただ。

全員が、空になった蟹飯の容器を見つめているのは怖い。

西園寺公爵が気を利かせ、

軽食を用意するよう料理人へ命じてくれているらしい。

だが。

皆の口から聞こえるのは、


「蟹……」


という呟きだけだ。


「それで、店長さん」


鈴木さんが、俺へ顔を向けた。


「蟹、たらふく食べたの?」


その言葉を合図に、皆の視線が一斉に俺へ向く。

なんで俺だけを見るの。

師匠もエマさんもいるだろう。


あの二人の方が、俺より沢山食べていたぞ。


「でも、店長さんも沢山食べたんだよね?」


皆の目が細くなる。

空気が重い。


「ああ。あの店は、我が領内でも特に有名な店ですからな」


何も気づいていない西園寺公爵が、説明を始めた。


やめて。

今は、やめて。


「帝都だけでなく、帝国各地から客が訪れます」

「国外の美食家まで、わざわざ食事のために来るほどの名店ですぞ」


西園寺公爵は、楽しそうに話を続ける。


「何しろ、幻と呼ばれ、滅多に入荷しない新鮮な紅ズワイタラバを、

 常に提供しておりますからな」


紅ズワイタラバ。

蟹の名前も、色々混ざっている気がする。


「我が家でも、常に用意することなど不可能です」

「どうやって仕入れているのか、皆が不思議に思っています」

「噂では、帝国政府の諜報員が調査しても、

 仕入れ先を突き止められなかったとか」


西園寺公爵の言葉に、爺やが静かに頷いている。


本当なのかな。

いや。

本当なのだろう。


でも、西園寺公爵。

その店の説明は、もうやめよう。

蟹の名前にも色々言いたいことはあるけど、今はそれどころではない。

皆の目が、どんどん鋭くなっているから。


俺、朝日を拝めないかもしれない。


部屋の中で聞こえるのは、西園寺公爵の声だけ。

他の者たちは、

まるで獲物を追い詰めた狩人のような雰囲気を漂わせている。


「ああ、美味しかった」


そんな中。

何も気にしていないエマさんの声が響いた。

一人で一つの蟹飯を食べ終えたエマさんが、俺へ手を差し出す。


「旦那様、お代わり」


おい。

やめろ。


まるで、俺がまだ蟹飯を隠し持っているみたいじゃないか。

持っていないぞ。

俺はアイテムボックスも、アイテム袋も持っていないからな。

皆が食べた分で、全部だ。


部屋のあちらこちらから、唸り声が聞こえた気がする。


これ。

本当にまずい。

そう思った瞬間。

背後から、師匠の蹴りが飛んできた。


「痛っ!」


思わず立ち上がる。

何をするんですか、師匠。


『杖は持っていますね』


師匠は、俺の目の前へ浮かんだ。


『さあ、構えなさい』


杖?

皆は、

俺が蟹飯を隠し持ったまま逃げようとしていると思ったのだろうか。

殺気が、さらに強くなった。


大体。

杖を構えて、何をしろというのだ。


『さあ』


師匠は、急かすように俺の額を叩いた。


『かつて、宿泊地で行った時のようにイメージするのです』

『キッチンを召喚しなさい』

「えっ?」


何で、ここでキッチン召喚?


『早くしないと、恐ろしいことになりますよ』


師匠は、周囲へ視線を巡らせた。


『食べ物の恨みは、恐ろしいですから』


いや。

それは、俺の台詞だよ。

今日だけで、俺が何回食べ損ねたと思っているんですか。


「あっ」


やばい。


アンリ先生が、静かに腰を落とした。


ハーケン夫人は盃を机へ置き、身体へ雷を走らせている。


俺。

ここでピーされる。


『さあ、早く』


師匠に促され、俺はピーされる恐怖から杖を振るった。


「ア・レ・キュイジーヌ!」


言葉と共に、応接間に簡易キッチンが現れた。


突然の出来事に、皆の動きが止まる。

西園寺公爵も、目を丸くしていた。


分かった。


この隙に逃げるんですね。

西園寺公爵、ごめんなさい。

後で綺麗に消しますから。


俺が出口へ向かって走り出そうとすると、師匠が髪の毛を掴んだ。


『どこへ行くのですか』

「痛い、痛い!」


髪の毛が抜ける。

やめて。

もう逃げないから。


『料理人とキッチンが揃えば、やることは一つでしょう』


ようやく髪の毛を離してもらい、俺はキッチンの陰へ隠れた。

頭を触り、禿げていないか確かめる。


大丈夫。

多分、まだある。


しかし、この状況で何を作れというのだ。

下手な物を出せば、逆効果だぞ。

それに、西園寺公爵家の料理人たちが、軽食を用意してくれている。


『いいから、いいから』


師匠は、簡易キッチンの調理台へ、いくつもの木箱を並べ始めた。


『レシピは、もう覚えていますよね』

『今回は特別です』

『魔法の使用を許可します』


師匠は、俺の頭へ軽く触れた。


『《蟹料理》レベル1では、皆が落胆してしまいますからね』

『《料理魔法・3》で補助し、レベル4相当まで引き上げます』

『早くしないと、本当に暴動が起こりますよ』


師匠の言葉と同時に、頭の中へ新しいレシピが次々と流れ込んでくる。


《蟹料理》


どうやら今回は、一つ一つの料理ではなく、

蟹料理全体が一つの分類としてまとめられているらしい。

俺は、流れ込んでくるレシピを確認しながら、

恐る恐るキッチンから顔を出した。


皆の目が、期待に輝いている。

さっきまでの殺気は消えた。

その代わり。

全員が、獲物を待つ腹を空かせた獣のような顔をしている。


『早く立ちなさい』


師匠は、木箱の一つを叩いた。


『天界を経由して仕入れた物です』

『後で、『海神』様へ感謝しなさい』


少し間を置く。


『まあ、後で必ず何か要求されるでしょうが』

『あの度が過ぎた倹約家の女神が、無料で渡すはずがありません』

『覚悟しておくのですね』


嫌だよ。

明らかに地雷じゃないか。


俺は首を横へ振り、拒否の意思を示した。

だが。

目の前では、皆が涎を垂らしながら、

少しずつこちらへ近づいてきている。

ゾンビ映画のゾンビみたいだ。


『ここでピーされるか』

『後でピーされるか』


師匠は、冷静に選択肢を提示した。


『違いは、それだけですよ』

『どうせピーされるのであれば、

 皆へ料理を振る舞ってからピーされなさい』


しくしく。

どちらにしても、ピーされるんですね。


ちょうど、レシピのインストールも確認も終わった。

俺は観念し、立ち上がる。

師匠が並べた木箱の蓋を開けた。

中には、木屑に包まれた大きな蟹が入っていた。


ええと。

紅ズワイタラバ、だったか。


ズワイガニとタラバガニが一つになったような名前の蟹だ。

それにしても、大きい。

甲羅だけで、子供の顔くらいあるのではないだろうか。


「「「おおおおお!」」」


部屋に歓声が上がる。

俺が蟹を持ち上げると、

その動きに合わせて、皆の顔も一緒に動いた。


やれやれ。

仕方ないなぁ。

ここまで期待されたら、


「やっぱりやめます」


なんて言えるわけがない。


俺は無意識に杖を振った。


外出用の服が、一瞬で調理服へ変わる。

世界樹の枝は携帯ホルダーへ収まり。

代わりに、手の中へ赤毛親方が作ってくれた包丁が現れた。


世界樹の枝と同じく。

これも、俺の大切な相棒だ。


俺は包丁をまな板の上へ置き、大きな鍋を取り出した。

さあ。

何から作ろう。


焼き蟹。


茹で蟹。


蟹刺し。


蟹鍋。


蟹味噌。


蟹の天ぷら。


蟹飯。


どれも、作れそうだ。

俺は久しぶりに、スキルの流れへ身を任せる。

《料理魔法》を意識する。


その瞬間。

天界から、紙吹雪のように大量の紙が舞い落ちてきた。


『ずるいぞ! 自分たちだけ!』

『俺たちにも寄越せ!』

『天界にも蟹鍋を!』

『蟹刺しを!』


久しぶりだな、この光景。

ごめんなさい。

多分、天界の分はありません。


だって。

何も言っていないのに、皆が応接間を片づけ始めている。

応接用のソファや机を部屋の隅へ寄せ。

どこからか、大きな机と椅子を運び込んでいる。


どこか別の世界へ意識が飛んでいた男子生徒たちも、

無理やり起こされ、事情も分からないまま手伝わされていた。


西園寺公爵は、奥様と春香様を呼ぶよう使用人へ命じている。

呼ばれた奥様は、状況を理解した瞬間、

慌ててジパング酒を用意するよう指示を出した。

春香様も、最初は眠そうに目を擦っていた。

だが、蟹を見た瞬間、目を輝かせ、自ら食器を並べ始めた。


これだけ大騒ぎすれば、

屋敷の使用人たちにも知られてしまうだろう。

軽食を用意してくれていた料理人たちも、

突然現れた大量の蟹を見て目を丸くしている。


「ああ、その軽食も使わせてください」


俺は、料理人たちへ声をかけた。


「代わりに、これを皆さんでどうぞ」


木箱を三つほど渡す。

これで、足りるだろうか。


「全員へ行き渡るよう、調理いたします!」


料理人たちは喜び、木箱を抱えて調理場へ戻っていった。

人数が多い。

蟹のちらし寿司か、炊き込み御飯にするのだろうか。

殻から出汁を取り、スープへ使うのかもしれない。

こちらでも、何品か作って持っていってあげよう。


そして。

料理が始まると、皆は無言になった。

本当に不思議だ。

皆、無言で蒸した蟹を殻から外し、黙々と食べている。

他の料理では、あれほど騒ぐのに。

どうして、蒸した蟹を食べる時だけ、誰も話さなくなるのだろう。

先ほどまで、


「焼き蟹だ」


「蟹味噌だ」


「ジパング酒だ」


と騒いでいたのに。

部屋の中に、蟹料理の香りが充満していく。

大丈夫かな。

屋敷へ泊まっている他の貴族たちが、

匂いに気づいて起きてこないだろうか。


松平君。


佐々木君。


斎藤君。


三人が部屋にいないことへ気づき、

探している令嬢たちもいるかもしれない。

匂いに釣られて来るのでは?


「ご安心ください」


西園寺公爵が、こちらへ親指を立てた。


「その辺りは、抜かりありませんぞ」


なんだろう。

配管工ブラザーズみたいだ。

顔は美男子だけど。


「くぅー、熱燗が飲みたい!」


春香様が、突然叫んだ。

確かに、中身は大人だけどさ。

身体はまだ子供だからね。

隣で酒を飲んでいた母親のお猪口へ手を伸ばし、

すぐに手を叩かれていた。


本当に困るよな、こういう時。

転生者って、身体と魂の年齢が違うから大変そうだ。


しかし。

こんな遅い時間に、これほど食べて大丈夫だろうか。

もう、かなりいい時間だぞ。


蟹の天ぷらは、今出したところだ。

この後は、蟹鍋。

そして、締めの雑炊が待っている。


俺が大好きな蟹クリームコロッケは、隠しておこう。

こういう時は、師匠も協力してくれるから助かる。

後で、師匠と二人でこっそり食べよう。


「あっ」


エマさんの目が光った。

はいはい。

三人でね。

俺が頷くと、エマさんは満足そうにジパング酒を飲んだ。


本当に目ざといなぁ。


俺は苦笑いを浮かべながら、

蟹クリームコロッケの種を冷蔵庫へ入れた。


「なんじゃ、それは」


背後から声が聞こえる。


「後の楽しみか?」


振り返ると、アンリ先生が立っていた。


「いやぁ」


アンリ先生は、手に持った箸を見せる。


「箸を落としてしまってのう」

「洗いに来たら、偶然見えたのじゃ」


そして、冷蔵庫の中を覗き込んだ。


「それは、何じゃ?」


いかん。

ここにも、ばれてしまった。


「これは、少し時間が掛かりますから」


俺は、冷蔵庫の扉を閉めた。


「後日です。後日」

「そうか」


アンリ先生は、満足そうに頷く。


「後日の楽しみか」

「期待して待っておるぞ」


そのまま、キッチンで箸を洗い、

何事もなかったように席へ戻っていった。


恐ろしい偶然か。


それとも、必然か。


もう少し多めに作り、隠しておかなければならない。

俺の取り分が少なくなる。

ではない。


完全になくなる。


そんな確信があった。

まずいな。

蟹鍋へ入れる蟹を、少し減らしておこうか。


俺は、鍋へ具材を入れながら考えた。

だが、今ここで不自然な行動を取れば、皆に怪しまれてしまう。


天ぷらは、既になくなった。


今は、全員の視線が鍋へ注がれている。

無理だ。

誤魔化せない。

俺は涙を隠しながら、蟹鍋を仕上げた。


鍋の中で揺れる豆腐が、美味しそうだ。

蟹や野菜から出た出汁を、たっぷり吸っている。

絶対に美味しい。

俺は酒を飲めないけれど、湯豆腐は好きだぞ。


待ちきれなくなったのか、

ムラマサ親方がキッチンまで鍋を取りに来た。

そのまま、机の上へ置かれた魔動コンロへ運んでいく。


ああ。

俺の蟹と豆腐が。


蟹鍋が、皆の前へ次々と並べられる。

待て。

確かに、高級店では沢山食べた。

だが。

ここでは、俺はまた何も食べていないのでは?

皆が、あれほど美味しそうに食べている。

俺だって食べたいよ。

なのに、俺は味見しかしていない。


解せぬ。


蟹鍋は、あっという間になくなった。

いよいよ、最後の締めだ。

雑炊へ蟹味噌を入れるか迷ったため、

蟹味噌は小鉢で別に出すことにした。

あれは、好みが分かれるからな。


俺は苦手だ。

昔、居酒屋へ連れていってくれた上司に、


「子供の舌だな」


と笑われたことがある。

好みは人それぞれなんだから、放っておいてほしい。

鶏の唐揚げへ、レモンを掛ける人と掛けない人がいるのと同じだ。


しかし。

皆は、平気な顔で蟹味噌を食べていた。

身体は子供でも、魂は大人の春香様はもちろん。


ハルヴィンダちゃん。


学生諸君まで。


苦手なのは、俺だけなのか。



そんなわけで、深夜の蟹料理パーティーは終わった。

皆、満腹になり、椅子やソファへ座って腹をさすっている。

後片づけを手伝ってくれたのは、

ハルヴィンダちゃんと天宮さんだけだった。


もう何人かは、その場で眠っている。


アンリ先生。


ミレディさん。


ハーケン夫人。


ムラマサ親方。


西園寺公爵夫人。


エマさん。


この面子は、まだ飲み足りないらしい。

眠ってしまった春香様を部屋へ連れていく使用人へ、

追加の酒と肴を用意するよう頼んでいる。

ここにもいたのか。


飲兵衛たち。


まるで、高校の修学旅行でスキー場へ行き、

生徒を現地のインストラクターへ任せて、

自分たちは遊んでいた教師陣みたいだ。


俺は後片づけを終え、簡易キッチンを消した。

突然現れたキッチンが、何の痕跡も残さず消える。

それを見て、西園寺公爵が再び目を丸くしていた。

俺は、『海神』様の神殿で預かった封書を取り出す。


「そうだ。これを預かっています」


西園寺公爵へ手渡した。

封に刻まれた七葉の紋章を見た瞬間、西園寺公爵の顔色が変わった。

すぐに執事を呼び、ペーパーナイフを受け取る。

慎重に封を切り、中の手紙を読み始めた。


「なるほど」


文章を読み終え、西園寺公爵が頷く。


「これで、合点がいきました」


そして、少し周囲を確認した。


「こうして正式な手紙を頂きましたので、お話しいたしますが」


西園寺公爵は、爺やへ視線を向けた。


「店主殿が訪れた、あの蟹料理店」

「実は、七葉様が関わっておられるのです」

「一度、本当に帝国政府の査察が入ったことがありましてな」


西園寺公爵は、声を落として話を続ける。


「紅ズワイタラバは、本当に珍しい蟹なのです」

「外洋まで出た大型漁船の網へ、偶然掛かることがある程度でして」

「一匹でも捕れれば、帝宮が高額で買い上げます」

「まさしく、一攫千金の獲物です」

「それなのに、あの店では、

 あれほど大きく新鮮な物を常に提供している」

「どう考えても、おかしいでしょう」


確かに。

あれほどの蟹を、いつでも出せるのは不自然だ。


「仕入れ先を尋ねても、答えない」

「店や運搬経路を見張っても、何も分からない」

「養殖している形跡もない」

「そこで帝国政府が査察へ入りました」


西園寺公爵は、苦笑いを浮かべる。


「ところが、査察に入った者たちは、何も語らず引き上げた」

「店には、一切のお咎めもなし」

「どうやら、仕入れ先が七葉様であると判明したようです」

「噂では、七葉様自身が、店の経営にも関わっているとか」


爺やが静かに頷いた。


こんな話をして大丈夫なのかと思ったが。

爺や以外の皆は、眠っているか。

まだ酒を飲んでいるか。

蟹料理の余韻に浸っている。

誰も、こちらの会話を気にしていない。


「それから」


西園寺公爵は、手紙へ目を落とした。


「この手紙に書かれている依頼、承知いたしました」

「すぐに手配いたします」

「少々、お待ちいただけますかな」

「恐らく、七葉様から先方へ話は通っているでしょうが」

「念のため、こちらでも確認を取らなければなりません」


西園寺公爵は、手紙を丁寧に折り畳み、懐へしまった。

俺の視線に気づいたのか、嬉しそうに笑う。


「ああ」

「七葉様から頂いた、魔法使い様直筆の手紙ですからな」

「これは、もう我が家の家宝ですぞ」


そういうものなの?


「それに、今夜の宴」


西園寺公爵は、先ほどまで蟹料理が並んでいた机を眺めた。


「八葉様が、我が家で直々に料理を振る舞われた」

「これは、我が西園寺家の伝説になりますぞ」


西園寺公爵は、とても満足そうに笑った。

「話してよい時が来れば、

 あのカスパールめに、大いに自慢してやります」


笑顔から、突然真顔へ戻る。

そして、恐らくカスパール侯爵領がある方角へ顔を向けた。


「何が、『女神様へ献上した茶葉』だ」

「何が、『魔王退治へ貢献した茶器』だ」

「自慢しおって」

「献上した茶器は、もう手元にはあるまい」


何の話だろう。


「そうだ、店主殿!」


西園寺公爵が、急に俺へ振り返った。


「折角、我が領へお越しになったのです」

「我が家でも、茶器を用意しましょう」


そして、欲に眩んだ笑顔を浮かべる。


「どうか、女神様へ献上させてください」


ああ。

この人も、やっぱり貴族なんだな。

俺が何とも言えない視線を向けていると、

西園寺公爵は我に返ったように咳払いをした。


「失礼しました」

「つい、あのカスパール侯爵のことを考えると」

「別に、仲が悪いわけではないのですぞ」


本当かな。


「私が帝国学園へ通っていた頃からの、先輩後輩でしてな」

「高等部にいたくせに、わざわざ中等部の私の所まで、

 嫌味を言いに来るような男でして」


西園寺公爵は、

学生時代から続くカスパール侯爵との因縁を話し始めた。


これは。

終わりそうにないな。


後ろに控えていた執事も、申し訳なさそうに軽く頭を下げてきた。


どうやら、いつものことらしい。


俺は、サラリーマン時代。

朝礼中に社員が倒れても、

話をやめなかった役員の長話を聞き流すために習得した、

スルースキルを発動した。


完全に聞かないのは危険だ。

何となく聞いておかないと、

知らないうちに妙な約束を取りつけられているかもしれない。


しばらく話し続け。

ようやく溜飲が下がったのか、西園寺公爵は口を閉じた。

執事が、あらかじめ用意していた水を差し出す。

西園寺公爵は、それを一気に飲み干した。


「それで、店主殿」


西園寺公爵が、改めて俺へ向き直る。


「どうされますかな」


なんだろう。

さっきの長話の中に、何か質問があったのかな。


「店主殿と、一部の方々だけで向かわれますか」

「それとも」


西園寺公爵は、応接間にいる一同を見渡した。


「皆様全員で向かわれますかな」


少し間を置く。


「海人の国――」

「アトランティス・ザ・ムーへ」


師匠のニューワールド講座 99

~紅ズワイタラバ編~


師匠

なんです。


「俺も蟹食べたいです。

作者の腹が鳴っています。」


『ヴァルナさんは、もう十分食べたじゃないですか。』

『師匠もエマさんも、店でも屋敷でも食べてましたよね。』


「はいはい。

蟹の説明にいきますよ。」


『紅ズワイタラバ。』

『蟹の王様と呼ばれる、幻の高級蟹です。』

『紅ズワイガニの甘みと、

タラバガニの力強い食感を併せ持つ、

まさに両方の長所を受け継いだハイブリッド蟹ですね。』


『塩茹で良し。』

『蒸して良し。』

『鍋良し。』

『しゃぶしゃぶ良し。』

『寿司にしても、

刺身にしても絶品です。』


『もちろん、焼き蟹や天ぷらでも最高ですよ。』


『紅ズワイガニ特有の強い甘みとジューシーさ。』

『濃厚でコクのある蟹味噌。』

『そして、タラバガニの太く締まった身と、

ぷりっとした食感。』

『まさに二種類の蟹の良いところ取りです。』

『しかも一杯が非常に大きく、

普通の人なら一杯食べれば十分満足できます。』


「えっ。

複数杯食べてましたよね。」


『……ああ、至高。』

『まさしく至高の味でした。』


『本編でも西園寺公爵が話していましたが、

この蟹は偶然にしか獲れません。』

『そのため非常に高価で、

帝宮をはじめ、ごく一部の富裕層だけが取引できる代物です。』

『まるで、日本の初競りの本マグロですね。』


『この世界は日本ほど物価が高くありませんから、

一人で一杯獲れただけでも、

軽く年収を超える価値になります。』

『もっとも、

かなり沖合まで出なければ獲れませんし、

大型漁船で何人も乗り合わせて漁をしますから、

利益は山分けになります。』

『それでも臨時ボーナスどころの騒ぎではありませんけどね。』


『しかし、あのお店。』

『旬が冬である紅ズワイタラバを、

一年中提供するとは。』

『七葉の魔法使いに関係する店とはいえ、

本当にやりますね。』


『ヴァルナさん。』

『七葉の魔法使いの所へ行く理由がまた一つ増えましたね。』

『きっと蟹だけではありませんよ。』

『海老に、帆立に、牡蠣に……。』

『さあ、海鮮バイキングへ出発です。』


「結局、それが本音じゃないですか。」

『任務です。これは立派な任務です。』

「絶対違いますよね。」




作者メモ

※本編のおまけ設定です。読み飛ばしても問題ありません。

※本編とは時空が違います。

※本編の都合により、設定が変わる事があります。


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