103 出発進行
あれ、おかしい。
朝――というより、いつも通り、
まだ星空が空に輝いている時間に起きた。
パン工房へ向かい、いつものように一日分のパンを焼く。
作業を終え、朝食前の運動へ行くために部屋へ戻り、
着替えようとした時だった。
「あれ?」
タンスを開けたまま、俺は首を傾げる。
着替えが、いつもより少ない。
おかしいなぁ。
普段なら、綺麗に洗濯された服や下着が、
きちんと畳まれて詰まっているのに。
いつもエマさんが、洗濯から片づけまで完璧にしてくれている。
まさか、下着泥棒か。
いや、ないない。
こんなおっさんの下着を盗んで、どこに需要があるねん。
エマさんが忘れたのかな。
でも、こんなことは一度もなかった。
「ねぇ、師匠――」
振り返る。
「あれ?」
師匠もいない。
さっきまで一緒にパン工房にいたはずなのに。
「師匠、どこですかー」
俺は部屋の外へ出て、師匠を探すことにした。
とはいえ、大きな声は出せない。
まだ皆が眠っている時間だ。
この時間に起きているのは、夜番と呼ばれる人たちくらいだろう。
何人かで組を作り、交代でヘイムの周囲を見回ってくれている。
別に、ここは貴重品が並ぶ店や博物館というわけではないのだけれど。
いや。
考えてみれば、偉い人はいるか。
アンリ先生やミレディさん。
時々、トール夫人やハーケン夫人も泊まっている。
プリセスガードの皆さんも、基本的には伯爵令嬢以上の家柄だ。
そのプリセスガードの皆さんも、
そろそろ朝練のために起きる頃だろうか。
ハルヴィンダちゃんも、毎朝参加している。
若いっていいね。
本当に頭が下がるよ。
ロビーへ向かう途中、そのハルヴィンダちゃんの姿が見えた。
「あっ、噂をすればだ」
俺は少しだけ声を上げる。
「おーい、ハルヴィンダちゃん。師匠、見なかった?」
ロビーの先にいたハルヴィンダちゃんが、こちらを振り返る。
だが、その姿を見て、俺は再び首を傾げた。
あれ。
いつもの練習着じゃない。
動きやすそうな服装ではあるが、どちらかといえば外出用に見える。
「あれ、店長さん」
ハルヴィンダちゃんも、俺の姿を見て不思議そうに瞬きをした。
「そんな格好で行くのですか?」
俺の部屋着に近い服装を、上から下まで眺める。
「少し、ラフすぎません?」
「いや、いつもの運動着に着替えようと思ったんだけどさ」
俺は頭を掻きながら答えた。
「部屋のタンスが、なんかおかしくて」
「そうなんですか?」
ハルヴィンダちゃんは、ますます不思議そうな顔をする。
「早く着替えないと、もう皆が来ちゃいますよ」
皆?
来る?
何の話だ。
俺は、いつもの運動と魔法の練習へ行くだけだ。
ハルヴィンダちゃんは、どこかへ出かけるのだろうか。
そういえば、彼女の足元には大きな荷物が置かれている。
「なんじゃ、ヴァルナ」
背後から、呆れた声が聞こえた。
「まだ、そんな格好をしておるのか」
振り向くと、アンリ先生がこちらへ歩いてきていた。
「早く、出かけるための服に着替えてこんかい」
アンリ先生は、いつもの帝国学園教授の礼服を着ている。
だが、よく見ると、普段の仕事着とは少し違う。
布地も上等で、外出用の装いに見えた。
「おや、ハルヴィンダ」
アンリ先生は、彼女の足元にある荷物へ目を向けた。
「親方から、アイテム袋を貸してもらえんかったのか?」
「ええと……」
ハルヴィンダちゃんは、懐から小さな袋を取り出した。
「これ、使っていいのかなって」
手のひらに収まるほど小さな袋を、不安そうに見つめる。
「とても貴重な物ですよね?」
「そなたのために用意したのであろう」
アンリ先生は、ハルヴィンダちゃんの傍へ寄り、袋を覗き込んだ。
「使ってやらんと、逆に親方が泣くぞ」
袋へ指を近づけ、魔術の状態を確認する。
「うむ。盗難防止の魔術が掛かっておるな」
そして、少し真剣な顔になった。
「じゃが、念のため、目立つ場所につけて歩くではないぞ」
「酷い奴は、持ち主ごと強引に奪おうとするからな」
突然、アイテム袋という新たな魔道具の説明が始まった。
俺が二人の会話を聞きながら、状況を理解しようとしていると、
また別の声が聞こえてきた。
「あら。店主殿は、その格好で行くのですか?」
今度はミレディさんだ。
彼女も、いつもの助教授服に見える。
だが、アンリ先生と同じく、よく見ると外出用に整えられていた。
えっ。
何。
どこかへ行くの?
ロビーの入口付近が、急に騒がしくなってきた。
「うるさいわね。レディは荷物が多いのよ」
聞き慣れた声と共に、鈴木さんが入ってくる。
「修行だと思って、私たちの荷物を持ちなさい」
その後ろには、天宮さんと冨樫さん。
三人とも帝国学園の上着を羽織っているが、
どう見ても外出用というより旅行用の格好だ。
それぞれ、大きな荷物を持っている。
そして三人の後ろでは、斎藤君と佐々木君が、
大量の荷物を抱えさせられ、息を切らしていた。
さらに、その後ろ。
松平君が、エミリアさんに腕を掴まれている。
「いい?」
エミリアさんは、松平君の顔を間近で睨んでいた。
「私は仕事があるから、ついて行けないの」
声を潜めながらも、目は本気だ。
「代わりに、しっかり見張るのよ」
「変な虫がつかないように、きちんと監視するの」
どうやら佐々木君本人には、聞こえていないらしい。
「もし、変な虫がついたら――」
エミリアさんは、さらに松平君へ顔を近づけた。
「漫研の予算、削減よ」
公私混同も甚だしい。
だが、怖いので放っておこう。
しかし、皆でどこかへ行くのだろうか。
「おやおや。店主殿は、随分と軽装ですな」
今度はムラマサ親方が入ってきた。
本人は手ぶらだが、服装は完全に旅装姿だ。
「荷物はないのですか?」
ムラマサ親方は、俺の手元を見て首を傾げる。
「店主殿は、まだアイテムボックスを持っておらんのでしょう」
「早く用意せんと、乗車時間が来てしまいますぞ」
乗車時間?
何に乗るんだ。
ムラマサ親方は、俺の混乱など気にも留めず、学生たちへ目を向けた。
「おお、生徒諸君。随分と荷物が多いのう」
斎藤君と佐々木君が、助けを求めるように顔を上げる。
「良ければ、ワシのアイテムボックスへ入れてやるぞ」
「すぐに使わん物は、持ってこい」
その言葉を聞いた学生たちは、歓声を上げてムラマサ親方の元へ駆け寄った。
えっと。
乗車時間って何?
俺が状況についていけず、あたふたしている間にも、人は増えていく。
ノートさんや、ハンスさんたちまで集まってきた。
「リナ」
ハルヴィンダちゃんは、妹の前にしゃがみ込んだ。
「私がいない間、親方たちやベルンさんの言うことを聞いて、
いつも通りにするのよ」
「うん」
リナちゃんは、元気よく頷いた。
「お姉ちゃん、気をつけてね」
そして、笑顔を浮かべる。
「お土産、楽しみにしてる」
「もう、ばかね」
ハルヴィンダちゃんは、
困ったように笑いながら、リナちゃんの頭を撫でた。
それから、ベルンさんとマルタさんへ向き直る。
「ベルンハルトさん、マルタさん」
「リナを、よろしくお願いします」
「おお、任せとけ」
ベルンさんは、力強く胸を叩いた。
「じっくり楽しんでこい」
またか。
また、このパターンか。
俺だけが置いてきぼりだ。
何の話をしているのか、まったく分からない。
「店主さん」
ハンスさんが、真剣な顔で俺の前へ立った。
「大丈夫です」
両手を強く握りしめる。
「キッチンは、俺たちがしっかり守っていますから」
「きちんと、お勤めを果たして戻ってきてください」
おっ、おう。
お勤めって何だ。
俺は、どこかに収監されるのか。
「旦那様」
背後から、冷ややかな声が聞こえた。
「ここにいたのですか」
振り返る。
そこにいたのは、いつものメイド――。
「侍女長です」
はい。
いつもの侍女長、エマさんだった。
だが、普段の侍女服ではない。
彼女もまた、動きやすそうな旅装姿をしている。
「まったく」
エマさんは、呆れたようにため息をついた。
「仕事もせずに、ふらふらと」
「本当に、世話が焼ける旦那様です」
どうやら、若干怒っているらしい。
「着替えや、必要と思われる物は、もうまとめてあります」
「旅の準備も一人でできないなんて、困った旦那様ですね」
だから。
旅の準備って何?
いつ、俺が旅へ出ることになったんだ。
そして、この集団は何なんだ。
混乱していると、
アンリ先生の爺や――ホルトスさんが、ロビーへ入ってきた。
「皆様」
いつもの執事服姿だが、足元には頑丈そうなブーツを履いている。
どう見ても、こちらも旅支度だ。
「魔動車の用意ができました」
「さあ、駅までご案内いたします」
その言葉を合図に、皆が一斉に動き始めた。
「ヴァルナ」
アンリ先生が、呆れた顔で振り返る。
「早くせんと、置いていくぞ」
そう言い残し、皆と一緒に外へ出ていった。
「さあ、旦那様」
エマさんも、こちらへ冷たい視線を向ける。
「とっとと着替えてきてください」
そう言って、さっさと出ていってしまった。
着替えろと言われても。
目的も分からないのに、何へ着替えろというのだ。
俺は首を傾げながら、自室へ戻った。
部屋へ入った瞬間。
久しぶりに、あれが飛んできた。
『師匠キィーック!』
「ぐえっ!」
俺の背中へ、師匠の蹴りが炸裂する。
『どこを、うろうろしているのですか』
師匠は、呆れたように俺を見下ろした。
『子供じゃないのですから、早く用意しなさい』
いや。
俺は師匠を探していたんですが。
それに、皆の状況についていけません。
俺はぶつぶつと愚痴を言いながら、着替えを始めた。
皆、旅装姿だった。
なら、それらしい格好でいいのかな。
でも。
旅装姿って、どんな格好だろう。
俺が旅をしたのは、この世界へ来て、帝都へ向かった時くらいだ。
あの時と同じ服でいいのだろうか。
『目立つ格好は駄目ですよ』
師匠が、当然のように言う。
『一応、ヴァルナさんはお忍びの旅なのですから』
お忍びの旅?
何をするの?
第一、あの面子で、お忍びなんて無理でしょう。
どこから見ても目立ちますよ。
『心配ありません』
師匠は、実に失礼な笑顔を浮かべた。
『ヴァルナさんは、モブ顔、モブ体型ですから』
『奇行に走らず、大人しくしていれば、誰にも気づかれません』
『いつぞやのように、きょろきょろしてはいけませんよ』
確かに。
俺は慌てて、『大地母神』様のアミュレットを首から下げる。
茶毛親方に作ってもらった、世界樹の枝用の携帯ホルダーも腰へつけた。
それから、適当な鞄を手に取る。
「師匠」
俺は鞄を開きながら尋ねた。
「何を持っていけばいいんですか?」
『着替えや身の回りの物は、エマがまとめて持っていきました』
『ですから、適当でいいでしょう』
適当。
その適当が分からないから、困っているのですが。
それに、着替えをエマさんがまとめたって。
つまり。
俺の服や、下着まで。
『いつも部屋の掃除や、洗濯をしてくれているのは誰ですか』
それは……。
『今更ですよ』
師匠は、呆れ果てたようにため息をついた。
『何を恥ずかしがっているのですか』
ごもっともです。
『それに、何か忘れても、取りに帰ればいいではありませんか』
えっ。
そうなの?
駅とか言っていたけれど。
皆、大量の荷物を持っていたけれど。
取りに帰れるほどの近場なのだろうか。
『そんなわけないでしょう』
師匠は、何を言っているのだと首を振る。
『大陸の南端まで行くのですよ』
えっ。
南端?
そんな所まで行ったら、どうやって取りに戻るんだ。
『魔法使いは、チートなのですよ』
師匠は、いつものように俺の頭へ乗った。
そして、さらりと、とんでもないことを口にする。
『ファストトラベルです』
何それ。
本当にチートじゃん。
『世界を旅して、転移地点を増やしましょう』
転移地点。
つまり、一度行った場所へ、自由に戻れるようになるということか。
というか。
大陸南端って、どこへ行くんだ。
師匠へ聞こうとした時、部屋の外から声がした。
「マスター」
キューブが、扉の前に立っていた。
「もう皆様、出られましたよ」
「残っているのは、マスターとハーケン夫人だけです」
キューブは、俺の服装を確認する。
「ええ。その格好で問題ないかと」
「管理者のアミュレットと、世界樹の枝」
俺が身につけた物へ視線を向ける。
「それがあれば、大抵のことは解決できるでしょう」
何かあっても、それで何とかしろということらしい。
「マスター」
キューブは、にこやかな笑顔のまま言葉を続ける。
「早く、アイテムボックスを習得してくださいね」
「エマが愚痴をこぼしていました」
少し間を置き、付け加える。
「まあ、楽しそうでしたが」
キューブに促され、俺はロビーへ向かった。
そこには、旅装姿のハーケン夫人がいた。
だが、その周囲を、トール夫人と飲兵衛親方たちが取り囲んでいる。
「いいわね、リオニー」
トール夫人が、ハーケン夫人の両肩を掴んでいる。
「必ず、手に入れてくるのよ」
「そうじゃ!」
スミズル親方が、大きく頷く。
「最低でも、一人一本じゃ!」
「うむ!」
トレース親方も、悔しそうに拳を握った。
「それが最低限のノルマじゃ」
「ついて行けんのが、悔しいぞ!」
何やら、深刻な話をしている。
一体、何の話だろう。
三人の気迫が、異常に強い。
「はいはい」
ハーケン夫人は、疲れ切った顔で三人を軽くあしらった。
「無理を言わないの」
「それより、私たちがいない間、頼むわよ」
「「「リオニー!」」」
三人の声が、見事に重なる。
「ああ、待っていたわよ、ヴァルナ殿」
ハーケン夫人は、俺の姿を見た瞬間、助かったという顔をした。
「さあ、行きましょう」
三人の包囲を抜け、そのまま外へ向かう。
何なんだ、この旅は。
何が目的なんだ。
俺も、そのまま師匠と共に外へ出た。
待っていた魔動車へ乗り込む。
おお。
初めての魔動車だ。
車内へ入った瞬間、座席の柔らかさに驚いた。
自動車より、乗り心地がいい。
『高位貴族用ですからね』
師匠が、当然のように答える。
なるほど。
ここにも、格差があるのか。
車外では、まだ何か言いたそうなトール夫人たちと、
キューブたちが見送ってくれている。
「マスター」
キューブが、魔動車の扉へ手を添えた。
「良き旅を、お祈りしております」
「ヘイムと従業員」
「それから、世界樹のことはお任せください」
キューブの笑顔は、いつも通りだ。
「何人たりとも、不審な者を近づけません」
ものすごい安心感がある。
「ああ。お願いね」
俺が答えると、キューブは静かに扉を閉めた。
同時に、魔動車が滑るように動き出す。
見送りに来てくれた皆が、手を振っている。
その姿が、少しずつ小さくなっていく。
「相変わらず、頼りになる執事ね」
向かいの席に座るハーケン夫人が、
遠ざかるヘイムを眺めながら口を開いた。
「帝国政府どころか、魔王さえも手を出せない気がするわ」
「そうですね」
俺は苦笑いを浮かべる。
確かに、無駄に安心感がある。
本当に、頼りになる執事だ。
「それで」
俺は、先ほどから抱えていた疑問を、ついに口にした。
「お聞きしたいんですが」
ハーケン夫人へ目を向ける。
「俺たち、どこへ行くんです?」
その問いを聞いたハーケン夫人が、驚いたように目を見開いた。
「あら」
「ヴァルナ殿の提案だと聞いていたけれど」
「西園寺公爵家へ、お礼に行くのでしょう?」
「上手くいけば、そのまま海人の国へ行くと」
えっ。
あれ?
確かに。
行った方がいいかな、と話した。
貴重な酒を贈ってもらったから、お礼くらいはした方がいいかもしれない。
でも。
行くと決めた覚えはない。
酒。
先ほどの三人の様子。
なるほど。
目的は、それか。
「誰が、指揮を執っていたんですか」
俺は、深いため息と共に尋ねた。
「あら」
ハーケン夫人は、楽しそうに笑う。
「御使い様と、ムラマサ親方が張り切っていたわよ」
「ヴァルナ殿が、西園寺公爵領へ行くと言っていた、と」
俺は、じとりとした目で頭上の師匠を見る。
師匠は、俺の視線など気にも留めず、旅行雑誌らしき物を開いていた。
現地のグルメ特集だろうか。
何やら、回る順番まで決めているように見える。
「それで」
俺は、さらに疑問を口にする。
「どうして、学生たちまでいるんです?」
ムラマサ親方やハーケン夫人は、まだ分かる。
アンリ先生とミレディさんも、まあ分かる。
きっと、あの酒が目当てなのだろう。
「あら」
ハーケン夫人が、本当に知らないのかと俺を見る。
「本当に、何も聞いていないのね」
少し呆れたように笑う。
「修学旅行らしいわよ」
「異世界には、変わった授業があるのね」
「異世界の学校では、伝統行事なのだとか」
そうですね。
修学旅行。
確かに学校行事です。
でも。
どうして、あの六人だけなんです?
俺が尋ねると、ハーケン夫人は指を折りながら説明し始めた。
「貴族に取り込まれた生徒たちは、
それぞれの貴族の領地へ行っているでしょう?」
「残った生徒たちは――」
少し笑いを堪えるように、口元を押さえる。
「私たちと一緒に行くと、トラブルの予感がする、と言ったそうよ」
「それで、他の先生が引率して、定番の観光地へ行っているわ」
何だよ、それ。
これからトラブルが起こるみたいじゃないか。
いや。
起こりそうだな。
濃い面子ばかりだ。
「ハルヴィンダちゃんは、年も近いし」
ハーケン夫人は説明を続ける。
「帝都の外へ出たことがないと言っていたから、ちょうどいいだろうって」
「それで、一緒に行くことになったの」
「アンリちゃんとミレディちゃんは、その引率」
ハーケン夫人は、少し肩をすくめた。
「どう見ても、こちらの組の方が問題を起こしそうでしょう?」
「だから、担任と副担任が揃ってついてきたのよ」
引率される側より、引率者の方が心配な布陣なのですが。
「ホルトス殿は、アンリちゃんの世話係」
「エマさんは、あなたの世話係」
少し間を置く。
「ムラマサ親方は、ご想像通り、便乗ね」
やっぱり。
「本当は、アルマも、スミズル親方も、
トレース親方も来たがっていたけれど」
ハーケン夫人は、苦笑いを浮かべた。
「アルマは、最近、宰相夫人として忙しいでしょう」
「スミズル親方とトレース親方は、まだ住宅地を完成させていないし」
「そんな中途半端な状態で現場を離れられない、と泣いていたわ」
本当に泣いていたのだろう。
酒を飲めないことへの悔し涙かもしれないが。
「ノート殿も、一族の代表として、
まだ落ち着いていないのに旅などできるか、ですって」
「各神殿に預かってもらっていた一族を引き取ったりして、忙しいみたい」
そうか。
皆、忙しいんだな。
俺は、自然と視線を落とした。
それに引き換え、俺は何をしているのだろう。
苦笑いを浮かべながら顔を上げる。
ちょうど、ハーケン夫人と目が合った。
「あっ」
ハーケン夫人が、少し慌てたように目を逸らした。
「あら、私……」
いや。
別に、責めるつもりはなかったのだが。
どうやら、ハーケン夫人は、そう受け取ったらしい。
「私は、何だろう」
一瞬だけ、寂しそうな顔をする。
「アルマが、働けって」
そして、すぐに不満そうな表情へ戻った。
「ヘイムで酒ばかり飲んでいないで、少しは外へ出て、気分転換してこいって」
「失礼しちゃうわ」
「私だって、ヘイムで貴族の相手をして、きちんと働いているのに」
こちらへ顔を寄せる。
「ねっ?」
同意を求められた。
確かに。
いつも、貴族などの面倒な客の相手をしてもらっている。
ただ。
最近は、その貴族たちが領地へ戻っていて、
滅多に来店していないはずだけど。
俺の考えていることを察したのか。
「おっほほほほ」
ハーケン夫人は、わざとらしい笑い声を上げ、誤魔化した。
この人も、かなりのトラブルメーカーだよなぁ。
そんな話をしているうちに、魔動車は帝都の南門を抜けた。
そのまま、さらに南へ向かって走る。
検問はないのかと思ったが、事前に連絡が通っていたらしい。
魔動車に取りつけられた紋章を確認されただけで、簡単に通ることができた。
さすが、権力者。
だが。
これを悪用すれば、密輸などし放題ではないだろうか。
そう考えてしまうのは、俺の心が汚れているからだろうか。
それに、
このまま西園寺公爵家へ向かって、問題はないのだろうか。
こういう訪問には、先触れとか、手土産とかが必要ではないのか。
俺がハーケン夫人へ尋ねると、彼女は問題ないと手を振った。
「そういうことは、アンリちゃんが、もう済ませているわ」
「それでも気になるなら、現地で料理の腕でも披露しなさい」
「それで十分よ」
十分と言われても。
俺が作って振る舞う料理など、それほど大した物ではない。
そう答えると、ハーケン夫人は呆れた顔をした。
「魔法使いが、自ら料理を作って振る舞うのよ」
「貴族にとって、それ以上の誉れがあると思う?」
「魔法使いに何かしてもらうなんて、
どれほどの金銀財宝を積んでも無理なのよ」
そういうものなのか。
それに、今回の旅は、
あくまで帝国学園の転移勇者クラスによる
修学旅行という形になっているらしい。
皇族であるアンリシア姫。
前ガイアースブルク侯爵夫人であるリオニー。
そういった身分の者が、公的に訪問するわけではない。
あくまで、ただの引率者、付き添いだ。
もちろん、訪問先である西園寺公爵家には、一行の素性を正確に伝えている。
だから、西園寺公爵家で、身内だけの歓迎会は開かれるだろうとのことだった。
「いちいち公にしていたらね」
ハーケン夫人は、うんざりしたようにため息をつく。
「寄子の貴族をはじめ、地元の有力者や商人まで呼ばなくてはいけないの」
「そうなれば、修学旅行どころではないわ」
「毎日、パーティーと政治の話ばかりになるでしょうね」
それでは、旅行どころではない。
「それに」
ハーケン夫人は、少し真剣な顔になる。
「皇族と、引退したとはいえ大貴族」
「そして、魔法使いまでいる集団が、
何の理由もなく地方の大貴族へ会いに行ったら、どう思われるかしら」
帝国中が、何か裏があると疑うだろう。
「どんな陰謀か、と帝国全土を揺るがすわよ」
「痛くもない腹を探られるし」
「魔法使いが初めて、どこの領地へ外遊したかという問題にまで発展するわ」
「まあ、私達の行動なんてすでにバレているでしょうけど。」
アレク殿下のお茶会騒動、再びというわけか。
公式には、まだアレク殿下はお茶会を開いていないことになっている。
あれは、あくまでクラスの歓迎会だ。
「有名になるのも、権力を持つのも大変ね」
ハーケン夫人は、車窓の外へ目を向けた。
「自由がなくなって、面倒ばかりよ」
本当に、その通りだ。
最近は、皆から顔を知られるなと言われ続けている。
顔が知られれば、次から次へと面倒事へ巻き込まれるぞ、と。
そうなれば、他の魔法使いのように、
引き籠もって外界との関わりを絶つしかない。
本当に面倒だ。
俺とハーケン夫人は、同時にため息をついた。
そんな話をしているうちに、魔動車は目的地へ到着した。
帝国南部地方へ向かって敷かれた、モノレールの駅。
その隣には、地上を走る汽車の駅もある。
帝国南部地方への流通を支える、巨大な交通拠点だ。
モノレールと汽車の駅が併設され、
その周囲には、帝都へ人を運ぶ定期魔動車の乗り場。
運ばれてきた荷物を一時的に保管する倉庫。
商店や宿泊施設。
様々な建物が並んでいる。
早朝だというのに、大勢の人々が忙しなく動き回っていた。
治安上の問題から、
モノレールや汽車の線路は、帝都の中まで引かれていないそうだ。
帝都の東側も同じで、東門の先に、同じような汽車の駅があるらしい。
西門から少し行けば、イーデル河に大きな港がある。
北部にも、これから汽車の駅を作る予定で、
今は候補地を探しているとのことだった。
駅の奥へ入っていく。
今回の修学旅行のために、西園寺公爵家が特別車両を用意してくれたらしい。
重力制御装置が生み出す特殊なフィールドに包まれた車両。
それに乗れば、約二十四時間で西園寺公爵領へ到着できるという。
ただし。
運行には、細かなダイヤ調整が必要になる。
だから、出発時間には絶対に遅れないように、と念を押されていたらしい。
なるほど。
それで、皆から急かされていたのか。
だったら、前もって話しておけと言いたかった。
だが、師匠は冷たく言い放った。
『言ったら、逃げるでしょう』
その通りだ。
事前に知っていたら、何かしら理由をつけて断っていたはずだ。
今の俺には、旅行を楽しむほどの心の余裕がない。
他の皆は、すでに特別車両へ乗り込んでいるらしい。
俺たち待ちだ。
荷物はすべて、アイテムボックスやアイテム袋の中へ収納済み。
皆、手ぶらか、小さな手荷物だけを持っている。
駅の中にある昇降機へ乗り、モノレールのホームへ向かった。
本当に、場違いな設備だ。
ファンタジー台無しだよ。
特別車両へ乗り込む。
車内では、皆が思い思いに過ごしていた。
車両は縦に長く、かなり広い。
二十四時間を過ごすだけあって、設備も整っている。
小さいながらも、トイレや風呂場。
簡単な台所まで備えられていた。
もっとも、食事は簡易的な物しか作れないらしい。
本格的な料理を作るほどの空間はない。
貴賓客用の車両なので、ベッドも用意されている。
ただし、個室ではなく、仕切りの少ない共同空間だ。
どうやらベッドは、女性陣が使うことになったらしい。
男性陣は、床で雑魚寝。
鈴木さんが、当然のようにそう仕切っていた。
まあ。
数も広さも限られているから、仕方ないよね。
そう思いながら、窓の外へ目を向ける。
景色が、ものすごい速さで流れていた。
「あれ?」
いつの間にか、発車していたらしい。
まったく気づかなかった。
この中で、出発したことに気づいている者は、どれくらいいるのだろう。
生徒たちは、何も気づかず楽しそうにはしゃいでいる。
エマさんまで、一緒になって何をしているの。
他の大人たちは、静かに席へ座り、思い思いにくつろいでいる。
やれやれ。
本当に、修学旅行だ。
これから向かう、帝国南部地方。
西園寺公爵領。
そこには、何があるのだろう。
そして。
何が、俺たちを待っているのだろう。
モノレールは、騒がしい一行を乗せたまま。
音もなく。
静かに帝国南部地方へ向かって進んでいった。
師匠のニューワールド講座 96
~アイテム袋編~
師匠。
「なんです。」
「今回、アイテム袋って出てきましたけど。」
「アイテムボックスとは何が違うんですか?」
『そうですね。』
『以前解説した通り、アイテムボックスはチートです。』
『転移者や転生者が授かったり、
世界から称号と共に与えられたりする特別な能力ですね。』
『それに対してアイテム袋とは、そのアイテムボックスを再現しようと、
多くの者達が研究を重ねて開発した魔道具です。』
「じゃあ、ほとんど同じなんですか?」
『いいえ。』
『まったく違います。』
『アイテムボックスのような時間停止機能はありません。』
『中の時間は普通に流れます。』
『容量もそこまで大きくありません。』
『今回のような旅行や行商程度なら十分ですが、
生鮮食品を長距離輸送するような商売には向いていませんね。』
『ですが、個人で持ち歩くには十分な容量があります。』
『ですから商人達は皆欲しがります。』
『非常に高価ですから、持っているだけで一種のステータスですね。』
「じゃあ商人さん達って、みんな手ぶらなんですか?」
『逆です。』
『ちゃんと荷物を持って歩きます。』
『手ぶらで歩けば、「私はアイテム袋を持っています」と
宣伝しているようなものですからね。』
『盗賊からすれば格好の獲物です。』
『そして、その辺が分かっていない者ほど、防犯をケチります。』
『盗難防止の魔術付与を付けずに盗まれるのです。』
『あの魔術、アイテム袋本体より高価だったりしますからね。』
『スミズルもトレースも、本当に爺馬鹿です。』
『ハルヴィンダが可愛くて仕方ないのでしょう。』
「でも、こんな便利な物が普及したら怖くありません?」
「荷物検査なんてできないでしょう。」
「密輸もできますし、武器を隠して要人へ近付く事だって……。」
『帝都へ入る時に通った魔術判別機を覚えていますか?』
「ありましたね。」
『あれと同じ仕組みです。』
『大きな街や重要施設、貴族の屋敷などには設置されています。』
『あれならアイテム袋の中身まで判別できます。』
『もっとも、アイテムボックスだけは別ですが。』
「それじゃ意味ないじゃないですか。」
『基本的にアイテムボックスの所持者は、世界に認められた者が多いです。』
『余程の事がない限り信用されています。』
『……もっとも。』
『邪神やトリックスターから授かった者もいますので、
警備担当は胃が痛いでしょうね。』
『あと、ヴァルナさんが心配しているような、
そんな高価な魔道具を設置できない場所もあります。』
『そういう所では、《鑑定》持ちが重宝されます。』
『佐々木のような者ですね。』
『レベルにもよりますが、人件費だけで荷物検査ができます。』
『犯罪者からすれば邪魔でしょうが、
《鑑定》持ちを狙えば、それだけで
「何か企んでいる」と周囲へ知らせるようなものです。』
『便利な物ほど犯罪にも利用されます。』
『だからこそ、それを防ぐ技術や制度も発達する。』
『結局は、いたちごっこですね。』
「師匠。」
「俺、魔法使いになったのに、アイテムボックス無いんですが。」
『…………。』
『それは、まだ世界から認められていないからでは?』
『まだまだ魔法使い(笑)なんでしょう。』
「なんで最後だけ笑ったんですか!」
作者メモ
※本編のおまけ設定です。読み飛ばしても問題ありません。
※本編とは時空が違います。
※本編の都合により、設定が変わる事があります。




