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101 幻の一杯

「おお、諸君。こうして話すのは初めてじゃな」


白く長い髭を撫でながら、

老人は集まった者たちをゆっくりと見渡した。

その顔には深い皺が刻まれているが、眼光は若者にも負けぬほど鋭い。

いや、鋭いというよりも、

面白い玩具を見つけた子供のように生き生きとしていた。


「十八代目ムラマサこと、チェリー・ムラマサじゃ」


老人は胸を張り、堂々と名乗った。


「先祖代々、醸造家と酒類問屋をやっとる。もっとも、

 今は家出というか、醸造場を飛び出しておるがの」


そこまで言ったところで、ムラマサは不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「息子が『持ち出した看板を返せ』

『俺に十九代目を名乗らせろ』と言ってくるが、

 一昨日来やがれじゃ」


吐き捨てるような言葉とは裏腹に、

その顔には呆れと、わずかな寂しさが混じっていた。


「昔のう、酒の仕入れ先と、

 良き穀物はないかと世界を旅していた時の話じゃ」


ムラマサは遠い昔を懐かしむように目を細めた。


「旅先で、大工の頭領に会ってのう。その時に聞いた話じゃ」


片手で宙に文字を書くような仕草をしながら、老人は説明を始めた。

 

「大工とは、鬼族が使う文字――漢字では、普通は“大工”と書く。

 じゃが、その頭領は、自分たちの“大工”は“大九”と書くのだと言っておった」


聞いていた者たちが首を傾げると、

ムラマサは「まあ、最後まで聞け」と手を振った。


「大一から入門して、こつこつ経験を積み、

 腕を上げる。大二、大三、大四となっていき、

 ようやく大九に至って、一人前の職人になるそうじゃ」


ムラマサは人差し指を立て、厳めしい顔を作った。


「それなのに、最近の者は大五か大六くらいで、

 いっぱしの職人ぶる。情けない、と頭領は嘆いておった」


当時のムラマサには、その言葉の意味がよく分からなかった。


「その時は、よう意味が分からんかったが、

 今思うとうまいことを言っておったのう」


深いため息と共に、ムラマサの肩が落ちた。


「うちの息子なんぞが、良い例じゃ。あの小童、

 ろくな酒も造れんくせに、ムラマサの名前だけで売っておる」


先ほどよりも声に苛立ちが滲んでいる。


「最近は自前の酒が売れず、仕入れた酒ばかり売っておるではないか。

 嫁さんと孫娘が可哀想じゃ」


それでも、嫁と孫娘の話になると、

ムラマサの表情は少しだけ柔らかくなった。


「嫁さんと孫娘は、今でもワシの教えに従って酒を造っておる。

 いっそのこと、孫娘の方にムラマサの名を譲ろうかのう」


どうやら、冗談だけではないらしい。

老人は白い眉を寄せ、本気で考え始めた。


「ワシの家はのう、代々、跡取りには果物の名がついておる。息子にも、

 マンダリン――ミカンを意味する名前をつけてやったというのに、

 学生の時に『嫌じゃ』と駄々をこねて、勝手に改名しおった」


思い出しただけでも腹が立つのか、握った拳が小刻みに震えている。


「じゃからかのう。酒造りも酒の販売も、さっぱりじゃ」


ムラマサは盛大にため息をついた。


「そのくせ、自分の娘にはピーチと果物の名前をつけよる。まったく、

 中途半端な奴じゃ。伝統に逆らうなら、とことん逆らわんかい」


言っていることは滅茶苦茶だが、本人は至って真剣である。


「まあ、息子のことはええわい」


そう言いながらも、すぐに次の愚痴が口から飛び出した。


「最近、またヘイムに来よるがのう。最初、ヘイムに酒を卸してくれと、

 店主殿と一緒に頭を下げに行った時には、門前払いしおってからに」


ムラマサは悔しそうに膝を叩いた。


「それが、ヘイムが有名になると、

『うちの酒を卸させてくれ』と泣き縋りおって。

 まったく、誰に似たんじゃか」


周囲の者が、何とも言えない顔でムラマサを見る。

どう考えても目の前の老人によく似ているのだが、

それを口にする勇気のある者はいなかった。


「おお、また愚痴が始まってしまったのう」


ようやく自分でも気づいたらしく、ムラマサは豪快に笑った。


「もっと面白い話をするか」


老人は椅子に座り直し、身を乗り出した。


「ヘイムに来てから、もう一旗揚げようと思ってのう。

 店舗を用意してもらったからには、期待に応えなくてはいかん」


先ほどまでの愚痴っぽい老人の顔が、酒商人の顔へと変わる。


「まずは、ヘイムが客に十分な酒を振る舞えるようにせんとな」


ムラマサは指を折りながら、扱っている酒を挙げていった。


「エールやラガーなどのビールは、昔馴染みの所から手配できた。

 じゃが、ジパング酒とワインはのう。なかなか手間じゃ」


その理由を語る声には、長年酒を扱ってきた者ならではの重みがあった。


「ジパング酒の有名どころは、職人気質の所が多い。

 良い酒ほど造られる数が少ない。

 それに、ワシの所でも造っておったから、

 昔からライバル視されておってのう。

 仕入れるのには、なかなか苦労したわい」


無理を通そうと思えば、できないこともない。

だが、ムラマサは首を横に振った。


「あまり無理を言っては、息子の嫁や孫娘に迷惑をかけるからのう」


息子への態度とは違い、嫁と孫娘への気遣いは本物だった。


「ワインもそうじゃ。こちらは、さらに面倒じゃぞ」


ムラマサは卓上に置かれたワインの瓶を指で軽く叩いた。


「ワイン造りには、貴族が絡んでおる。自らの領地にブドウ畑を持ち、

 ブドウを育て、酒を造っておるんじゃ。銘柄に領地の名や、

 先祖の名前をつけておる所も多い」


領地にとって、ワインはただの嗜好品ではない。


「ワインは領地の良い収入源じゃ。当たり年にでもなれば、

 帝宮の晩餐会などで取り上げられ、一躍、名が上がるからのう。

 当然、それは大きな収入につながる」


だからこそ、領主たちは安定した流通を望む。


「いくら馴染みのワシでも、その流通を乱すわけにはいかん。

 今のままで十分な利益が出ておるからのう」


ムラマサは口をへの字に曲げた。


「親子喧嘩で店を出た者に回す酒はないわい、と言われる始末じゃ」


どうやら、親子喧嘩の噂は酒造業界全体に広まっているらしい。


「これは、あれじゃな」


ムラマサの目に、再び旅人の光が宿った。


「また各地を巡って、埋もれた物を探すしかない」


そう言って、老人は満足そうに頷いた。


「というわけじゃ。ワシがいつもヘイムにおらん理由はな」


誰かが店の心配をすると、ムラマサは大丈夫だと笑った。


「店番はエマ殿がしてくれておる」

ムラマサは得意げに胸を張った。


「一日一本、ワシの秘蔵のコレクションから、

 好きな物を持っていっておるがの」


その言葉を聞いた者たちの間に、ざわめきが広がった。


秘蔵の酒を一日一本。


酒好きならば、卒倒しかねない報酬である。


「ちと貯めすぎたからのう。消費してもらって、ちょうどええわい」


ムラマサは軽く言うが、酒の価値を知る者ほど顔を引きつらせていた。


「何? 仕事もせんと、ワシの所でサボっておるとな?」


誰かの指摘を聞き、ムラマサは腹を抱えて笑った。


「ワハハハハ! 

 侍女の仕事は完璧じゃろう。空いた時間まで文句を言ってやるな」


笑いながらも、エマを庇う言葉に迷いはない。


「それに、きちんと店番もしとるぞ。

 ちゃんとした客には適正価格で売り、

 接客も酒の説明も丁寧じゃと評判じゃ」


そこで、ムラマサはいたずらっぽく口元を歪めた。


「鼻の下を伸ばした息子を蹴飛ばすのも、爽快じゃ」


店で一体何が起きているのか。

誰も詳しく尋ねることはできなかった。


「でじゃ」


突然、ムラマサは立ち上がった。

まるで自慢の恋人を紹介するかのように、建物の外を指差す。


「これがワシの愛車。魔動二輪車――

 “亜阿例堕美津都尊・BigBOY”じゃ!」


そこには、鈍い光を放つ巨大な魔動二輪車が停められていた。


重厚な車体。


太い車輪。


磨き上げられた金属部品。


そして、酒樽すら積めそうな大きな荷台。


「これで大陸を駆けるのは最高じゃぞ!」


ムラマサは愛車の車体を、嬉しそうに何度も叩いた。


「汽車や船で行ける所は限られておるからのう。

 近くまで行ったら、そこからはこれじゃ」


今にも乗って走り出しそうな勢いである。


「最近は帝国政府が、帝国中の道を整備しとる。

 悪路を気にせず、かっ飛ばせるんじゃ」


老人の瞳が少年のように輝く。


「もう最高じゃて。昔に比べて盗賊も少ないからのう。

 今はもう、ひたすらアクセル全開じゃ!」


ぶおん、ぶおん、と口で排気音を再現しながら、

ムラマサは両手で見えないハンドルを握った。


「今度、一緒に行かんか? 地平線に向けて一直線じゃ!」


誘われた若者たちは、返事に困って顔を見合わせた。


「余りにも気持ち良すぎて、

 目的地を通り過ぎることなんぞ、しょっちゅうじゃ」


それは自慢することではない。


「田舎道は、音を気にせんでよい所が多いからのう。良いぞう!」


ムラマサはしばらく一人で旅の世界に浸っていたが、

やがて周囲の微妙な視線に気づいた。


「すまん、すまん。酒の話じゃったな」


老人は照れ隠しのように髭を撫でた。


「ついつい、話が逸れてしまう」


先ほどから、話は逸れてばかりである。


「まずは北部地域じゃ」


ムラマサは大陸の地図を広げ、北部を指差した。


「すごいぞ。北部は、ほとんどが農耕地じゃ」


地図の上を、太い指がゆっくりと動いていく。


「どこに行っても、ビールやワインが造られておる。

 皆、一生懸命に大地を耕し、穀物を育てておるんじゃ」


その言葉には、酒造家としてだけでなく、

農民への敬意が込められていた。


「まさしく、大地の民じゃな」


北部の農民たちは、毎年、家族や領民が食べる分を最初に確保する。


「自分たちが消費する分、備蓄する分、輸出する分などを除いて、

 余った穀物で自分たち用の酒を造っておる」


ムラマサは嬉しそうに口角を上げた。


「そこをのう、一軒ずつ回って、飲ませてもらうのよ」


旅の目的が、酒探しなのか飲み歩きなのか、だんだん怪しくなってきた。


「中にはのう、皇帝陛下ですら飲めんような酒もあるぞ」


皆が驚くと、ムラマサは満足そうに頷いた。


「まさしく、その土地、その領地、その家だけの味じゃ」


名声もなければ、銘柄すらない。

けれど、そこにしか存在しない酒がある。


「そういう所に限って、生産数が少なくてのう。

それが飲みたくて、毎年、現地に行くくらいじゃわい」


そこで、ムラマサは声を潜めた。


「スミズルやトレースには内緒じゃぞ」


周囲を警戒するように見回し、さらに小声になる。


「絶対についてくるからのう。ワシの飲む分が減るわい」


酒を独占するためなら、長年の友人にも秘密にするらしい。


「北部地域は、ビールが多いのう」


ムラマサは、よく冷えたビールの入った杯を掲げた。


「ソーセージとチーズをつまみに飲むビールは、最高じゃ」


杯の表面には細かな水滴が浮かび、

淡い泡が口元まで盛り上がっている。


「最近は、魔道具の冷蔵庫が一般家庭にも普及しておるから、

 冷えたビールも飲めるようになった」


老人は喉を鳴らしながら、一口飲んだ。


「昔ながらの生温いものが良い、

 という者もおるが、それは人それぞれじゃ」


好みを押しつける気はないらしい。


「そうそう、遊牧民が造る乳酒もうまいぞ」


ムラマサはアイテムボックスに手を入れ、

透明な液体の入った瓶を取り出した。


「中でも、それを蒸留したウォッカは格別じゃ」


瓶の栓を抜いた途端、強い酒精の香りが周囲に広がる。


「どうじゃ、飲むか?」


答えを待つより早く、ムラマサは小さな杯へ注いでいた。


「アイテムボックスに常備しておる。ほれ、飲んでみい」


勧められた者が杯を口に運ぶ。

次の瞬間、その者が勢いよく杯を傾けた。


「こらこら! 一気に飲むんじゃない!」


ムラマサは慌てて腕を伸ばしたが、既に遅い。

飲んだ者は顔を真っ赤にし、口元を押さえて咳き込んでいた。


「ストレートで、少しずつ飲むんじゃ」


老人は見本を見せるように、少量だけ口に含んだ。


「まろやかで、甘いじゃろう。とても優しい味じゃ」


咳き込んでいる者には、とても優しい酒には思えないらしい。


「まだ分からんか。まだまだじゃのう」


ムラマサは、弟子を見る師匠のような顔で首を振った。


「久しぶりに北部地域を巡って、新しい物を見つけたぞ」


老人は別の瓶を卓上へ置いた。


「今、ヘイムで出しておるのも、新しく見つけた物じゃ」


瓶の中では、琥珀色のビールが淡く揺れている。


「代替わりした、若い子爵家のビールでのう。

 跡取りでありながら、ビール造りの修行に出かけておってな」


ムラマサは、その若い当主を思い出したのか、嬉しそうに笑った。


「ようやく領地へ戻り、苦労して造り上げた物じゃ」


何度も失敗し、試行錯誤を重ね、ようやく完成したビール。


「そのビールを今、

『大地母神』様が飲んでおると知って、狂喜乱舞しておったわ」


若い子爵が地面を転げ回る姿でも思い出したのか、

ムラマサは楽しそうに笑った。


「先ほど、北部はビールが主流と言ったが、ワインもすごいぞ」


地図上の北部、その中の一部を指で囲う。


「北部地域の一部には、領地一面がブドウ畑になっておる所が、

 いくつかあってのう。そこのワインは格別じゃ」


その品質は、帝国でも最高峰である。


「帝国政府は、外国からの来賓用には必ず、

 そこから仕入れたワインを使っておる。

 大陸連合国ですら輸入しとるぞ」


そこまでの名酒となれば、当然、自由に仕入れることはできない。


「それほどの値打ち物じゃから、

 ヘイムで出せるほどの量は仕入れられん」


ムラマサは悪戯っぽく片目をつぶった。


「じゃが、ワシらが楽しむくらいは手に入る」


そう言いながら、アイテムボックスの中を探り始めた。


「ええと、どこにいったかのう。あの貴腐ワインは……」


しばらく手を動かしていたが、やがて老人の顔が固まった。


「むむ……」


記憶を辿るように、顎髭を撫でる。


「ああ、すまん、すまん。エマ殿に昨日、持っていかれたわ」


期待に満ちていた者たちの顔が、一斉に曇った。


「そんな顔をするな。今度、手に入れたら飲ませてやるから」


ムラマサは慌てて皆を宥めた。


「それに、その領地の領主たちがのう、

 ヘイムに植えるブドウの苗木を分けてくれるんじゃ」


これは、酒を飲むだけの話ではない。

未来の酒造りへとつながる話である。


「まあ、この地に根づいて、

 実がなるまでには、かなり時間がかかるからのう」


ムラマサは、まだ若い聞き手の一人へ目を向けた。


「そなたが大人になり、結婚して、

 子供がある程度大きくなるくらいかのう」


冗談だと思っていた若者の表情が固まった。


「そうじゃ。そのくらい、手間がかかるんじゃ」


老人は静かに頷いた。


「グスタンたちには、頭が下がるのう」


農業とは、今日植えて明日実るものではない。

何年、何十年先の実りを信じ、大地と向き合い続ける仕事なのだ。


「次は西じゃ」


ムラマサは地図の上で指を滑らせ、帝国西部を示した。


「こちらは様々じゃ。領地によって、色々な物を造っておるからのう」


北部ほど酒造り一色ではない。


「酒造りは、それほどでもないのう。商人貴族が多いからじゃ」


ムラマサは指先で硬貨を弾く仕草をした。


「酒造りよりも、商いじゃ。

 そのため、輸出用の茶造りが盛んなんじゃ」


そこで、何かを思い出したように手を叩いた。


「そうじゃ。ヘイムに植えられておる紅茶の木は、

 カスパール侯爵家が西部領地から厳選し、送ってくれた物じゃ」


聞き手の一人が何か尋ねると、ムラマサは頷いた。


「うむ、その通りじゃ。

 発酵の度合いによって、緑茶、ウーロン茶、紅茶になる」


茶葉は同じでも、加工の仕方で別の飲み物へと変わる。


「商売先に合わせて、それぞれに作っておるんじゃ」


西部地域は広大である。


「場所によって、風味も味も違うからのう」


ムラマサは、覚えたばかりらしい名称を、誇らしげに口にした。


「堕辞林、芭羽、キムーンとか、聞いたことはないか?」

「ダージリン、ウバ、キームンじゃないか?」


聞き手の一人が指摘すると、ムラマサは眉を寄せた。


「知らんのう。似ておるが、どこの物じゃ?」


真顔で問い返す老人に、指摘した者も言葉を失った。


「今度、見に行ってみようかのう」


既に次の旅行先候補へ加えたらしい。

「それにのう、西部地域は――南部もそうじゃが

 ――他の大陸から来た物があるぞ」


ムラマサは地図の西端を指差した。


「カスパール侯爵家の港へ行ってみい。大陸でも一、二を争う港じゃ」


その港には、大小様々な船が集まり、

遠い異国の言葉が飛び交っている。


「西の大陸からの品が、山ほどある。

 行くたびに、新たな物が入ってきておるんじゃ」


もちろん、酒だけではない。


「見たこともない異文化の品が、沢山じゃ」


ムラマサは聞き手の一人を見て、にやりと笑った。


「お主も、新婚旅行で行ったらどうじゃ?」


突然の話題に、名指しされた者が目を丸くした。


「銀星祭で、家族に紹介されたと聞いたぞ」

「えっ、あれって、そういう意味があったの?」


慌てふためく相手を見て、ムラマサは腹を抱えた。


「普通、そうじゃろう。貴族でなくても、家族に紹介するなんぞ、

 それなりの意味があるわい」


豪快な笑い声が響き渡る。


「アッハッハッハ! あの女史、獲物は逃がさなそうじゃぞ」


当人の顔が青ざめていくのも構わず、ムラマサは杯を押しつけた。


「ほらほら、飲め。式には良い酒を用意してやる」


今度は、隣で友人を笑っていた者へ視線を向ける。


「こら。お主も友のことを笑っておらんと、相手を見つけんかい」


矛先を向けられた者が笑いを引っ込めた。


「ワシは、そなたの年頃には、ぶいぶい言わせとったぞ」


誰も聞いていない昔の武勇伝が始まりそうになったところで、

ムラマサは首を傾げた。


「何処まで話したかのう?」


少し考え込み、ぽんと膝を打つ。


「そうそう。西の大陸の物がすごい、という話じゃったな」


老人は再び地図へ向き直った。


「この間の騒ぎで、カスパール侯爵が言っておった」


何かを思い出そうとするように目を細める。


「桃から造る酒――ネクタルじゃったか。

 一度、飲んでみたいもんじゃ」


既に頭の中では、その酒を求める旅程を組み始めているらしい。


「どうしたもんかのう。今度は東部地域へ行くつもりじゃったが、

 西の大陸にも行きたいのう」


どちらへ行くべきか悩む表情は真剣そのものだった。


「やはり、現地で直接探して飲む方が良いからのう」


結局、目的は飲むことらしい。


「さて、次は南部地方じゃ」


ムラマサの指が、大陸の南へ移動する。


「こちらも商人貴族が多い」


ただし、西部とは事情が異なる。


「南部地方は、西園寺公爵家が、まだ西園寺公国であった頃に開拓し、

 発展したという経緯があるからのう」


その土地には、異世界からもたらされた独特の文化が根づいている。


「そなたら日本人にとって外せない、

 米、味噌、醤油の文化が根づいておる」


日本から来た者たちが、思わず身を乗り出した。


「そなたらが今、口にしておる物も、大体が南部地方から来た物じゃ」


ムラマサは面白そうに、日本人たちの顔を眺めた。


「そなたら日本人は、食に関してはうるさいからのう」


褒めているのか、呆れているのかは分からない。


「帝国の食文化が進んでおるのは、南部地域のおかげじゃ」


南部には、異世界の料理を再現しようとした者たちが数多く集まった。


「“おフランス料理”とか、

 “俺イタリアン”とかいう店の名シェフも多いぞ」


聞き覚えのあるような、微妙に違うような言葉に、

日本人たちは何とも言えない表情になった。


「なぜか南部地域には、

 元料理人だという転生者や転移者が沢山おってな」


ムラマサは肩をすくめる。


「ヨーロッパとかいう所の出身者は、

『ワインがない』と嘆いておるわ」


南部で主流なのは、ワインではない。


「なにせ、ジパング酒が主流じゃからのう」


その言葉を口にした途端、ムラマサの顔がほころんだ。


「ワシの先祖もそうじゃ。

 米、味噌、醤油、そしてジパング酒で育った」


老人は、どこからともなく徳利を取り出した。


「いやぁ、良いのう。冷やでも熱燗でも、どちらも最高じゃ」


既に飲みたくなってきたのか、徳利を愛おしそうに撫でている。


「ワシの秘蔵のコレクションも、

 ジパング酒が半分くらいを占めておる」


そこで、ムラマサの顔が曇った。


「じゃが、エマ殿からトール夫人にばれてのう」


宴会になるたび、トール夫人が酒を求めてくるらしい。


「宴会のたびにせびられて、大変じゃ」


そう愚痴りながらも、口元は笑っている。

本気で嫌がっているわけではないようだ。


「まあ、それは良いのじゃが」


ムラマサは咳払いをし、話を元へ戻した。


「南部地方はのう、西部と同じく、南の大陸から色々な物が来ておる」


その中でも、特に有名な物がある。


「スパークリングワインが有名じゃぞ」


ムラマサは細長い瓶を取り出し、慎重に栓を抜いた。

軽い音と共に、瓶の口から白い泡が立ち上る。


「このワインの香りと味に、

 シュワシュワとした炭酸が混ざった、あの喉越し」


老人は自分で説明しながら、我慢できなくなったらしい。

杯へ注ぎ、目の前の若者へ差し出した。


「ほれ、これじゃ。飲まんか」


相手が戸惑っていると、ムラマサは眉を吊り上げた。


「そなた、勇者じゃろう」


勇者であることと飲酒に何の関係があるのかは分からない。


「これから、宴席に呼ばれることも増えるぞ。

 飲んで慣れておかんと、失態を犯すぞ」


ムラマサは、恐ろしい未来を語るように声を潜めた。


「朝起きて、知らぬ女性が傍らに寝ておったら、どうする?」


酒を勧められていた若者の顔が、一瞬で引きつった。


「さっきの、親に紹介されるどころの話ではないぞ」


ムラマサは重々しく首を振った。


「既成事実というやつじゃ。逃げられんぞ。その日のうちに婚約じゃ」


若者はますます杯へ手を伸ばせなくなった。


「どうじゃ。飲みやすいじゃろう?」


半ば強引に杯を持たされ、一口飲んだ若者が目を見開く。


爽やかな香り。


細かな泡。


甘みと酸味の後に残る、心地よい余韻。


「それにな」


ムラマサは声を落とした。


「西園寺公爵家の港には、海人の国の品が並ぶことがある」


その名が出た瞬間、老人の顔から酔いが消えた。


「海人の国は、西園寺公爵家としか交易を行っておらん」


流通する品は、極めて少ない。


「あそこの品は、帝宮ですら、そう多くは持っておらんぞ」


ムラマサほどの酒商人でも、簡単には手に入れられない。


「ワシも大変じゃった」


過去を思い出したのか、老人の顔がわずかに青ざめる。


「色々な伝手を使って、

 海人の国まで行ったが、まるで相手にしてもらえんかった」


どうやら、正式な許可を得ずに渡航したらしい。


「あの時、西園寺公爵がおらんかったら、

 今頃は牢屋の中じゃったな」


ムラマサは笑っているが、周囲の者たちは笑えない。


「いやぁ、命拾いしたわ」


老人は、何事もなかったかのように髭を撫でた。


「帝国政府が、西園寺公爵家を潰せん理由の一つじゃ」


西園寺公爵家を従わせるだけならば、まだよい。


「じゃが、滅ぼしてみろ。海人の国が敵に回る」


ムラマサの声が低くなる。


「大陸南部の航路は全滅じゃ」


海上では、帝国の軍事力も通じない。


「海の上では、あの海軍大提督ですら赤子同然じゃ。

 海では、海人には勝てん」


それほどまでに、海人の国は海上戦に長けている。


「それに、海人の国の王家は、

 近くにある魔法使いの工房とも仲が良いからのう」


武力だけではない。

背後には、強大な魔法使いの存在もある。


「超帝国が支配下に置けなかった国の一つじゃ」


ムラマサは話を終えると、急に頬を緩めた。


「で、その国の酒じゃ」


結局、そこへ戻るらしい。


「一度だけ。本当に一度だけ、西園寺公爵に飲ませてもらったことがある」


老人は胸に手を当て、目を閉じた。


「あれがもう一度飲めるなら、ワシはもう死んでもよい」


先ほどまでの騒がしさが嘘のように、声が静かになる。


「すまんのう。あれは、口では表現できん味じゃ」


香り。


舌触り。


喉を通った後に残る余韻。


どれも既存の言葉では言い表せない。


「飲んだ瞬間、ワシは歴代のムラマサを見たぞ」


それが比喩なのか、本当に見えたのかは分からない。


「皆、悔しがっておった」


歴代の酒造家たちが、自分たちの造った酒よりも美味いと認め、

地団駄を踏んでいる姿が見えたのだという。


「なんとか、もう一度飲めんかのう」


ムラマサは天井を仰ぎ、深いため息を吐いた。

その時、聞き手の一人が、おずおずと口を開いた。


「なんじゃ?」


ムラマサは、面倒そうに顔を向けた。


「この間、店主殿の全快祝いとして、

 西園寺公爵から贈られた物の中に、

 海人の国の酒があったじゃと?」


老人の目が、一瞬で見開かれた。


「店主殿が、『俺、酒は飲めないんだけどな』と言っておった?」


椅子から身を乗り出し、若者の肩を掴む。


「本当か、勇者!」


その剣幕に、若者が何度も頷いた。


「なんで知っておる!」


アンリ先生に渡しているところを見た。

その答えを聞いた瞬間、ムラマサは立ち上がった。


「ええい、こうしてはおれん!」


老人は地図も酒瓶もそのままに、ものすごい勢いで出口へ向かった。


「ちと、アンリシア様の所へ行ってくる!」


扉が大きな音を立てて閉まる音が響き渡った。



「痛い! そんなに本気で殴らんでもよかろう!」


執務室の中で、ムラマサは頭を押さえてしゃがみ込んでいた。

その前には、拳を握ったアンリシアが立っている。


「仕事中に執務室へ押し入ったことは謝るが……」


ムラマサは頭をさすりながら、恐る恐る顔を上げた。


「何? そうではない?」


アンリシアの冷たい視線が、部屋の隅にいる男子学生たちへ向けられる。


「男子学生に酒を飲ませたことじゃと?」


ムラマサは、何を怒られているのか分からないという顔で眉を上げた。


「何を言う。勇者パーティーじゃぞ」


まるで当然のことのように胸を張る。


「松平も、佐々木も、斎藤も、酒くらい飲めんでどうする」


アンリシアの眉間の皺が、さらに深くなった。


「魔王戦の褒美に、とっておきをだなぁ――」


次の瞬間、拳骨がもう一度落ちた。


「いや、だから拳骨は……痛いから止めんか!」


ムラマサは頭を抱えて床を転げ回った。


「本当に痛いんじゃ!」


しばらくして、老人は涙目のまま正座させられていた。


「で、その……なんじゃ」


さすがに反省したのか、先ほどよりも声が小さい。


「騒いだことも謝る」


そう。

ムラマサが執務室へ押し入ったせいで、

海人の酒の存在が周囲に知れ渡ってしまったのだ。


「おかげで、皆にばれてしもうたからのう」


ムラマサは執務室の中を見回した。


海人の酒。


その幻の一本を抱えたアンリシアの周りには、

いつの間にか大勢の人間が集まっていた。


「いつもの飲兵衛エイトの面子だけではないぞ」


ムラマサは、納得できないとばかりに一人ずつ指を差していく。


「エマ殿だけでなく、他のメイド殿までおる」


酒の噂を聞きつけたメイドたちは、

仕事中とは思えないほど真剣な表情をしていた。


「料理人も、セバスまでおるではないか」


普段は冷静なセバスでさえ、海人の酒瓶から目を離そうとしない。


「こんなにおっては、一人一口くらいしか飲めんではないか!」


ムラマサは悲痛な声を上げた。

すると、誰かが冷たく言い放った。


「なに?」


老人の顔が引きつる。


「ワシは一度飲んだことがあるから、今回は辞退しろじゃと?」


周囲の者たちが、当然だと言わんばかりに頷いた。


「そんな殺生な!」


ムラマサは両手を床についた。


「あれは、本当に幻の酒じゃぞ!」


老人が海人の酒の素晴らしさを語れば語るほど、

周囲の者たちの目が鋭くなっていく。


「ワシが海人の酒の素晴らしさを語るほど、皆の目が鋭くなるではないか」


今さら気づいても、もう遅い。


「ヘイムには、こんなに飲兵衛がおったかのう?」


時間が経てば経つほど、噂を聞きつけた者たちが執務室へ集まってくる。

扉が開くたび、誰かが増えていた。


「まずいぞ」


ムラマサは、窓の外を確認した。


「そろそろ、二柱のお方も来られる時間じゃ」


『大地母神』様と『軍神』様。

酒好きの神々が、この騒ぎを見逃すはずがない。


「間違いなく、参戦するぞ」


ムラマサは酒瓶を見る。


アンリシアを見る。


そして、周囲を取り囲む者たちを見る。


「どうする……」


誰も動かない。

誰も譲らない。

執務室の中には、戦場にも似た緊張感が漂っていた。


……

……

……


その後、この睨み合いには二柱まで加わった。


誰がどれだけ飲むのか。


誰が最初に口をつけるのか。


一度飲んだことのある者は辞退すべきなのか。


神は人間より多く飲んでもよいのか。


議論は白熱し、もはや誰にも収拾できなくなっていた。



最後には、キューブ殿が呆れ果てた顔で現れた。

そして、店主殿が海人の酒を、まだ数本持っていることを告げるまで、

騒ぎは続いたという。


「話は途中で終わってしもうたが、それほどの物なんじゃ」


後日、ムラマサはそう語った。

その顔には、

幻の酒をもう一度飲めた者だけが浮かべる、満ち足りた笑みがあった。


特別おまけ回

~海人の酒~


師匠。

「あれ、師匠?」

「どこに行ったんです?」


『いやーーーーっ!!』

『楽しみにしてたのに!!』

『海人の酒がぁぁぁ!!』

『ヴァルナさんはお酒が飲めないから、全部私の物になると思っていたのに!』

『なんで!』

『なんで一本も残ってないのよぉぉぉ!!』


「……なんか師匠が錯乱していて話になりません。」

「その海人の酒について聞きたかったのに。」


「お困りですかな、店主殿。」

「おお、日吉さん。」

「どうしたんです?」

「ええ。海人の酒について知りたいとか。」

「よろしければ、ご説明しましょうか。」

「えっ、知ってるの?」

「お願いします!」


「では、まず海人の国から。」

「正式名称はアトランティス・ザ・ムー。」

「かつてムーという巨大な大陸が海へ沈みました。」

「天変地異とも、高度に発展した科学文明の暴走とも言われています。」

「一度行って真相を知りたいものです。」


「その大陸には、もともと海での生活に適した者達が多く暮らしていました。」

「大陸が沈んだ後も、そのまま海底へ住み着き、独自の文明を築いた。」

「それが現在の海人の始まりと言われています。」

「海神にも深く愛されていますので、

 神々の怒りで沈められた訳ではないのでしょう。」


「海底は地上の者が自由に行き来できない世界。」

「つまり、資源の宝庫でもあります。」

「それを狙って数多くの国が侵攻しました。」

「ですが相手は海。」

「思うようにはいきません。」

「超帝国ですら潜水艦を投入しましたが、

 アトランティス・ザ・ムーへ辿り着く前に

 海そのものを相手にする事になり、

 幾度となく敗北を喫しました。」

「……今思い出しても悔しいですね。」


「…………。」

「いえ、何でもありません。」


「で、その海人の酒ですが……。」

「正直、謎です。」

「アトランティス・ザ・ムー自体との交流が極めて少なく、

 どのような国なのか詳しい事も分かっていません。」

「そんな国と西園寺公爵家がどうやって親交を結んだのか……。」

「おのれ、羨ましい。」


「その酒が市場へ出回る事は滅多にありません。」

「もし一本でも出れば、値段は青天井。」

「貴族達が競り合います。」

「私も飲んだ事はありません。」

「一体どのような味なのでしょうね。」


「そ、そんなに凄いお酒だったの?」

「みんなに配っちゃったよ……。」

「今度、西園寺公爵に会ったら改めてお礼を言わなくちゃ。」

「それとも、

 そのアトランティス・ザ・ムーに直接お礼へ行った方がいいのかな。」


『それです!!』

『そうです、ヴァルナさん!!』

『直接お礼に行って、更に貰ってくるんです!!』

『魔法使いのヴァルナさんなら、無体な扱いはされないでしょう!!』


「いやいや、師匠。」

「そんな図々しい事できませんよ。」

「それに、そんなに欲しいなら直接お願いすればいいじゃないですか。」


『そんな事できますか!』

『神たるもの、民に酒をねだるなど!!』

『せいぜい年に一度、『海神』へ奉納されるくらいですよ!』

『しかも、あの女神……。』

『いつも一人で飲んでるんです。』

『たまに機嫌が良くて皆へ振る舞っても、

 私の所まで回ってきた事なんてありません!』


「……ああ。」

「師匠がまたおかしくなってしまった。」

「お礼はともかく、

 そんな貴重な物を『もっとください』なんて言えませんよ。」

「ほら、師匠。」

「酒瓶の模様が綺麗だったので、一つだけ残しておいたんです。」

「これを日吉さんと二人で使ってください。」


『…………。』

「…………。」

師匠と日吉は顔を見合わせる。

次の瞬間。

『「ありがとうございます。」』

その日の夜。

ヘイムの片隅では、師匠と日吉が静かに盃を交わし、

一本の空き瓶を前に、いつまでも海人の酒を惜しんでいたという。




作者メモ

※本編のおまけ設定です。読み飛ばしても問題ありません。

※本編とは時空が違います。

※本編の都合により、設定が変わる事があります。


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